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真田公記  作者: 織田敦
17/33

越前朝倉攻め 

浅井長政、徳川家康、真田敦の3人は、小谷城を出発し、深坂峠を越えて、疋壇城を速やかに取り囲んだ。

疋壇城の城主は、疋壇利則と言う人物である。

浅井長政は、配下の者に命じて矢文を、疋壇城の城内に打ち込んだ。

この矢文に関しては、浅井長政、徳川家康、真田敦の3人で話し合い、疋壇城の無血開城を目標にしたのである。

もちろん、疋壇城攻めを行う事も話し合いの中にあったのだが、無血開城の方が織田信長に対する心証が良いと、3人は判断をしたからである。

矢文を打ち込まれ、その矢文が疋壇利則の元に届けられた。

その矢文の内容は、浅井長政、徳川家康、真田敦との、4者会談の申し込みであった。

疋壇利則は、しばしの間考え事をしていたのだが、浅井長政の義を重んじる性格を知っていた為に、数名の護衛を引き連れて疋壇城を出てきて、浅井長政達の元に現れた。

疋壇利則の最初の言葉は、強い抗議の言葉であった。

「浅井備前様、なぜに朝倉左衛門督様に対して、戦を仕掛けられました!」

「朝倉左衛門督殿と、朝倉家の行く末を考えての事である。」

浅井長政は、この度の出陣の経緯を話し出したのである。

真田敦も、織田信長公の性格などを、こんこんと疋壇利則に説明をする。

徳川家康も、織田信長公と朝倉左衛門督殿の、兵力差などを丁寧に説明する。

さまざまな説明を聞いてきた疋壇利則が、重い口を開いた。

「織田尾張守殿に恭順の意を示して、朝倉家の存続を保つのが、大切な事ですな。

しかし、某にはその方法が思い付きませぬ。」

その言葉に、徳川家康が返答をする。

「たしか、朝倉左衛門督殿の一族に、朝倉景鏡殿とか申される勇猛な方が、おられるそうですね。」

「はい、朝倉家の一族の中で、一番人望があるお方でございますが。」

すぐさま、疋壇利則が答えると、真田敦が口を挟む。

「あのお方であれば、朝倉家の存続を考えておられるやも知れないな。」

真田敦は、一度だけ会った事があるが、朝倉景鏡殿であれば、朝倉家の舵取りを間違えないと感じたのである。

その言葉に、疋壇利則が反応する。

「朝倉家の当主の座が、左衛門督殿から孫八郎様に交替をする。

そうすれば織田尾張守様は、朝倉家の本領を安堵して頂けるのですか?」

その言葉に、真田敦が返答する。

「その事は、信長様から確約を頂いてはいないが、某が命を掛けて約束致します。」

疋壇利則は、真田敦に疑いの目を向けたのであるが、すぐに浅井長政が口を開く。

「真田敦殿は、織田尾張守殿の妹君である、お犬御寮人を嫁に迎えておられるのだ。

つまり、某と同じく織田尾張守様の妹婿になるのである。」

「尾張守様の妹婿殿で、ございますか。

分かりました。

真田敦殿を、信用致しましょう。」

疋壇利則は、3人に対して頭を下げた。

疋壇利則は、疋壇城に戻り、即日開城をしたのである。

真田敦はすぐに、織田信長の元に使者を出した。

織田信長の機嫌を、少しでも良くする為である。

その織田信長は、3万の軍勢を率いて若狭の国に入っていた。

若狭の豪族達は、織田信長の大軍に驚き、続々と降伏を申し出てきたのである。

信長の機嫌は良く、この分であれば若狭平定は時間はそれほど掛からないと思たからだ。



一方、朝倉左衛門督義景の方は、一乗谷城にて軍議を開いていた。

そして、浅井長政の裏切りを、恨んでいたのである。

「備前め、朝倉家からの恩を忘れて、信長ごときの手先になりおって!

決して、この裏切りは許さぬぞ!」

その言葉に、朝倉家臣達は、内心呆れ返ったのである。

だいたい、上洛を拒否したのは、朝倉義景の方であるからだ。

いまさら、何を言い出すと、言いたげであるのだが、さすがに主君の前では言えないのである。

最初に口を開いたのは、朝倉孫八郎景鏡である。

「左衛門督様、今は浅井備前殿の裏切りを問い詰めるよりも、この越前に攻めてくる軍勢を防ぐ事が大事でございます!」

その言葉に、義景は気分が悪くなる。

だが、その事にわざと気が付かないで、景鏡は言葉を続ける。

「今から軍勢を率いて、木ノ芽峠城と、金ヶ崎城、更には手筒山城の三城に、動員出来る兵力を全て導入致し、防衛を固めれば一乗谷城まで来られませぬ。」

その言葉に、義景は満足をするも、別の不安感を覚えたのである。

「まさかと思うが、この一乗谷城の守備兵力まで、全て連れていくのであるか?」

義景の言葉に、景鏡は素直に答える。

「当たり前です!

総力を上げて防衛をしなくては、越前の国は火の海になるだけです!」

「決して、それはならぬぞ!

一乗谷城の守備兵力を持って行かれ、その隙に加賀の一向一揆達になだれ込まれて、この余の首を取られたらどうするのだ!」

朝倉景鏡を始め、他の家臣達も、主君の言葉を聞いて、呆れ返ってしまったのだ。

どう考えても、加賀からの侵攻と、若狭からの侵攻を両方は防げない。

まず最初に、浅井長政の軍勢を防いで、万が一に加賀の一向一揆が越前に攻めて来たら、すぐに軍勢を引き揚げて、一向一揆に当たるのが最善策と言えよう。

朝倉義景は、1000の守備兵力を残す事を条件に、朝倉景鏡に越前防衛の総大将に任命したのである。

朝倉景鏡は、約2万の兵を率いて、先に挙げた三城に兵を進めたのである。

朝倉景鏡は、一乗谷城から一番近い、木ノ芽峠城に到着した。

まぁ、木ノ芽峠城と言っても、簡単な陣城程度なのであるが。

手筒山城も同じく陣城であり、きちんとした城と言えば、金ヶ崎城ぐらいである。

朝倉景鏡は、木ノ芽峠城に4000の兵を置き、手筒山城に向かった。

時間の経過から考えても、浅井長政や、織田信長率いる軍勢に、金ヶ崎城を包囲されていてもおかしく無いからである。



一方、浅井長政達はと言うと、疋壇城を無血開城させた後に、ゆっくりと金ヶ崎城に向けて進軍をしていた。

「真田様、こんなにゆっくりな進軍で、宜しいのですか?

朝倉軍が、守備を固めてしまうのではありませんか?」

徳川家康が、真田敦に質問をすると、真田敦は即答をする。

「むしろそれが、今回の狙いなのですよ。

朝倉景鏡と、直接会談をする為には、本人を金ヶ崎城に入れなくてはなりませんからね。」

「では、朝倉家の当主交替の事を、会談の席で申されると言われますか。」

真田敦の言葉に、浅井長政が反応する。

「駄目で元々ですからね。

駄目なら駄目で、次の策を考えるだけですよ。」

不思議な笑みを浮かべた真田敦の顔に、浅井長政と徳川家康の2人は首を傾げた。

会談が失敗したら、即日にでも開戦になるのであるからだ。

浅井長政を始め、徳川家康と真田敦の2人も、金ヶ崎城に向けて進軍をしていた。

その頃、朝倉義景はと言うと、一乗谷城でのほほんと、愛妾である小少将と戯れていた。

まぁ、正月の新年の挨拶に出向かなかったのは、愛妾の小少将と別れたくないからであろうか?

朝倉義景が愚物である事は、国内外にも知れ渡っていたからであろう。

越前と加賀の国境を守る守備兵達も、真面目に仕事をしていなかった。

いや、仕事が出来なかったと言うべきであろうか。

その守備兵は、既に物言わぬ冷たい死体になっていたからである。

そう、加賀の一向一揆の軍勢が、越前に侵攻を開始していたからである。

朝倉義景の嫌な予感が、まさに当たっていたのである。



朝倉景鏡率いる約2万の軍勢が、金ヶ崎城と、手筒山城の二手に別れて布陣をしたのである。

手筒山城に4000の兵を入れ、残りの1万2000の兵を、金ヶ崎城に入れたのである。

その様子は、浅井長政達にも直ちに知らされたのである。

朝倉景鏡は本丸に向かい、金ヶ崎城主である朝倉景恒と会話を始めたのである。

「景恒殿、浅井備前達の動きはどうであろうか?」

「景鏡様、浅井備前守の軍勢は、疋壇城を無血開城させた後で、なぜか進軍速度を遅くしてこちらに向かっております。」

朝倉景鏡は、朝倉景恒の言葉に違和感を感じ取ったのである。

疋壇城を無血開城したのであれば、軍勢の進軍速度を上げて金ヶ崎城を包囲すれば良いのである。

なぜに、進軍速度を遅くして金ヶ崎城を包囲しなかったのか?

朝倉孫八郎景鏡の疑問は、考えてもさっぱり分からなかったのである。 

徳川家康は、配下である服部半蔵から、朝倉家の様子を知らされていた。

朝倉景鏡率いる約2万の軍勢が、木ノ芽峠城と金ヶ崎城、手筒山城の三城に守備を入れたとの報告をである。

徳川家康は、浅井長政と真田敦にその事を、伝えたのである。

「真田様、朝倉景鏡殿が、金ヶ崎城に入城したようです。」

徳川家康からの報告に、真田敦はやっと入城したのかと思った。

浅井長政は、会談の申し込みをしなくてはならないと、矢文の準備を始めたのであるが、真田敦は即座にその事を止めさせたのである。

真田敦にしてみれば、もう少し時間稼ぎをしたかったのである。

浅井長政が何を聞いても、3日間ほど時間が欲しいとしか言わないのである。

浅井長政の方が根負けをして、真田敦の言う通りに、3日間の猶予を認めたのである。

もちろん、無駄に3日間を過ごした訳ではなく、自軍の休める陣城を構築し朝倉家の対応などを調べる事に時間を費やしたのである。

同じ頃、越前でも夕日が落ちて、夜が来ようとしていた頃に、一乗谷城に向けて謎の大軍が迫って来たのである。

(あの旗は、一向一揆の旗ではないか?)

一乗谷城にある櫓に登っていた見張りの足軽は、出したくもない声を内心では出していた。

だが、その足軽は上役に報告するよりも、身の安全を考えてその場より逃げ出したのである。

あんな愚物の為に、自分の命を掛けてまで守ると言う気持ちは無かったのである。

その足軽が逃亡した為に、一向一揆の軍勢が一乗谷城の城下町に火を放つまで、一乗谷城が一向一揆の軍勢に攻められた事を、一乗谷の守備兵達は、まるで気が付かなかったのである。

一乗谷城の城下町が紅蓮の炎に包まれてから始めて、一乗谷城が加賀の一向一揆に攻められた事に初めて気が付いたぐらいの体たらくである。

「一乗谷の城下町が燃えている!

すぐに、守りを固めよ!」

城下町が燃えているのを確認した足軽大将は、配下の足軽達に大手門の守備強化を命じると、自分の上役に報告に向かったのである。

一乗谷城に残された武将から報告を受けた朝倉義景は、慌てふためいたのである。

「な、なんだと!

加賀の一向一揆が、一乗谷に攻め寄せて来たのだと!

孫八郎の馬鹿めが!

あれほど、加賀の一向一揆が攻めてくると言ったのに!

ともかく、孫八郎に至急、一乗谷に戻るように、使者を出すのだ!」

朝倉義景は、そこまで言うと、ほとんど着た事の無い鎧を身に付けた。

その事を知らない朝倉景鏡は、朝倉景恒と金ヶ崎城と、手筒山城の守備を固めていた。

なぜかは分からないが、浅井長政達が攻めてこない理由が相変わらず分からないからである。

ただ、金ヶ崎城の本丸からは、浅井長政達が陣城を構築しているのが見えたのである。

こちら側は、金ヶ崎城と手筒山城と防衛拠点があるのに対して、浅井備前達の方には、防衛拠点が存在しないからである。

このまま野戦になれば、朝倉側は有利となり、浅井や徳川側の方が不利になるのは分かりきっていたのであるが、こちらと織田信長が率いて来る兵力差などを考えると、積極的に此方から手を出せなかったのである。

守りを固めていれば、遠征軍である織田信長の方が先に根を上げると、朝倉景鏡は見ていたのである。

三好三人衆を始め、織田信長の勢力拡大を心良く思わない大名達が、反攻を始めるのではないかと考えたからである。

ところが、朝倉景鏡の考えていた事を、根本から覆す事が報告されたのである。

そう、一乗谷城に加賀の一向一揆が攻めて来た事を伝える使者が、金ヶ崎城に到着したのである。

その使者から一乗谷城の危機を聞いた朝倉景鏡は、金ヶ崎城の城主である朝倉景恒を呼び寄せてから、使者からの言葉を伝えたのである。

「景恒殿、一乗谷城が、加賀の一向一揆に攻められているそうです。

ここは、浅井備前守達に和議を申し出て、一乗谷城の救援に向かうのが上策と思われるが、景恒殿はどう思うか?」

「一乗谷城が、加賀の一向一揆に!

であれば、早々に和議締結をしなくてはなりませんな。

某が浅井備前守と会談をしますので、その間に撤退の準備をして下さい。」

そこまで朝倉景恒が、朝倉景鏡に伝えると、僅かな護衛を連れて、浅井備前守の陣城に向かい始めたのである。

残された朝倉景鏡は、兵糧や武具を纏め始め、いつでも撤退が出来る準備を始めたのである。



一方、浅井長政は、徳川家康と真田敦の2人を、本陣に呼び出していた。

約束である、3日目が過ぎようとしていたからである。

「真田様、今日で約束の3日目が終わりますが、これからどうされますか?」

浅井長政の言葉に、真田敦は返答をする。

「そうですな。

3日間、時間を頂いたおかげで、陣城も固く出来ましたし、ぼちぼち会談を申し出ますか。」

その言葉に、徳川家康は目を細めた。

陣城を造るのであれば、3日間も必要であったのかと。

たしかに、これだけの軍勢を収用する為には、色々と準備が必要であるからだ。

徳川家康は色々と考えたのであるが、真田敦の考えている事は一向に分からなかったのである。

その真田敦は、前日にある情報を鉢屋党の忍びから、得ていたのである。

そう、加賀の一向一揆が、一乗谷城に攻め寄せた事をである。

だが、その事を浅井長政と、徳川家康には伝えなかったのである。

こちらから会談を申し込むよりは、向こうから会談を申し出て来た方が、交渉がやり易いからである。

そんな事を考えていたら、なんと金ヶ崎城城主である朝倉景恒が、会談の申し込みをして来たのである。

その為に、浅井長政と、徳川家康、真田敦の3人は、朝倉景恒の出迎えを準備したのである。

朝倉景恒が、浅井長政の本陣に到着した時には、既に会談の準備は整っていた。

朝倉景恒は、浅井備前守長政が用意した会談に望んだ。

「お初にお目にかかります。

金ヶ崎城城主、朝倉景恒と申します。」

朝倉景恒が徳川家康と、真田敦に挨拶をすると、唯一の知り合いである、浅井長政が返答をする。

「景恒殿、お久しぶりでございます。

この度の、ご来訪はどのようなご用件でございますか?」

「実は、和議の申し込みをしに来ましたのでございます。」

朝倉景恒の表情は、真剣な顔をしていた。

浅井長政は、朝倉景恒から和議締結の話を持ち出されて、すぐに朝倉義景の許可を得ていないと判断をした。

金ヶ崎城城主である朝倉景恒が、一乗谷城にいる朝倉義景に許可を貰いに行く時間もなければ、朝倉義景が和議締結の許しを出すとは思えないのである。

徳川家康は、浅井長政とは別の事を考えていたのである。

(なにか、朝倉義景に起きたのでは無いのであろうか?

それが故に、急に和議締結の話を急いで持ち出したのか?)

「和議締結で、ございますか。

それで、条件はどのような物でしょうか?

まさか、手ぶらで来られた訳ではございますまい。」

真田敦の一言により、朝倉景恒は汗を流し始めた。

細かい和議締結の手土産を、朝倉景鏡と話し合いをしていなかったのである。

当主である朝倉義景は、加賀の一向一揆に攻められており、手土産の相談は出来ない。

朝倉景鏡とは、その話をする前に、一乗谷城が攻められた事を告げられたので、そこまで頭が働く事はなかった。

真田敦は、最低限の条件を朝倉景恒に突き付けたのである。

「そうですね。

若狭一国と、敦賀の領地を講和の条件として、こちらに頂きましょうか。」

真田敦の言葉は、朝倉景恒を驚愕させたのである。

「そ、そんな大事な事を、私の一存で決める訳には、出来ない事ぐらい。」

そこまで朝倉景恒が言葉を口にすると、その言葉を遮るように真田敦が更に口を開く。

「なにやら、北の国が騒がしい見たいですね。

特に、越前の隣国である、加賀とか言う国とか言いましたかね。」

その言葉を聞いたとたんに、朝倉景恒は、かなり動揺したのである。

(この男は、加賀の一向一揆の動きを知っているのか?

それとも、ただの嘘つきなのか?

しかし、講和が遅くなれば、朝倉家が滅亡に追いやられるのではないか?)

そこまで考えて朝倉景恒は、その条件を丸のみする事にしたのである。

「分かりました。

その条件を、お受け致します。」

「では、和議成立と言うことで。」

真田敦は、そう締め括っていた。

朝倉景恒は、和議締結の誓紙を作成して、その誓紙を手に持ち、会見の場から金ヶ崎城に向けて去って行ったのである。

浅井長政は、若狭に滞在している織田信長の元に、和議締結の詳細を記した書状を使者に手渡した。

和議締結をした以上、越前国内に止まるのは、和議をこちらから破った事になりかねない為に、早々に浅井長政、徳川家康、真田敦の3人は、敦賀城に向けて退却を始めたのである。   

さて、和議締結を済ませた朝倉景恒は、金ヶ崎城に戻るなり、朝倉景鏡に和議締結の内容を知らせた。

朝倉景鏡は、和議締結の内容を知り、仕方がないと自分に言い聞かせたのである。

もしも、あと1日遅ければ、金ヶ崎城の開城も、和議締結の条件に加えられたかも知れないからだ。

朝倉景鏡は、手筒山城に使者を出して、守備兵力を金ヶ崎城に呼び寄せようとしたのであるが、手筒山城の守備兵達は、鉢屋党の忍び達の情報工作により、朝倉義景の落命を知らされて、上から下までの大混乱に陥る。

手筒山城の城主は、偽報に騙されるなと家臣達に伝えるも、既に時は遅く、足軽達は次々と逃げ出して行き、一刻後には、わずか500の兵しか残らなかったのである。

手筒山城の城主は、500の兵を引き連れて、金ヶ崎城に撤退を完了をする。

そして、朝倉景鏡は、金ヶ崎城主である朝倉景恒、手筒山城から合流をして来た兵を引き連れて、約1万3000人の兵力を率いて、一乗谷城に向けて退却を始めたのだが、天は朝倉家を見放したのである。

あと半分の道のりで、一乗谷城に到着する場所にて、一乗谷城の陥落と、朝倉義景の切腹を、一乗谷城から逃げてきた兵に聞いたのである。

こうなれば、主君の敵討ちをしなければならないと、朝倉景鏡は、朝倉景恒に相談をして、一夜明けてから進軍を再開したのであるが、朝倉義景の切腹と一乗谷城の陥落を知った足軽達は、その日の夜の内に、更に逃亡をしてしまってのである。

そして、朝倉景鏡の手元に残された兵力は、わずか6000人足らずであった。

朝倉景鏡達がその兵力を率いて、木ノ芽峠城に到着した時には、4000人ほど残してきた守備兵も、ほとんど逃亡した後であった。

半分、諦めの気持ちを抱いた朝倉景鏡は、残った兵を鼓舞しながら進軍を再開し、一向一揆の待ち受ける戦場に向かうも、一向一揆の兵力は約2万であったのだ。

越前を取り戻す為に、朝倉景鏡と朝倉景恒は一向一揆を相手に奮戦をし、途中まで一向一揆を追い返すも、突然左右からの一向一揆の伏兵により三方向から包囲され、更には一度追い返した一向一揆の本隊に、左右からの伏兵が襲い掛かった瞬間を狙われ、激しい逆襲をされてしまい、朝倉景鏡と朝倉景恒が率いていた手持ちの兵をほとんど失い、一向一揆の包囲の中に、取り残されてしまったのである。

それでも、朝倉景鏡と朝倉景恒は、一向一揆の兵を数十人ほど刺し殺すも、数で勝る一向一揆の前に力尽きたのである。

朝倉家臣は、ほとんど一向一揆に討ち取られ、更には一乗谷城にいた朝倉一門も、紅蓮の炎の中に消えていた事により、約100年の繁栄を極めた越前朝倉家は、歴史の表舞台から永遠に消える事になったのである。

朝倉家を滅亡に追いやった一向一揆は、越前の約八割を支配下に治め、加賀と越前を支配する事になったのである。



敦賀城に到着した浅井長政は、この事を後に知り、後悔をしたのであるが、歴史の流れに逆らった越前朝倉家は、いずれ消え行く運命にあったのだと、自分に言い聞かせたのであった。

真田敦はそのまま敦賀城に残り、守備を固める一方で、浅井長政と徳川家康の2人は、若狭の小浜城まで戻り、織田信長と合流。

事の次第を聞いた織田信長は、浅井長政と徳川家康に帰国を命じ、自らは京の都に戻って行ったのである。

真田敦も、敦賀の地に、新しい守備兵が到着した事により、織田信長のあとを追い掛けて京の都に戻って行ったのである。

織田信長は、将軍足利義昭公に越前の事を報告した後に、真田敦達を引き連れて、岐阜に戻って行ったのである。

岐阜に戻った真田敦は、長女である茜と、会話をしていた。

「父上、前に頼んでいた事は、忘れておりませんよね。」

茜の言葉に、なぜか笑顔を見せる敦であった。

「誰よりも大切な茜の頼み事を、忘れてはいないさ。

京の都から、横笛の名手を岐阜に連れてきておるからな。

明日から早速、横笛を学びなさい。」

「父上、ありがとうございます。

やっぱり父上は、頼りになります。」

父親である真田敦からの嬉しい言葉を貰い、茜は満面の笑みを浮かべたのである。

やはり、子供に甘すぎる真田敦と言えようが、下の娘達の願い事も何でも聞いてしまうのである。

愛情を与えるのも良いのであるが、与えすぎると後々大変な事になる事を、真田敦は気が付かなかったのである。



6月下旬、真田敦は、織田信長から呼び出されていた。

なにやら、重大な事を伝えるとしか、聞かされていなかったのである。

大広間に到着すると、柴田勝家を始め、重臣達が、左右に分かれて座っていた。

真田敦は、重臣達の座っていた席から見て、末席の場所に座り、信長様の言葉を待っていた。

「みな、揃ったようだな。

では、伝える事がある。

まず、佐久間信盛には、小牧山城の城代を命じる。」

織田信長は、配下の者達に、次々と城代を命していき、最後に真田敦の順番が回って来たのである。

「さて、最後になったが、真田敦には、若狭一国と敦賀の地を与える。

機会があれば、越前から北の地である、北陸地方の遠征を行うように!」

織田信長の言葉に、最初に反応したのは、佐久間信盛である。

「信長様、なぜあのような成り上がり者に若狭一国と敦賀の地を、お与えするのですか?」

その言葉を聞き、織田信長の機嫌は一気に悪くなり、佐久間信盛に罵声を浴びせる。

「黙れ、佐久間!

貴様などよりも、遥かに敦の方が、働いておるわ!

戦における功績だけでなく、外交交渉や、謀略、小牧山城の建築などの働きを、余が認めたからである!

たいした功績も無いくせに、他人の悪口だけは達者のようだな!」

織田信長からの罵声を浴び、佐久間信盛の顔は真っ赤になり、そのまま下に向けたのである。

他の重心たちは、佐久間信盛の陰口に飽き飽きしていたので、内心は拍手喝采をしていたのであろう。

真田敦は、頭を下げて、恐悦至極にございますと、言葉を述べるだけであった。

この一件以来、佐久間信盛は真田敦を恨むようになったのである。

真田敦に言わせれば、功績を上げてから文句を言えや、と言いたげである。

織田信長に言わせれば、筆頭家老であろうが、功績の無いものはいずれ織田家から追放しなくてはならないと、考えていたのかも知れなかった。

屋敷に戻った真田敦は、妹の夕夏を始め、家臣一同を大広間に集めていた。

信長様から領地を、褒美としてたまわった事を、夕夏達に伝える為である。

「兄上、なにかありましたか?」

夕夏の言葉に、敦は言葉を口にする。

「実は先程な、信長様から領地を褒美としていただいてな。

この岐阜より、引っ越しをしなくてはならなくなってな。」

真田敦の言葉に、本多正信が質問をする。

「どこを、領地として頂いたのですか?」

「若狭一国と敦賀の地を頂いた。」

真田敦の言葉に、島清興は言葉を口にする。

「若狭一国と敦賀の地ですか。

家臣達を分散して、配置するのですか?」

その言葉に、真田敦は顎に手を当てながら答える。

「色々と考えていてな。

皆の配置を伝えようと思う。

小浜城には、某と某の家族、本多正信に、南条小助。

敦賀の地に、真田夕夏と、島清興の2人。

小浜の港町と、敦賀の港町の地に、大内勝雄を置こうと思うのだがな。」

それを聞いた大内勝雄が、口を挟む。

「では、両方の港町で、戦船の建造をなされるのですか?」

「戦船だけではなく、交易用の船も建造をする予定である。」

大内勝雄の言葉に、真田敦が直ぐに返答をする。

交易用の船と聞いて、元商人の子である南条小助が質問をする。

「敦様、交易と言われましたが、何処と交易をなされるのですか?」

「堺の地から陸路を通り、南蛮の品を持ってきて、東北や蝦夷の地に持っていき、大名や商人に品物を売り付ける。

東北や蝦夷の地から、交易品を堺に品物を運んで、南蛮人に売りさばくのだ。」

真田敦の返答に、南条小助は、亡き父親がして来た事を思い出していた。

「敦賀の地には城が無いために、新しい城を築城しなくてはならないからな。

夕夏と清興の2人に、新しい城の築城の全てを任せるがゆえに、越前からの侵略も考えて、くれぐれも気を抜かぬようにな。」

真田敦の言葉に、真田夕夏と島清興の2人は頭を下げていた。

真田敦はそこまで伝えると、大広間に集まった皆を解散させた。

その日の夜、真田敦は1人で、ぼんやりと月を見ていた。

色々と、考えなくてはならない事があったのかも知れなかったからである。

その真田敦の元に、大内藍が近寄って来たのである。

「おや、敦様?

このような場所で、何をしてらっしゃいますので?」

大内藍の声が聞こえて、真田敦は後ろを振り向いた。

「その声は、藍か。

いや色々と考え事があってな。

若狭に引っ越しをしなくてはならないし、頭が痛くてな。」

「あら、頭が痛いとは、珍しい事もあるのですね。」

扇子で顔を隠しながらも、大内藍の顔は笑っていた。

「まったく、藍は能天気だな。

信長様から領地を頂いたと言う事は、それ相応の働きをしなくてはならないのだぞ。

今までのように、信長様から兵を預かり、戦に向かうのではなく、自分達で兵を集め訓練をして戦に向かわなくてはならない。

領内の治安や、商い用の品物の流通などにも気を使う。

やることが、たくさんあるからな。」

その言葉に、大内藍が反論をする。

「その為に、仕事を配下の者達に振り分けたのではありませんか?

それほど、弟の勝雄を始め、配下の者達が信用出来ないと言われますか?

信用出来ないのであれば、最初から仕事をやらせなければよろしいかと!」

大内藍の言葉に、真田敦は反論が出来なかったのであるが、なぜか真田敦は笑みを浮かべたのである。

「ふっふふふ。

そのような事は、最初から分かっておるわ。

余が悩み込んだ込んだ姿を見せれば、そなたの事であるから、叱咤激励をするだろうと思っていたからな。」

「本当に、嫌らしい方ですね。

そこまでして、わらわを困らせたいのですか?」

大内藍は、呆れた顔をしている。

「さてさて、明日も早いからそろそろ休むかな。」

そう真田敦が口にすると、大内藍が真田敦の着物の袖を掴む。

「せめて、お酒を少し飲まれてから、お休みになられてはいかがですか?

たまには、敦様にお付きあいするのも、悪くないと思いますが。」

「お酒、あまり飲めぬが、まぁ良いか。

そう言えば、藍と飲むのも初めての事で、あったかな?」

真田敦の言葉に、大内藍は素直に頷くと、そのまま真田敦の部屋に向かったのである。



元亀元年(1570年)8月、摂津にある野田福島の地に、三好三人衆の軍勢が上陸をして、陣城の建築を始めた。

その事を知った織田信長は、5万の大軍を率いて、野田福島の地に向かったのである。

真田敦も、若狭の地から1000の兵を率いて、野田福島の地に到着したのである。

織田信長も、複数の陣城の築城に乗り出したのであるが、なぜかその陣城の場所は、石山本願寺を包囲するように構築されたのである。

石山本願寺の包囲を狙ったのか、そうではないのかは分からないが。

それだけではなく、織田信長はこの戦場に将軍足利義昭を連れて来たのである。

真田敦は、なぜその様な事をしたのかが、まったく分からなかった。

この場に、妹の夕夏がいれば何事も相談出来るのであろうが、夕夏と清興の2人は敦賀城築城の為に、残して来たのである。

大内勝雄は、敦賀の港町に残し、本多正信も小浜城に残して来たのである。

唯一、連れてきた家臣と言えば、真田家随一の猛将と言える、南条小助だけである。

野田福島の戦いが開始されてから、約2週間が過ぎ、月日は9月中旬になった。

野田福島の戦いは、織田信長側の優勢に、戦局が動いていた。

織田信長の手勢と、三好三人衆の手勢の兵力差の違いもあるが、訓練の高さと鉄砲の数の違いもあったからである。

織田信長にしてみれば、野田福島の戦いで三好三人衆を討ち取り、足利義輝公の遺言を達成したいとの気持ちもあったのかも知れないが、本音は違うのであろう。

足利義昭と裏で繋がっている三好三人衆を、足利義昭の目の前で壊滅させる事が、本当の狙いではなかろうか?

その為に、わざわざ野田福島の地に、将軍足利義昭公を連れてきたのかも知れなかった。

三好三人衆は、手持ちの兵力の損害を考えて、織田信長と和睦を望むべく使者を出したのであるが、織田信長はその使者を切り捨て、三好三人衆の壊滅を命じたのである。

その事を知った三好三人衆は、退却の時を伺っていたのであるが、思いもよらぬ幸運が三好三人衆に舞い込んだのである。

そう、9月17日の夜半、本願寺顕如率いる一向衆が、摂津にて挙兵をしたのである。

織田信長にとって、生涯における最大の油断が招いた結果だと言えなくも無かったからである。

織田信長は、石山本願寺挙兵を聞きつけ、こう言葉を口にしたと言う。

「顕如めが!

余を、この国の支配者だと認めぬつもりか!」

石山本願寺から僧兵が出陣を開始し、各地の陣城で戦いが繰り広げられたのである。

真田敦は、石山本願寺を包囲していた陣城に待機をしていた。

「顕如の、馬鹿めが!

そこまでして、地獄の釜を見たいか!

小助、我々も出陣するぞ!」

真田敦の言葉に、南条小助も素早く反応する。

「任せて下さい。

僧兵ごとき、我々の敵では無いことを、思い知らせてやりましょうぜ!」

真田敦と南条小助は、手勢を率いて僧兵を蹴散らしに出陣したのである。

挙兵を決断した本願寺顕如には、まったく迷いは無く、出陣前にこう僧兵達に述べた。

「進むは極楽、引くは地獄。

織田信長がこの国の支配者だとは、決して認める訳にはいきません。」

その言葉を聞いて僧兵達は、仏敵である織田信長征伐を口にしながら、出陣をしたのである。

のちの世に、石山戦争と言われ伝わる、宗教戦争の始まりであった。

「死ねや、僧兵共が!

織田信長様に逆らった者は、全員地獄に落ちろや!」

真田敦は言葉を口にしながら、先陣を切って槍を振り回す。

本来であれば、南条小助が先陣を任されるのだが、怒り心頭である真田敦を、南条小助は止められ無かったのである。

南条小助も手勢を率いて、真田敦から少し離れた場所で、槍を振り回していた。

「腐れ坊主共が!

そんなに死ぬのが怖くないなら、我が槍の錆となれや!」

南条小助も勇敢な言葉を吐き捨てながら、勢いよく槍を振り回し、僧兵を次々と倒していく。

石山本願寺の挙兵により、真田敦、南条小助の、2人の武勇を持ってしても、野田福島での戦況は、一進一退を繰り返していた。



時を同じくして、近江の西側にある比叡山延暦寺も、反織田の旗を掲げて挙兵をしたのである。

比叡山延暦寺の僧兵達の狙いは、宇佐山城を落城させてから更に進軍をして、京の都の占拠が目的である。

僧兵が率いる手勢は、総勢2万の大軍である。

その動きを察知した宇佐山城の城代である森可成と、嫡男である可隆の2人は、出陣を決意したのである。

更に、信長の弟である織田信治が2000の手勢を率いて、応援に駆け付けたのである。

3人は近江坂本の地に出陣をし、陣城の築城を素早く済ませ、僧兵の進行を防いだのである。

数で劣る森可成達は、夜襲の決行を決意し、数日に渡って僧兵達を討ち取る事に成功をするも、7度目の夜襲の時に伏兵に襲われ、森可成、森可隆と、織田信治の3人が討ち取られ、敗残兵は宇佐山城に逃げ帰ったのである。

3人を討ち取った比叡山延暦寺の僧兵達は、そのまま、宇佐山城を包囲したのである。

比叡山延暦寺挙兵を知らない織田信長は、身近にいた丹羽長秀から、忠告を受けたのである。

「信長様、石山本願寺が挙兵したのであれば、比叡山延暦寺が挙兵をする事を考えませぬと。」

その言葉に、織田信長は素直に頷く。

「前に、敦が石山本願寺が挙兵すると申していたからな。

比叡山延暦寺が挙兵をしても、おかしくない状態である。

ここでの戦を早々に切り上げるが故に、長秀は4000の兵を率いて、急ぎ宇佐山城に向かえ!」

織田信長からの言葉を聞いて丹羽長秀は、4000の兵を率いて近江の宇佐山城に向かったのである。

丹羽長秀が、野田福島の地から宇佐山城に向けて出陣したのは、森可成が僧兵達に対して夜襲を仕掛けてから4日目が過ぎていた。

丹羽長秀が、近江坂本の地に到着したのは、森可成が夜襲を始めてから8日目であり、宇佐山城が僧兵達に包囲されていたのを知った丹羽長秀は、包囲の一角を撃ち破り、無事に宇佐山城に入城を果たしたのである。

しかし、宇佐山城の城代をしていた森可成、森可隆親子と、織田信治の討ち死にを知らされると、丹羽長秀は回りの反対を押し切り、森可成と同じく夜襲を再三にわたり仕掛け、延暦寺の僧兵達を多数討ち取り、3人の無念を晴らしたのである。

織田信長の軍勢が、近くまで進軍して来たとの報告を受けた僧兵達は、宇佐山城包囲を止めて、早々に比叡山延暦寺に舞い戻ったのである。

古来より、比叡山の地は、犯してはならない地として崇められていたのである。

そこに逃げ込んでしまえば、恐れ多くも帝と言えど、口出しが出来なかったからである。

一方で、野田福島の戦いを早々に引き上げた織田信長率いる軍勢は、9月下旬に宇佐山城に到着したのである。

織田信長は、森可成可隆親子と、実弟である織田信治の討ち死にを知らされると、怒りを露にしていた。

「比叡山の坊主共めが!

大切な部下を殺したばかりか、余の弟までも殺害しおって!

この恨みは、決して忘れぬ!」

それだけではなく、真田敦も怒りを表に出していた。

「比叡山の糞坊主共が!

一人残らず殺してやるわ!

小助、全軍を率いて比叡山を滅ぼしてやる!」

さすがに、敦の発言をそのままには出来ない夕夏は、小助に視線を送り、兄上を止めるように合図を送る。

「お恐れながら、申し上げます。

比叡山は古来より、何人足りとも侵せぬ聖地にございます。

怒りを持ったまま、比叡山延暦寺を攻めれば、後世より悪名を着せられるのは必定かと。

ここは、堪えるべきです。

信長様とて、このまま済ませるとは思えませぬ。

何卒、ここは抑えて下さいませ。」

真田敦の配下の中でも、主君である真田敦に諫言を出来る家臣は少ない。

南条小助からの諫言を聞いた真田敦は、床に拳を叩き付けていた。

「小助の言い分は、よく分かった。

この度は、延暦寺を攻めるのは止めよう。

ただし、信長様が延暦寺を攻めよと申されたら、余はその命に従う。

それだけは、譲れぬ。」

夕夏を始めとする家臣達は、ひとまず安堵をする。

しかし、真田敦の心の中は、敵対する者に対して、決して許さぬと改めて決意をしていた。

信長は、比叡山を包囲して威嚇を開始するも、比叡山延暦寺の僧兵達は守りを固めているだけであり、比叡山延暦寺より出陣をしなかったのである。

比叡山延暦寺の包囲中に、信長の怒りを更に高める出来事が、伊勢長島で起きていたのである。

本願寺顕如の要請で、伊勢長島でも一向衆の挙兵が起きたのである。

数万人の一向一揆は、長島城を攻撃してあっさりと長島城を奪うと、続けて尾張の小木江城を攻撃。

城代の織田信興を切腹に追い込み、更には桑名城の滝川一益をも敗走させたのである。

信長の怒りは、まるで天に昇る勢いであった。

だが、時が経過して冷静になった織田信長は、手勢を率いて京の都に戻り、朝廷と、将軍足利義昭公に和睦の締結を依頼して、石山本願寺を始め、敵対勢力と和睦に成功をするのである。

信長は、重要な地域には多くの守備兵を置いてから、岐阜に戻ったのである。

真田敦も、手勢を率いて、若狭の地に戻ったのである。


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