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真田公記  作者: 織田敦
11/33

南近江制圧戦 

岐阜城下にいた真田敦とお犬御寮人は、屋敷の門にいた。

「お犬、領内巡察の為にしばらく尾張に行ってくる。

あとは、知多にも行ってくるから、しばしの間、留守を頼む。」

「はい、お殿様。

子供達の教育は、お任せ下さい。」

真田敦は、お犬御寮人を優しく抱き締めていた。



真田敦は、信長から許可を貰い尾張の巡察に出掛けた。

岐阜から犬山に、犬山から小牧山に、小牧山から清洲と巡察を行いながら、領民たちの意見等を纏めていた。

(まだついてくる。

岐阜を出てからずっとだな。)

真田敦は、嫌な気配を岐阜を出てから感じ取っていた。

(忍びか?

いや忍びならば気配を消し、遠くから監視するはず。

どちらにせよ、森の中で仕掛けて来るやも知れぬな。)

真田敦は、わざと脇道に逸れて森の中に入る。

ただの旅人ならば、真っ直ぐに道を歩き清洲に向かうであろうし、忍びの者ならば、必ず真田敦の後をつけてくる。

森の半ばほどまで歩いていたときに、背後にあった気配がすっと消えた。

(仕掛けて来る。

1人、2人、いや3人か!)

真田敦は、腰に差していた刀を引き抜き、近くの大木を背にして、回りを見始めた。

そんな僅かな隙を忍びが見過ごす訳もなく、手裏剣を真田敦目掛けて投げ始めた。

「手裏剣か!」

真田敦の前方から、数枚の手裏剣が投げられ、真田敦は大木の後ろ側に素早く回り込んだ。

真田敦の立っていた場所に、数枚の手裏剣が突き刺さる。

(まさか私が、忍びに命を狙われるとはな。

伊賀…甲賀…軒猿…そこら辺が来たのか?

こちらは1人、向こうは3人か。

部は悪いが、忍びは命を掛けたりはしないからな。

だが、いつまでも命を狙われるのは嫌だからな。

ここで死ぬわけにはいかぬゆえ、忍びには消えてもらうか。)

真田敦は、居場所を少しずつ変えながら、森の出口に向かう素振りを見せた。

忍びの目的が真田敦暗殺にあれば、森からは逃がしはしないだろう。

そう読んだ真田敦は、忍びの気配を探していた。

一方、忍びの方は、真田敦の包囲網を作りながら、一斉に襲い掛かる瞬間を探っていた。

もちろん、ここで任務遂行をしなければ、次の機会は無くなるだろう。

たまたま今回は、真田敦が1人で巡察に出掛けたから、機会が生まれたと言えよう。

真田敦と、忍びの腹の読み合いは終盤に差し掛かっていた。

(焦れた忍びは、そろそろ仕掛けて来るな。

森の出口が見えて来た事だし、ここら辺が勝負時か。)

忍び達は、出口が見えてきた事に対し、焦りを感じ、暗殺の機会をみすみす逃がしては、ならないからだ。

3人は互いに合図を送り、三人同時に攻撃を繰り出した。

(右、左、真上!)

右の忍びは、忍び刀を中段に構え、左の忍びと真上の忍びは、手裏剣を投げてきた。

「動きが鈍いわ!」

とっさの判断で、右から来る忍びに向かって行き、目に見えぬ速さで右斜め上から左斜め下に向けて刀を振り落とし、右側の忍びを始末すると、すぐさま後ろを振り返り、真上から襲い掛かってきた忍びが、地面に着地する瞬間を狙い、忍びの心臓目掛けて鋭い突きを繰り出し、2人目の忍びを始末すると、脇差しを引き抜き最後の忍びに向かっていき、真上から兜割りの要領で脇差しを振り落とし、最後の忍びを始末する。

「こいつらは下忍だな。

中忍ならば、火薬などを用いるだろうし。」

真田敦は、忍びの心臓に突き刺した刀を忍びから引き抜き、脇差しに付いた血を拭い、もう1本の刀も丁寧に血を拭ってから、鞘に戻した。



地面に横たわる物言わぬ死体を真田敦は調べていたが、やはり忍らしく素性を証す物は、何一つ所持していなかった。

「しかし、指示を出したのは、どこの大名だ?

六角?武田?上杉?まさか、毛利か?」

死体を改める作業が終わり、その場を立ち去ろうとした時に、真田敦は別の気配を感じていた。

しかし、目の前から歩いてきたのは見るからにどう見ても普通の旅人らしく、真田敦は一応は警戒を解いた。

「何をしてらっしゃる?」

旅人が、真田敦に声を掛けてきたが、忍びの死体を見つけても驚く様子は無かった。

「いえ、間者を切り捨てただけですから。」

真田敦はそう答えたが、目の前の旅人が普通の商人ならば腰を抜かすか、びっくりして逃げ出すのが普通である。

だが、死体を見てもそうしなかった旅人に、再び警戒心を抱き出した。

「忍びに狙われた?

物取りではなさそうだな。」

「おそらく、某の命を狙ったのでしょう。」

「命を狙われる?

忍びから恨みでも買ったか?

それとも、お主は抜け忍か?」

「どちらでもありませぬが、命を狙われるまで名を知られたのやも。

某は、織田家家臣真田敦と申します。」

「織田家の方でしたか。

某は、上泉伊勢守信綱。

ただの旅人ですがな。」

真田敦は、その名前を聞くなり、身体中に電気が流れたような感覚を覚えた。

「上泉伊勢守信綱様。

剣聖と名高いあの上泉伊勢守様でございまするか。」

新当流を作り出した塚原卜伝と並び称される、戦国時代きっての剣聖が目の前にいるのだ。

さすがに、現代で一流の槍術家と言われた真田敦と言えども、伝説の剣聖を前にして緊張をしていた。

「某は奈良に向かう所でしてな。

たまたまこの場所に出会した見たいですな。」

「奈良?

もしや、柳生殿の名を聞いてですか?」

「たしかに、奈良の柳生殿に会って見たくなりましてな。」

「上泉様、某を弟子にして頂けませぬか?

こうして出会えたのは、天命としか言えませぬ。」

真田敦は、頭を下げて頼んでいた。

「某は、見込んだ者だけを弟子にしているからな。

真田殿の力量を知らねば、軽々しく弟子には出来ぬ。」

「それでは、清洲の某の屋敷に来ていただけませぬか?

訓練の為の、広き部屋がありまするゆえに。」

「ここから清洲に戻るのも悪くは無いか。

真田殿の力量、某が見て判断してみよう。」

真田敦は、上泉伊勢守信綱と共に清洲城下に歩き出した。

夕暮れには清洲城下に到着し、夜が明けてから立ち会いをする事になった。

一夜が明け、訓練用の広き部屋に真田敦と上泉信綱の二人が、立ち会いに当たる試合を始めようとしていた。

(剣聖上泉信綱。

某がまともに戦えるのか?

いや、迷いや雑念を捨てさり、武術の最高峰とも言える明鏡止水に至らねばならぬ。)

真田敦は目を閉じて、木刀を中段に構始めて心を静かに集中させ始めた。

対する上泉信綱も、木刀を下段に構え、同じように心を静かに集中させていた。

二人の心が、明鏡止水に到達した瞬間に、お互いがそれぞれの奥義を繰り出していた。

「真田流奥義!

六道輪廻!」

「新陰流奥義!

流水切り!」

2人が同じ瞬間に相手に近寄り、そして2人の奥義がぶつかり合い、お互いの身体がすれ違い、回りから見たら僅か数秒の間の後に、真田敦の方が床に倒れていた。

真田敦の奥義は空を切り、上泉信綱の奥義は木刀ではなく真剣であったならば、真田敦の胴体を真っ二つにしていたであろう。

「ゲホゲホ、さすが上泉伊勢守信綱様。

某の完敗でございます。」

それはそうであろう。

上泉信綱の奥義が自分の胴に当たった瞬間に、自分は死んでいたであろうと感じたからだ。

それが実感出来るほど、上泉信綱の剣術は優れていたと言えた。

「真田殿の力量、たしかに見させて頂いた。

この力量であれば、喜んで弟子入りを許可しましょうぞ。」

「本当ですか!

まだまだ未熟者ですが、よろしくお願いいたします。」

こうして真田敦は、正式に上泉伊勢守信綱の弟子になり、上泉伊勢守信綱の元で、約1年ほど剣術修行に励んだ。

もちろん、信長様の命令が無い、空き時間であるのだが。



その後、約2年が過ぎた頃、剣術の師匠である上泉伊勢守信綱が真田敦の元を去り、大和の国の奈良に向かうのだが、去り行く時に置き土産として、真田敦に新陰流印可状を手渡していた。

後に、真田敦と上泉伊勢守信綱は奈良にて再会するのだが、まだ数年後の事であった。



「この1年、色々な事があったな。」

上泉伊勢守信綱の弟子になり、織田家が内政に励んでいる間、畿内では色々な事が起きていた。

まず、将軍足利義輝を殺害した三好三人衆と、松永弾正が仲違いを起こし、互いに争いを始めた。

その戦の時に、奈良の東大寺の大仏を焼き払うとゆう、世が引っくり返るような暴挙が起きた。

松永弾正の言い分だと、三好三人衆が東大寺に陣を敷いたのが悪いと。

三好三人衆の言い分だと、松永弾正の失火だと言いはる。

どちらもどちらだが、東大寺の大仏が焼けたのは、前代未聞の事である。

この事態を知った筒井順慶は、三好三人衆と手を結び、松永弾正討伐の兵を上げ、松永弾正の背後より襲いかかる予定であったが、行軍途中で松永弾正の嫡男である、松永久道の奇襲を受けて呆気なく命を落としたのだ。

筒井家配下の島清興を始め多くの家臣達は、松永弾正の配下になることを嫌がり、浪人として各地に散った。

これにより、のちに三好三人衆と一時的和睦をした松永弾正は、素早く兵を動かし大和一国を統一する事が出来たのだ。



岐阜にいた真田敦の元でも、嬉しい事が起きていた。

永禄9年(1566年)4月5日、四女の薫が誕生したからだ。

後に、五女未知姫、六女磨梨姫、七女春姫、八女優姫、九女美穂姫と、女子ばかり産まれるのだが、嫡男に恵まれていた真田敦は、特に気にもしなかった。



織田家は内政ばかりしていた訳でもなく、南伊勢に対する謀略も去年の冬より行っていた。

例えば、南伊勢に出回っている余剰米を、相場の1・5倍から2倍で、買い占めを行っていた。

嘘の噂をばら蒔き、遠三駿の三ヵ国で飢饉が発生した為に、利に敏感な商人が伊勢中の米を買い漁り、商人達が伊勢で買い占めた米を織田信長が全て買い上げていた。

勿論、その提案者は真田敦であった。

真田敦が考えるには、南伊勢制圧を素早く行う為には、北畠氏の籠城期間を短くしなくてはならないからだ。

半年間も籠城をされて、織田家の主力部隊が南伊勢に釘付けにされでもしたら、留守を狙って甲斐の武田信玄辺りが美濃侵略を、開始してくる恐れもあるからだ。

もちろん、こうゆう策略が得意な奴と言えば、木下藤吉郎であろう。

史実によれば、羽柴秀吉による鳥取城包囲戦の前に、市場に出回る余剰米を相場の5倍で買い占め、鳥取城の籠城米をも吐き出させた位であるからだ。

それは、まぁ未来の事であるが。

南伊勢を支配している北畠氏はは、かつて味わった事の無い暴風雨に直面しようとしていた。



永禄9年(1566年)5月20日、岐阜城の大広間に家臣逹を集め、信長からの最初の一言を放った。

「速やかに南伊勢を制圧する!

明日には、岐阜より出陣ぞ!」

真田敦は、去年から南伊勢に対する策略を知っていた為に、秋の収穫前に出陣をするだろうと見ていた。

もちろん、柴田勝家を始め、家臣逹からは反対意見は出なかった。

1万の軍勢を率いる将は、丹羽長秀と木下藤吉郎、森可成など。

北畠氏の小さな城を落とした後に、信長本隊に合流するように命じ、信長自身は3万5000の兵を引き連れ、北畠氏の本拠地である大河内城包囲を始めるべく、岐阜城を出陣した。

いつも通りならば、真田敦は先陣大将か信長の馬回り衆としているのだが、今回は補給部隊の指揮を取っていた。

兵糧や鉄砲、弓矢刀槍などの後方支援が任務である。

信長は、先陣大将に任命するつもりでいたのだが、昨日に信長の元を訪れた真田敦の意見を聞き入れ、今回の運びになったのだ。

普通に知られている織田信長と言えば、全て自分で決断を下し、配下の意見を求めぬ姿を想像するだろうが、なぜか真田敦の意見だけは聞き入れていた。



対する北畠具教は、1万6000の兵を八つある城に分散させ、織田信長の軍勢を迎え討とうとした。

だが、北畠具教の読みはことごとく外れた。

大河内城以外の城は、あっさりと織田信長に降伏したのだ。

全ての城が開城した事を織田信長に報告すると共に、大河内城に向けて進軍を開始した。

一方の織田信長の方と言うと、大河内城を速やかに包囲し、搦手より総攻撃を開始するも、本丸より石などを投げつけられ総崩れになった。

しかし、大河内城の兵糧の備蓄は残りわずかであり、長期間の籠城は出来ない事になっていた。

戦国の世において、籠城に供えて備蓄米の管理すら疎かにしていた北畠氏は、滅ぶ運命にあったのやも知れなかった。



一方、織田信長の方は、昨年から北畠氏に仕掛けていた謀略が効を制した事を事前に知っていた。

その効果が有効な内に、秋の収穫前に出陣を決めたとも言っても過言では無かった。

そして織田信長のいる本陣にて、大河内城攻めの軍議を開いていた。

「総攻撃か、和睦か。」

「五分の和睦では、意味は無かろうて。」

家臣逹からは、色々と意見が飛び交っていた。

「今すぐに、敦を呼べ。」

信長は、小姓に命じ真田敦を呼びにいかせた。

その事、真田敦は兵糧や武具の総数の計算をしていたが、小姓より信長公が呼んでいると聞き及び、まるで脱兎の如くに素早く移動を始めて信長公の前に姿を表した。

「信長様、お呼びだそうで。」

「そちの意見を聞きたくてな。

和睦か総攻撃か、そちはどちらを選ぶ?」

真田敦は、一瞬考える素振りを見せるも、すぐに言葉を発していた。

「和睦に御座いまするが、五分の和睦ではなく屈服させる和睦で御座います。」

「屈服の和睦だと?

お主には、策はあるのか?」

「海の向こうを見ておられる信長様と、南伊勢しか見ていない北畠氏とでは、器が違いすぎます。」

真田敦がそう言うと、信長はしばし思案を巡らせたが、ふっと何かを閃いたのか、その日の内に大河内城に、和睦の会見をする為の使者を派遣し、北畠具教も和睦の提案に賛成をした。



翌日のお昼、織田信長と北畠具教の和睦の会見が始まった。

会見が始まった頃、真田敦は兵糧や武具の管理をしていた。

そして、真田敦の隣には、森可成殿の姿があった。

「真田殿、御館様は大丈夫であろうか?

やはり、某が、お側にいた方が良かったのであろうか?」

森可成の不安をよそに、真田敦が平然と返答をする。

「森様、柴田殿をはじめ、織田家屈指の腕利きを護衛として送り込んだのです。

何の心配もありませぬ。

それに、大河内城は兵糧に乏しく、足軽達は満足に食事もしていないでしょう。

まともに動ける足軽など、いるとは思えませぬ。」

真田敦の言葉に少し安堵したのか、森可成は胸を撫で下ろした。



それから約一刻後、織田信長と北畠具教の会見が終了した。

信長の次男である茶筅丸を、養子として迎え入れる条件で、和議が成立したのだ。

こうして、織田信長の南伊勢制圧は完了した。



永禄9年(1566年)9月伊勢神宮に、織田信長は参拝をした。

ちなみに、戦勝祝いとしてこの時に配下に配った食事が豪華であり、それが現在の弁当の由来になるのである。



永禄10年(1567年)5月20日、真田敦の五女、未知が誕生をした。

ここまで、1男5女と女子ばかりになると、側室を持たれてはと家臣から言われもしたが、真田敦はのらりくらりとかわしていた。



永禄10年(1567年)6月、岐阜城にある来客が訪れていた。

最初は、滝川一益の説得に応じて降伏をして来た志摩を支配していた九鬼義隆である。

これにより、織田家は初めての水軍を手に入れたのだ。

織田信長は、前に真田敦から聞いた鉄鋼船の建造を、滝川一益と九鬼義隆に命じた。

勿論、直ぐに出来る訳でも無いのだ。

戦船の両脇に張り付ける鉄板を、薄く広く技術力も必用になる。

しかし、あまりにも薄い鉄板だと装甲板の役目を果たせないからだ。

と言って防御力強化の為に鉄板が厚すぎても、戦船が鉄板の重さに耐えられずに、沈没してしまうだろう。

戦船建造の素人と言える織田信長からの注文に、滝川一益と九鬼義隆は頭を抱えながら、伊勢志摩に戻って行った。



次の客とは、越前朝倉家に客分として仕えていた、明智光秀が来たのだ。

足利義秋の命により、織田信長に面会に来たと言上を申し上げていた。

「お初にお目にかかります。

足利義秋公の使者として参りました、明智十兵衛光秀と申します。」

「先代将軍足利義輝公の弟であったな。」

「はい、この度織田上総介殿にお会い致しましたのは、足利義秋公の願い事を叶えて頂きたく参りました。」

「足利義秋公の願い事とな?

明智とやら、申してみよ。」

「お恐れながら、足利義秋様の願い事ですが、織田上総介殿のお力を借り受けて上洛をして頂きたいと申しております。」

「上洛だと?

先代将軍足利義輝公の跡を継ぎ、征夷大将軍になりたいと申されるか。」

(上洛の大義名分は手に入ったが、南近江の六角義賢に三好三人衆が、上洛の道を塞ぐだろうな。)

真田敦は、密かに考えを巡らせていた。

織田信長の次の目標は、上洛の障害となりうる六角義賢の征伐である。

六角氏を討伐する大義名分は、足利義秋公を征夷大将軍にする為に上洛をするので、協力して欲しいと丹羽長秀を使者として派遣したのだが、六角義治は裏で三好三人衆と手を結んでいたために、織田信長からの上洛協力を拒否したのだ。

南近江から戻って来た丹羽長秀からの報告を受けた織田信長は、三河の徳川家康に援軍要請を行い、明智光秀が越前に帰った後に、六角義賢征伐の兵を繰り出した。

織田信長は、濃尾の総勢3万の兵力を率い、前に改修作業の終えた松尾山の陣城に到着した。

織田信長は、直ぐ様六角攻めの軍議を開いたのだが、軍議が始まって直ぐに京から戻った間者からのとんでもない報告を受けたのだ。

「申し上げます。

足利義栄公が、征夷大将軍に任命されました。」

この事により、足利義栄は足利幕府第14代将軍になったのたが、実際には京に上洛して征夷大将軍に任命された訳ではなく、摂津の寺にて養生をしている時に朝廷からの使者を迎えて任命されたのだが、まだそこまでは探りきれていなかったのだ。

「三好三人衆の傀儡将軍の誕生か。」

織田信長は、言葉を吐き捨てた。

「御館様、六角攻めは如何なされますか?」

丹羽長秀が、信長に言葉を求めた。

「足利幕府の正統な後継者である足利義秋殿を助けず、逆賊に味方をする六角承偵義治親子を討伐し南近江の地を手に入れ上洛をしやすくする。」

「では、国境に近い2つの出城を攻め落とし、南近江制圧の足掛かりに致しますか?」

筆頭家老の佐久間信盛は、自分の意見を述べたが、即座に却下された。

「そんな悠長な攻め方では、上洛まで2年は掛かるわ。

そうさな、敦。

御主であれば、どうやって南近江を攻める?」

織田信長から言葉を求められた真田敦は、直ぐに織田信長に返答をした。

「信長様が、三河守様に援軍を求められた事から考えますに、ここは箕作城に一気に攻めかかるべきかと。

箕作城は、観音寺城に一番近い出城になります故に、一夜にして攻め落とせば六角承偵は戦意を無くして、観音寺城を早々と放棄するかと思われます。」

「何を馬鹿な事を申す。

南近江には、18もの出城があるのだぞ。

箕作城攻略に時が掛かれば、周りの出城から援軍が続々と到着をして攻め手の我々の方が、背後を突かれるではないか!」

真っ先に反応したのは、筆頭家老の佐久間信盛であった。

そんな2人を、織田信長は黙って見ていた。

(さすが、敦よの。

余の考えている事を、的確に見抜いておるわ。)

信長は、更に黙って軍議の行く末を見ていた。

「佐久間様は、六角承偵ごときに、我が織田家が勝てぬと言われるのか?」

「そうは、言うてはおらぬ。

被害を最小限にとどめるべきだと、申しておるだけだ。」

六角攻めの軍議の席で、筆頭家老の佐久間信盛と、部将に昇進したばかりの真田敦の二人の意見が真っ二つに割れていた。

「下郎上がりのくせに、筆頭家老のわしに刃向かうのか?」

「筆頭家老だろうが誰であろうが、お館様の考えに従うべきだと申しておるだけです。」

「まぁまぁ、軍議の席ですぞ。

子供の喧嘩は、それぐらいになされませ。」

このまま言い争いを続けたら、信長様の逆鱗に触れると判断をした丹羽長秀が、言い争いを続けている2人の仲裁に入った。

丹羽長秀が仲裁に入ったお陰で、真田敦は冷静を取り戻す時間が稼げた。

「丹羽様、大変申し訳ありません。

つい、売り言葉に買い言葉になってしまいました。」

真田敦は仲裁に入ってくれた丹羽長秀に素直に謝罪をしたが、一方の佐久間信盛は筆頭家老の立場上、丹羽長秀には謝罪をしなかった。

あくまでも、この言い争いの原因を作ったのは、真田敦が全て悪いと言わんばかりの態度を崩さなかった。



同じ頃、六角承偵義治親父も、織田信長に対する考えを話し合っていた。

「父上、信長の軍勢は4万とも、5万とも言われております。」

「なに、案ずるな。

大軍を率いて来ようが、少数には少数なりの戦い方がある。

この南近江に大軍を率いて来た事を、後悔させてやろうぞ。」

六角承偵の作戦は、今で言う所のゲリラ戦術である。

後方の小荷駄隊を狙い、兵糧や武具などを焼き奪えば、大軍であるがゆえに崩壊も早いと見ていたのだ。

それだけではなく、18もの出城を築いたのも、どこかが攻められても、他の出城から援軍を出し、後方より襲い掛かる事も可能であるからだ。

だが、六角承偵にも誤算があった。

真田敦と言う存在を、全く知らなかったからだ。



翌日、松尾山の陣城に徳川三河守家康が、4000の兵を引き連れ到着した。

「三河、此度の援軍済まぬ。」

「いえ、信長殿からの要請とあらば、いつでも駆けつけまする。」

「明日の朝、ここから出陣いたし、観音寺城を落とし南近江を制圧する。

三河は、後続部隊として来て貰いたい。」

「承知致しました。」



同じ頃、浅井長政も北近江と南近江の国境にある、2つの出城に向けて出陣をした。

この2つの出城を落とせば、その領地を得ても良いと、義理の兄上である、織田信長から言われれば、浅井長政は、頑張って落とすと思われるからだ。

浅井長政の所領の石高は、約39万石であり、動員兵力は約1万人ほどである。

2つの出城の領地を手に入れれば、少なくとも3~4万石にはなるだろう。

前にも書いたが、この時代は家を残す事が大事であり、その為にも領地を広げる事は領民を餓えさせず家臣達にも領地を与え、他国からの侵略を防ぐ為に必要不可欠と言えたからだ。



翌日、織田信長は早々に命令を下した。

「長秀と猿は、昨日の軍議に従い、先陣を勤めよ。

それから敦、お主は6000の兵を率いて、和田山城に向かえ。」

織田信長公からの言葉に、真田敦は素早く反応する。

「なるほど。

和田山城、箕作城、観音寺城と同時に攻めかかるのですな。」

「賢しいわ!

余の考えを見抜く暇があれば、さっさと和田山城に向かえ。」

織田信長の言葉は乱暴だが、心の中で真田敦のは反応の早さに満足していた。

真田敦は、織田信長より6000の兵を借り受け、和田山城に向かった。

六角義治の読みは、織田信長は最初に和田山城に、攻め寄せると考えていた。

和田山城に攻め寄せて来たら、箕作城と観音寺城から援軍を出して、背後から襲い掛かる計画であった。

和田山城に6000、箕作城に3000、観音寺城に1000と、兵を分けて待機させていた。

だが、織田信長は箕作城に主力部隊を向かわせ、観音寺城と和田山城には別動隊を向かわせたのだ。

「一気に攻め掛かれ。」

「裏手にも兵を配置し、攻めの手を緩めるな。」

丹羽長秀と木下秀吉は、箕作城に攻め寄せた。



「無駄に攻めるな。

火矢を用いて、屋敷を燃やしてしまえ。」

一方、和田山城に攻め寄せた真田敦は、和田山城を落とす積もりはなかった。

箕作城が落ちれば、連鎖反応で次々と降伏すると見ていたからだ。



観音寺城の高い場所から、六角親子が箕作城を見ていた。

「父上、箕作城に敵が攻め寄せて来てます。」

「ふん、1日耐えきれれば、各地の城より援軍が参る。

包囲殲滅をすれば、良いだけであろう。」

「父上、なにやら後続部隊が来ていますが…あ、あの旗印は、三つ葉葵の旗印では?」

「三つ葉葵?

三つ葉葵の旗印だと?

まさか、三河の徳川家康までもが、攻め寄せて来たとでも言うのか!」

当時、三河衆と言えば勇猛果敢と言われており、甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信率いる兵にも、劣らぬと言われていた程であった。

「父上、三河衆も来たとなれば、箕作城は1日足りと持たぬのでは。」

「情けない事を申すな。

もうじき、日も暮れる。

明日になれば、援軍が到着するだけだ。

その時に、城より出陣を致し蹴散らせば良いだけだ。」

確かに、六角承偵の読みは正しかったのだが、丹羽長秀と木下藤吉郎は箕作城に攻撃を仕掛けるも箕作城の反撃にあい、一度攻め手を引き上げさせた丹羽長秀と木下秀吉の二人は、今度は夜討ちを決行し、多少の被害を出しながらも、箕作城を1日にして落城に追い込んだのだ。

観音寺城から見ていた六角承偵義治親子は、戦意喪失に陥り観音寺城を無血開城。

そのまま六角親子は、甲賀郡に落ち延びた。

観音寺城無血開城の報告を聞いた18の支城(出城)は、1つだけを除いて続々と信長に降伏を始めた。



いつになく、織田信長の機嫌は良かった。

南近江の観音寺城は、無血開城。

上洛の障害も、早めに除かれたからだ。

南近江にある最後の支城である日野城には、降伏の使者として、真田敦を向かわせた。

真田敦の才ならば、蒲生賢秀を降伏させるだろうと、信長は見ていたからだ。

南近江を制圧すれば、あとは足利義秋を迎え入れ、京に向けて上洛するだけである。



3日後、蒲生鶴千代を引き連れて、真田敦は織田信長の前に姿を表した。

日野城主蒲生賢秀は、真田敦の説得により降伏。

嫡男の鶴千代を差し出し、降伏の証しとしたのだ。

蒲生鶴千代を一目見て、その才能を見抜いたのか、のちに三女である冬姫を嫁に出すのである。

蒲生鶴千代、後の蒲生氏郷である。

織田信長は、南近江に守備兵を配置して岐阜に帰っていった。

足利義秋の来訪を待ち、上洛の準備を行わなくてはならないからだ。



永禄10年(1567年)11月、京の都より勅使が岐阜にやって来た。

内容は、尾張と美濃にある皇室の領地を、差し出すようにと書かれていた。

信長は、速やかに領内の皇室の領地を返還し、正式に尾美の守護職を拝命する事になったのだ。



永禄11年(1568年)4月15日、足利義秋が足利義昭に改名をした。



永禄11年(1568年)8月3日、真田敦の六女真田磨梨が誕生した。

真田敦はことのほか喜んだが、のちにとんでもない女性に成長するのだが、真田敦はもとより、真田家中ですら分からなかった。



永禄11年(1568年)8月28日、足利義昭が細川藤孝と明智光秀らを率いて、岐阜城に到着した。

「細川様、お久しぶりにございまするな。」

細川藤孝を見つけた真田敦が、言葉をかける

「これは真田殿、奈良で別れて以来ですな。」

声を掛けられた細川藤孝も返答をする。

しばし、真田敦と細川藤孝の会話が続く。

「細川様も、お元気でなによりでございます。」

「真田殿も、無病息災の様子で何よりですな。」

「此度の岐阜城来訪は、足利義秋殿の上洛の依頼ですな。」

「先の上様の最後の願い事を叶え、次の願いは義昭様を将軍にする事ですので。」

2人の会話に割って入ったのは、信長様から2人を探してこいと命じられた小姓であった。

「信長様がお待ちかねです。

早く城にお上がり下さい。」

小姓に促され、細川藤孝と真田敦は岐阜城に上がった。



岐阜城の大広間に通された細川藤孝は、織田信長公と面会をしていた。

「細川藤孝殿であるな。

余が織田尾張守信長である。」

最初に、信長が口を開く。

「お初にお目にかかりまする。

足利義昭様にお仕え致しております、細川藤孝と申します。」

その言葉に、細川藤孝も返答をする。

「そちの要件は分かっておる。

足利義昭公を上洛させ、征夷大将軍にして欲しいであろう。」

全てお見通しであると、織田信長は言いたげである。

「何卒、織田尾張守様のお力添えを、お願い致したく参りました。」

床に額を付けながら、細川藤孝は懇願をする。

「よかろう。

5日後に上洛の軍勢を出そうぞ。」

即決即断を良しとする、信長らしい判断であった。

逆に細川藤孝の驚きは、尋常では無かった。

越前の朝倉義景の元に居たときには、約2年間滞在していたのだが、朝倉義景の腰は重く、結局上洛の軍勢を出す事は出来なかった。

織田信長との会談を終え、細川藤孝は足利義昭が滞在する寺に戻る前に、真田敦と再び会話をしていた。

「真田殿、尾張守様はいつもああ言うお方で御座るか?」

細川藤孝が抱いた疑問を、真田敦に質問をする。

「信長様は、即決即断で自分の決めた事だけを進められる方です。

それが故に、家臣達では分からぬ事もございまするが。」

さすがに、全ての考え方を理解は出来ないと、真田敦は返答をする。

「真田殿は、尾張守殿の考え方が分かると?」

細川藤孝の言葉に、真田敦は含みを持たせてまた返答をする。

「全てではござらぬが。

ある程度までならば。」

その言葉に、疑問を抱くも、細川藤孝は真田敦に頭を下げていた。

細川藤孝は、真田敦と別れ足利義昭公の滞在する寺に戻り、事の次第を足利義昭公に細川藤孝は報告をしていた。



5日後に、織田信長は上洛をする為に5万の兵を率い、京に向けて進軍を開始した。


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