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真田公記  作者: 織田敦
10/33

織田信長の決意表明 

永禄8年(1565年)正月。

織田信長は、稲葉山城の大広間に家臣達を集めた。

新年の挨拶もあるが、それ以外の事もあるからだ。

1つ目は、稲葉山城を岐阜城に改名をする事。

2つ目は、今後より天下布武の印を使う事である。

これにより、織田信長は内外に、正式に天下統一を目標にした事を発表したのだ。

唸る者もいれば、小馬鹿にする者もいるだろう。

呆れる者もいれば、叩き潰すと言い張る者もいるだろうし、無視をする者もいるだろう。

だが、真田敦にとってどうでもいい事なのだ。

この時代に飛ばされてから、織田信長公の天下布武の完成を、夢に見ていたからだ。

信長の次の狙いは、伊勢制圧である為に、真田敦は早々と北伊勢に向かっていた。

織田信長率いる本陣が岐阜城を出陣する前に、先陣の大将に任命されたからだ。

先陣の配下には、北伊勢に滞在中の滝川一益や、木下藤吉郎などがおり、最初の目標は北伊勢の神戸氏である。

そう、織田信長の使者である真田敦を馬鹿にし、その真田敦の怒りを買ってしまった愚かな豪族である。



岐阜城から出発した将兵達が、北伊勢にある金井城に到着した。

真田敦は、金井城に来た将を大広間に集め、北伊勢攻略の軍議を開いた。

「滝川殿、伊勢の豪族達の様子はどうでござる?」

「はっ、我々の動きを察していないのか、準備をほとんどなされていないようにございます。」

滝川一益は、簡潔に答える。

「真田様、一気に攻め寄せますか?」

木下藤吉郎は、上座に座っている真田敦に質問をした。

「南近江の六角を攻めると、言いふらした結果だな。

思ったより、謀略に掛かりやすい馬鹿が多いと言うことだ。

信長様の率いる本陣が来る前に、一気に伊勢中部まで攻め落とすぞ!」

木下藤吉郎に答えを述べてから、真田敦は直ぐ様立ち上がった。

真田敦の戦意は、大広間に集まった連中を巻き込み、今すぐにでも出陣をする勢いであった。

しかし、ある2つの出来事により、出陣の機会は延期になってしまったのだ。

1つ目は、前に友好的な関係を築きたいと言っていた豪族から、豪族の方から人質を差し出して来たのだ。

さすがに、主君である織田信長に報告も無く、勝手に人質を取るわけにもいかないからだ。

真田敦はすぐさま使者を岐阜に派遣し、織田信長からの指示を待つ事にした。

2つ目は、北近江の浅井家と南近江の六角家との間で戦が始まってしまったのだ。

織田家と浅井家は同盟関係にある為に、浅井長政から援軍を要請されたら、織田信長としては援軍を派遣しなくてはならないからだ。

使者の往復等により、結果的には5日ほど出陣を待つ事になったのだ。

岐阜城に向かわせた使者が、金井城に戻って来た。

使者によると、『真田敦の好きにせよ』との返答を聞いた。

その返答を聞いた真田敦は、豪族からの人質を岐阜に送り出し神戸氏の居城に向けて出陣を始めた。

北伊勢攻略部隊である先陣だけで約6000名にもなり、織田信長率いる本隊は、約2万の軍勢になる。

当初は約2万5000の予定であったのだが、約5000の兵を、浅井と六角の戦場に向けて出陣させたのだ。

援軍の指揮を執るのは柴田勝家、丹羽長秀、佐々成政などの将である。

浅井六角両家の争い事が、織田信長の伊勢平定前に、南近江の六角家を攻める名分を与える事になるのだが。

真田敦ですら気が付かず、北伊勢の神戸氏平定に向けて軍を進めた。



真田敦率いる先陣は、神戸氏の居城を速やかに包囲した。

真田敦は無駄な被害を抑える事を考え、神戸氏に降伏を使者を出すも、神戸具盛からの返答は、『徹底抗戦をする』との言葉だけを使者は返してきたのだ。

「ふん。

地方豪族の神戸家ごときが、信長様に逆らうのか。」

真田敦は、予測していた答えを聞いた。

普通の武将ならば、その言葉を聞いただけで頭に血が行き、がむしゃらに力攻めを始めただろう。

だが、真田敦の考え方は違っていたのだ。

(猪武者ならば、力攻めだろうな。

某は、智力勝負を好むからな。

最初は数日間は、空の夜襲でも仕掛けて、城兵を睡眠不足にでも、追い込んでみるか。)

真田敦は、滝川一益や木下藤吉郎に使者を出し、近くにある竹林から大量の竹を切り出し、多くの竹を集めさせた。

集めさせたその竹を半分に割り、横に10本ほど並べてから、その竹をきつく縛り大量の竹板を作らせた。

この竹板を作らせた理由は、鉄砲の弾除けや弓矢による攻撃を防ぐ為である。

夜遅くにそれを足軽達に持たせ、半分の3000名で城の四方から声を上げて夜襲を仕掛けさせた。

ある程度攻撃はするも、直ぐに引き返す。

また、時を開けて夜襲を仕掛けるの繰り返しを開始した。

昼間は、残りの足軽達が滝川一益や木下藤吉郎らに率いられ、神戸氏の居城に攻め寄せる。

昼夜問わず真田敦率いる軍勢に攻め寄せられ、神戸氏の重臣である山路弾正などは、籠城を止めて打って出るべきと、神戸具盛に意見を述べるほどになっていたが、主君の神戸具盛は反対をした。

神戸具盛曰く、城を攻めるには、籠城側の約3倍の兵力が必要と言われていたからだ。

籠城側約4000に対し、攻め手側は、約1万2000の兵士が必要であるのだが、真田敦が率いる軍勢は、半数の6000しかいない。

籠城をしていれば、先に根負けするのは、真田軍であると言いはったのである。

神戸具盛の言葉は間違いではないが、真田敦はその程度の読みは予測の範囲内である。

攻め手の数が少ないなら、策略を施せば良いのだ。

その策略の成果が見え始めたのは、攻め始めてから5日経ってからである。

攻め手は半分が攻め寄せる間に、残り半分は身体を休めているが、籠城側は昼夜問わず全軍を上げて守備をしなくてはならないからだ。

そして遂に、守備側の足軽達が昼夜問わずの攻めに疲れ果ててきたのだ。

真田軍は、昼間寝る側と夜寝る側とで、交代で身体を休めているが、神戸氏の足軽達は不眠不休のせいか、疲れ果てて睡眠不足状態に追い込まれたのだ。

それを察した真田敦は、6日の明け方に総攻撃を仕掛けた。

「敵は寝不足で、満足に戦えぬ状態だ!」

滝川一益は、そう足軽達に言葉を出す。

木下藤吉郎は、こう足軽達に伝える。

「手柄を立てて、立身出世の道を切り開け!」

滝川一益は西側、木下藤吉郎は東側から、足軽達を鼓舞しながら城に攻め寄せる。

真田敦も、南門から矢を放ちながら、滝川勢や木下勢を援護を始める。

守備側の山路弾正は、足軽達を鼓舞しながら応戦するも、寝不足に達している足軽達の動きは鈍かった。

「皆の力を合わせ、敵を二ノ丸に入れてはならぬ。

なんとしてでも、敵を押し返すのだ。」

「山路様…足軽達は不眠不休の限界で、ろくに動けませぬ。

敵兵が二ノ丸に侵入するのも、時間の問題かと。」

山路弾正の側にいた侍大将が、迷わずに意見を述べた。



城方の疲れを確認できた足軽達は、我も我もと城壁に取りつき始め、城方の足軽達を蹴散らし、二の丸の侵入に成功したのだ。

「俺様が、二ノ丸一番乗りじゃ!」

「兜首を、おらが取ったぞ!」

「そっちの兜首より、おいらの方が、立派な兜首だ!」

城内に進入したからである足軽達が、口々に声を出す。

かなりの人数が二ノ丸に侵入し、織田軍は二の丸のいたる戦場の所々で守備側の足軽大将や侍大将といった身分の者達を、どんどん討ち取り始めていた。

「織田家の弱兵に討たれ出すとは、まったく不甲斐ない。

この上は、二の丸を捨てて、本丸に引き上げるぞ!」

山路弾正は、手勢を纏め素早く本丸に引き上げ始めた。

もちろん、それを見逃す真田敦ではない。

滝川一益や木下藤吉郎の軍勢は、本丸に逃げ出した足軽達を背後から襲い掛かり、敵兵を殺し始めた。

南門を破壊した真田敦も、二の丸に突入してな敵兵を逃がさずに殺し始めた。

一方的な殺戮と化した戦場では、本丸に逃げ延びた足軽達が門を固く閉ざした。

二ノ丸に残された足軽達は、無惨にも屍をそこらに晒し始めた。

真田敦は、二の丸を完全に制圧すると、本丸からの反撃に供える為に、竹で生産した盾を地面に並べるように厳命をした。

これを設置しておけば、ある程度は本丸からの弓矢や鉄砲からの攻撃被害を抑えられると考えたからだ。

そして、書状をしっかりと鏑矢に結びつけ、弓矢の名手に本丸に目掛けて鏑矢を飛ばせた。

本丸にいた足軽がその鏑矢を拾い上げ、結ばれていた書状を自分の上役に届け、その書状を受け取った上役は、更に自分の上役に届けるといった具合で、最終的には神戸具盛の元に届けられた。



その書状を受け取った神戸具盛は、書状を開き黙読で読み始め、本丸の大広間に集まっていた家臣達に言葉を出した。

「攻め手より、和睦の文が矢文で届いた。

織田信長公の三男である、三七殿を養子として迎えて貰いたいと。

まずは、皆の意見を聞きたい。」

神戸具盛は、文を床に置き家臣達に意見を求めた。

真っ先に口を開いたのは、山路弾正であった。

「某は、反対でござる。

和睦を持ち掛けこちらの油断を誘い、我々を皆殺しにするに違いない。」

「考えすぎでは無いか?

三七殿を養子として迎え入れ、御家の存続をさせるべきでは。」

別の重臣は、織田家と和睦をするべきと口を開く。

「馬鹿を申すな!

信長は、信用出来ん!」

「しかし、向こうから和議を申し込んできたのだ。

神戸家を、滅ぼすつもりか?」

別の重臣も、声を出す。

重臣達の意見は、和議に応じるか、徹底抗戦かの半分に分かれていた。

神戸具盛は、重臣達の意見を聞きながらも己の判断を決めかねていた。



真田敦は、二の丸にて神戸具盛を包囲しながら、織田信長からの使者の到着を待っていた。

和議の内容は、北伊勢に出陣する前から、前もって許可を得ていたからだ。

本丸で徹底抗戦か和睦かで揉めているその頃、二の丸に滞在していた真田敦の元に、使者が訪れた。

「申し上げます。

御館様の先陣大将として、森可成様がお越しなされました。」

「報告ご苦労。

下がって、体を休めるがよい。」

伝言を伝えに来た使者を下がらせ、森可成殿が来るのを真田敦は待っていた。

森可成が率いる軍勢は、二の丸に滞在中の真田敦の軍勢と合流した。

その真田敦の軍勢と森可成の軍勢が二の丸にて合流する様子も神戸家に見えており、本丸城内は慌ただしくなっていた。

森可成は、率いてきた軍勢を待機させると、真田敦の前に姿を表した。

「真田殿、此方にいらしたのですか。」

森可成殿の声を聞き、真田敦も返答をした。

「これはこれは、森殿。

ところで御館様は、いつ到着致しますか?」

「明日には、御館様はこの地に到着される。

真田殿、現在の戦況はどのように?」

「先ほど、和睦を促す矢文を本丸に向けて打ち込んだ所です。

もうじき、城方から何らかの返事が来るかと。」

「出来れば、御館様が到着なされるまでに、和睦を締結したいですな。」

真田敦と森可成がそんな会話をしていた。



同じ頃、神戸具盛の開いていた軍議も、終わりに差し掛かっていた。

織田家との和睦を、受け入れる方が良いと主張する側が優勢になり始めたからだ。

抗戦派と降伏派の意見も出尽くした頃、黙って意見を聞いていた神戸具盛がある決断を下した。

「皆の意見は良く分かった。

お互いが、我が家の為に意見を出してくれた事は、この神戸下総守、生涯忘れぬ。

本丸の大手門を開き、織田上総介と和睦を致す。」

抗戦派は肩を落とし、降伏派は安堵のため息を吐いた。

そして本丸の大手門が開かれ、和睦を伝える使者が真田敦達の元に訪れた。

「我が主君であります神戸下総守は、織田上総介殿と和睦を望んでおります。」

「うむ、ご使者殿。

神戸下総守具盛の和議締結の話し、この真田敦が承った。」

使者は頭を下げて本丸に戻っていき、真田敦は織田信長に使者を速やかに出した。



真田敦からの使者から、和議締結の話し合いを希望しているとの報告を受けた織田信長は、翌日のお昼過ぎに二の丸に到着した。

真田敦達の出迎えも早々と済ませた織田信長は、真田敦達と手勢を率いて、本丸の大手門を潜り、本丸で待機していた案内役に付いていき、大広間に到着した。

その大広間にて織田信長は、神戸具盛との和議の会談を始めた。

細かい条件は色々あったが、基本的には織田信長の突き付けた条件を、神戸具盛が丸のみする感じであった。

その内容を見ても、和議締結と言うよりは、完全な降伏と言える内容でもあった。

織田信長達の前では表情には出さないが、不満を持つ神戸家の家臣達もいたが、当主である神戸具盛が決めた事なので我慢している感じであった。

(何人かは、此度の和議締結に対して、明らかに不満を抱いているな。)

真田敦は、和議締結の会談を静かに見守りながらも、神戸家の人間観察を怠らなかった。

「では、これで和議締結であるな。

敦、一益、サル、引き上げるぞ。」

大広間を出た信長は、急ぎ本陣に戻るなり、北伊勢に滝川一益と兵5000を残し、残りの全軍を関ヶ原に向けて進軍を開始した。

本当の目的地は関ヶ原ではなく、浅井長政と六角義賢が争う、南近江の地に向かう事である。

先に関ヶ原に向かわせた柴田勝家と丹羽長秀は、松尾山には、昔に造られたと言われている陣城があり、それを改修する為に、先に派遣されたのだ。



永禄8年(1565年)5月上旬、関ヶ原の松尾山に到着した織田信長は、兵達に休息を取らせると共に、浅井と六角の戦場となっている場所を調べていた。

織田浅井連合軍の連携が取れれば、六角の背後に兵を送り込み、挟み撃ちにする事も可能であるのだが、もちろん六角義賢もそれを見通して、布陣をしているだろうと信長は考えていた。

その頃真田敦は、歴史を思い出しながら、考え事をしていた。

(今月中旬頃に、たしか三好三人衆と松永弾正が、京にいる足利義輝を襲い殺害したはず。

いっそのこと、足利義輝を京より落として、岐阜に迎え入れたらどうなるか?

それが出来れば、信長様の上洛をする為の大義名分も立ち、畿内に領地を広げる事も出来るか。

しかし、足利義輝が素直に応じるかは、難しいだろうな。)

三好三人衆と松永弾正に襲われた足利義輝は、畳に何十本も愛刀を突き刺し、迫り来る敵兵を切り殺しながら、手に持っている刀の切れ味が悪くと、畳に突き刺した新しい刀と変えながら戦い、最後には何本もの槍を一斉に突き刺され、剣豪将軍は絶命したと言う。

このまま剣豪将軍を犬死にさせるよりは、今後の為にも生かすべきと思い立ち、織田信長の元に向かった。

「信長様、一大事でございます。」

大広間に家臣達といた織田信長の面前に、真田敦が急ぎ足で現れた。

「敦、一体どうしたと言うのだ!」

普段の物静かな真田敦からは思えぬ姿に、信長はいち早く反応したのだ。

「恐れながら申し上げます。

三好三人衆と松永弾正めが、将軍足利義輝様を亡き者にする為に、兵を集めているとの事でございます。」

「なんだと…将軍を亡き者にするだと!

下剋上の世と言えど、そこまでやるのか!」

真田敦が織田信長に報告を上げた瞬間に、柴田勝家が反応をした。

「信長様、私に兵を100ほどお貸しくだされ。

上様を京より落として、岐阜にお連れ致します。」

真田敦は、将軍足利義輝公が生きていれば、上洛の大義名分を得られると考えたからだ。

「わかった。

敦、すぐさま京に向かえ!」

信長は速やかに判断を下し、真田敦に兵を100人貸し与え、そのまま京に向かわせた。



真田敦は、獣道とも言える間道を突き進み、5月中旬には京に入った。

真田敦は、道を歩いていた商人を掴まえて、日にちの確認をした。

「そこの者、今日は何日だ?」

「へえ、今日は、5月18日でごぜえますが。」

(5月18日だと?

三好三人衆と松永弾正による足利義輝襲撃の日は、明日じゃねえか。

将軍足利義輝公の館は、たしかこの辺りと聞いたのだが。)

真田敦は周りをくまなく探し回り、ようやく足利義輝公の館を見つけ出した。

「おい門番、将軍足利義輝公はご在宅か?

織田上総介の家臣、真田敦が参ったと伝えてこい!」

いきなり声を掛けられた門番は、いったい何事かと思ったが、声を高くして返答をした。

「上様は、ただいま外出中であられる。

明日改めて、出直して参れ!」

門番の上から目線にカチンときた真田敦は、こいつでは話しにならぬと思い、上の者に伝えてこいと言葉を放つ瞬間に、数人の護衛を引き連れていた、将軍足利義輝公が館に帰って来たのだ。

「恐れながら、将軍足利義輝公にございまするか?」

「余は、将軍足利義輝であるが、そちは何者であるか?」

「某は、織田上総介の家臣、真田敦と申します。

上様にお伝えしたき事があり、岐阜より参りました。」

「織田上総介か。

数年前に一度だけ、会った事があるな。

伝えたい事があるならば、こちらに参るがよい。」

真田敦は、配下の者達を近くの寺に向かわせてそのまま待機するように命じ、自分は護衛の者に案内されて館の中に入っていった。

現代で言う書斎であろうと思われる部屋に案内され、しばらくしてから足利義輝公が姿を見せた。

「真田とやら、本日ここに参った事を述べてみよ。」

「恐れながら、上様に申し上げます。

三好三人衆及び松永弾正めが、上様を亡き者にする為に、此方に軍勢を進めております。

進軍速度を考えましても、明日には京に入るものかと。

ここは京より岐阜にまで落ちのび、織田上総介様の力を借り受け、再起を計るが望ましいかと。」

真田敦は、額を床に付けながら、足利義輝公に具申を申し上げていた。

「なんだと!

余を亡き者にする為に、三好松永らが兵を進めているだと!」

足利義輝は、真田敦からの具申の内容を聞き、思わず声を上げていた。



足利義輝は、暫しの間考え事をしていたが、

ある決意をしたのか、声を出した。

「余は京より落ちぬ。

ここで落ち延びれば、幕府の権威は無くなる。」

真田敦は、まだ幕府の権威に拘る足利義輝に呆れた。

かつて、足利義輝公に拝謁した織田信長様の言葉によると、足利義輝公が健在なうちは足利幕府は存在して行くだろう。

しかし、足利義輝公亡き後は、すぐさま足利幕府は瓦解するだろうとも、言っていたからだ。

「上様、命があれば、何度でもやり直せまする。

御自身の命を、粗末にしなくとも。」

「京より落ちぬ!

この命果てようとも、三好松永らを地獄に叩き落とす。」

真田敦の言葉を遮り、改めて自分の決意を言い放っていた。

「真田とやら、しばし待っておれ。

この度の具申の礼をしたい。」

そう言うと、足利義輝は一度部屋を後にして、しばらくしてから再び姿を見せた。

一本の刀と書状らしき者を、手に持っていた。

「織田上総介には、この書状を与える。

そちには、この刀を与える。」

そう言うと、足利義輝は真田敦の前に書状と刀を置いた。

「恐れながら上様、書状の内容と、この刀はどのような業物でございまするか?」

「二通の書状の内容は、三好三人衆と松永弾正らの討伐を許した書状と、この刀の所有者を記した書状である。

そちに託す刀は、童子切安綱である。」

「ど…童子切安綱ですと!

天下の名刀である童子切安綱を、某ごときにお渡しするのでございまするのでありますか?」

それはそうであろう。

天下五剣の一つに数えられた童子切安綱を、無位無官の者に渡すのだから。

「そちは、余と同じく剣術を学んでおるのであろう。

三好や松永などに名刀を渡す位ならば、同じ剣術者に渡すのが良いわ。

それと、余の頼みも聞いて貰いたい。

余の弟である覚慶を、岐阜まで落とせ。

細川藤孝らをそちの連れとして貸し出す故に、なんとしてでも成し遂げよ!

これは余の、将軍足利義輝の命令である!」

足利義輝は、真田敦に強く命令すると、細川藤孝達を呼び寄せ、覚慶を岐阜に落とせと細川藤孝達に命じた。

「上様、上様も落ち延びて下され。

上様あっての、幕府でございます。」

細川藤孝は、将軍足利義輝に進言をするも、将軍足利義輝はそれを拒否する。

「先ほど真田にも申したが、三好三人衆及び松永弾正らを地獄に叩き落とす。」

将軍足利義輝の強い決意を知り、真田敦や細川藤孝達は将軍足利義輝の説得を諦めて、将軍足利義輝の元から去り、大和の奈良に急ぎ向かった。



真田敦と細川藤孝の軍勢が奈良に到着した時には、将軍足利義輝公の弟に当たる覚慶は、松永弾正の手勢に捕らえられてしまい、近くの寺に軟禁されてしまったのだ。

「僅かな差で、手遅れか。

細川殿、いかがなされる?」

「某は、覚慶様救出の時を待とうと思う。

覚慶様が殺されなかったのは、松永弾正が興福寺の力を恐れたからではなかろうか。」

「では、覚慶殿を救出なされてから岐阜に、こられまするか?」

「わからぬが故に、覚慶様の意見も聞かなくてはならないからの。」

(何を言っている。

足利義輝様の命は、覚慶殿を岐阜に向かわせる事じゃねえか。

覚慶ごときの意見なんざ、必要ねえんだよ。)

真田敦は心の中で毒を吐くも、文化人である細川藤孝の前では、冷静沈着を保っていた。

「では、某は御館様の元に戻りまする。

足利義輝様を助け出す事が出来なかった以上、報告を上げなくてはなりませぬ。」

「そうか、真田殿とは、ここでお別れですな。」

「寂しゅうございまするが、しばしの別れでございましょう。

生きていれば、また会える機会もありましょうぞ。」

真田敦は手勢をまとめると、細川藤孝殿と別れ、織田信長の待機している関ヶ原の松尾山に向けて出発をした。



「申し上げます。

将軍足利義輝公が、三好三人衆及び松永弾正らに殺害されました。」

「なんだと?

真田は、将軍足利義輝公の救出に、間に合わなかったと申すか?」

家老の柴田勝家は、京の都から戻ってきた間者に問いただしていた。

「京の町衆達の噂では、襲撃の前日にある人物が将軍の館に現れて、京より退去を願い出たらしいのですが、将軍足利義輝公が拒否なされたとか。」

間者は、詳しく言葉を返した。

「仕方あるまい。

足利義輝公の性格からして、逃げだす事はせぬだろう。」

信長は、数年前に僅かな供を引き連れて京に上洛をし、将軍足利義輝公に拝謁をしている。

その時の感想を思いだし、自らの言葉にしたのだ。

「申し上げます。

ただいま、真田敦様がお戻りになられました。」

鎧武者が、伝言を伝えに来た。

「すぐにここに来るように、申し伝えよ。」

頭を下げた鎧武者が素早い動きで部屋を後にして、外で待っていた真田敦を呼びに向かった。

真田敦を呼びに行ってから数分後、二枚の書状と一本の刀を手に持った真田敦が部屋に入ってきた。

「真田敦、ただいま奈良より戻りました。」

真田敦は頭を下げ、書状と一本の刀をの床に置いた。

「京ではなく、奈良?

なぜ奈良より戻った?」

信長からの質問に答えるべく、信長様の前に置いた二枚の書状を小姓に手渡し信長様に届けさせ、小姓から書状を受け取った信長は書状に目をやると半ば納得した表情を見せた。

「なるほど、覚慶とやらを助け出す為に奈良に向かったのか。

して、覚慶とやらはいかがいたした?」

信長の言葉に、真田敦は言葉を返した。

「お恐れながら申し上げます。

僅かな差で、松永弾正の手下に捕らえられ、奈良にある寺に監禁されました。

しかし、幕臣の細川藤孝殿を始め、数人の幕臣が覚慶殿を救いだす為に機会を伺っております。」

「三好三人衆及び松永弾正の討伐を、この信長に命じた以上、上洛の大義名分は手に入れた。

しかし、覚慶とやらも手に入れて二つ目の大義名分を手に入れねばな。

天下五剣の一本である童子切安綱を、そちに渡すとはな。

よほど、そちを気に入ったのであろうか。」

信長の言葉に、真田敦は困惑をしながらも言葉を返した。

「三好三人衆及び松永弾正らに渡すぐらいなら、同じ剣術者に当たる某に渡した方が良いとお考えになられたのです。」

真田敦は、将軍足利義輝公の言葉を素直に述べていた。

信長は、顎に手を当てて考え事を始めたが、直ぐに答えが出たのであろう。

「まぁ良い。

浅井と六角も、将軍足利義輝公殺害の報を聞きつけたであろう。

まもなく、停戦をするのではなかろうか?」

信長の読み通り、将軍足利義輝公殺害の報を聞き付けた浅井と六角は、お互い条件無しの和睦締結をした。

信長は、浅井長政から和睦の報告を受け、松尾山に置いていた軍勢を岐阜に引き上げた。



永禄8年(1565年)7月下旬、奈良の寺に監禁されていた覚慶が、幕臣細川藤孝らの手引きにより、寺より脱出に成功して最初は近江の和田氏に、和田氏の元から逃げ出すと、次には南近江の六角氏のやっかいになり、六角氏が三好三人衆と手を結んだと知ると、若狭の武田氏の元に逃亡、今度は、武田氏が親子喧嘩を始めると更には越前朝倉氏と居場所を転々としながら、上洛の機会を待つ事になる。



岐阜に引き上げた織田信長は、南伊勢を支配する北畠氏を制圧する為に、しばらくは内政に重点を置くことになり、真田敦も岐阜城下の屋敷にて、家族団らんの時を過ごす事になるのだが、闇の世界では間者による暗躍が激しさを増すのだが、忍びを持たぬ真田敦にはまだ関係ない事であった。



岐阜の真田敦の屋敷では、南側に面した縁側

で、真田敦と本多正信が会話をしていた。

「正信、今年の収穫はどうなっておる?」

「はっ、今年は豊作かと思われます。

実りの穂も頭を垂れだし、新米の味もよろしいかと。」

「正信は白米も好きだが、白米から作った清酒が好きだろうに。」

「ほっほほほほほ。

酒は百薬の長ですからな。

めでたい日には、清酒で宴会でしょうな。」

そんな会話をしていた二人の前に、お犬御寮人が、子供達を連れて姿を出した。

「本当に、仲のよいお二人ですね。」

「これは、お犬御寮人。

それに源一郎様に、茜様に詩穂様、涼様まで。」

「あい済みませぬ。

子供達がどうしてもここに来たいと申されまして。」

源一郎は敦の右側に座り、茜は敦の左側に座り、詩穂は敦の後ろから肩に腕を回していた。

「そう言えば正信、近々三河より家族が参るのであったな。」

「敦様のおかげで、三河に残してきた家族と再会できまする。」

「父上、平和な世はいつ来るのですか?」

「そうですそうです。

父上いつ来ますか?」

「父上、いつ?」

源一郎に茜や詩穂の三人は、父親である真田敦に聞いていた。

「平和な世か。

いずれは、信長様がお作りになられる。

そなた達が大人になる頃には、平和な世が訪れるだろう。」

敦は、源一郎に茜、詩穂の子供達を抱き締めながら、優しく教えていた。

そんな姿を見ながらも、本多正信が会話を再開した。

「来年は南伊勢制圧ですな。

北畠家は朝廷より権中納言を授かる家柄ですので、一筋縄では行かぬかと思われますが。」

「明や南蛮の事をろくに知らぬ山猿に、いったい何が出来る。」

「北畠家を山猿扱い。

敦様は恐ろしいですな。

官職も興味無いのですか?」

「正信よ。

恐れおおくも、帝に対しての忠勤は忘れぬが、官職には興味はそれほどはない。」

官職に対しての興味が無いのは、真田敦の本心であった。

だが時代と言うものは、かくも残酷である。

のちに真田敦は、越前守から位が上の官職をいくつか歴任し、後に参議になるのだが、本人は知るよしも無かった。

しかし、まだ未来の出来事である事には違いは無かった。


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