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44. 求婚は、契約範囲外です

 約束の夜は、南のテラスに卓が出ていた。


 月のいい晩である。庭の木々は銀色に縁どられ、噴水の音が遠く、兵舎の灯が点々と暖かい。燭台は一つきりで、それで足りるほど月が明るい。卓の上には二人分の茶器と、グレゴールさん特製の夜食が湯気を立てている。給仕は下がらせてあり、近衛は柱の陰にひと組だけ。……なるほど、例の話をする構えである。


 殿下の襟元は、いつもより正しかった。目の下の隈は、もうほとんど見えない。出会った夜、燭台の陰で骨と影ばかりだった顔を思えば、別人である。毒見役冥利の景色だけれど、今夜のこの顔色は、たぶん毒見の手柄の外にある。


 作法どおり、茶を検めた。


 ……ひと口で、分かる。眠り草。ただし、あの面接の一杯とは似ても似つかない。量が乱暴で、蒸らしも雑で、香りより先に妬みの味が立っている。


 まぶたが、上がる。……こんな夜まで、である。


「いかがした」


「眠り草です。量は乱暴、腕は素人。……お下がりの給仕の中に、今夜の席が面白くない方が、おひとり」


 飲み干して、柱の近衛に目配せをひとつ。あとの調べは、露台の外の仕事である。後で知れたことだが、盛ったのは膳部を出された次席どのの縁者の給仕だった。妬みにも、血筋があるらしい。殿下は盆ごと茶を替えさせて、それから、少しだけ笑った。


「……こういう夜も、まず毒か」


「性分ですので。それに今夜のは、働き甲斐がありました。妬まれる側の椅子にも、慣れて参りましたので」


「そうか。なら――本題も、妬まれる話だ」


 夜食は、焼き直しの麺麭と、澄んだ汁物だった。囮の食卓の晩にグレゴールさんが出した、あの砦の兵糧の献立を、丁寧に上等にした品書きである。選んだ人の考えは、聞かなくても分かる。いちばん悪い夜を、いちばん良い夜の下敷きにする気なのだ。


 匙が止まった頃合いで、殿下は懐から、小さな包みを出した。指先が、布の端を一度だけ握り損ねる。この方も、緊張はするらしい。開かれた布の上に、細い金の指輪がひとつ。飾りの少ない、実用の書式のような指輪である。小さな石が、月あかりを吸って静かに光っていた。


「毒見役に、ではない。ヴィオラ・アッシェンフェルトに、頼みがある」


 声は、宣誓の朝と同じ、揺れのない低さだった。


「俺の食卓の毒を、生涯、先に食べてくれ」


「……え?」


 風が、一拍だけ止まった。月が、薄い雲をひとつ渡っていく間、噴水の音だけが遠くで続いている。毒なら、味で分かる。量も、産地も、手口も分かる。自分の心臓の早鐘だけは、十一年かけても、鑑定のしようがない。……この方の求婚は、やはりこの書式である。花でも詩でもなく、食卓。私に向く言葉として、これ以上のものを、私は知らない。知らないが、事務の筋だけは通しておくのが、私という毒見役である。


「――それは、契約範囲外です」


 殿下の目が泳ぎ……ため息が漏れた。


「……そうか」


「ですので、契約を作り直してください。三食昼寝つき、終身。解約の条項は、なしで」


 殿下は目を見開いて、それから、初めて見る種類の顔で笑った。


「そ、そうだな! 契約はその線で、とうに考えてある」


「では、白状をひとつ。面接で申し上げた絶縁は、方便です。除籍の届は出ておりません。私は法の上では、いまも侯爵家の娘です」


「知っている。監査院の綴りで、とうに確かめた。……でなければ、この指輪は用意できん」


 用意の良さに、二の句が継げなくなる。この方は三年、毒を恐れて皿を検めさせてきた人である。石橋の叩き方が、私と同じ流儀なのだ。


「もうひとつ。面接の一筆の『不敬は不問』は、妃になっても有効でしょうか?」


「無効だ。……敬え、とは言わんが、隣にいろ」


 敬うのと、隣にいるのと。条項としては、後のほうがずっと重い。分かって仰っているのだから、質の悪い書式である。柱の陰で、近衛がそっと目を逸らすのが分かった。忠義の形にも、いろいろある。


 指輪は、左手の薬指に、少しだけ迷ってから収まった。毒のあるものを何百と舐めてきた指である。場違いなほど綺麗な輪が、その先で月を映している。


「手袋の下と上、どちらに着けるものでしょう」


「好きにしろ。……道具では、ないのだから」


 いつかの言い直しを、この方はずっと覚えていたらしい。私は指輪ごと手袋をはめて、検め直した白い茶を飲んだ。安全な茶は、少し寂しい味がする――はずだった。八つの歳、毒百合の騒ぎのあとの庭で、誰も私と同じ皿から食べてくれなくなった日から。誰にも言わなかった、舌の最後の秘密である。


 寂しく、なかった。


 同じ薬缶の、同じ茶が、向かいの卓で同じ湯気を立てている。それだけのことが、味を変えるらしい。秘密がひとつ、月の下で静かに意味を失くしていく。手帳を開き、今夜の行を書いた。インクが、ほんの少しだけ滲んだ。


『契約、更新。期限、生涯』――。

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