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16. その毒、初見です

 その一皿は、雨の晩の三品目に載ってやって来た。


 窓の外は細い雨で、晩餐の間の静けさに、遠い雨音の膜が一枚かかっている。燭台の火は行儀よく並び、給仕は壁際に、殿下は書類とともに定位置に。三月かけて馴染んだ、いつもの夜のはずだった。


 三品目は、鹿肉の赤ワイン煮込みである。毒見皿を口へ運び、二口目で――匙が、止まった。


 覚えのある苦みが三つ、覚えのない順番で並んでいる。兜草の系譜の痺れ。灰銀花に似た、灰の気配。骨の髄まで知っているはずの字が、知らない筆順で書かれている。そして全体に、読んだことのない甘さが一枚、薄い膜を張っていた。


 まぶたが、上がりかけて――止まる。


 字は、読める。文章に、ならない。


「三品目。毒、あり。種類は――」


 声が、そこで止まった。給仕たちの視線が集まる。燭台の火が、居心地悪そうに揺れる。殿下が、書類から顔を上げた。


「……分かりません。初見です」


 毒見役を拝命して三月(みつき)。「分からない」を口にしたのは、初めてだった。毒の味だけは、八つの歳から今日まで、読み違えたことがない。私という人間の、たぶん唯一の自慢である。その自慢の帳面に、今夜、初めて空欄ができた。悔しい、という感情の在り処を、私は久しぶりに思い出した。舌の上の読めない文章が、他人の書いた品書きみたいに、よそよそしい。


「分からずとも、毒は毒か」


「はい。お膳には上げません。差し替えを」


「なら、今夜のところは十分だ」


 殿下はそれだけ仰って、視線を書類へ戻された。慰めの言葉より、事務的な扱いのほうが沁みる夜もある。


 差し替えの皿を組みながら、グレゴールさんが低い声で言った。


「テメエでも、分からんことがあるのか」


「あるようです。……癪ですが」


「ふん。なら、分かるまで食えばいい。おかわりなら、いくらでも作ってやる」


 厨房流の励ましである。ありがたく、おかわりをいただいた。分からないままだったが、腹は膨れた。……このままにしておく予定は、むろん、ない。


       ◇


 翌日の研究室は、硝子の森だった。


 リヒト様は残った煮込みを受け取ると、湯煎と、細い管と、ぐるぐる巻きの冷やし管を組み上げて、嬉々として立てこもった。窓の光が硝子の管に屈折して、床に小さな虹の欠片を散らしている。三刻ののち、卓の上に小皿が三枚並んだ。煮込みから分け取られた、三つの成分である。


「分けた。……さあ、毒見役殿の出番だ」


 一枚目。ひと舐めで、まぶたが上がる。「兜草。若い株です」。二枚目。「灰銀花の根。乾いてから二年もの」。三枚目の甘い膜は――「南方の樹脂。これ自体は毒ではありません。ただ、舌の上で他の味に覆いをかけます」


「そういうことだ」


 リヒト様が、珍しく笑っていなかった。


「三つとも、単体なら君の知り尽くした字だ。それを、互いの味を打ち消し合う比率で混ぜて、樹脂の膜で覆いをかけてある。狙いは殺しの効率じゃない。……名乗らせないことだ。毒とは分かっても、種類が割れない。種類が割れなければ解毒は後手に回るし、産地も、乾燥の癖も、手口も読めない」


「……味の指紋が、消える」


「そういうことだ。これは、君のための毒だよ。君の舌に鑑定の芸をさせないためだけに、覆いを掛けた特注品だ。……心当たりは?」


 ある。ありすぎる。白鈴の実の陰干し。薬包の同じ干し手。産地の一致で詰んだ、黙り酒の配膳頭。この三月、盛る側はしくじるたびに、私の手帳へ指紋を残していった。


「敵は、学んだんです。私に止められることではなく――止められたあとに、辿られることを、恐れ始めた」


「名乗らない毒なら、しくじっても懐が痛まないからね。いわば『捕まらない毒』だ」


 部屋の温度が、二度ほど下がった気がした。関所を破る毒ではない。関所で、名乗らない毒である。しかも配合はきっちり三対一対一。薬師の教本どおりの、几帳面な手だ。


「腕の程は」


「一流だ。ギルドで基礎を仕込まれて、道を踏み外した類の。……ただし設計者には、誤算が二つある。一つ、膜は剥がせる。二つ――君の隣に、剥がす器具を持った僕がいる」


「勝負は、受けて立ちます。分けていただければ、読めますので」


「僕を巻き込む前提で言った?」


「取引の範囲内です」


 リヒト様は肩をすくめて、片眼鏡を外した。拡大鏡の跡が、目の周りに丸く残っている。


「いい返事だ。ではその意気込みの記念に、舌の調査を……」


「お断りします」


「知ってた」


 変人の軽口で、部屋の温度が一度だけ戻る。この人なりの、気の遣い方なのだと思う。たぶん。


 手帳に、新しい行を書く。『初見ノ毒。狙イハ、私ノ鑑定』。書いてから、その字を少しだけ眺めた。読めない毒は、止めても、何も語らない。この毒が名乗らないまま独り歩きを始めれば、盛る側は初めて「捕まらない毒」を手にすることになる。インクの乾く間だけ、目を閉じた。


       ◇


 数日後の朝。厨房の裏が、騒がしかった。


 雨上がりの冷えた石畳に、人だかりができている。洗い場の下働きの少年が、賄いの粥を半分残して倒れたのだという。医務の間へ運ばれていく小さな体とすれ違って、私は、湯気の消えた粥の椀を手に取った。木の匙が、椀の中に落ちたままだった。半分残したのではない。半分のところで、毒が匙を取り落とさせたのだ。


 ひと舐め。覚えのある三つの字と、覆いの甘い膜。ただし量が、半端である。


 ――私の卓を通らない場所で、例の職人の毒が、人を倒し始めた――。


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