第三回:戦場の花・金頭娘、武芸で愛を競い 猛将・高懐徳、潞州にて激戦を演ず
『金頭娘と呼延賛の「賭け試合」』
(男の視点、凛々しき君を追う)
弓執りて 先駆ける君 凛々しくて 追うは武勇か 秘めた恋心か
(ゆみとりて さきがけるきみ りりしくて おうはぶゆうか ひめたこいごころか)
弓を執り、私の先を駆けていく君の後ろ姿は、なんと凛々しいことか。 私が必死に追っているのは、武勇を競うためだろうか、それとも胸に秘めた恋心ゆえだろうか。
前を行く女性の強さと美しさに魅せられ、それを追う自分の衝動が「武人としての意地」なのか「恋」なのか、自問自答する男の熱い心を詠みました。赤と青の対比も意識しています。
(女の視点、挑発と誘い)
疾風なり 我に追いつく 気概あらば その矢のごとく 心射止めよ
(はやてなり われにおいつく きがいあらば そのやのごとく こころいとめよ)
私は疾風のように駆ける。もし私に追いつこうという気概があなたにあるのならば、 (あなたが避けた)その矢のように鋭く、私の心を射止めてみなさい。
女性側からの、自信に満ちた挑発的な歌です。「私と対等に渡り合える男ならば、私の心を手に入れてみせよ」という、強気で格好いい恋の駆け引きを表現しました。
【しおの】
話は再び、太行山の麓へと戻ります。
馬忠とその妻・劉氏は、息を切らせて山下まで逃れてきましたが、行く手を遮るように一人の若武者が立ちはだかっていました。全身を堅固な鎧で包んだその威容は、まさしく彼らの愛息・呼延賛その人だったのですが、賛は両親の顔を見てもそれとは気づきません。殺気立った大声が、彼らに浴びせかけられます。
「殺しても飽き足らぬ賊徒どもめ、まだ懲りずに首を差し出しに来たか!」
その怒号を聞いた劉氏は、恐怖よりも母としての直感が勝りました。馬を飛ばしてあえて前へ進み、若武者の顔をじっと凝視します。見紛うことなき我が子です。彼女は凜とした鋭い声で叱咤しました。
「福郎! 親に向かって無礼な振る舞いはよしなさい!」
懐かしい幼名で呼ばれ、呼延賛はハッと我に返りました。よく見れば、目の前にいるのは紛れもなく実の母。賛は慌てて手にした槍を投げ捨て、馬から転げ落ちるように飛び降りると、道端にひれ伏して頭を垂れました。
「なんと、母上でございましたか! 親とも気づかぬ不孝をお許しください。しかし、一体なぜ、このような場所に?」
劉氏は馬上で息を整えながら答えました。
「まずは面を上げなさい。そして、あちらにおられる叔父上にご挨拶するのです」
賛は母に促されるまま、軍中に控える父・馬忠のもとへ歩み寄りました。あわや刃を交えるところだった親子の、奇跡的な対面です。馬忠は感慨深げに口を開きました。
「お前は耿忠の砦にいるはずだと思っていたが、まさか此処で我らと槍を合わせることになるとはな。実は、この砦の主である馬坤殿は、わしと義兄弟の契りを結んだ仲なのだ。さあ、すぐに行ってこれまでの非礼を詫びてきなさい」
それを聞いた賛は、さっと顔色を変えて困惑しました。
「父上、それは拙いことになりました。実は先日、私が馬坤殿の長男を捕らえて山へ連れ去り、あろうことか次男の馬栄殿まで打ち据えてしまったのです。今さら顔を出せば、生きては帰れぬでしょう」
「案ずることはない、わしがついている」
父の力強い言葉に背中を押され、賛はようやく覚悟を決めました。
こうして賛は馬忠に伴われ、恐る恐る馬坤の砦の門をくぐりました。馬忠は馬坤と顔を合わせるなり、深々と頭を下げました。
「愚息が兄上のご子息とは知らず、数々の狼藉を働きました。どうか私の顔に免じてお許しいただきたい」
馬坤は目を丸くして事の次第を尋ねました。馬忠がこれまでの経緯をつぶさに語ると、馬坤は怒るどころか、感嘆の声を漏らしました。
「なるほど、さすがは名宰相の血を引くご子息だ。その武勇、見事というほかない」
呼延賛はおずおずと進み出て拝礼しました。
「伯父上とはつゆ知らず、ご無礼をいたしました。何卒、ご寛恕を賜りたく存じます」
「互いに顔を知らなかったのだ、責める道理などない」
馬坤は豪快に笑い飛ばすと、すぐさま盛大な宴席を設けるよう手配しました。
やがて馬坤は、次男の馬栄を呼び出しました。栄は仇敵である賛の顔を見て一瞬こわばり、先日の敗北を思い出して恥じ入る様子でしたが、賛の方から「兄上、先日の無礼をお許しください」と頭を下げると、毒気を抜かれたように礼をもって応えました。
この日、砦には祝福の銅鑼や太鼓が鳴り響き、人々は高らかに歌い、酒を酌み交わして再会を祝いました。
かつて干戈を交えた者同士が、今は盃を交わす。豪傑たちの巡り合いは決して偶然ではなく、この一時の集いが鉄よりも固い絆を生み出すのです。彼らが中原の主を助けるのはまだ先のことだとしても、その勇名は早くもこの太行山の空に轟くようでした。
宴もたけなわの頃、馬坤は居住まいを正して馬忠に切り出しました。
「賢弟に一つ相談があるのだが、聞き届けてもらえるだろうか」
馬忠は席を立って応じます。
「兄上の仰ることなら、どうして背くことがありましょう」
「実は、私の娘に金頭娘というのがおる。器量こそ人並み外れて無骨だが、武芸だけは少々自信があるようなのだ。もし嫌でなければ、呼延賛殿と夫婦の契りを結ばせたいのだが」
馬忠は拱手して感謝を表しました。
「兄上が目をかけてくださるなら、これに勝る喜びはありません」
馬坤はすぐに人をやり、奥にいる金頭娘にこの縁談を伝えました。すると彼女は、からからと笑って言い放ちました。
「お嫁に行くのは構いませんけれど、その呼延賛とやらの腕前はどうなのです? 先日の戦いでは決着がつきませんでしたわ。もう一度手合わせをして、もし私に勝てたなら、その時はおとなしく従いましょう」
使いの兵卒がこれを伝えると、馬坤は苦笑いして頭をかきました。
「あの娘は幼い頃からの男勝りが直らんでな。賛将軍と手合わせしたいと言うのだ、まあ宴の余興と思えば悪くあるまい」
馬忠はすぐに賛へ合図し、手合わせに応じるよう命じました。賛は頷いて鎧を身につけ、馬に跨って広場へと躍り出ます。金頭娘もまた、凛々しい武装姿で現れました。
二人は教練場で再び対峙しました。馬忠、劉氏、馬坤らは砦の楼閣からその様子を見守ります。
互いに武器を構え、馬を走らせて激突すること二十数合。火花散る攻防が続きますが、実力伯仲して勝負はつきません。金頭娘は心の中で舌を巻きました。
(賛の槍捌きは実に熟達している。ならば、次は弓の腕を試してやろう)
彼女は鮮やかに手綱を返すと、将台の方へと一目散に逃げ出しました。
賛はそれを見て察しました。
(ははん、背走して俺を射るつもりだな。望むところだ、その手並みを見てやろう)
賛もまた馬に鞭を入れ、猛然と追いすがります。
金頭娘は敵が間合いに入ったのを見計らい、強弓を引き絞ると、流れるような動作で立て続けに三本の矢を放ちました。ヒュッ、ヒュッ、ヒュッと鋭い風切り音。しかし賛は、鞍上で身を翻して全てかわしてしまいました。
「俺が矢を使えぬとでも思ったか!」
叫ぶや否や、今度は賛が馬首を返して逃げ、金頭娘を誘い込みました。彼女が追走してくるや、賛は瞬時に弓を取り、矢をつがえて放ちました。
カィーン!
甲高い金属音と共に、矢は見事に金頭娘の兜に命中しました。観衆からは割れんばかりの喝采が上がります。
見ていた馬忠が慌てて駆け寄りました。
「勝負あり! これ以上、家族同士で傷つけ合うでない!」
二人は馬を降り、砦の広場へと戻りました。馬坤は笑って娘に聞きました。
「どうだ、賛将軍の武芸は本物であろう?」
戦場では鬼神のごとき金頭娘も、今は顔を真っ赤にしてうつむき、一言も返せません。馬坤はそのあどけない様子に心を決め、すぐに香を焚いて天に誓いを立て、娘を呼延賛に嫁がせる婚儀を執り行いました。賛は両親に拝礼し、馬坤に深く感謝を述べました。こうしてこの一日は、喜びに満ちあふれて幕を閉じたのです。
翌日、賛は義父となった馬坤に言いました。
「私は一度山砦へ戻り、李建忠らに会って、捕らえている若君(馬華)をお返しせねばなりません」
馬坤は大いに喜び、快く送り出しました。
自分の砦に戻った賛は、李建忠と柳雄玉に会い、両親との奇跡的な再会や、馬坤との縁談について詳しく語りました。
建忠は膝を打って喜びました。
「それは単なる偶然ではない、天の配剤というものだ」
「そこで、先日捕らえた馬華殿をお返ししたいのですが」
「もはや一つの家族となったのだ、害を加える理由などない」
建忠はすぐに砦の奥から馬華を連れて来させました。馬華は殺されるのではないかと疑い、ガタガタと震え、防寒着が冷や汗でびっしょりになっていました。
建忠は努めて優しく声をかけました。
「良い知らせがあるのだ、驚くことはない」
そして、両家の和解と婚儀の慶事を順を追って説明しました。馬華はようやく死の恐怖から解放され、安堵の笑みを浮かべました。
「そうであれば、皆様を是非とも父の砦へお招きしたい」
「将軍が先に行かれよ。我々も手勢をまとめてすぐに参ろう」
馬華は建忠らに深く一礼して立ち去りました。
この時、柳雄玉は相手の罠を警戒して行くのを渋りましたが、建忠は諭しました。
「我々が行かねば、彼らは逆に疑心を抱くだろう。ここは顔を合わせ、旧怨を水に流すべきだ」
その日のうちに、呼延賛ら一行は太行山の馬坤の砦に到着しました。馬坤が出迎え、一同を天幕に招き入れます。
建忠は誠意を込めて言いました。
「今や我らは義兄弟も同然。患難の時は互いに救い合い、二度と争って和を損なうことのないようにしましょう」
馬坤は大いに頷き、改めて馬忠と劉氏を彼らに引き合わせました。
馬忠が言いました。
「愚息が賢兄に救われたご恩は、決して忘れません」
「いやいや、賛将軍ほどの御仁は、いつまでもこのような山野に埋もれている器ではありません。いつか必ずや大貴人となられるでしょう」
馬坤は再び盛大な宴席を設け、豪傑たちは席次順に座り、胸襟を開いて痛飲しました。
酒宴も半ばを過ぎた頃、突如として早馬の報告が入りました。
「注進! 山下に五千ほどの軍勢が到着しました! 何者かは不明です!」
賛は眉を吊り上げました。
「やっと静かになったと思えば、また騒動か」
すぐさま迎撃に出ようと腰を浮かせましたが、馬坤が手を挙げて制しました。
「待て、わしが見てこよう」
馬坤は二百の手勢を率いて山を下りました。見ればそれは、北方の遼国、耶律皇帝の殿前に仕える名将・韓延寿でした。
馬坤が尋ねました。
「将軍、わざわざここへは何の用事で?」
延寿は馬上で答えました。
「耶律皇帝が崩御され、蕭太后が即位された。私は太后の命を受け、将軍を国へ連れ戻し、共に新君主を補佐するために参ったのだ」
「……勅命とあらば、帰国せぬわけにはまいりません。まずは山砦に入り、兄弟たちと会ってから相談いたしましょう」
延寿は承諾し、軍勢を山麓に駐屯させると、馬坤と共に砦へ入りました。
馬坤は兄弟たちに延寿を引き合わせ、再び宴を開いて彼をもてなしました。席上、馬坤は呼延賛らに真剣な眼差しで語りました。
「わしは耶律皇帝の無道に愛想を尽かし、この太行山に隠れ住んで十五年になる。しかし今、国では蕭太后が立ち、呼び戻しの勅命が下った。この砦には七千の兵がいるが、そのうち二千をお前に預けよう。わしの娘・金頭娘と共にここを守ってくれ。わしは残りの五千を率い、息子たちを連れて帰国する。もし後日、わしから手紙が届けば、その時は呼応してくれ」
賛たちは、この義父の言葉を重く受け止め承諾しました。翌日、馬坤は一同に別れを告げ、韓延寿と共に太行山を後にしました。馬忠らは五里先まで見送り、涙ながらに別れを惜しみました。馬坤親子は軍勢を率いて、北の幽州の彼方へと消えていったのです。
さて、呼延賛は皆と共に砦に戻ると、兵を募り馬を買い集め、爪を研ぎながら朝廷(宋)からの招安(帰順の誘い)を待ちわびる日々を送りました。
時は流れ、開宝九年三月のこと。宋の太祖・趙匡胤は、北漢の主・劉鈞が国境警備を厳重にし、日夜軍事演習を行っているとの報を聞き、趙普ら側近と討伐の計を練っていました。
趙普は慎重に奏上しました。
「今はまだ攻め込む好機ではありません。陛下、もうしばらく議論を尽くし、時機を見るべきです」
太祖が決断できずにいると、帰徳軍節度使の高懐徳が入朝し、辺境の情勢を熱く奏上しました。
「河東(北漢)では文官と武官が対立しております。陛下、彼らの内乱に乗じて図るべきでございます。今を逃す手はありません」
枢密使の潘仁美もまた、親征を強く勧めました。
ついに太祖は決意を固め、詔を下しました。潘仁美を監軍(軍目付)に、猛将・高懐徳を先鋒とし、精兵十万を率いて日を定めて都を出発、一路潞州を目指して進軍を開始したのです。
この急報は瞬く間に北漢の都・晋陽に伝わり、主の劉鈞は顔面蒼白となって仰天しました。急ぎ文武百官を招集して協議させると、趙遂が進み出て力強く言いました。
「主公、憂えることはございません。宋軍は連年の戦で兵士たちは疲弊し、不満を抱いております。私が一軍を率い、潞州を出て迎え撃ってみせましょう」
劉鈞はこれを許可し、趙遂を行軍都部署に、劉雄・黄俊を正副の先鋒に任じ、兵五万を与えて防戦を命じました。趙遂は命令を受けると即日出陣し、潞州の境界に陣を敷いて宋軍の動静を探らせました。
斥候の緊迫した報告が入ります。
「宋軍は潞州から二十里の地点に駐屯しております。旗指物は雲の如く続き、太鼓の音は地を揺るがし、その勢いは天を突く凄まじさです」
趙遂は不敵に笑い、翌日、劉雄・黄俊と共に軍を率いて潞州へと殺到しました。
宋の先鋒・高懐徳はすでに陣形を整えて待ち構えていました。両軍の威圧感がぶつかり合います。
高懐徳が陣頭で槍を横たえ馬を止めていると、北漢の陣から趙遂が馬を躍らせて飛び出し、銅の大刀を風車のように振り回しながら罵声を浴びせました。
「宋の将軍よ、時勢もわきまえぬ愚か者め! よくも我が国境を侵したな!」
懐徳は激怒し、一言も返さず槍を突き出して襲いかかりました。趙遂も大刀を振るって迎え撃ちます。両馬が交錯し、火花散る白兵戦が十数合続きましたが、互いに譲らず勝負はつきません。
漢の先鋒・劉雄は、趙遂が宋将を攻めあぐねているのを見て焦り、方天戟を掲げて助太刀に飛び出しました。
すると宋陣からは、高懐亮がカッと目を見開き、竹の節のような形をした鉄鞭を唸らせて躍り出ました。劉雄と打ち合うことわずか数合、懐亮の渾身の一撃が炸裂します。鉄鞭は見事に劉雄の脳天を直撃し、脳髄を砕かれた彼は声もなく絶命しました。
これを見た趙遂は戦意を喪失し、馬首を返して敗走しました。高懐徳は好機と見て追撃し、潘仁美も後軍を指揮して怒涛のようになだれ込みました。北漢軍は大敗を喫し、野は死屍累々。高懐徳と高懐亮は二十里あまりも深追いし、悠々と凱歌を上げて軍を返しました。
趙遂は命からがら澤州に逃げ込み、黄俊らと震えながら協議しました。
「宋兵の勢いは猛烈だ。晋陽へ早馬を出し、本国に援軍を求めねば、この城も保てまい」
黄俊も青ざめた顔で同意します。
「事は急を要します。宋軍に包囲されてからでは、蟻の這い出る隙間もなくなりますぞ」
趙遂はすぐに使者を出し、夜を日に継いで河東へ走らせ、劉鈞に急を告げました。
凶報を受けた劉鈞は嘆きました。
「頼みの趙遂は初戦で敗れたか……。これに対抗できる将は誰かおらぬか?」
沈痛な空気の中、臣下の丁貴が進言しました。
「この戦、生半可な将では宋軍の敵ではありません。主公、再び山後におられる楊令公――楊業殿を召し出し、救いを求めるべきです。無敵の彼ならば、必ずや宋軍を退けられましょう」
劉鈞は藁にもすがる思いで従い、鄭添寿を使者とし、金銀財宝を持たせて山後へ直行させ、楊業に拝謁させました。
鄭添寿は楊業の前に進み出て、恭しく詔書を差し出しました。書には切実な言葉が記されていました。
『北漢主・劉鈞、詔して示す。
近頃、宋軍が不当にも国境を侵し、趙遂に命じて防がせたが、潞州の戦いにて敗れ澤州へ走ったとの急報が入った。事態はまさに、燃えさかる火が眉を焦がすがごとき急務である。
令公は山後にて精強な重兵を擁し、その志は忠義にあると聞く。
今こそ国難に赴き、その忠勇を示すべき時である。
詔書到着の日、直ちに兵を発して救援されたし。孤の切なる望みに背くことなかれ』
楊業は書を読み終え、居並ぶ息子たちや諸将を見渡して言いました。
「往年、周の世宗が河東へ攻め入った際、我ら父子はあの大軍を相手に大勝し、天下に威信を示した。今また宋軍が攻め寄せ、主君から再び詔が下ったのだ。この窮地、救わぬわけにはいくまい」
彼がそう言い終わらぬうちに、七男の七郎・延嗣が口を挟みました。
「父上、お待ちください。中原の軍勢は強大です。ここはあえて兵を出さず、宋軍が河東を攻めあぐねて疲弊するのを待ちましょう。それから救っても決して遅くはありません」
しかし、部将の王貴が激して反論しました。
「若君のお言葉ですが、それは違います! 古人も『君命召せば、馬に車をつなぐ暇も惜しんで駆けつける』と申します。また『兵を救うは火を救うが如し』とも。宋軍が城を取り囲むのを待っていては、敵の勢いは川のせせらぎどころか大河となり、せっかくの救助も徒労に終わるでしょう。一刻も早く出兵して救援し、忠国の志を示すべきです」
楊業は王貴の熱弁に深く頷きました。
「もっともだ。王貴の申す通りである」
楊業は迷わず、長男の淵平に応州の留守を任せ、自らと王貴で軍を率い、その日のうちに晋陽へと急行しました。
晋陽へ到着し劉鈞に拝謁して万歳を唱えると、劉鈞は賓客に対する最上の礼をもって彼を厚遇し、多くの褒美を与えました。楊業は謹んで拝謝し、退出しました。
翌日、劉鈞は宮中の大殿で宴を催し、楊業をもてなしました。しかし楊業は、主君の杯を前にしても口をつけようとしません。
「陛下は臣を、酒宴のためではなく、敵の撃退のために召されました。いまだ主君の憂いを取り除いていないのに、どうしてのんびりと宴になど列せましょうか」
劉鈞は微笑んで言いました。
「卿の威光があれば、馬が戦場に到着すると同時に勝利するようなもの。敵が滅びぬ心配など無用であろう。さあ、数杯だけでも飲みなさい。出兵は明日でも遅くはあるまい」
そこまで言われては拒めません。楊業は拝命して杯を干しました。この日、劉鈞は自ら愛用していた黄金の盃を楊業に賜り、君臣ともに信頼を深め、喜びを尽くして散会しました。
翌日、楊業は早朝に参内して昨夜の礼を述べ、改めて出兵の許しを請いました。
劉鈞は威儀を正して言いました。
「今日、卿は軍を率いて直ちに進発せよ。もし宋軍を退けることができたなら、朕は必ずや重い爵位をもって卿に報いよう」
楊業はその日のうちに朝廷を辞し、選りすぐりの精鋭部隊を率いて澤州へと向かい、陣を張ったのでした。その背中には、国の存亡と楊家の誇りが重くのしかかっていたのです。
【太行山のアットホームな大喧嘩と、楊業の決断】
感動の再会(物理): 逃げてきた馬忠夫婦を襲った若武者は、なんと生き別れた息子・呼延賛でした。母親の怒号で気付き、土下座で謝罪。敵対していた砦の主とも「親父の友達だった」と分かり、昨日の敵は今日の家族に。
武芸による婚活: 砦の主の娘、金頭娘が登場。「私より強かったら嫁ぐ」という条件で、呼延賛と再戦。最後は、彼が彼女の兜に矢を当てる神業を見せ、ハートを射止めます(物理的にも心理的にも)。
国際政治の波紋: ハッピーエンドかと思いきや、砦の主(義父)に北方の強国「遼」から召集命令が。彼はあっさり呼延賛たちを残して遼へ帰国。この時代の「国境」の曖昧さと、傭兵的な豪傑たちの流動性が描かれます。
宋の進撃: ついに宋王朝(趙匡胤)が動き出します。最強国が攻めてきて、弱小国の「北漢」は大パニック。
レジェンド・楊業の登場: 北漢の皇帝は、切り札である猛将・楊業(楊令公)に泣きつきます。「勝ち目はない」と止める息子たちを押し切り、楊業は「主君に呼ばれたら行くのが武人の道」と出撃を決意。物語はいよいよ「楊家軍」の伝説へと動き出します。
この回では、単なる活劇の中に「2つの異なる世界」と「忠義の質」の違いを巧みに描いています。
「庙堂(朝廷)」と「江湖(世間・無法地帯)」の対比
朝廷の世界(宋・北漢): 政治的な打算、派閥争い、形式張った儀礼の世界です。北漢の文武官の対立や、宋の緻密な進軍計画がこれに当たります。ここでは「秩序」が重視されます。
江湖の世界(太行山): 呼延賛たちがいる世界です。ここでは、昨日の敵も酒を飲めば兄弟。「親の友人は自分の親」という「義」だけで人間関係が成立しています。作者は、庶民や読者が憧れる「しがらみのない、実力主義のユートピア」を山砦に仮託しています。
「国家への忠」か「個人の義」か
最も重要なテーマは、ラストの楊業の決断です。歴史的に見れば「北漢」は滅びゆく弱小政権であり、「宋」が正統な統一王朝になります。
しかし、楊業は「滅びゆく主君」あえて味方します。ここに儒教的な「忠」の極致があります。「勝ち馬に乗る」のではなく「恩義に報いる」姿を描くことで、作者は読者に対し、「楊業こそが真の英雄である(だからこそ、後に悲劇的になる)」という伏線を強烈に植え付けています。
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宗教的・運命論的視点(天命)
馬忠夫婦が偶然息子に会ったこと、馬坤が実は父の友人だったこと。これらは作中で「天の配剤(運命)」と語られます。
中国の民衆宗教観における「縁」の重要性が説かれています。「豪傑たちが集まるのは天の意志であり、彼らは何かの役割を持ってこの世に配置されている」という水滸伝的な運命論が底流に流れています。
武器「鉄鞭」に見る重装騎兵時代
この回で宋の将軍・高懐亮が、敵の頭蓋骨を一撃で粉砕した武器「竹の節のような鉄鞭(節のある鉄の棒)」。
これは単なる棒ではなく、当時の軍事トレンドを反映しています。
この時代(五代十国~宋初期)は、重装備の騎兵が主力でした。剣や槍では分厚い兜や鎧を貫通できません。
そこで流行したのが、打撃で鎧ごと骨を砕くメイス(鉄鞭・鉄鐧)です。
一撃必殺の描写はフィクションの大げさな表現ではなく、「鎧を着た相手には叩き潰すのが正解」という極めてリアルな戦場の作法を描いています。
戦うヒロイン「金頭娘」と遊牧文化の影響
金頭娘のような「じゃじゃ馬娘が、自分より強い男を夫に選ぶ」という展開は、儒教社会(女性は淑やかに家にいるべき)に対するアンチテーゼですが、同時に北方の遊牧文化の影響も感じさせます。
舞台となる「太行山」や「北漢」は、北方の遊牧民族王朝(遼)と地理的・文化的に接しています。
「パルティアン・ショット(背走しながら弓を射る)」は、まさに遊牧騎馬民族の得意技。彼女は中華文明の枠に収まらない、野性的で自立した女性像(当時としては異端かつ魅力的)として描かれています。
楊業の「初期装備」としての北漢
歴史マニアにとって一番おいしいのは、「あの『楊家将』が、最初は敵側(北漢)のカードとして切られている」という絶望的状況です。
読者は、楊業がいずれ宋(主人公側)の将軍になることを知っています。しかし、その加入イベントは「宋軍をボコボコにして、実力を見せつけてから」でなければなりません。
この回は、楊業のスペック紹介パート。「負け戦確定の北漢軍において、彼一人だけがバグった強さを見せる」ための舞台装置が整った瞬間と言えます。
ホームドラマのような親子の再会から始まり、最終的に国家存亡をかけた戦いへズームアウトしていく、非常に構成の巧みな回であると言えるでしょう。




