05.問いかけられたのは、可愛らしくて無垢な疑問。
わいのわいのと騒ぎ立てながらも楽しんだ時間は、あっという間に過ぎ去った。
結局、全員揃って夕飯を完食し、三人で後片付けをする。一人が食器を洗い、一人がそれを布巾で拭いて、一人が食器棚に収めていく。
あとは順番に風呂に入り、一日の疲れをしっかり落として、それぞれ明日に向けて眠る準備に入るだけ。因みに、隆哉がこうやって、その日の思いつきで泊まりに来るたびに姉の部屋を借りている。
年の離れた姉は、小さな頃から自分達の面倒をよく見てくれた。その延長だ。部屋の本来の持ち主も、それを快く了承している。
……勿論、その前後で他愛もない話をしたり、夕食とは別の、ささやかな夜食をつまみながらよく見るバラエティを見て皆で笑ったりする。いつもは二人で過ごす時間が、そこにもう一人増えるだけで、空気ががらりと変わる。
小さな頃から一緒に過ごしてきて、何度も感じてきた変化だが、〝昔と同じように〟自分達は変わっていないのだとも思える。だから、なつめは、幾度となく繰り返したこの些細な変化と、少しだけ変わる空気が好きだ。
二人もきっと、そうだと、思う。
──すっかり夜も更けて、あと一時間もしないうちに日付が変わるという頃。
なつめは一人、すっかり静かになったキッチンで、明日の朝食用の食材を確かめている。
(卵とベーコンはある。あとリンゴもあるし、朝飯としては上等かな。食パン、は……精々二人分。パンは二人に回して、俺はご飯にしておきますか)
よし、と考えをまとめて、炊飯器のタイマーをセットした時。
「……なつめ。ちょっといい?」
キッチンの入口から、声がかかる。
振り向くと、お風呂上がりらしい実佳が、遠慮がちに顔を覗かせていた。パジャマ代わりになっているのは、なつめが昔着ていたシャツ。
新品を買うと言ったのに、実佳が「これがいい」の一点張りだったので、なつめの着古したシャツは、今、実佳のパジャマになっている。あと何枚か、同じ道を辿ったシャツがあるのは余談だ。
「どうした?」
「あのね……」
両手を合わせて、口の前に当てている。ちょっとだけ困ったように、照れているように、目をほんの微かに揺らしていた。
「その、わがままというか、お願いがあるんだ」
「お願い?」
「……えっと。歌のきっかけ……小さい頃のこと、思い出したら、なんだか、懐かしくなって。だから……今夜は。なつめの部屋で、一緒に寝てもいい、かな」
「!」
数度、目を瞬かせた。
遠慮がちに告げられた〝わがまま〟は、どこか懐かしさを覚えるもので。
実佳がうちに来てすぐの頃、部屋が同じだった時は、毎日のようにそうしていた。成長して自然と部屋が分かれても、時折、実佳がこっそりとこうしてお願いをしてきた事を思い出す。
ああ、そういえば実佳が高等部に上がってから、このわがままははじめてか。
そんな事をぼんやり思いつつ、じっと返事を待っている実佳の髪を、くしゃりと撫でる。
「久しぶりだな。それ」
安心させるように笑いかけると、実佳の肩から、ほっと力が抜けるのが分かる。
「……いい?」
「ああ。……ただし、隆哉にはばれないようにな。あいつに知れたら、また何言われるか」
……別に、隆哉からあれこれ言われるのは嫌いではない。ないのだが、ここぞとばかりにからかわれるのをあしらうのも、それはそれで体力と気力を使う。
明日は折角の休みだ。朝一番に、そんなもので諸々を消費したくはない。
「うん……! 準備出来たら、部屋に行くね」
「待ってる。枕だけは持って来いよ?」
「分かってる」
うん、と嬉しそうに頷いて、軽い足取りで踵を返す実佳。その様子が可愛らしくて、なつめは、誰にも見られていないのをいいことに、一人、小さく声を零して笑った。
愛用の、淡い水色の枕と共に実佳がなつめの部屋にやって来たのは、実佳がわがままを口にしてから、一時間ほど経った頃。
髪を乾かしてすぐ、丁寧にトリートメントしたのだろう。髪はいつにも増して艶やかで、微かに薔薇のような香りがする。
なつめの部屋に入ってすぐ、実佳はぽん、と自分の枕となつめの枕の隣に並べて、ころんとベッドの上に転がった。長く伸ばした髪がふわりとブランケットの上に綺麗に広がる。
「なつめ。ベッド、変えてないよね?」
ふかふかのブランケットの上、自分の枕に顔を埋めて、いたずらっ子のようなきらきらした眼差しで実佳が言う。
「勿論。最後に変えたのは、お前も知っての通り小学校卒業の時だよ」
「うん。でも、不思議。なんだかベッドが小さく感じる」
「実佳が大きくなった証拠だろ。ほら、もう少しはじっこに寄ってくれ。俺が入れない」
「ん」
再び、ころりと実佳は転がる。
出来たスペースは精々半分。それでも、これだけあれば充分だ。
部屋の電気を落として、ベッドサイドに置いているサイドランプの明かりだけ、最低限に灯しておく。そうして、いつもより狭いベッドへ入って横になれば、小さくて暖かいぬくもりが、胸の中に入ってきた。
薄暗い部屋の中でも、これだけ近くにいれば分かる。実佳は、なつめに寄り添いながら嬉しそうに微笑んでいた。
「なつめの匂いだ」
きゅっと、なつめが着ているシャツを握る手は、いつの間にか大きくなったようにも感じるし、昔から変わらず、自分よりもずっと小さくて柔らかそうな手にも見える。
実佳が、とん、とこちらの胸に額をくっつけた。己の身丈より一回り小さい少女の肩を、軽く抱き締めてやる。
「部屋は別々になったけど、やっぱり、なつめと一緒に眠るのが一番落ち着くなぁ」
「そりゃ何より。……小さい頃からの習慣だったからな。俺もお前も、身体が慣れてるのかも」
「……なつめも?」
「ああ。お前が傍にいてくれると……実佳の温度に触れてると、安心する」
それは、はじめて出会った時、あのひどく冷たかった手をはっきりと覚えているせいでもある。
幼かった頃の己が抱いた願い。この冷たい手が暖かくあれば良いと、叶うならばこの手で暖めようと、そう思った。
今もそれは変わらず、この胸に宿っている。だからこそ、実佳に触れている時は、その願いが満たされているようで、心地良い。
「へへ……良かった。おんなじだ」
実佳は嬉しそうにはにかむ。すると、
「あ……そうだ、そういえば」
ふと、何かを思い出したのか。実佳の目線だけが、なつめの方に向けられた。
「こないだね。たまたま、クラスの子と話してたんだけど」
「うん」
「みんな、不思議な事言うんだ。普段は一人で眠るけど、えと、彼氏……とか。恋人とか、そういう人が出来たなら、こんな風に、その人と眠ったりするかも、って」
「……それは、特に不思議でも何でもないんじゃないか?」
取り分け、珍しくも何もないよくある色恋の話のように聞こえる。
しかし実佳は心から不思議そうに続けた。
「そうかなぁ……。なんだか、変じゃない? 恋人って、好きな人同士……きっと、お互いが大切だって、そう思える人達同士がなるものなんだと思う」
「そうだな」
頷きながら、相づちを打つと。
「でもね。なんでみんな、そうやって必ず、大事な人に〝彼氏〟や〝恋人〟みたいな名前を付けて、当てはめてるの? そんなのなくても、自分の気持ちが確かなら、それだけで充分だと思うんだ」
真っ直ぐな眼差しが、なつめの瞳を見つめる。躊躇いなく。受け止めてくれる事を信じ切って。
「……で、そう言ったら、笑われた。あと、何だったかな。『実佳はそれを本気で言ってるから凄い』とか、『これがモテる秘訣か』とか。これ……褒められてた、のかな? 不思議なことばっかりで、よく分かんないや」
「んー……。少なくとも、お前のクラスメイトは、褒め言葉のつもりだったと思うけどね」
時折こうして実佳の口から聞かせて貰える、クラスメイトの雰囲気やクラスの風景を考えれば、本当に心から実佳の心根の純粋さを褒めたのだろう。同事に、笑いたくなる気持ちも分からないでもない。
実佳は本当に、恋というものがどういうものか……誰かを大切に思うことと、一人の異性を異性として愛する事の何が違うのか、分かっていないところがあるから。
実佳のクラスメイト達は、そういうところをよく理解してくれているんだろう。良い友達に恵まれているようで、こういう時にほっとする。
「実佳にとって分からない事でも、これからじっくり考えていく事は出来る。クラスの友達も、別に『これが正解だ』とか、『その考えは間違ってる』とか、そういう風には言わなかっただろ?」
「……あ。そういえば、そうだ」
「お前みたいな考えもあれば、そうじゃないものもあるって事、友達も分かってくれてるんだよ、多分。だから、分からなくて納得出来ない事があるなら、今言ったみたいに考え続けるのも良し。自分はこうだと思って変える必要がないと思うなら、無理に変える必要もない」
「そっか……じゃあ、なつめの事、無理に恋人だとか、そんな風に思う必要もないって事か」
その言葉に、つい笑みがこぼれた。
大切に思ってくれている事を実感出来る。彼女にとって、自分はかけがえのない存在になれているのだという嬉しさが、心に光を灯す。
それでいいのだと、思う。名前がある関係にならずとも。
確かな繋がりがあるのなら、充分だ。
「そういう事。お前が俺の事、大事に思ってくれてるのは知ってるし、俺もきっと同じぐらいに、実佳のこと大切だけど。それを今すぐ無理に、何かの型に当てはめなきゃいけないわけじゃない。今のままがいいなら、そのままで。いつか変えたいと思う時が来たら、その時、改めて向き合えばいいんじゃないかな。……と、俺は思うけど。実佳はどう?」
「ん……。そうする。そうしたい、って、確かに思える」
「それなら、きっとその感情が、今の実佳にとっての正解だよ」
「ありがと。なつめ」
「どういたしまして」
実佳の言葉にしっかりと応えて、笑いかけてやる。
すると実佳も、安堵した微笑みを浮かべた。
そしてぎゅっと強く抱き付いて、なつめの胸に自分の額を押しつける。ぽん、ぽん、と実佳の背中を、あやすように叩いてやった。
……本当を、言えば。
実佳にはあえて、言わないように、気付かせないようにしている事がある。
なつめは、自分自身が実佳に抱いて、躊躇無く注いでいるこの感情に、名前を付けていない。大切なただ一人だという実感だけを胸に刻んで、それ以上は、意図して考えないようにしている。隆哉から投げられる台詞を、分かっていないふりをしてかわしているのも、それが理由。
実佳が抱いている感情は、例えるなら無色透明だ。
それを無碍にしたくなかった。無遠慮に、勝手な色で塗り潰したくなかった。彼女の隣に立つ自分は、実佳にとって少なからず影響がある事をなつめは自覚出来ているからこそ。
〝なつめと自分は、同じ感情を持っている〟のだと、今の実佳は思っている。そこに、なつめが勝手に名前を付けてしまったら、この素直な少女は、それに習ってしまう。
それは、彼女の意志を無視する行ないのように思えて、そんな事をしてしまう自分をどうしても許容出来ず、許せなかった。
なつめ自身にも言えることだが、自分達はまだ、二十年も生きていない。きっとこの先、沢山の出会いと、様々な感情に巻き込まれていくはずだ。良い出会いもあればそうでない出会いもあるだろうし、胸に生じる感情だって、喜びばかりではないだろう。
そうやって、笑って、怒って、落ち込んで、立ち直って……歩いて、生き続けていけば、いつか。
実佳が自分で自分の気持ちに名前を付けるかもしれない。
もしその時がきたなら、それを肯定したかった。
その感情の先にいるのが自分でなく、別の誰かが立つことになったとしても、実佳が全力で悩んで、考えて、そうして選んだ事だ。きっと、実佳の選択を受け入れる事を選ぶだろう。
それとは別に、実佳の兄として、妹に相応しい人間かどうかは、じっくりと確かめさせて貰うつもりだけど、これぐらいは兄の役割として勘弁して欲しい。今噂になっている、阿修羅のような鬼兄になるつもりはないのだから。
……でも、そんな考えだって、いつ訪れるかも分からない不確定な未来予想図、その断片を拾ってるだけ。
人生なんて何が起きるか分からない、なんて誰でも知っている。
だから今は、すぐ傍にあるこのぬくもりを、大事にしよう。両手でしっかりと抱き留めていよう。
そう思ったなつめは、いつの間にか穏やかに寝息を立てている実佳の身体を、そっと抱き締め返した。
目を閉じる。思いの外疲れが溜まっていたのか、意識はあっさりと闇に沈んだ。
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