01.忘れ得ぬ出会いの日。
野球ボールが空を舞う。
遠くへ、出来るだけ遠くへ行くようにと投げられたそれを、真っ直ぐに見た。ほんの少し、視界に真っ黒な自分の髪がかかる。髪に邪魔されないように、うんと集中して、目でボールを追いかけた。
手に嵌めたグローブを、もう片方の手でそっと撫でる。先月の誕生日にプレゼントして貰ったそれに、自分の名前を書いた日から今日まで、出掛ける時の相棒にしている。一日だって、一人きりで遊びに出たことはない。
数歩後ろに下がった後、ここだ、と思ったところでグローブをめいっぱい上げる。すると思った通りに、グローブの中へとボールが入った。
ナイスキャッチ。思わず笑い、心の中で自分を褒めてみる。
早速、受け止めたボールを利き手で握り締めて、
「いっくぞー!」
と、少し先にいる、友達へと叫ぶ。
「おー! どんとこーい!」
返事はすぐに返ってきた。赤地に黒のラインが入ったキャップを被り直しながら、向こうは両手をぶんぶん振って応えてくれる。その手には、グローブの代わりに、透明な緑のブレスレットが光っていた。
それを見て、遠慮はいらないと思った。さっき投げられたボールよりも遠く、もっともっと遠くへと、握り締めたボールを力いっぱい投げた。
もう一度、白いボールが青い空を突っ切っていく。受け止める側に立った方は、落ちてくる場所に合わせるように、後ろに下がりつつ、左右にうろうろ。そして、ブレスレットが光る方の手をボールの方へ真っ直ぐに伸ばした。
手に触れそうになるその瞬間、ボールはぴたりと動きを止め、一瞬だけ宙に浮いた後、あっさり受け止められていた。
あのブレスレットは、学校で配られた〝そうしんぐ〟だ。本当は授業以外じゃ使っちゃいけないのだけど、クラスの中にはこっそり持ち帰って、あんな具合に遊んでいる事が多い。
キャップの下に隠れがちな友達の目が、ぎらりと光る。あれは、何か企んでいる時の目。
「次は、もーっと遠くまで投げてやるからな! 取れるもんなら取ってみろよっ!」
「言ったなー! 全部取ってやるから、みてろ!」
グローブの中に拳をぶつけ、身構えた。どんなに遠くでも、速くても、絶対に受け止めてやろうと決意を固める。それとほぼ同時に、向こう側で、大きく振りかぶられた身体が一つ。
「せえ、のっ──!」
これ以上ない気合いを入れた、全力を出す為の声が聞こえてくる……が。
「なーつーくん」
今まで誰もいないと思っていた方向から、自分達のどちらとも違う声が聞こえた。もっと言うと、名前を呼ばれた。今まさに、向こう側から投げられるところだったボールは、勢いを無くしてしまったのか、「うわっ!?」という慌てたような声と一緒に、地面にぽてりと落ちて、転がっていく。
そのままうっかり転んで怪我をしたわけでもなさそうなので、とりあえず一度、名を呼んできた方を見る。
「祐姉?」
耳に馴染んだ声でもあったので、予想は出来ていたけど、ああ、やっぱり。何の事はない、声の主は姉だ。高校から帰ってきたばかりなのか、ブレザーの学生服姿。
珍しい。いつもなら、帰ってきたらすぐに着替えて、制服を綺麗にクローゼットに片付けているのに、着たまま外に出ているなんて。
「なに? どうしたの?」
「遊んでるところにごめんね。すぐに帰ってきなさい、って父さんと母さんが呼んでるよ」
「えー? なんで? 門限までまだあるよ。もっと遊ぶ!」
「だーめ。父さんも母さんも、それと、今うちにいる伯母さんも呼んでるの。このまま遊んでたら、怒られちゃう」
「うー……」
突然の帰宅命令がすごく不満で、姉の目に分かるように膨れてみせる。勿論、姉があっさり『仕方ないなぁ、じゃあ帰らずに遊んでていいよ』なんて言うわけない事は分かってはいた。だけど素直に従いたくはない。
姉を睨んでいるその間に、ボールを拾った友達がこっちに駆けて来る。
「なになに。祐姉ちゃん。なんかあったの?」
「ごめんね、隆くん。用事が出来たから、私もなつくんも、帰らないと」
姉は、どこか困ったような笑顔を浮かべて、キャップ越しに友達の頭を撫でていた。ふくれ面をしているこっちの事には気付いているはずなのに、気付いていないふりをしている。
「……ゆーうーねーえー」
「帰るよ。なつくん」
しょげている心を伝える為に名前を呼んでも、効果なし。
きっと、これからもっと楽しくなったのに。そう思うと凄く悲しくて、悔しくなって、泣きそうになる。ぎゅっとグローブを握り締めながら俯くと、髪をくしゃくしゃに撫でられた。くすぐったい。どうやら、今度は自分が、姉に頭を撫でられたらしい。
「明日、今日の分まで一緒に遊んであげるから。ね?」
「! ほんとっ!」
顔を上げて、姉を見る。にっこりとした満面の笑顔がそこにあった。
「うん」
それを見て、零れそうになった涙が、すぐに引っ込んだ。
姉は、約束を破ったことは一度もない。明日遊んでくれると、ここで約束してくれたのなら、今日遊べた分まで、明日、沢山遊べるという事になる!
「分かった! それじゃあ、帰る!」
「あ! なつめだけずるい! おれも、おれも! 姉ちゃん、いいよな!」
「勿論。だから、今日はここまでね。なつくん。隆くん」
「うん! じゃあ、続きはまた明日!」
「ん! また明日、学校終ったらここでな! 忘れるなよ!」
「とーぜん!」
友達と明日への約束を交わした後、姉と一緒に、全速力で家に帰った。その途中、どっちが先に家に着くか競争したのが、ちょっとだけ楽しかったのは内緒だ。
遊ぶのは、明日。楽しいのは、全部明日。そういう約束!
家に帰ってきて、まずは母か父……もしくは、来ているらしい伯母に会う事になるのかと思ったら、姉に連れられたのは自分の部屋。
「……う? ここ、おれの部屋だよね? なんで? お父さん達は?」
「父さん達は今、大人にしか出来ないお話し合い中。私達みたいな子どもは参加出来ません」
「じゃあ、おれ、帰ってくることなかったじゃん!」
「話は最後まで聞こうね? なつくんが帰ってくる理由はちゃんとあるの。……まずは、中に入ろうか」
入ろうか、と言われてもここは自分の部屋。
不可思議半分、納得出来ないことが半分のまま扉を開ける。どうせ、遊びに出る前と変わらない部屋があるはずなのに──。
「……え」
そんな事を考えていた予想は、あっさりと裏切られた。確かに、部屋そのものは変わっていない。自分の机。ベッド。本棚に、タンス。ゲームや漫画だって、全部変わりなくそこにある。
大きく違う点はたった一つ。部屋の中に、知らない〝誰か〟がいた事だ。
さらさらの、不思議とどこか青くも見える長い髪を垂らして俯きながら、ベッドの端に腰掛けているその誰かは、こっちが部屋に入ってきても、ぴくりとも動こうとしない。もしもドレスか何か着ていたら、人形と間違えたかもしれない。
歩み寄って、膝を折る。改めてその顔をまじまじと見てみる。多分、自分より年下だと思う。今まで見たこともない、眩しいぐらいに真っ白な肌がすぐそこにあって、ますます人形なんじゃないかと思ってしまった。目線を合わせたかったのだけど、肝心の向こうが、どこを見ているか分からない。
「君……だれ? 名前は?」
問うても、答えは返ってこない。代わりに答えてくれたのは姉だった。
「名前は実佳。実佳ちゃん。苗字は……一応、神宮寺、で良かったかなぁ」
「みか……実佳」
教えられた名前を繰り返すと、ぴくりと実佳が動いた。ほんのちょっとだけ、顔を上げたのだ。
目が合う。はじめて見る目をしているなぁって、何となく思った。両親や、姉とも違う。学校にいる友達とも違う。不思議な目だ。
「実佳。おれはなつめ。神谷なつめ」
「なつ、め」
実佳の唇が僅かに動き、名前を呼んでくれる。にっと笑って、
「うん! なつめ! それがおれの名前!」
大きく頷いた。
「あのね、なつくん」
すると、後ろから姉が声をかけてくる。
「今日から、実佳ちゃんはうちで暮らすんだよ」
「そうなの?」
肩越しに振り返って尋ねると、頷き返される。
「えっとねぇ……そう、実佳ちゃんはね。なつくんの従妹、ううん、妹になるんだ」
「妹? いとこ? 妹は分かるけど、いとこって……何?」
「伯母さんの子どもの事を従兄弟って言うんだよ。でも、伯母さんがとっても忙しいらしくて。だから、うちに住んで貰おうって事になったの」
「実佳が、伯母さんの、子ども? あれ? 子どもって、赤ちゃん? 伯母さん、赤ちゃん産んだの? おれ、見たことないよ?」
「その辺りは……うん。もう少し大きくなったら、なつくんにも分かるかな」
「そうなんだ?」
まるで意味の分からない姉の言葉を追求するには、何分、幼すぎた。
とにかく、大きくなれば分かることがもっと増えるんだろうという、妙なところだけ納得して、もう一度実佳の方を見る。
「ねえ、実佳っていくつなの?」
「多分、なつくんよりは下だね」
「そうなんだ! じゃあ、俺が兄ちゃんだね!」
「そうだね。だから、実佳ちゃんはなつくんの妹」
「うん! 妹! じゃあさ! じゃあさ! 部屋は、実佳と一緒でいい? おれが兄ちゃんになるなら!」
「んー……その辺は、父さんと母さんにお話してみないとね。なつくんがどうしてもそうしたいって言うなら、きっと大丈夫」
「分かった! お父さんとお母さんに、頑張ってお願いする!」
実佳は、自分達が何を言っているのか、まるで分かっていないようだった。ただ、ついさっき〝なつめ〟と名前を呼んでくれた以降、じっと見つめてくれている。
それがなんだか無性に嬉しい。
「あのね、実佳!」
実佳の手を取った。取ったその瞬間、
「わっ、冷た……!?」
その手がとても冷たかった事に驚いた。
「実佳、寒いの? 手がすごく冷たい」
「……」
返事はない。
「何か困った事があったら、何でも言ってね。おれ、実佳の兄ちゃんになるんだから!」
そう言って、笑って、その手をぎゅっと握り締める。こんなに冷たいなら少しでも暖めた方がいいと思って、身体全部を使うようにして、その手を包んだ。
その、すぐ後の事だった。突然、視界の端っこに何かが落ちてきた。正体は、透明な水の雫。あれ、と思って顔を上げる。
「え、え! えっ!?」
少しも変わらない表情で、実佳がぼろぼろと泣いている。大粒の涙がぼたぼたと落ちて、手を、服を、濡らす。
「お、おれ、何かした!? 何か嫌だった!?」
もしかしたら、手を強く握り過ぎたのだろうか。それとも、触られるのが嫌だったのか。そんな考えがぐるぐる、ぐるぐる頭の中で回っていく。
けれど、実佳は何一つ変わらない。じっとなつめの目を見て、そして、そっと口を動かす。
「なつめ」
名前を呼んだ。
「なつめ」
泣きながら、繰り返し名前を呼んでくれた。
「──なつめ」
握り締めた手が、微かに握り返された事に気付く。
まだ、どうしたらいいのか分からなくて、助けを求める為に姉の方を振り返ろうとしたら、部屋のドアが開かれる音がした。
「……おいおい。こりゃどういう事だ?」
入ってきたのは伯母だ。目を満月のように丸くして、こっちを見ている。
「あ、伯母さん!」
「こーら。なつめ。私のことは飛鳥さんって呼べっていつも言ってるでしょーが?」
軽く微笑まれ、髪を撫でられる。素直に享受したが、それはそれとして。
「あのあのっ! どうしよ、伯母……じゃなくって、飛鳥さん。実佳、泣いちゃった。おれ、何かしたかな」
「ふむ」
伯母は、腕を組んで考え込んでいる。その傍に立つ姉も、何故か驚いた顔をしていた。
「ちょっと」
姉が、伯母を少々素っ気なく呼んだ。
「聞いてた話と随分違いますけれど」
「私だって驚いてんだ。それに、下で紹介した時は返事も出来なかったの、お前も見てるだろ」
「なら、どうしてなつめの時だけ」
「はじめての、年の近い子だからかな。今まで周囲にいたのは大人ばかりだっただろうし……。何か、感じるところでもあるんだろう。うん。実佳は、なつめと一緒にいた方がいいだろうね。これを見る限り」
「えっと……? ねえ、飛鳥さん。何言ってるの? おれ、全然分かんないよ」
「大丈夫だよ。実佳はね、安心して泣いてるだけだから」
「安心……してるの?」
「ああ。嫌だったり、痛かったりする時だけじゃないんだ。人が泣く時っていうのは」
「そっかあ……」
じゃあ、今の実佳は、自分がここにいる事に安心してくれているのか。そう考えると、何だか心の中がくすぐったくて、ぽかぽかして、嬉しいような、ちょっと恥ずかしいような、そんな気持ちになる。
離しかけた手を、もう一度強く握り締める。実佳は、やっぱり泣いている。声も上げずに、涙だけを流している。
自分が泣く時は、こんな風に黙って泣くなんて出来ないのに、と、そんな事を考える。だから、実佳のことを『凄い』と思うと同時に、思いっきり声をあげてもいいんじゃないか、とも思った。
だけど勿論、泣いてるより笑ってる方がいい。
……もし泣き止んでくれたなら、まず、何をしようか。
「ねえ。実佳」
とっても冷たい実佳の手を、あっためてあげたくて、ぎゅうと握り直す。
「あのね。実佳には、好きなものある?」
──実佳に、聞きたいこと。
「おれは、笛が好きなんだ。フルートって知ってる? 銀色の横笛なんだよ」
──実佳に、話したいこと。
「お母さんが、フルート、すごく上手なんだ。だから、おれもおんなじように、出来るようになりたくて」
──実佳に、見せたい事。
「いっぱい練習して、吹けるようになったんだ。だから実佳にも、聴いてもらいたいなぁ」
──そして何よりも、実佳と一緒に、やりたい事。
そういったものが、わくわくと一緒に次から次に溢れてくる。どきどきしてる胸はそのままで、実佳が泣き止むのを、すぐ傍で待ち続けた。
冷たい手が、じんわりとあったかくなっていくことに、どうしてかすごく嬉しくなった。
……それが、十年か十一年前の事である。
成長して、つくづく思う事がある。
人間、何に自分の全部を懸けるかなんて、各々の自由なのだと。
金でもいいし、仕事でもいい。
友人でも、恋愛でも。
それだけの価値があるって思ったなら、それを見定めて、あとは各自で思うままに生きればいい。
あの日出会った少女は、つまり今の自分にとってそういう存在なわけで、そう決めたのは、恐らくはじめて会ったその日。
声も出さずに、表情も変えずに、ぼろぼろと泣いている、自分より小さい年下の女の子。咄嗟に握り締めた手の冷たさは、もう随分昔の事なのに、今でもはっきり思い出せる。
この子の傍にいたい。喋ってみたい。遊んでみたい。笑って欲しい。泣いては……本当言えば欲しくはないけど、泣きたいのなら、思い切り声を上げて泣いて欲しい。
そうやって、一緒にいたいって、一緒にいようって、強く想った。子ども特有の、純粋さと無知さから、ただひたむきに。全部、あの日のうちに決めていたのだ。
他人に話せば十人中十人に「子どもだった頃の話だろう」と笑われてきた決意。
だけど、それを抱えて、早十数年。時間経過にも負けずに、今尚、その意志は全く色褪せる事なく、揺らがせてもない。むしろ一層強くなっていると自覚出来るけれど……さて。
そんな生き方を、笑いたいなら好きなだけ笑えばいい。どうせ、それで先の生き方が変わるわけでもないんだから。
──そうして今日も今日とて、生きている。
あの日から変わらない、大切な〝たった一人〟と一緒に。
完結まで予約投稿済みです。
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