09.慟哭。
すぐさま、実佳が待っているはずのリビングに向かう。二階から一階へ続く階段を駆け下り、リビングの扉を開けると、ソファの真ん中に座ったまま、ぼんやりと宙を眺めている実佳の姿があった。
下手に声をかける事が何だか躊躇われて、無言で家の救急箱を取り出す。そして、彼女の前で膝を折った。まじまじと彼女を見つめる。いつもなら、
「怪我の手当てぐらい、一人でやれるから大丈夫」
と笑うのに、今の実佳は、まるで抜け殻か人形だ。幼い頃の、はじめて会った頃の実佳が重なり、少し顔をしかめた。
「……なつめ?」
しかめた顔に気付いたのか、実佳の目がなつめを捉えてくる。僅かに首を傾げられた。しまった、と慌てて表情を取り繕う。
「何でもない。それより、少し染みるぞ」
血は既に凝固し始めているから、そこまで深い傷というわけではないのだろう。ただ、少し範囲が広い。
滲む血をティッシュで拭い、消毒液を染み込ませた綿で、傷痕を消毒していく。その後、切り傷用の塗り薬を塗って、ガーゼを当てた。それを救急テープで固定して、最後に包帯を巻き付ける。
そうして、手当てそのものは、滞りなく終わった。
「とりあえず、今夜一晩はこのままでな。明日、またガーゼと包帯取り替えるから」
「分かった。……あの……なつ、め」
包帯の巻かれた腕を擦りながら、実佳は、少し歯切れの悪い様子で名前を呼んできた。
「どうした?」
呼ばれたなつめは、顔を上げる。見上げた先に、不安げに瞳を揺らす実佳がいる。
「……その」
言葉を続ける前に、彼女は一度、大きく深呼吸する。
「さっきの。夢、じゃない……んだ、ね」
一瞬、答えに窮した。
当たり前だ。あんな事があった直後に、全てを認め、受け入れられるわけがない。なつめとて、今ここにいる事が、今際の際に見ている走馬燈の類である事を、完全には否定出来ない。
だけど、だからこそ、自分まで不安に引きずられてはならない。
立ち上がって、実佳の傍に腰掛ける。
「ごめんな、実佳。俺……お前の傍にいるしか出来ない」
少し迷って、けれどせめてもと思い、その髪をそっと撫でた。いつもテールアップ状に綺麗に結ってある実佳の髪は、先の騒動でばらばらにほどけてしまっている。
「だけど、俺も、お前も、隆哉も。みんな、ここにいる。無事だ。ちゃんと、生きてるよ。それも、夢じゃない」
「……ん」
おそるおそる、実佳がこちらの肩に頭を乗せ、体重をかけてくる。長い髪が一房、はらりと、力なく垂れ落ちた。
「……なつめ……」
小さく小さく、実佳が名前を呼んでくる。途方に暮れたように。
「……子どもみたいな事、言っちゃうけど……。ごめん……今は、ぎゅって、してくれる?」
見上げてくる一人は、まさしく怯えている小さな子ども、そのままで。
恐怖が色濃く映ったその表情を目にした瞬間、なつめは歯を食いしばった。ギリ、と自分の中で低い音がする。
腕を回し、その身体を抱き寄せる。そして、抱き締めてから……今更、気がついた。
実佳は震えている。
当たり前だ。あんな事があって、平静でいられるものか。もっと早く気付いてやるべきだったのに。内心舌を打った。震えを止めてやりたくて、殊更強く、腕に力を込める。
「ごめんね、なつめ……。ごめん。ごめん……」
何度も名前を呼びながら、縋り付いてくる腕に、力は入っていない。背中に回っている実佳の腕は、抱き締め返しているというより、まるでただ添えられているだけ。
「そんな事ない。……謝るな」
大丈夫だ、なんて安請け合いなんて出来なくて。
ただ、実佳が謝罪する必要はない、という事だけは確信出来たから、はっきりと、言葉にして伝えた。
……それしか出来ないことが、ひどく、悔しかった。
それからしばらく……どちらも、何も言わず。言えず。
ただ、互いが互いの傍にいる事を確かめるように、じっとその場に留まって、体温を共有し続けた。けれど実佳の震えは、未だに止まらないまま。
かちこち、かちこち、時計の針が無機質に動いていく音が、鮮明に耳へ届く。そんな僅かな音もはっきり聞こえてしまうような静けさの中、否が応でも思い出すのは、先ほどの出来事。
得体の知れない二つの人影が、脳裏を過ぎる。必死で隆哉の腕を掴んだ感触も、無理矢理コンクリートに着地した衝撃も、まだこの身体に生々しく残っている。
何より、押し潰されてもおかしくなかった、あの一撃は。思い出すだけで、血が凍る。口の中がからからに乾いて、嫌な汗がじわりと浮かぶ。
そうして自然と甦るのは、奴等が言っていた言葉。
コードC。刻印。
一体何の事なのか、まるで分からない。だが、恐らく……実佳が、関わっている何かであるのは、確かなのだろう。あの時見せた、半狂乱の様子から考えても、そうとしか考えられない。
そのせいで、実佳は伯母に引き取られ、この家に来る事になったのだろうか?
仮にそうだとして、命を狙われなければならない理由は? あの二人の正体は?
分からない事だらけで、目眩がする。理解の出来ない未知の事柄を、解決する事など出来やしないというのに。
あぁ。だんだんと、胸中が混沌としてくる。理不尽極まりない現実への怒り、親しい者や大切な存在を傷つけられた憎しみが、明確な形をとろうとしている。
「……っ……ぅ」
それに、一瞬でも歯止めをかけたのは。
「──!」
なつめの肩に、額を押しつけていた実佳が微かにこぼした嗚咽。
僅かな声だったけれど、それを聞いて急速に頭が冷える。しがみついてくる実佳の腕に入る力が、瞬く間に増していく。
「……っく……うぅ、ごめ、ごめん……! ぐ、ちゃぐちゃで、なにも、わ……からなく、てっ……。ほん、とに、なつめも、たかやもっ。生き、てくれ、てるのか。不安で、怖くて、どうしよう。どうしたら、いいんだ」
……吐き出される戸惑いと混乱、恐怖を、全部、受け止める。実佳を、これ以上なく強く抱き締める形で。
片方の手で背をさすり、もう片方の手で頭を撫でた。今は、薄っぺらい言葉は、何一つ意味を成さないことだとわかる。だから、伝えられる温度を、ありったけ実佳に渡していくしか思いつかない。
「でも、でも……! わか、わかる。わかっ、ちゃうんだ。あのとき、あの時に、言われたこと! 知ってるって、分かりたくなんかないのに! 嫌だ! 嫌なのに、なんで!!」
「っ──!」
実佳の手に更に力が込められて、爪を立ててくる。
叫び声は大きくなり、まるで血でも吐き出すような衝動を、嫌でも感じ取れてしまう。
──反射的に、察してしまった。
これは、まずい。
恐怖を改めて認識してしまったせいで、錯乱し始めている。このままだと、どうなるか分からない。こちらの身体に何かある分には一向に構わないが、万が一、実佳が自分で自分の身を傷つけるような事になってしまえば。
それだけは、何が何でも避けなきゃいけない。
「実佳。実佳、俺の声が聞こえるだろ」
出来る限り実佳の動きを抑えられるように、その身体を押さえ込みながら、努めて落ち着いた声を作る。
実佳の感情に引きずられるな。平静を保て。
実佳が、これ以上我を失わないように。
自分に言い聞かせながら、なつめは己に出来る唯一の事に、意識の全てを注ぐ。
「深呼吸、出来るか。それが無理でも、息をする事に集中してくれ。落ち着け……実佳は何もしてない」
「いやなんだ、いやなんだよ……! ねえ、なつめ。何で、どうして。やだ、やだよ……!」
「ああ。お前は泣いていい。叫んでもいい。だけど、俺の声は、聞いてくれ。頼む。頼むから」
「いやだよ……っ……っく……! ひ、ぅっ……」
……叫び声は、やがて、言葉としての形を取らなくなり。
「ふっ……うぇ、ううぅ……!!」
得体の知れない恐怖に襲われ、怯えて、だけど逃げる事も出来ず、そうする事しか出来ないまま、泣き叫んでいる声が耳を打つ。
いくらでも泣いていいから。この身体に爪を立てて、痛みを覚えようとも。そんなもの、全部受け止めてやるから。
だから、どうか、正気を手放さないでくれと。
ここにいる事が現実なのだと信じて欲しいと、そう強く願った。決して一人ではないのだと、少しでも、伝えたかった。
なのに……ほんの微かでもそれを叶えられない無力な自分が、これ以上なく恨めしく、腹立たしかった。
……どれほど、時間が経っただろう。
泣き叫びながら、
「なんで」
「どうして」
「嫌だ」
と繰り返す実佳は、最後まで正気と錯乱の合間で、藻掻き苦しんでいた。
最終的にそれを止めることが出来たのは、勿論、なつめの力ではない。
ある瞬間、唐突に全身から力が抜けた。枯れてもなお叫ぼうとした声は止み、ぐったりと、一気になつめの方へともたれかかってくる。
それは、眠ったというよりも、気を失った、という方が正しいはずだ。
全てを使い果たしたとおぼしき実佳を見つめながら、なつめは安心したような、やはりどこか、自分の無力さを痛感ような複雑な心持ちを持て余す。
ちらりと、リビングの窓を見る。どうやら、もうとっくに日は傾いていたようで、赤い夕日の日差しがフローリングに、幾筋か差し込んでいる。それだけの時間が経っている実感は、正直なところ、薄かった。
「……おやすみ。実佳。ゆっくり、休めよ」
耳元で囁き、そうっと、その身体をソファの上に横たえてやる。起きた時に身体が痛くならないように気をつけてやって、そして最後に、今着ている上着を脱ぎ、実佳の上に被せた。後で、自室からきちんとした毛布を持ってこよう。
……だが、その前にやる事がある。
立ち上がったなつめは、自宅電話の子機を手に取り、一度リビングを出る。心身共に摩耗している実佳を刺激しない為にも、物音を立てないよう注意しながら、ダイヤルボタンをプッシュした。
耳元に、電話を当てる。一回の電話で繋がるようにと、密かに祈った。
呼び出しのコール音が聞こえる。一回、二回、三回──四回目の途中で、それは途切れた。
《もしもし?》
よく知る声が聞こえる。祈りは通じたらしい。
「突然ごめん。俺だよ。なつめ。少し用があるんだ。……時間、貰える? 祐姉」
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