下宿先にて
気が付くと、視界を気味の悪い空が視界を支配していた。
空の色はのっぺりとした淡い青。ここに来るのは2回目だが、この色合いには慣れない。1回目はまだ立てていたが、今度は寝転んでいる様だった。ふと顎を引いて足元を見ると、ある筈のものは無かった。腕を動かしても、やはり見える筈のものが見えない。それは前来た時に崩れた所だった。腕と足。その2つは人間が生活する上で必要不可欠な物。
ここに来てから、段々と身体の1部が無くなって行く。だが現実に戻ると、確りと手足が存在している。何故だかは分からないが。原因はやはり、妖術の使いすぎなのだろうか。
ぼんやりと考える。僕が覚醒させたそれは、針を操る事。召喚する事も然り、また既にある物を操る事も出来る。それらは僕自身の霊力を使う事で出来た事だ。
更に、何か概念的な物を操る事も出来た。例えば、運命であれば羅針盤に置き換えて操作。それ以外の物でも、羅針盤に置き換えれば操れてしまう。
だが、代償は非常に大きかった。それが、僕の人間としての部分の消失だった。ぼろり、と肩から先が崩れる感覚がある。戻すことは出来ない。使い続けたら、間違いなく死ぬだろう。
ぼんやりとしていると、誰かの声が聞こえた。
声の主は焦っているらしく、泣きわめくかの様な声が響く。
その声の主が何者か気付いた時、視界が歪んだ。
♢
気が付いた時には、自室の椅子の上に居た。壁掛け時計を見ると、時刻は丁度午後7時を指していた。
時計を見るに1時間ほど眠っていたらしい。そろそろ夕飯だ。
椅子から立ち上がろうとした時、違和感に気付く。手が何か柔らかく温かい物に包まれている様な感覚。誰かの手が、僕の両手を包み込んでいる。それを触覚的に認知した時、始めて視線が左へと向いた。
そこには、目元を紅くし寝入ってしまった龍田の姿があった。
流石にこの状態で部屋を出て行くのは気が引ける。取り敢えず立つ。そう思い腰をあげようとした。
しかし、思ったよりも手を握り締めてられていた為か、はたまた運命の悪戯か。僕はバランスを崩し、覆い被さる様な格好に成ってしまった。すぐ上から退き、横抱きにした後布団まで運ぶ。この時動いた様な気がしたが、気のせいだと言い聞かせた。布団の上に下ろした後、薄手の毛布を1枚掛け、部屋から出た。自室の扉を閉め、長々と息を吐いた。
「肝が冷えた。まったく勘弁願いたいものだ。」そう1人ぼやく。
自室は2階の為、食卓の有る1階まで降りなければならない。
階段をなるべく静かに降り、洗面所で手を洗う。「すみません、遅れました。何か手伝える事は有りませんか。」そう言って食卓が置かれている居間に入った。
「有馬君。それで有れば、全員分のご飯をついでくれ。」
手に持っていた皿を食卓に置いた後、山城大嗣はそう言った。彼はその特徴的な灰色の瞳をこちらに向けている。
その雰囲気は重圧その物で、家に入りにくい原因の1つだった。
台所に向かい、炊飯器のふたを開ける。全員分の茶碗にごはんを入れる。
30分後、僕たちは食卓の席についていた。目の前にはご飯とみそ汁、青菜の胡麻和え器に盛られていた。龍田は数分前に2階から出て来たが、顔が赤いのは気のせいだろう。
食事中、龍田の視線が時折こちらに向かっているのに気が付いた。
食後に部屋で何かあったか聞いておこうかと考えながら食事を進めた。
その雰囲気に居心地を悪くしたのだろうか、蕨田は素早く食事を終えて自室に向かっていった。
♢
食事が終わった後、食器を片づける。それぞれ食器を洗っていると、衛子さんが話しかけてきた。その発言の威力は非常に大きかった。「七海ちゃんとは仲良く出来ている?」僕は危うく茶碗を取り落とす所だった。「不意に言わないで下さい。心臓が止まるかと思いましたよ。」そう言いながら茶碗を洗い終える。次に箸を洗い始める。「そもそも、それ今聞く必要がありますか?」そう言っている内に箸を洗い終える。次に洗う物―今度は深めの皿―に手を付けた。
「じゃあ。貴方が死んだらどう言う反応をすると思う?」
僕は故人に対する考えを、数ヶ月前に変えた。死者とは過去その物で、もう戻る事は無い。だからこそ次の事を考えた方がいいのだ。人間の寿命は最大でも120年程度。限られた時間の中で死者に構う暇などない。「たいして悲しまないと思いますよ。死者の事を考えるより、生きている人間の事を考える方が有益。死者は過去その物、過ぎた事を考えるのは余りにもナンセンスだ。龍田だってそう考えている筈です。」それを聞いた衛子さんは、とても悲しそうな顔をした。
そして、まるで諭す様に言った。「忠君、それは間違っているよ。君に対して好意を寄せている事には気が付いているでしょう。」そこで一息入れ、衛子さんは続けた。「七海はそう考えていない筈よ。これは確信を持って言える。」だからこそ、と言って続ける衛子さん。「貴方はもう少し自尊心を持つべきだわ。そうすれば、見えなかった事が見える筈だから。」
その言葉を、僕は理解し様としなかった。その後は普通に風呂に入り、自室に戻った。寝間着は鳶色の浴衣だ。この色合いが不思議と落ち着くので、同系色の物ばかりに成ってしまった。手袋、筆箱など色々だ。布団に寝転び、目を瞑る。明日も学校がある。直ぐに寝なければ。そう思うが、なかなか寝付けない。悩む内に、時刻は深夜2時半に成る。