人食い鬼の噂
5月10日 1600 県立立野高校 社会科教室
「先輩、知っています?立野ダムに出る鬼の噂!」
僕がその噂を聞いたのは、2年に上がってから1ヵ月が過ぎた5月の始めの事だった。
その頃には、新入生はそれぞれ部活に入っていた。
文芸部でもそれは同じで、何所か浮ついた様な空気があった。
今この教室には、2年の生徒が6人と、1年が4人いる。
僕に話しかけた男子生徒―高梁賢幸―は、1年生で有る事を示す紫色の校章を紺色のブレザーに輝かせていた。彼はごく普通の高校生だ。趣味は都市伝説や噂話の収集という、少々変わった物だった。巻癖の有る黒髪を刈り上げにし、銀縁の丸眼鏡をかけている。瞳の色は鳶色で穏やかそうな雰囲気をしていた。
話を詳しく聞いていると、それはまた摩訶不思議な物だった。
深夜2時頃に立野大橋の丁度真ん中の辺りに立ち、鬼門の方角を見て2礼2拍手1礼をする。すると、何所からか鬼が現れて人を攫うと言うのだ。「その話は誰から聞いたのだ。」僕はそう問いかけると、彼はこう返した。「友人から伝え聞いた話ですよ。不思議ですねー。」
その発言に違和感―すなわち伝えた友人の末路である―を覚えるが、直ぐに分かるだろう。
普通の人であれば、馬鹿馬鹿しい話と切り捨てるその話。
だが、僕は違う。この話がもし本当に起こっているのであれば、解決しなければならない。
それが僕の、術師としての使命なのだから。
♢
部長にひと声かけ、教室を出る。校門から出た後、図書館に向かう。あの噂を確かめる為だ。
噂と言う物には必ず元となる話がある。それに尾鰭が付き、別の話と交じり、都市伝説が生まれる。そこに霊力等が加わったら、恐ろしい事になる。それは実体化。現実にそれが起こるのだ。そうなる前に対処するのが、術師の存在意義だ。
日本国内に居る術師の殆どは、日本術師協会に所属している。
僕の場合は組織に属して居ない、“モグリ”に該当している。
だが、少々厄介な事情からこの様な立場に成っているのだ。
僕はある探偵事務所で働いている。そこでのもう一つの仕事が、術師としての務めだ。今回の噂は、一度連絡してから調査を開始すべきだろう。校門から出て直ぐの所に有るコンクリート柱に背を預けた。鞄からガラケーを出し、バイト先の先輩―田中弘治―にメッセージを送る。
“今日、学校で気になる話を耳にしました。今から調査を開始します。”それだけを打ち込み、ガラケーを仕舞う。図書館に足を向ける。時刻は5時を回った所だった。空の色は朱鷺色に成っている所もあれば、朱色の所もあった。やはり、夕空は美しい物である。
僕が通っている県立立野高校は山の中腹にあり、図書館は立野山下駅の近くにあった。ガラスの自動扉をくぐり、館内に入る。入ってすぐの所にある時計は、午後5時を過ぎている事を示していた。パソコン室に入り、それを起動させる。この図書館では資料の殆どが、電子媒体化されている。この為、館内にあるパソコンからあらゆる資料が閲覧可能と成っているのだ。
キーボードを使い、文字を打ち込んでいく。今回調べるのは、新聞記事である。データベースには過去100年にも及ぶ事件事故の詳細なデータが纏められていた。
1番古い事件事故は明治時代の物だった。ダムが建設される前、そこには集落があったらしい。そこで大量殺人事件が発生していた。 深夜、集落恐怖に染まる!犯人は自殺か?犯人は19歳の青年。勢野永作と言う人物で、犯行後自殺している。凶器は日本刀と大型のライフル銃。死者19名、負傷者23名。犯人発見時の服装は、津山30人殺しを彷彿とさせる。
次の記事は、交通事故の物だった。1992年1月3日発生。
マウスを動かそうとした時、右頬に何か柔らかい物が付けられた。思考が打ち切られる。勢いよくパソコンの画面から左脇に視線を転じた。
そこに居たのは、同じクラスの女子生徒だ。名前は龍田七海。
紅葉色の混じる長い黒髪を桜色の平紐で纏め、前髪は左側を長く伸ばしたアシンメトリー。瞳の色は龍田川を想起させる青色で、穏やかな雰囲気を出していた。龍田は僅かながら顔を赤らめている。恐らくあの感触は…、考えるのはやめだ。「帰るよ。有馬…、忠義さん。」微笑みながらそう声を掛けてきた。その笑みは穏やかに見えるが、その裏を知っている僕からすれば恐怖でしかない。相手が人間であれば、ここで断る事も出来た。だが相手は付喪神、しかも軍艦である。術師である僕でも勝てないのだ。「…分かった。」僕―有馬忠義―はそう言って、しぶしぶ荷物をまとめた。
図書館の外に出て、駅の改札に向かう。定期券をかざした後、今まさに発車しようとした列車に乗る。龍田もそれに続いた。僕は窓ガラスに映った僕の顔を、ぼんやりと見る。酷い顔だった。髪はぼさぼさで、目に生気は無い。僅かながら表情があったらしいが、能面の様に顔が固い。それに成った理由は、僕が多くの組織から狙われている問題に由来する。実際登下校中に黒塗りの大型乗用車が僕の隣に急停車し、引き摺りこまれそうになった事もある。(その時は龍田が何とかしれくれたが。僕も霊術を使い、運命を弄った。だが、これ以上使えないだろう。)
何故多くの組織から狙われているのか。それは、概念を操作できる能力を持っているからだ。その力を所有している事に僕が気付いたのは、2日前の話だ。だが、身の回りの人は随分前に気付いていたそうだ。
護衛に関しては了承した。彼曰く、術を使えてもそれが本人の強さに比例するわけではないとの事。
婚約に関しては反対したが、相手が譲らなかったのである。
更に、周りの大人も援護した。担任の先生や、バイト先の同僚や上司、僕の両親などである。また、学校中でも話題に成った。気が付いた時には、完全に外堀を埋められていた。
この為、僕は仕方なく了承した。確かに四六時中狙われていると言う事は自覚している。だが、婚約者と言う肩書は決して必要なものではないと僕は確信している。
肩を叩かれ、意識が外に向く。見えた龍田の顔は、何所か不満げだった。「…何か有ったのか?」そう問いかけると、ぷいっと顔を逸らされる。「馬鹿。」帰ってきた言葉は罵倒だった。
落ち込んでいると、いつの間にか家に着いた様だった。表札の字は“山城”だった。やはり、何時帰ってきても慣れない。この家からは圧迫感の様な雰囲気がしている。
ここは僕の下宿先の住んでいる古民家で、龍田もここに住んでいる。築100年ほどの物で、床はほぼ全面畳張り。日本人にとっては非常に安心する仕様だ。
この家には龍田の扶養者“山城大嗣”と“山城(旧姓十三丘)衛子”が住んでいる。
表向きには親戚の子供を養育して居る事に成っているが、僕はそれで誤魔化し切れるとは思っていない。容姿も違うし、色々と誤魔化しが効かない部分がある為だ。
更にこの2人が、僕の最近の悩みのタネであった。それは何故か。事あるごとに爆弾発言をしてくるからだ。普段話している分には大丈夫だが、龍田の事となると豹変する。
具体的な事は言えないが、それ相応の内容である事は間違いない。とは言え、それでも頭が上がらない人達である。こちらは居候の身。彼らが追い出そうと思えば、何時でも出来る。
だからこそ、我慢するしかない。龍田がインターホンを押し、マイクに向かって話す。「ただいまー。」
数秒もするとぱたぱたと玄関の奥から足音が迫ってきた。玄関扉が開き、1人の女性が顔を出す。着物を着込んだ女性は、日本人らしい風貌をしていた。黒髪は項の辺りで纏められ、飾り気が無い。それでいて何所か美しいのである。瞳の色は鳶色で、優しげな雰囲気をしていた。
「おかえりなさい。ただ君、ななちゃん。」その女性―山城衛子―はにっこりと微笑んでいた。玄関に上がり、靴箱に脱いだ靴を入れ、自室に入る。荷物を置いた後、制服をハンガーに掛けた。勉強机のそばにある椅子に腰を下ろし、深々と溜息を吐いた。「漸く1人になれる。」そう呟いた。
僕の隣にはいつも龍田が居る。だが、自室に居る時は1人にしてくれるので有り難かった。常日頃から力が入っていたのだろう。ぼんやりとしている内に、意識が落ちた。