異変4 高校の地下空間
日本国転移の11年前
1月2日 0900 佐川探偵事務所
僕はその日、事務所で所長の手伝いをしていた。新年早々に、緊急性の高い依頼が舞い込んだらしい。「それで所長、今から行く場所は。」「奈良県立立野高校。君の通っている高校だ。」
♢
同日1200 奈良県立立野高校
11時過ぎに早めの昼食を取った後、学校について早速依頼主の元に足を運んだ。依頼者は中野与蔵、この学校の校長だった。校長室に入り、さっそく依頼内容の確認を行う。「今回の依頼は、地下から聞こえてくる叫び声の真相ですか。」
事の発端は、昨年11月まで遡る。夜勤の職員が、武道場近のマンホールから声を聞いたらしい。それ以来、あちこちで叫び声を聞いたという話が急増。更に、12月に入ってからは日中でも聞こえ始めた。
僕もその叫び声を聞いていたから、固い表情で校長先生の話聞いていた。その声は、毒ガスで苦しみながら死んでいく声だった。苦痛に満ちた声は、聞いている方ですらも、その痛みが全身を襲って来るかの様だった。
それから、報酬に関する話などをつけた。僕達が動くのは、丁度3週間後と決まったのだった。
♢
同日 1500 立野ダム
僕は、たった一人で立野ダムに来ていた。この近くには小さいながらも神社があり、そこに参拝しようと思ったからだ。そして、それが見えた時に違和感を覚えた。確かに神社は在ったのだが、その社殿の前に何か大きな生き物が横たわっていたのだ。
近くまで寄った時、それの正体に気が付いた。1メートル程の、黄金色の体毛の混じる灰色の狼である。僕が近くまで行っても、起きようとはしなかった。狼を尻目に、参拝を済ませる。
振り返ってみても、狼はその体躯を横たえたままだった。
手を伸ばせば触れそうなほど近づいた時に、僕はその狼が死んでいることに気が付いた。
あたりを見回すと、周辺には木々が生い茂っているだけだ。
僕はふと、その狼のために墓を作ろうと思った。直ぐに人目につかない場所に穴を掘り、狼をそこに埋めた。上に石を置き、形だけの墓を作る。「静かに眠れ。」踵を返し、涼子さんの待つ車まで戻る。「有馬、少し遅かったな。何かあったのか。」
「ほかの参拝客がいた。少し話し込んでいただけだ。」「そうか。」
そのまま下宿先に送ってもらい、特に何事もなく眠りに着いた。
だが、その日の晩。「なあ、忠義。お前の後ろにいるそれは何だ。」僕のもう一つの人格である忠正は、後ろにいるそれを指さしてそう言った。それに応えるように、それすなわち“狼”が吠えた。確かに墓を作って弔った狼ではあるが、まさかこうなるとは思わなかったのだ。「こいつは精霊か。」「そうだが。」
僕は振り返って、狼を見る。その目に映る光は、忠義のそれであった。「契約するか、僕と。」肯定するかのように、狼は吠えた。僕は、契約の式を描くための準備をした。とは言っても、それはせいぜいナイフを用意する位だったが。ナイフを使って自分の指と狼の前足に傷をつける。そして、そこから取った血を混ぜ、僕の右手の甲に式を描いた。「これで契約は完成。君の名前は、今から“ヤマ”だ。」そう言うと、嬉しそうに狼は吠えた。
♢
同年1月23日 0800 奈良県立立野高校
朝方の学校は、随分と静かなものだ。それでも、耳をすませば生徒たちの雑談の声が聞こえてくる。
しかし、僕含む佐川探偵事務所の面々は仕事でこの場に立っていた。「全員、突入準備は。」そう言ったのは所長である佐川涼子。ジュラルミン製の盾を持ち、ポリカーボネート製のフェイスガードを備えたヘルメットを装着している。その姿は一昔前の機動隊員そのものだった。腰には警棒とM1911ハンドガンを装備しているが、1911は7.62×25mmトカレフ弾仕様に改造されている。更に、今回は龍田季子も巻き込んでの突入だった。総勢6名での突入。田中先輩は腰のポケットに術符を備え(目測で数百枚)、龍田七海は日本刀を腰に差し(脇差程度の長さだが、彼女にはあまり関係ないのだろう)、イリーナ・アイゼンバークは魔術師としての力を最大限に引き出すべく座禅を組み精神統一をしていた。僕はと言うと、配下の烏天狗達にバックアップを頼んでいた。「棟梁、俺たちはどうすれば。」「援護射撃を頼む。それから、影を使って不足物資の輸送も。」「分かりやした。他は。」「怪我人の退避も頼む。」烏天狗達に頼み終わった後、龍田季子が話しかけてきた。「あの、先輩。私もやった方がいいのですか。」「いや、別に大丈夫だと思うぞ。所で、装備品は大丈夫か。」「はい、先輩から頂いた脇差と術符ですね。それはこちらに。」そう言って見せてきたのは、昨日渡した脇差だった。半年から烏天狗に作らせていたものだが、完成したのは2日前の事である。そこまでかかった理由としては、烏天狗達が思ったより拘りが強い性格だった為である。まず、砂鉄をたたら製鉄で玉鋼にするのだが、砂鉄を集めるのに3週間。更に、刀身を鍛え上げるのに4か月。鞘や柄に1か月ほど掛ったのだ。
それだけの時間を掛けて作ったのだから、その出来は素晴らしいものだった。正しく力を籠めて振るえば、羆の首を一撃で切り飛ばし、また刺突をすれば岩に穴を開ける事も出来た。
そして、使えば使う程柄は手に馴染むのである。
現に、彼女の脇差捌きは達人の域に達していた。
「この脇差、本当に有難うございます。」そう言って頭を下げる龍田季子。「感謝なら烏天狗に言って欲しい。作ったのは彼らだからな。」そして、数分後。マンホールから突入した。
♢
私はほんのわずかに空気が動いたことを感じた。ここに閉じ込められて数か月、日の光を見ずに過ごしてきた。地下に囚われ、体を他人のそれに作り替えられてしまった私は、もう日の光を見ることはないだろう。
けれど、せめて、最後の時は、日の光の元で。
♢
僕は式を使い、突入した空間を把握した。「影は針、式神は影。目は燐光。」式を詠唱すると、僕の足元から黒い狼と蛇が飛び出した。「有馬、今の。」龍田七海は驚いてそう問いかけてきた。僕はその疑問に簡潔に答える。「式神だ。つい先日契約を結んだ。」漆黒の2体は、その目を蒼き燐光に輝かせて駆けだした。視覚は3つに分かれた。一つは自分、一つは召喚した蛇、一つは狼。しかし、それが見つけたのは5つの通路だった。
5つの通路それぞれを挟むように、大量の個室が並んでいる。
「影は針、それは目。」陰から更に針を召喚する。その数200。それらは全て個別の視覚を持つ。この為全てを僕一人で処理できるわけではない。だから、配下の烏天狗達にも解析を任せている。針を隙間に滑り込ませ、更に詳細な空間把握を行う。空間把握が終了後、僕は5つの通路の集合点に存在する梯子に向った。地上に向って伸びているのだが、真上はあの校長室だった。それ故に、僕は針を使いその梯子を使用不能にした。
そして、その梯子が更に地下に伸びていることも把握した。
「七海、まだ地下があるぞ。…、影は水、性質は濁流。」僕は影に自らの霊力を注ぎ込んだ。
そして、影の感覚が消えた。完全に水没させて空間を把握しようとしたが、ここから50mほど下に到達した時に消えたのだ。まるで、何かに飲み込まれたかの様に。「所長、地下に何かいます。気を付けてください。」僕は無線機にそう言ったが、どうやら遅かったらしい。後ろの天井が崩れ、退路は塞がれた。前を見ると、巨大な何かが蠢いているのが分かる。
何かが飛んできたと知覚する前に、それは僕の脇腹を抉った。
直後、更に何かが飛来し、後ろの崩れた天井に縫い付けられる。
「有馬ッ。」七海の動揺する声が鼓膜を叩いた。僕はそれに答える事が出来ない。そして、七海の腕を暗闇から飛来した何かが絡め捕った。そのまま足も絡め捕られ、体をただ芋虫の様に動かす事しかできなくなった。僕の方も、気付くと腕も瓦礫に縫い付けられ、一切動けない。(忠義、代われ。)もう一つの人格である忠正が、思考を伝えた。(頼んだ。)意識が暗転する。
♢
流石の俺と言え、この状況は想定外だった。(妖怪の再生力に任せて引き千切るにしても、あれをどうにかしなければ、またやられるのがオチだ。)眼前にいる、液体が人型を取った様な存在。そいつは、どうやら俺を惨たらしく殺すつもりらしい。しかも、七海にそれを余す事無く見せつける算段らしく、無理に立たせた上で、目を閉じないようにしている様だ。更に、首の辺りまで確りと固定して、視線をこっちに向け続ける様にしている。(忠義、お前は影を操作して龍田を救出。体の方は任せろ。)(解った。配下の奴に手伝ってもらうか。)(そうしてくれ。)
♢
(わが身は針、針は影を示す。)式を組み上げて、体を陰に溶かす。影は暗く、墨汁の中を泳いでいるかの様に光は一切ない。
だが、それでも霊力は感じ取る事が出来た。七海の場所を霊力で把握して、影の形を整える。そして、僕は影を伊富の姿に代え龍田をその身に吞み込んだ。驚いた七海は藻掻いたが、僕が彼女に念を送ると、すぐに落ち着きを取り戻した。
だが、あの人型は執念深い性格らしかった。影に入って七海を再び捕らえようと、その体を蛇の様に変えて影を泳いだ。しかし、相手にとって想定外だったのは、その影が僕自身だった事だろう。蛇のようになった人型を、僕は一気に溶かし分解した。(忠正、終わったぞ。)(そうか、こっちは今所長達と合流した所だ。戻ってこい。)僕は七海と手をつなぎ、体に戻った。
♢
不味い、非常にまずい。アイツらを事故に見せかけて屠るために用意した怨霊がやられた。こうなっては、不安定だがあれを使うしかない。
ここからあそこに行くことは出来ない。ハイキングコースの近くの出入口から入ろう。
「すまん、八重島先生。急用を思い出したから、学校頼んでいいか。」その声に、八重島定男教頭は小首をかしげながら言った。「随分急ですね。お気を付けて。」そのまま校門から出て、ハイキングコースの出入り口付近にある鉄の格子でふたをされた水路に向う。格子の一部を外し、暗闇に身を滑り込ませた。
中に入って、あちこち曲がって行く。視界に、鉄製の頑丈な扉が入った。それは蛍光灯で照らし出され、手入れも十分に行き届いている。昔ながらの南京錠を開け、扉の中に入った。
戸の奥に続いていたのは、牢屋の様な構造をした廊下だった。
一番手前の部屋に入り、薬剤を取り出す。
そして、扉から13番目の部屋にいる人物に声を掛けた。
「おい、検体008。仕事だ。」そう言うと、それはこちらに顔を向けた。健康状態は良い、少女の姿。だが、彼女はホムンクルスだ。そして、私の支配下に置かれている存在でもある。
「我が魔導名ヨルムンガンドにおいて命ずる。手足が千切れようと、有馬忠義、龍田七海、佐川涼子を捕らえろ。他は殺せ。」
検体008はその目を死んだ魚の様にした。「ついてこい。」
残ったのは、かび臭い毛布が一枚だけだった。
♢
気が付くと、黒の世界は無くなり、地下のコンクリートが視界に広がった。隣には七海が佇んでおり、怪我の類は見受けられない。所長達は地下へ降りているらしく、その姿は見えなかった。そして、僕の目の前に立っているのはイーラと龍田季子だ。二人はそれぞれ対局の反応を示していた。イーラはごく自然に、龍田は驚いてこちらを見ていた。「君なら、あれを屠ると信じていたよ。有馬。」
そして、二人から所長達がどの様に行動しているのかを教えてもらった。現状、ここは仮称地下一階としており、更に地下5階まで存在しているという。
そして、所長達が現在応援を呼んでおり、待機中であると。
理由としては、ここの地下空間がある地下組織の物であることが判明したからだ。“千山機関“そう呼称される組織は、魔導技術を用いた人体実験を繰り返しており、日本術師協会と敵対関係にある組織だ。また彼らの保有する一部の魔導技術は現在の科学技術を大きく凌駕している為、世界的財閥からも敵対組織として見られており、その存在は長らく謎とされてきた。「この施設は、その中でも千山機関にとって重要な技術を開発していたらしい。」「それは。」「人体の再構築。12歳前後まで若返らせた上で、体を一から再設計する。要は記憶をそのままに赤の他人に成れる技術だ。そして、ここの責任者が中野与蔵。」「なるほど、さっきから上が煩いと思っていたが、その為か。」そう言う事だ、とイーラが答えると、龍田季子が疑問を口に出す。「なぜ魔導技術秘匿されているのでしょうか。開示すれば社会的にも名声を得られるのに。」「既存の権益を守りたい人間がいるからだろう。それに、この世界では魔術とかいう代物は御伽噺の世界の中の物だ。信頼できる科学技術の方が、民衆にとってもいいのだろう。」イーラの考えを聞いて、龍田季子は納得が行かない、と呟いた。
数分後、応援が到着した。総勢7名(剱田、蕨田、東雲兄妹、佐川、江風、谷嶋)が合流。地下空間の調査を5時間ほど行い、地下5階から地上に上がる通路を見つけ、そこから出る事を決定した。マンホール側の通路は崩落しており使用不可。
校長室に繋がる梯子は僕が破壊しており使用不能。灰色の地下通路は、蛍光灯により照らされている。地下5階の通路に到着した時、在り得ない人影が見えた。「校長、何故あなたがここにいらっしゃるのですか。」通路を塞ぐ様に立っていたのは、あの校長だ。その隣には、15歳ぐらいの少女が佇んでいる。
日本人の様な外観だが、その目に意思の色は見えなかった。
「君達には、ここで死んでもらいたい。特に、有馬君達にはね。」
僕は身構えた。七海も刀の柄に手を掛け、田中先輩は腰に吊った拳銃を引き抜いている。「やれ。」すると、その隣に佇んでいた少女は弾かれた様に飛び出した。真っ先に狙われたのはイーラだった。魔術を行使して足止めを図るイーラ。しかし、事はそう上手くいかない。「がッ。」飛び蹴りを首に受け、そのまま倒れこむイーラ。首が在り得ない方向にねじ曲がっており、即死したことは間違いないだろう。
次に狙われたのは田中先輩だ。先輩は拳銃を撃っているが、弾は掠りもしない。そして、その拳が先輩の心臓を捕らえようとした。
しかし、その攻撃を阻止したのは剱田の伸ばした触手だ。検体008の左足を掴み、そのまま引き倒したのである。その事に気が付いた008は、剱田に向って突進。
008の手には、先を尖らせた長さ40センチ程の鉄筋が握られていた。それが向けられた先は、剱田の左蟀谷だ。
しかし、剱田はその一撃を避けきる事が出来なかった。左目を抑え倒れこむ剱田。致命傷には成らなかったが、左目を抉られたらしい。止めを刺さんと鉄筋を振り上げる008。
一発の発砲音が、008の手を吹き飛ばした。銃声の主は、所長だった。「よくもうちの部下をやってくれたな。」赫怒に吞まれた様子は、子を殺された鯱が如き気配だ。
そして、008の首に七海が峰打ちを食らわせた。崩れ落ちる008。七海はその体をしっかりと抱きとめている。少しばかり思う事もあったのだろう。「ねえ、忠義。こいつに掛った式を解くことは出来る。」七海にそう話しかけられ、僕はすぐに式を組んだ。(忠正。しばらく体の支配権を預ける。)(分かった。だが、そいつにかけられた式は相当厄介だぞ。)(やらせてくれ。)(頑固だな。まあ、やってみろ。)
「さて、校長。後はあなただけです。」そう言って所長は銃口を校長に向けた。「まだだ、まだ終わらんぞ。」校長はそう言って、ポケットから出した注射器を首に刺した。変化は数秒後に起こり始めた。全身の筋肉が膨張し、その身を作り替えていく。「サテ、キサマラハココデシネ。」歪に吊り上がった口元からは、嘲笑が見えた。異形と化した校長が最初に取った行動は、まず天井と壁を破壊する事だった。あっけなく崩れる天井。そのまま通路が塞がれた。表情を強張らせる所長。
校長が先頭に立っていた所長を殴り飛ばそうとしたその時。
「あー痛かった。首の骨をへし折るなんて酷いじゃないか。」
死んでいた人間が起き上がった。その場にいた全員が、“イリーナ・アイゼンバーク”の方を見て固まっている。当の本人はと言うと、首の辺りを擦ったり、回したりして調子を確認している。「いろいろ大変な事に成っているらしいけど、校長さんにはご退場いただこうか。」そう言って杖を構えるイーラ。「上位結界魔法展開。“我は蒼海の王なり。”」たったそれだけの詠唱で、地下空間は大海に成り代わった。「ナニヲシタッ。」「結界を展開しただけさ。“中位魔法展開、我が魔導名アズバルトの元に銘ずる。目前の異形を食い尽くせ。“」水面下から現れたそれは、世間一般には鯱の様に見えただろう。
それは宙に浮かぶ校長を見つけると、一気に飛び上がって尾を用い強か校長を打ち据えた。そのまま海に落ちる校長。鯱は気絶した校長を頭から咀嚼し始め、数分後には胃の中に収められた。「結界解除。オルカ、有難う。」イーラはそう言って、鯱の頭を撫でた。
それに嬉しそうに泣いた後、鯱は水底へと潜っていった。
♢
同年3月1日 1000 奈良県立立野高校
その日、その学校では卒業式が行われていた。特別な日であり、多くの先生や生徒たちが涙と共に言葉を交わす日でもある。
僕、有馬忠義もその一人だった。
♢
教室に戻って、担任の先生の話を聞く。中野校長が行方不明になったことは当初騒がれたが、不慮の事故で亡くなったことが公表されると、その騒ぎは収まった。しかし、一部の生徒ではある財閥によって存在を消されただの噂になっているらしい。千山機関の末端だった彼は、失ってもいい人材だったのだろう。検体008は田中先輩の自宅で保護している。現在は戸籍を取得し、田中静子と言う名を名乗って居るそうだ。
「では、君たちに助言と言うかを、言おうと思う。有馬君。」
「はい。」僕は名前を呼ばれ、それに反射的に答えた。
「君は非常に真面目で、その努力を惜しまない姿勢。それは今後の人生においても、十分役に立ち、他人からの信頼を得られるものだ。」「有難う御座います。」
「次に、井狩。」「はッ。」「君は、常に困っている同期生たちの相談相手として、よく動いてくれた。我々教員人の中でも、君にはここに残ってほしいという人が多くいた。だが、君はもっと大きな事が出来るはずだ。卒業した後も、その能力をいかんなく発揮してほしい。」「はい。」そうして、全クラスメイト達に言葉をかけた先生。「では、本日をもって、3年3組を解散する。ご苦労だった。」
そうした後、皆グランドに降りていく。各々そこで写真を撮ったりして過ごしていた。僕はと言うと、それをただ上の方から見守っているだけだ。彼らとは、ただ同じ場所にいただけで話す事は殆ど無かったのだから。「有馬クン、いつまで傍観者でいる積もりかい。」そう後ろから声を掛けてきたのは、理系科目担当の東町彰吾だ。彼は今年55歳になる。黒縁の眼鏡を掛け、がっちりとした体格ゆえに一部の生徒からは畏敬の念で見られていた。「先生こそ、話さなくてもいいのですか。」僕がそう聞き返すと、先生は言った。
「僕があの場に混じれると思うかい。」「はい。」先生の疑問に、僕は間髪入れずに答えた。先生は驚いて、少し考えた後に言葉を紡ぐ。「なぜそう思う。」「先生であるから、としか答えられませんね。」
そう答えた後、僕は先生と一緒にグラウンドに降りた。まず初めに、僕は佐川先生の元に向かった。佐川先生は、少し離れた所で他の先生方と話をしていた。「佐川先生、今までありがとうございました。」僕がそう言って頭を下げると、からからと笑った。「有馬。君、結構な変わり者だね。私は恨まれることしかしていないのに。…こちらこそ、ありがとう。そうだ、君にまだ幾つか話していない事があった。」そう言った後に、佐川先生は茶封筒を渡してきた。相当な厚みがあり、中に入っている書類の量が伺える。「これは家に帰ってから見てほしい。私が君をこの数年間見ていた理由が書かれている。」
そう言われて渡された。「貴方が佐川先生ですか。」そう声を掛けてきたのは、白髪交じりの黒髪を刈上げにした男性だった。顔立ちはどことなく井狩に似ている。「息子がお世話になりました。」そう言って頭を下げる男性。僕はその様子をただぼんやりと見ていた。
ここにいては邪魔になるだけだと思い、少し離れた所に移動する。そしてその先にいたのが、山城さん達だった。「お、有馬君。話は終わったかい。」「はい。所で、随分と大所帯で話されていたようですが。」山城さんの周りには、おおよそ6名程度の大人が立っていた。恐らく保護者なのだが、何処かで見た事がある顔が多い。「すいませんが、その方達と何を話されていたのですか。」「彼らとは、そうだな。君について話していた。」「僕ですか。」詳しい話を聞くと、どうやら彼らは井狩や赤松の保護者達らしかった。その中には、井狩に似た妙齢の女性もいた。
「君が有馬君かい。話は先生方から聞いていたよ。私は赤坂武雄の父、赤坂洋一だ。よかったら、君の話も聞きたい。」そう言ってきた男性は、確かに赤坂とよく似た顔立ちだった。
僕は、赤坂と出会った時の話から始めた。それに皆聞き入っている。それから昼食時は大勢で一緒に食べ始めた事や、学校で起こった不思議な出来事等。
話し終えるころには、日は西に沈みかけていた。家に帰ってから聞いたのだが、山城さん曰く彼らとの旅行の計画を話していたそうだ。行先は伊勢志摩。どうやら井狩と赤坂は自転車で向かう積もりらしく、保護者は列車を用いて移動するらしい。
そしてその日の晩。僕は卓上の電灯をつけて、佐川先生から渡された茶封筒の中身を見ていた。
“このような形で申し訳ないが、真実を話そうと思う。
君と出会った日の事を覚えているだろうか。君が確か中学2年の時の事だったはずだ。あの時、雨が降っていたが、私が術を行使していなければ、今頃君は水底にいただろう。君の近くには用水路があったが、そこに河童が住み着いていた。そして、君自身も理解していると思うが、君の体は殆どが妖怪で構成されている。その為に、妖怪どもは君の血肉を欲している。妖怪は妖怪の血肉を取り込めば、より強力な力を手にする。今の君を妖怪が食べたら、田中さんでも苦戦する強さの妖怪が生み出されることになるだろう。だからこそ、君の保護者として、龍田七海をそばに着けた。
実際には彼女の方から私たちの方にコンタクトがあった。
それが2019年4月の事だ。そこから彼女の戸籍等を偽装し、山城さんの所に送り、立野高校に送り込んだ。私が教員として監視をしていたものの、それでも常に監視できるわけではない。
下宿先に移動した時も、随分と大所帯での移動だった事を覚えているだろう。あれも、君の身の安全を考慮してものだ。
君には恨まれることしかしていない。今まで騙していて、すまなかった。“
僕は文面を見て、今までの疑問が融解したことを理解した。
「それであれば、か。」不意に、扉がノックされる。「はい…七海、自室に戻ったらどうだ。」ノックしたのは七海だった。既に布団に入っている時間だというのに、なぜ訪ねてきたのか。
「今晩は、同じ部屋で寝よう。」龍田がそう言った。
「いや、流石にそれは。」僕の口が動く。漏れ出た声は、困惑のそれだった。舌と口を何とか動かした。
「山城も大丈夫だと言ってくれた。」僕は、その言に折れた。
「分かった。だけど、別々の布団で寝よう。」「…だ。」
七海が何か言った。「いやだ。」一昨年の出来事が彼女の心を叱責し続けている。その為の、拒否。
その日の晩は結局同じ布団で眠った。不思議なほどあっさりと眠りに落ちた僕達は、後日山城さんにある事をばらされた。
なんでも、夕飯に睡眠薬を混ぜ込んだらしい。それで、お互い朝まで何もなく眠ったそうだ。
僕はほっとしてその話を聞き、七海は悔しそうにしていた。
♢
同年3月10日 0900 伊勢駅
「すまん、少し荷物を見ておいてくれ。」僕はそう言って、七海に荷物を渡す。「どこに行く。」「手洗いに。」
速足で駅構内にあるトイレに駆け込む。今日ここにいるのは、卒業式の時に話していた旅行に参加しているためだ。最終日で、今日の午後に奈良に帰る予定である。
出発まで時間がある為、色々出しておこうと言う算段だ。そして、手を洗い始めた直後。一切の音が消えた。
(忠正、少しまずいか。)(少し所ではない。)
外に出ると、あれだけ人が居た筈の駅構内には誰もいない。
駅の電光板も、可笑しな表示になっている。「誰かいないか。」
そう言うが、誰も答える者はいない。「誰かいるかっ。」叫ぶ。
一旦、駅のホームに降りる。そこで、僕は奇跡的に人を見つけた。年齢は同じくらいの、制服を着こんだ青年。
すぐ傍まで近寄って、僕は驚いた。少し形式は違うが、奈良県立立野高校の制服だったからだ。「君、少しいいかな。」「…はい、なんでしょうか。」「君は、何所から来た。」
青年は、僕の発言に気を悪くしたらしい。
「名前、名乗ったらどうですか。」「有馬忠義だ。君の名は。」
「八重島高鷹。貴方も、ここに迷い込んだのか。」
それからは、取り留めのない会話をした。彼は列車に乗っていた所、ここに迷い込んだらしい。「ここで1時間ほど待っているが、中々電車が来ない。」「それはそうだろう。駅の名前が、少しおかしいからな。」僕はそう言って、鉄柱に着けられた駅名表示を見る。“やよい”と言う駅は、少なくとも僕の記憶にないものだ。それに釣られるように、八重島も駅名を見る。
「すまないが、今何年か教えてほしい。」僕はただ常識的な回答をした。「2023年3月10日だが。」「いや、2039年の筈だが。」
決定的な時間軸のずれ。それは、このふざけた空間から脱出するためのカギだったのかもしれない。「貴様らァ。こんなところで何をやっている。すぐ戻れ。」ブルゾンを着込んだ男性が、凄まじい剣幕で詰め寄って来た。彼がどこから現れたのか、僕には理解できなかった。だが、彼が田中先輩の話していた“時空のおっさん”であると本能で理解すると、少し安心した。「お前たちは、元居た場所に戻れ。」そう言って、おっさんは手を僕たちの目の前で打ち鳴らした。
気が付くと、あの伊勢駅に佇んでいた。隣には七海が、心配そうな顔でこちらを見ている。「何かあった。」「いや、少し迷っただけだ。」僕は、そう言って七海と共に駅のホームに降りる。その日の事を、僕は2039年5月のある日まで忘れていたのだった。
♢




