変体
僕は両手を見る。そこには、喪った筈の右腕も見えた。
だが、明らかに人外のそれだった。腕は黒い鱗に覆われ、指は節くれ立ち、爪は細く長い。確りと踏みしめている僕の足は、両方とも存在していた。理由は分からないが、何か変ったからなのかも知れない。
一度、深呼吸をする。真っ直ぐに龍田の隣まで歩いた。
「君、そろそろ船内に戻った方が良い。転ぶと大変だからね。」
僕は龍田が過去の人格と仮定して話しかけた。龍田は弾かれた様に僕の方を向いた。「忠義…。」その声は震えていた。腕を指さし、尋ねてくる。「その腕と顔は、どうした…?」僅かながら顔が蒼い龍田。僕は静かに語りかける。「僕の姿が、これだ。ただ死んではいない。必ず、戻って来る。」暫く黙っていた龍田が、口を開いた。「君の、いや忠義の過去は見させてもらった。君も、私の過去を見たと思う。私が君を好きに成った理由も、分かっただろう。責任は取ってくれ。」どうやら、龍田は僕と同じ時間軸から来たようだった。恐らくだが、それぞれの過去を見てきたのだろう。幽霊の様に。つまり、龍田は僕の過去を知っている。「ああ、責任は取ろう。話は変わるが、僕は現世ではどうしている。」問いかけると、龍田は首を横に振った。
「いなくなった。」数秒か、数分か。その言葉を理解するのに、傍から見れば短く、だが僕からすれば異様に長く感じられた。「いなくなった?」鸚鵡返しをした僕は、悪くないと思う。
龍田曰く、僕の肉体はこの世界とはまた別の世界に存在するらしい。更に詳しく話を聞くと、ここはどの世界にも属さない特殊な結界の中らしかった。「多分だけど、この結界を作ったのは島神様だと思う。」龍田が口を開く。島神様とは恐らく、八丈島の彼を言っているのだろう。「お互いの事を知る為に、このような結界を作ったのだと思う。そして、島神様にとってもここは大切な場所だ。ここには人々の幸せな生活が満ちているのだから。」僕が納得して居ると、後ろから声が掛った。「君達、現世に戻りなさい。ここは余りにも死に近すぎる。」声を掛けたのはあの老人だった。彼は柔らかな頬笑みを浮かべ、近付いてくる。「島神様、有難うございます。」龍田がそう言うと、老人こと島神様はカカと笑った。「いや、感謝される事はしていないよ。早く戻りなさい。」そう言って、島神様はそれを指さした。
そこに有ったのは、黒々とした闇だった。「この中を進めば、現世に戻れる。早くしなさい。」僕達は闇の中に踏み込んだ。入って即、龍田の気配が消えた。
当前だろう。龍田と僕では向かうべき場所が異なるのだから。
何分経っただろうか?時間の感覚が麻痺するほど歩いた。だが、未だに闇に包まれたまま。更に時は過ぎた。漸く光が見えてきた。それはトンネルの出口の様に1点に見えた。走り出す足は、もう抑えられない。
気が付いた時には、僕は知らない天井を見ていた。窓からもたらされる日の光は白に近く、昼位の様だった。やっと現世に戻る事が出来た様だ。安心して瞼が落ちる。
しかしその後、僕は明晰夢のようなものを見た。
♢
僕は最後に何を見たのだろうか。意識だけが存在する状態で、必死に考えをめぐらした。
そうだ、あの子の船としての最後と、人として再び生まれ落ちた時のことを見たんだ。そして、僕と出会った時のことを追体験したはずだ。
最後は、誰かに会って、それで。…思い出せない。
必死に思い出そうとしたとき、人の気配が不意に出てきたことを感じた。
それは可笑しなことだったはずだが、僕は違和感なく受け入れていた。
「だれ…?」
疑問に思ったことを声に出した。いや、出してしまった。
僕は驚いて、下を見た。足がある。自らの体を、見れる範囲で見る。
全ての四肢が付いていた。着ている服は相変わらず弓道着だったが、それでも今の僕には視覚と聴覚が生きていることが分かった。
目の前に広がっているのは、発光する黒い空間だった。
目の前の空間がゆがみ、靄状の何かが現れる。
人型を取ったそれは、僕の目の前で明確な形をとった。
”聞こえるか”
その人型が、僕に話しかけてきた。いや、本当に話しかけてきたのかすら判別が難しい。だけれども、意思疎通をしようとしていることは理解できた。
”俺はお前であり、お前は俺だ。”
その発言を、僕はしばらく理解は出来なかった。
「君は、僕のもう一つの人格という認識でいいかい。」
僕はしばらく考えた後、そう問いかけた。
”そうだ。お前には秘密がある。俺が今覚醒したのも、それが理由だ。”
僕はその秘密を聞いて、本当に驚いた。
まず、どうやら僕の体は殆ど妖怪の物だったらしい。
しかし、生まれてくるときに妖怪としての形質が潜性化した様である。
長い年月をかけて、体から妖怪としての要素は段々と少なくなっていったそうだ。
だが、数か月前の矢傷で妖怪としての形質が急速に強化されていった。
その理由は分からないものの、鏃に何か細工が有ったのかもしれないらしい。
そして、数時間前の鬼の襲撃を受けて妖怪としての魂魄が発生した。
また、その魂魄が目の前の黒い靄であることも。
僕はその話を聞いて、その魂魄に名前を付けようと思った。
その理由は、まず名前を付けた方が呼びやすいという事。
何より、名前がないのはかわいそうだと思ったからだ。
その事を目の前の魂魄に話すと、ふっと微笑んだような気配がした。
顔がないのでわからないが、そんな感じがする。
”そうか。名前は話し合って決めた方がいいだろう。”
「今思いついた。僕は忠義という名前がある。その忠の字を使って、忠正、というのはどうだろう。」
「ありがとう、俺は今から忠正だ。よろしく頼むぞ、忠義。」
「ああ、こちらこそ。忠正。」
明確な姿となった忠正は、烏天狗の姿をしていた。
ふと僕は腕を見る。驚いたことに、その腕は人のそれに戻っている。
「お前は人間だ。妖怪は俺の役割だ。だから安心しろ。お前はもう妖怪にならない。」
「ありがとう。」
僕はそう言った後、急速に意識を落としていった。




