7 悲劇の脇役になるはずだった人の違和感②
あれから、姫香のことが頭から離れない。
姫香にあんな一面があったなんて俺はまったく知らなかったし、もちろん学校の奴らも知らないだろう。
俺たちの学校は高等部と中等部とで利用時間帯は分けられているものの、皆食堂で昼食をとる。席は特に決まっていないため自由に場所を選べるのだが、姫香のまわりはいつも男子が取り囲み、少しでも姫香の近くに座ろうと取り合いをしていたことを思い出す。
俺はそれに参加したことはなかったから、彼女が食事をしているところを近くで見たこともなかった。けれども他の男子が「小食で可愛い」と言っていたことは覚えている。
そこまで考えて、ふと気づいた。
最近、姫香を食堂で見ていない。
悪意の矛先が俺に向けられていた頃、俺は食堂で食事をとることができなかった。突き飛ばされたり足をかけられたりして転倒し、昼飯を床にぶちまけてしまうことが何度も続いたからだ。あの頃のことは、今でも思い出すたびに苦しくなる。
ひょっとすると姫香は今、以前の俺と同じ目に遭っているのかもしれない。
今までそれに思い至らなかった自分の鈍さに苛立ったものの、すぐにハッと我に返る。そもそも普段から、姫香への嫌がらせに見て見ぬふりを決め込んでいるくせに、今さら何を気にすることがあるのだと。しかも姫香は今もまだ、何かを企んでいるかもしれないのだ。下手に同情なんてすれば、また足をすくわれる。やはりかかわらない方がいい。
それでも階段から転落した後の姫香は、一度も俺に対して敵意を向けてこないことも、また事実だった。それどころか周囲からの敵意にもじっと耐えている。俺ですら音をあげたくなった厳しい環境を、ただひたすら耐えている女を恨み続けるのは、あまりにも難しかった。
◇
翌日、俺はクラスメイトたちと同じテーブルで昼食をとりながら、こっそりと周囲に視線をめぐらせていた。広い食堂には八人掛けのテーブルがずらりと並んでいて、利用する生徒でいつも混雑している。けれども姫香の容姿は目立つうえに周囲に男子が集まるため、他の生徒が大勢いる場でも彼女の存在が埋もれることはなかった。
ましてや今の姫香は、悪い意味で以前の姫香よりも目立っている。彼女のまわりには彼女を責める生徒や、暴言を吐きにくる生徒が集まってくるため、なにかしらの騒ぎになっていることが多いからだ。
ざっと見た感じ、食堂に妙な騒ぎはない。やはり姫香はここには来ていないのだろう。
俺自身は特別教室棟に逃げ込んでいた。理科の実験室や音楽室、美術室などが並ぶ特別教室棟は、普通教室棟とは違って授業がない時間は閑散としていたからだ。そこで持参した握り飯や菓子パンをかじっていたが、味なんて感じなかったし、そもそも食欲もほとんど湧かなかった。悪意の視線から少しでも逃れるために、ただ身を隠すだけの避難所だったのだ。
それを思い出していたとき、ふと気になる一角を見つけた。
俺たちのテーブルの斜め隣、食堂の隅にあるそのテーブルは、男子と女子が混在する形で席が埋まっていた。皆、おとなしく冴えない印象で、それぞれ黙々と食事をしている。彼らはただ同席しているだけで、友人同士で固まっているわけではないのだろう。そういうテーブルは他にもいくつかあって、誰もがつまらなそうに昼飯を口に運び、食事が済めば黙って去っていく。
なのにその中で一人、やけに元気よく食べ進めている奴がいたのだ。
ボサついた長い髪を左右で三つ編みにし、野暮ったい瓶底眼鏡をかけている小柄な女子。あんな女子、いただろうかと考える。この時間に食堂を利用するなら、中等部の生徒なのだろうが見覚えがない。
その女子はずっとテンポ良く食事をしていたのに、最後の白飯を箸でつかんだとたん、それまでの勢いがピタリと止まった。分厚い眼鏡のせいで彼女の視線はわからない。けれども最後の一口をじっと見つめているのは、雰囲気でわかった。そして彼女が大事そうに最後の白飯を口に運んだ瞬間、ハッと気づく。
姫香だ。間違いない。
変装して、食堂に来ている。
思わずバッと目をそらす。心臓が激しく脈打ち、頭は大混乱を起こしていた。
え、アイツ何やってんの?
そこまでして食堂に来るか?
髪型や雰囲気を変えてまで?
あのくそダサ眼鏡は何なんだよ!?
うつむいてぐるぐると考えていた俺に、同じテーブルにいた友人が「松任谷? どうかしたのか?」と声をかけてきたので「なんでもねえ」と返す。その間に視界の端で、姫香がそっと席を立って食堂を出ていくのが見えた。変装の効果は抜群で、誰も姫香だとは気づかない。彼女の小さな背中をこっそり見送った俺は、言いようのない高揚感を覚えていた。
翌日も、三つ編みダサ眼鏡女に変装した姫香は食堂にやってきた。今度は配膳カウンターに並んでいるところから気づいたため、こっそりと観察する。姫香は一人分の食事量しか取らず、白飯は少しこんもりしていたが、あれくらいなら食べる生徒は他にもいる。きちんと周囲に合わせているようだ。
この日も姫香はおとなしい生徒が集まる席に静かに腰を下ろし、ぱくぱくと元気よく食べ進め、最後の一口を大事そうに味わってから、また静かに席を立っていった。
その翌日も、さらに翌日も、姫香は食堂にいた。
日に日に飯の量が増えていくのは、俺の気のせいではないはずだ。
未だ誰にもバレていないことで、大胆になってきたのかもしれない。いつしか変装した姫香を食堂の中で探すことが、俺の日課になっていた。
◇
食堂で姫香の観察を続けて、一週間が経った。
今日の姫香は、少々調子に乗ったらしい。
飯が茶碗の高さの三倍くらいになっている。
完全に盛りすぎだ。
今日は、姫香との間に別のテーブルを挟む形でとなりあう席についていた俺は、まるで自分のことのようにハラハラしてしまった。
さすがにあの量を食う生徒は滅多にいない。運動部の男子の中でも、特に体格のいい生徒くらいだろう。俺自身も午前中に体育の授業があったりして、普段より腹が減っているときですら、あれほど盛ったことはない。俺は内心で激しくツッコミを入れた。
バッカじゃねえの!?
それじゃ変装してる意味ねえだろ!
自ら目立つことしてどうすんだよ!
案の定、姫香と同じテーブルを利用していた、互いに干渉しあわないはずのおとなしい生徒たちが、ちらちらと姫香の茶碗に視線を向けている。なのに本人はその視線にまったく気づかないようで、いつものように元気よく食べ進めている。
目立つこと、この上ない。
「なあ。あっちのテーブルにいる女子、飯の量すごくねえ?」
隣にいた友人がふと呟いた言葉に、ぎくりとする。そんな俺とは対照的に、同じテーブルの友人たちが興味深げに頭をめぐらせてその女子を探し始める。そして「うわ、マジかよ」と声をあげた。
「すげえな。山盛りじゃん」
「あれ、誰だ?」
変装した姫香の飯の量に気づいた友人たちが、次々と首を伸ばして彼女の顔をのぞき込もうとする。すると俺たちの周囲のテーブルにいた面々も、何事かと興味を示しはじめる。そこで姫香もようやく自分が注目されていることに気づいたらしい。昼飯に集中していた状態から、ひょこっと顔を上げた。
一度注目を浴びてしまえば、姫香の顔立ちはダサ眼鏡くらいでは隠すことができなかった。華奢な輪郭も、小ぶりな鼻も、花びらのような唇も、すべてが『ここに美少女がいる』と雄弁に物語る。
「え、姫香?」
誰かの声があがり、とたんに周囲がざわつき始める。白鳥姫香は今でも陰口の対象で、面と向かっての暴言も減っていないし、嫌がらせも止んでいない。
いつも姫香にきつく当たる同じクラスの女子数人が、ぱっと席を立って姫香のテーブルに駆けていく。そして食事をしていた姫香を左右から挟み込み、彼女の眼鏡を無理やり奪い取った。
「やっぱり!」
女子たちが勝ち誇ったように騒ぐ。
「ここには来るなって言ったでしょ!?」
「みんなの迷惑だから出ていけ!」
自ら足を遠ざけるよう仕向けられた俺よりももっと直接的に、姫香はクラスの女子から「食堂に来るな」と言われていたようだ。居合わせた生徒の反応は様々だ。楽しいことが始まったと面白がる者、眉をひそめる者、かかわりたくないとばかりに食堂から出ていく者。そして一番数が多い、ただ黙って見ているだけの者。
俺も今まではそうだった。けれども女子の一人が、姫香の味噌汁が入った椀をつかんで振り上げた瞬間、たまらず席を立った。




