軍靴のひびき 2
アイヴァーさんの職業は、馭者ではない。
隠密に長けた斥候である。
敵地に単独で潜伏して、機密書類の奪取、或いは工作などが得意で――すっと伸びた腕に絡めとられる衛兵ひとり。身体全体でホールドしたように抑え込み、口と鼻を掌にて塞がれた兵士は、静かに堕ちた。
彼の芸術的な技術は不殺。
相手を気絶させるのが得意だ。
不用意に殺し、亡骸が発見でもされると。
先ず、侵入が疑われる。
殺害が任務にも必要悪ともなるのでも。
不用意ではなく、相手の不用心に特化した形で殺害する。
例えば、城壁から落ちる...とか。
酒に溺れる...とか。
厠か、風呂場で転んで、とか。
兎に角、不自然なんだけど自然な殺しにする。
《それが一番、神経が削がれるから殺したくねえんだよなあ》
◇
アイヴァーさんが潜入して、10日あまり。
見つかり難いのは。
斥候としての活動を『夜』に限定しているから。
夕闇とか、宵のうちなんてでもなく、深夜の数時間のみ。
日付が変わって、しんと音が消えたようになる頃あいに、だ。
無意識にも、夜型の警備兵さえも眠気が誘われる、時間がある。
2時ころの前後なんだけど。
この時間の世界は、蛾の羽ばたきも耳に届きそうなほど、静まりかえって――
それこそ耳をすませば山肌の転がる石の音さえも、詩的に聞こえるだろう。
《さて、執務室を最後にしたが...》
砦の最奥。
小さな館造りの建造物だけど。
他の防御施設にがっちりと、守られた構造になってる重要拠点。
尖塔から見下ろすと。
その重要度がより分かり易い。
このためだけに。
毎回、尖塔へ登るのだが――「いい加減、こう登っては真下の藁山にダイブするのも...億劫だな。結局、城壁に昇って見張りの死角に入ってやり過ごし。対岸の館を目指すのだし...(指の間へ互いに挟み合わせて)こう、もっとエキサイティングに冒険したいものだ」
なんて独り言ちる。
いや、そもそもアイヴァーさんから“冒険”という言葉は信じられない。
あたしなら兎も角だけど。
斥候を生業として、生まれた時から叩き込まれる魔狼族。
ライカンの上位種にして魔界の猟犬とも言い伝えられる存在。
もっとも、人狼だってわりと目撃例は少ない。
これは彼らがストイックなまでの現実主義者だから。
冒険なんてしない。
確実とか。
堅実とか。
実直にとか。
固い言葉の似合う人たち。
いや、まあ。
個体差はあって、ちょっと上付いた者はいるだろうけど。
そうした性格の振り幅も、あたしらとは違う訳なんだけども。
風が鳴く。
弩から放たれた矢が、対岸に向かって飛んだのだ。
射手は勿論、アイヴァーさん。
念のために2本のロープが張られる。
《回収? 考えてねえよ...マジで》
とりあえずは。
そう、館への綱渡りからはじめよう。