起死回生の一手
草木が風に揺れる音以外何も聞こえない。
ここにいるのは三人以外いない。
そのはずだった。
『ここから立ち去れ』
洞穴の奥から声がした。
まるで地獄の底から這い出てきたような酷く醜い声。
聞き間違えただけ、今のはただの風の音、そう願わずにはいられない。
恐怖と不安と焦りで口から音が漏れ出る。
「「「……っぁ……」」」
動揺のあまり言葉にならなかった。
何か発しようとするが、空気が抜ける音がするだけで言葉としては機能しない。
三人は、声の悍ましさにただただ体を震わせる。
口が駄目なら目と思い、必死に声の主を確認しようとするが、洞穴の奥にいるせいで姿までは見えない。
日が落ちた事による心細さ、恐ろしい声、姿が見えない不安により、三人は正気を保つので精いっぱいだった。
『死にたくなければここから立ち去れ』
やはり洞穴の奥から声がする。それもこの世の物とは到底思えない声が、確実に、ハッキリと耳に入ってくる。
狂信者の雄叫びや誰かの断末魔、それに連なる怨嗟の声等を実際には聞いたことは無いが、それらよりも遥かに恐ろしい。
出来る事なら今すぐ耳を切り落としてしまいたい。そんな衝動に駆られる程の声音。
身の危険を感じた父親は、子を背に庇い虚勢を張る。
「な、な、何なんだあんたは!」
背に隠れた二人は歯をガチガチ鳴らし震えている。
ドス、ドス
洞穴から足音が近づく。足音の大きさから考えると、その声の主は巨体だと分かる。
恐怖のあまり冴えてしまった三人の頭に、要らぬ情報が追加される。
声だけでも恐ろしいのに、それが巨体ともなればどうか?
その先を想像をしては駄目だと分かっているのに、冴えた頭はそれを許してはくれない。
そんな三人の思考を他所に、声の主は一歩一歩ゆっくりと、そして、確実に近づいてくる。
その足音が、まるで自らの死をカウントダウンしているような、そんな錯覚に陥る。
遂に三人は恐怖のあまり腰が抜ける。
それでも尚、この場から逃げたい一心で体を這わせるが、恐怖により思うように動けない。
――奴を見たら死ぬ――
三人は直感的にそう思ってしまった。
逃げたい、離れたい、死にたくない。
ただその一心で、硬直した体に鞭を打つ。
ドス、ドス
尚も近づく足音。遂に子ども二人は気を失った。
しかし、父親はそうもいかない。
涙と鼻水を垂れ流し震えるが、自らの命を投げ打ってでも守らなければならない。
我が子だけでもと、二人を抱き寄せ懸命に這う。
ドス、ドス、ガサ
足音の質が変わった。嫌な予感しかしなかった。
きっと外に出た、そうに違いない。
出て来てはいけないものが、遂に出て来てしまったのだ。
見てはいけない。しかしその思いに反し顔は正面を向こうとする。
引き寄せられるように、ゆっくりと、顔が向く。そして――
『我が名はバルトリー、地獄の使い。死にたくなければ……ここから消え去れぃ!』
それは地獄そのものだった。底冷えのする声、この世のありとあらゆる醜悪を詰め合わせたかのようなその姿。
見ただけで呪い死ぬと思われても不思議ではないそれを見て、父親の矜持で持っていた精神は呆気なく霧散した。
『今ならば見逃してや……何だもう気絶したのか、決めのポーズまでやりたかったのに……』
その見ることすら憚られる怪物は、そう愚痴ると同時にその巨体を揺らした。
「地獄の使いでは小物感があるか?……冥府の使者とでも名乗った方が良かったか?」
揺らいだ巨体はまるで蜃気楼のように消え、声の主だけがその場に残る。
「それにしても、溜めを作ってみたのが功を奏したか?我ながら実に良い演技であった。『……ここから消え去れぃ!』くぅ~カッコ良い!……ただ、見た目がグロテクスなのはこう……気持ちが悪い……いや、やはり不愉快だな」
先ほどまで悍ましい怪物であったはずのそれは、今は人間の手のひら程に小さくなっている。
重々しくドスドスと踏み鳴らしていた足音とは違い、軽々しくトコトコと三人に近づく。
「一先ず、これで暫くは追われる心配は無いな……さてさて」
そう言いながら、小さな手と特徴的な尻尾を巧みに使い、気絶した三人の懐を弄る。
「くっ、目ぼしい物は何も持ってないではないか!木の実の一つでもあれば良かったものを……不敬だぞ貴様ら――」
パシッ
そう言いながら二本の尻尾を巧みに使い、気絶している三人の顔を叩く。
本人は叩いているつもりでいるが、その攻撃はとても軽く、叩くよりは撫でるに近い。
フサフサな毛のせいか心地よい感覚を与えるのみでしかない。
しかし、当の本人はしっかりとダメージを与えていると思い込んでいる。
パシッパシッ
一発では気分が静まらないようで、その尻尾攻撃を存分に奮う。
それぞれに三往復した辺りで満足したのか、一人呟く。
「こいつらが目を覚ますとまた追い掛け回されるからな……とりあえずこれで勘弁してやるとするか。有難く思えよっ――」
パシッ
最後の一撃をお見舞いし気分が良くなったのか、その足取りはとても軽い。
そして、追われてきた方角を確認しながら次の目的地を定める。
「確か東の方から追われて来たんだったな。北は寒いし、とりあえず西へ離れるか」
そうして、気絶した三人を尻目にその場を去っていった。
目を通していただき、ありがとうございます。
どちらかと言えば、良い評価よりも辛辣で率直な感想を貰える方が望ましいです。
より良い物ができればと考えています。