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その、とき・・・

作者: ninjin

「ねぇ、やめようよ。そんなこと、本当に、やめて。あたしは、そんなつもりで言ったんじゃないの。それにね、あんな噂、まさか、信じてないわよね。信じて・・・お願い・・・」

 目を見開き、怯え、哀願の表情を湛えた麻裕美の顔が、次第に歪んで往き、それはまるで水に溶かした水彩絵の具のように・・・


 うわあああっ


 俺は叫びながら目を醒ました。

 叫びながらといっても、本当に声が出ていたかは分からない。

 俺の息は、はぁはぁと荒く、そして、酷い寝汗だ。

 

 それにしても・・・、いつまで続くのだろう・・・

 もういい加減、終わりにしないか・・・

 俺は、ふと、隣であちら側を向き、まだ寝息を立てている女を見遣る。


 何かハッキリとした感情が湧き起こる訳ではない。

 自分でもよく理解していないのだが、それは愛しさと虚しさ、そして憎しみと慈しみ、それから思慕と無関心・・・。そんなものが入り混じった、どす黒い欲望・・・。


 俺はその欲望を抑えきれず、麻裕美の身体に手を伸ばす。

 !

 不意に寝返りを打ち、こちら側に顔を向けた彼女の頬に、一筋の涙が流れるのを見てしまった俺は、伸ばしかけた手を止め、そっとシーツから抜け出した。



 黙って部屋を出て、ただ何とはなしに俺の足は、海の見える丘陵地にある墓地に向かっていた。


 美しく整備された墓地の遊歩道を歩きながら、ふと、ある墓石の前で足を止めた。まだ供えられたばかりであろうキンセンカの手向けられたその墓に、酷く寂しい心持になり、暫くの間、その墓石とキンセンカをじっと見詰めていた。

 どうしてこれほどまでにこの墓、そしてこのキンセンカに心乱されるのかは分からないが、兎に角俺は、これ以上この場に居ては、精神がどうにかなってしまう気がして、そこに吸い寄せられそうな身体を無理矢理に引き剥がすがごとく、再び前を向いて歩き始めた。

 後ろ髪引かれる思いで、海を見下ろす丘陵地の遊歩道を、東に向けて歩いていると、眼下に広がる海のずっと先、海と空の境目辺りが、徐々にその境界を顕わそうとしている。

 間もなく夜が明ける。

 俺は何故だか、少しばかりの焦りを感じ、ちょっとばかり前のめり気味に歩を速める。

 意識が朦朧としてきた。

 起き抜けに何の準備もせずに歩き始めたからだろうか?

 あれだけ寝汗をかいて、碌に水分も取らずに歩いたからかも知れない・・・。

 何だか、今になって、眠いような気がする・・・。



 一日中、自分が何処で何をしていたか、何処をどうほっつき歩いていたのか、考えるのも億劫な気がして、俺は考えるのを止めにした。

 何だかとても疲れている。

 家に帰ろう・・・。

 麻裕美はいつまでも帰らない俺のことを、心配してくれているだろうか?

 それとも、ここ一ヶ月以上、顔を合わせても口を利かない俺のことなど、もうどうでも良いと思っているのだろうか?

 怒っているのだろうか・・・。



 部屋に戻ると、もう既に部屋の照明は消え、窓からの月明りに照らされ、ぼんやりと見えるベッドの凹凸に、麻裕美が既に就寝していることが分かる。

 俺はほんの少しだけ寂しさを感じながら、暫く麻裕美が寝入るその姿を見詰めていた。

 それから、麻裕美を起こさないように、そっと、麻裕美の隣に寄り添うように、ベッドに潜り込んだ。

 俺も疲れた。

 麻裕美も、仕事で疲れているのだろう・・・。

 俺は小さく、声にもならない声で「お疲れさん、おやすみ」、そう呟くように言って、そして俺は、気を失った。



 翌日、目が覚めたのは、朝の八時少し前だった。

 ベットに麻裕美の姿は既に無く、隣のリビングに彼女の気配を感じる。

 俺は昨日の疲れもあり、まだ暫くこのまま寝ていたい、そう思い、そのままウトウトと夢見心地でベッドに留まった。



 半分の意識と、もう半分の無意識の中、俺は水の中にゆっくりと沈んで行く夢を見ていた。

 沈みながら、特に息苦しさも感じなければ、もがくようなこともない。

 ただ、朧げに感じるのは、未練とでもいうのか、何か心残りというか、残念な思いが胸の中に僅かに感じられるのだが、それが何に対してなのか、誰に向かってなのか、そしてそれが何を意味するのか、さっぱり分からないでいた・・・。



 寝ているのか、起きているのか、かなり曖昧なままの状態で、俺はどれくらいの時間を過ごしたのだろうか。

 今日は確か土曜日で、麻裕美も仕事は休みのはずなのだが、リビングの気配からすると、麻裕美はどうやらこれから出掛ける様子だ。

 寝入っていた俺に気を遣って?それとも、俺のことはもう諦めて?、麻裕美は独りで出掛ける準備をしているらしい。

 ・・・・・・・・・。

 このまま、俺は俺で、寝たふりをして、麻裕美が出ていくのを待とう・・・。

 良いか悪いかは別として、今日は麻裕美の後を尾行(つけ)てみることを思い付いた俺は、毛布にくるまったまま、ジッとリビングの様子を伺った。

 不意にこの部屋のドアが開いても、起きていることに気付かれないよう、俺は敢てドアに背を向けるようにして寝たふりを続ける。

 暫くして、案の定、寝室のドアが少し開き、何とはなしに寂しげな、掠れたような「行ってきます・・・」という、麻裕美の小さな声が聞こえた。

 背中にその声を聞きながら、俺は思う。

 俺に言っているのだろうか、それとも、あまり意味は無いのだろうか?

 疲れて寝入った俺を気遣ってくれているのか・・・。

 今すぐ跳ね起きて、麻裕美を抱き締めたい・・・。


 俺は衝動を抑え、息遣いを乱さぬよう、目を開けたまま、身体を強ばらせていた。


 寝室のドアが閉まり、俺は音を立てないよう、ゆっくりとベッドから起き上がる。

 寝室のドアに聞き耳を立てると、程無くして、玄関のドアが開き、そして、『カチッ』とオートロックが閉まる音がした。

 その音を確かめると、俺は寝室を出て、ほんの少しだけ間をおいて、麻裕美の後を追って玄関を出た。

 エレベーターが一階に降りるのを確かめ、俺は非常階段を使って一階まで降り、マンションのエントランスを出て、麻裕美の姿を探す。

 すると、マンションを出て右方向、百メートルほど先に、駅方面に向かって歩く麻裕美の後ろ姿を捉え、俺は気取られないよう、そして、見失わないよう、用心深くその後を追う。



 駅方面に歩く麻裕美の足取りは、何処かしら重そうに見えるが、気のせいか。

 あまり気乗りしない出掛け先なのかも知れない。それなら、俺に相談してくれれば良かったのに・・・。俺にだって、少しくらいは某かのアドバイスや、協力くらいできたかもしれない。

 何なら、一緒に付いて行くことだって出来たのに・・・。

 ただ、今、このコッソリと後を尾行(つけ)ている状況で、いきなり追い付いて『よう』と声を掛ける訳にもいかない。

 そうこうしている内に、麻裕美は先に駅に辿り着き、そのまま駅構内に入って行くと思いきや、駅前のバスロータリーを半周した先の、タクシー乗り場に向かって行った。

 不味い。

 タクシーに乗り込まれて、先に出発されると、見失ってしまう。

 俺は慌てて走り出し、麻裕美が振り返らないことを祈る。

 しかし、万が一振り返られて、気付かれたら、その時はその時だ。

 だが、なんて言い訳しよう?

 ええいっ、そんなこと、どうだって良い。


 しかし、麻裕美が振り返ることは無く、彼女はそのまま先頭に並ぶタクシーの後部座席に吸い込まれるように乗り込んで行った。

 僕は息を切らし、タクシー乗り場に辿り着くと、前に並んでいた一人の客に、申し訳ないとは思いつつ、その脇をすり抜け、次に先頭にやって来たタクシーに飛び乗る。

 タクシー運転手はルームミラー越しに驚いた表情を見せ、一瞬息を飲み込むような仕草をして見せた。

 俺は、今、順番を無理矢理に追い越して乗り込んだことを、咎められ、降車を促されるかと思ったが、運転手は、『ふぅ』と、息を吐いて、『珍しいお客さんだ・・・』、そう俺に言っているのか、独り言なのか判断の付かない声を漏らした。

「すみません、割り込みしたのが悪いのは分かっていますっ。ただ、急いでますっ。今、前を行ったタクシーの後を付いて行ってくださいっ、お願いしますっ」

「今、前を行った・・・、ああ、あの黄色のタクシーですね・・・」

 運転手は右前方の、ロータリーを出た直ぐ先の信号で、信号待ちをしている麻裕美の乗ったタクシーを確認して、ウインカーを右に出した。

 車をスタートさせた運転手は、特に僕の行為を咎めることはせず、黙ったまま、ゆっくりとハンドルを回し、再度ルームミラーで俺の方を伺う。

「それで、お客さん、相手には気付かれない方が良いんですか?」

「あ、ええ、まぁ、出来れば・・・」

「分かりました。では、多少距離をとって、見失わないように・・・。にしても、珍しいな・・・」

 そうか、タクシーを使った尾行まがいのことなんていうのは、ドラマや映画の中だけの話で、あまり滅多にあることではないのだろうな。

「すみません、変なお願いしてしまって・・・。やっぱり、こんな尾行じみたことって、あんまり無いんですよね?」

 そう言って苦笑い気味に問いかける俺に、運転手は「いや、ええ、まぁ・・・」、そう歯切れの悪い、お茶を濁すような返答をした。

 あまり良い空気感ではなく、そのまま俺と運転手の会話は途切れた。


 その後タクシーは、見事に着かず離れず、麻裕美の乗るタクシーの後を追ってくれたのだが、二十分ほど走り、街中を抜け、郊外の田舎道に差し掛かる辺りで、流石に運転手から声が掛かる。

「お客さん、これから先は、付いて行くのはかなり不自然ですねぇ。どうしましょうか?」

 運転手の言葉に、俺は少し考えて、「では、その先の停められそうな所で、停めてください」

「分かりました」

 運転手はそう答えると、バス停先の、少し道幅の広くなった場所を見付けて、タクシーを左に寄せて停車した。

「ありがとうございます。では、ここで」

「え?良いんですか?ここまでで?」

「ええ、ここまで来たら、恐らく行き先は、『思った所』で間違いないので」

 俺はそう言って、運賃メーターを確認しようとすると、おや、メーターに表示は無い。

「あ、の・・・、運賃は、お幾ら・・・」

 運転手は何故か目を見張る。

「いえいえ、運賃は結構ですよ・・・。メーター回してませんでしたし・・・。それに、あなたからは、頂けません・・・」

 ん?何か勘違いしているのか?

 俺が本当に刑事か何かで、犯人か容疑者を尾行していると?

 そんな警察に協力したことに対して、運賃は請求できないと・・・?

 まぁいい。ここで運転手とやり取りしても埒が明かない。

 勘違いに乗じて、甘えてしまおう。

「ありがとうございました。ではお言葉に甘えて・・・」

「・・・お気を付けて・・・」



 タクシーから降り立ち、そのタクシーが走り去るのを見送った俺は、辺りを見渡し、大きく息を吸ってみた。

 懐かしい匂いがする。

 いや、本当は匂いなんてしない。雰囲気の問題だ。

 久しぶりに戻って来た実家の周辺。

 現在街中で暮らすマンションから、ほんの車で三十分ほどの場所に在る実家なのに、俺はここ数年、まるでそこには寄り付こうとしなかった。

 仕事関係と、それに俺の体調のこと(主に酒で身体を壊していたのだが)で、実家とは疎遠とは言わないまでも、あまり良い関係とは言えない状態が、ここ数年続いていた。

 恐らく麻裕美は、もう彼女にはどうすることも出来ない、そう思って、今日、俺の実家に相談に行くのだろう。

 怒りなど込み上げて来ない。

 寧ろ逆だった。

 麻裕美にも、実家の両親、そして兄、姉たちに、申し訳ない気持ちと、自分自身の情けない姿に、胸が押し潰されそうだった。

 今日はちゃんと、謝ろう・・・。

 俺が、馬鹿だった・・・。

 皆を、悲しませて、苦しめた・・・。

 俺が悪かったって、そうちゃんと言おう。

 遅いかも知れないけど、麻裕美はもう、許してくれないかも知れないけど・・・、ちゃんと、言おう・・・。

 俺は、歩いて、実家に向かった。

 もう何日も、酒は飲んでいない。



 歩いて実家に近付くにつれ、胸の締め付けられる感覚は次第に大きくなり、家の外観を認識する辺りまで来た頃には、かなりの息苦しさを感じるまでになっていた。

 昨夜といい、今日といい、少し歩き過ぎたのかもしれない。普段、運動らしい運動をすることも無く、勿論歩きもしない。今までの人生で、健康に気を遣ったことなど、ただの一度も無いのだから。

 それにしても、この息切れは、尋常ではないような気がしてきた。

 運動不足による息切れにしては、ちょっとおかしな感覚も同居している。何なのだろうか、この肺というより、更にその奥から不規則に湧き上がってくる息の詰まるような不快感。



 実家の門扉の見える路地までやって来たところで、とうとう俺の息苦しさは限界を迎えてしまい、俺はその場に(うずくま)るしかなくなった。

 駄目だ、息が出来ない・・・。

 苦しい・・・。

 次第に視界の外側から白くぼやけ始め、意識も遠退いていくのが分かる。

 霞んだ視界に映る懐かしの実家・・・。少しいつもと様子が違う気がする・・・。

 親戚のおじさん・・・あれは、従姉弟の・・・、今日は何かの集まりだったのかな・・・?

 俺は、そんな日に・・・たまたま、何年ぶりかに・・・、そして、このザマかよ・・・



 あまり良い心地とは言えない何かのリズムのような音で、俺は目を醒ました。

 あれ、結局俺は、誰かに家まで担ぎ込まれたのだろうか?

 親父、お袋、兄貴、姉貴、親戚の叔父、叔母、それに従姉弟たち・・・。

 やっぱり、今日は、親戚の集まりだったのだな。

 あ、麻裕美も確りと末席に・・・。

 俺も、麻裕美の隣に行かなきゃ・・・。



 おかしいぞ・・・。


 あれ、俺は、今、どんな状態だ・・・?


 麻裕美の(そば)に行きたいのだけれど、どうやって行けば良いのか分からない。身体の動かし方さえ分からない。


 俺からは、皆が神妙な、そして悲し気な表情をしているのが見える。


 一体、今日は何の集まりだったのだろう?


 この不快なリズムのせいだろうか?身体が言うことを聞かないのは・・・。


 何か、このリズムと誰かが唱える呪文のような言葉(?)、どうもこれに原因がありそうな気がする。


 俺に何処かへ、あちら側へ行けとでも言わんばかりの声に聞こえる・・・。


 今まで気にも留めていなかったが、ふと額縁に収まった人物の写真に目が行った。

 なんだ、俺の写真じゃないか・・・。

 遺影ってやつだな・・・。

 そういうこと、か・・・。


 俺は耳を塞ぐように、その音から逃れようとするのだが、この場所から飛び出すことも、音をかき消すことも出来ず、次第にそのリズムと言葉は、俺の身体深くにまで侵食して来るのだった。


 どれくらいの時間が経っただろう。

 恐らくは、三十分に少し欠ける程度だろう。

 俺の中に侵食してきた不快なリズム、そして、言葉は、やがて、どういう訳だか、俺の身体と混ざり合い、心地好さすら感じるようになってきていた。


 俺は恐らく、この場に留まるることは、正解ではない・・・。

 何処かは分からないが、この声が促す方角に向かえば、そこには満たされる世界が待っているように思える・・・。

 確かに、後ろ髪引かれるような思いが無い訳ではない・・・。

 だが、しかし、もう無理だ・・・。抗うことも出来そうにない・・・

 いや、抗う必要すら感じなくなっているんだな・・・俺・・・。



 みんな、さよなら、だね・・・。

 俺は、もう、大丈夫そうだよ・・・。

 今、凄く眠いんだ・・・。

 心地好い眠気だよ・・・。

 ・・・さよなら・・・ありがとう・・・。



「なむ~みょう~ほう~れん~げ~きょう・・・」

 お上人様の最後のお題目に、一同が一斉に同じように『南無妙法蓮華経』を唱える。

 そして、各々が目を閉じ、深々と仏壇に、そしてお上人の背中に向けて首部(こうべ)を垂れた。

 最後にもう一度、お上人は深々と位牌と遺影に向かって頭を下げ、それから後方に控える親戚一同に身体ごと向き直り、更に一礼をし、最後の説法に入る。

「本日、四十九日の法要にあたり、ご両親、ご兄姉、奥様はじめ、ご親戚の皆さま、ご一同様に於かれましては、この法要にご参列頂きましたこと、故人も大変に喜ばれていらっしゃることと存じます。本日の法要を持ちまして、故人:君島 文也さま、無事、ご成仏なさいました。・・・成仏・・・一言で申し上げましても、その容は、人それぞれの心に因るものでございます。ご一同様に於かれましては、是非、今後とも、故人を(しの)び、都度、思い出を語らわれて頂きますことを、切にお願い申し上げる次第でございます・・・」

 そう言って、もう一度参列者に向かって深々とお辞儀をしたお上人は、それから、再度遺影に向き直り、手を合わせ、そして座を立つ。

 文也の両親と麻裕美の促しで、お上人は仏間を離れ、隣の座敷に席を移した・・・。



 俺は、最後に、あの日のことを思い出した。

 あの日、俺は大量の酒と、睡眠薬を飲み、防波堤に立ち、麻裕美の悲痛な表情を見ながら、背中から海に落ちた。

 自ら落ちたのだ。

 麻裕美は何も悪くない。

 麻裕美が浮気をしていたなんて噂は、最初から信じてなどいなかった。

 それでも俺は、もう、これしか出来ることが無かった・・・。

 酒に溺れ、身体を壊し、脳も精神もヤラレ、もう自分の力でも、他人に力を借りても、戻ることは出来なかった。

 酒と睡眠薬のせいだろう・・・。身体は何一つ動かすことは出来ず、視界は歪んでいき、沈みゆく感覚だけ・・・。

 

 せめて、自分の意識がある間に、自分の意思で、生命(いのち)を断ちたかった・・・。

 バカな考えかも知れない・・・。

 でも、それしか考えられなかったし、それしか自らの意思で出来ることを思い付かなかった・・・。

 兄貴に何度も言われた、『理想論を語るのは簡単だ。でもな、何かを成すためには、それ相応の努力、我慢が必要だ』と。

 姉貴にも言われたっけ、『あんたは良いかも知んないけど、あんたが死んだら、周りがどんだけ悲しむか、分かってる?』

 今、少しだけ、分かるよ。

 麻裕美は、いつも悲しそうな目で、俺を見詰めて、そして、泣いていた。そして、『今のあなたは嫌い。でも、あなたなら大丈夫。あたしを信じて・・・。きっと、上手くいくから・・・、ちゃんと、元に戻れるよ。だから、お願い・・・』、涙を流しながら、そう言うのだった。


 俺は、多分、愛されていた・・・。今、分かった・・・。

 なんだ、そうだったのか・・・。


 もっと思い出したいような気もするが、段々どうでも良いことにも思えてくる。

 記憶と意識が薄れていく・・・。

 けれどそれは、決して悲しいことでもなければ、心残りでもない。

 今はただ、薄れていく意識、そして白く靄がかかり始めた世界に、身を任せるだけだ。

 『俺は』の『俺』が、誰なのか、分からなくなってきたし・・・、俺って・・・何・・・


 ・・・・・



「輪廻転生と申しますのは、決して怖いものでも辛いものでもございません。人は生まれながらにして『宿命(さだめ)』を持っています。勿論、文也さまに於かれましても、その『宿命』を精一杯生きて来られたのです。皆さま御一同様を拝見させていただくにつけ、故人・文也さまが、如何に皆様の心に深く刻まれ、愛されていらっしゃったのかということを、私も存分に窺い知ることが出来ました。つきましては、本日、この後も皆さま、ご歓談のお時間もおありかと思いますので、その折には、皆さまで文也さまに愛のお言葉と、慈しみの心で、是非故人様をお偲びになり、お送りして差し上げてくださいませ。何れ、また何処かで、文也さまの魂と、お巡り合いになられることも有るかもしれません。『その、とき』に、再び、良いご縁が結ばれますように、何卒・・・」



 田舎道の畑の路肩にタクシーが停まり、運転席から初老の運転手が降りてくる。

 彼は胸ポケットからタバコを取り出し、それに火を点けると、ゆっくり、そして大きくその煙を吸い込んで、少し上を向いてから、「ふぅぅ」と、音を立てながら煙を吐き出す。

 先ほどの男性・・・ちゃんと成仏できたみたいですね・・・

 そう思いながら運転手は、良く晴れた、十一月の空を見上げた。



    おしまい


お読み頂き、ありがとうございました。

ホラーと言うほどのものではありませんが…

前向きなお話と捉えて頂けると、幸いです。

何れまた、お会いできますことを、楽しみにしております。

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