あの子の歌
勉強の場所を借りるだけのはずだったのに、一曲歌う羽目になってしまった。やっぱりカラオケボックスになんて人と来るものじゃない。
強く拒めばこの場を凌げるのは分かっている。それでも、その後が漠然と怖いのだ。遺恨を残さない逃げ方を考えられない自分が恨めしい。
別に歌うことは嫌いじゃない。むしろ好きな方だと思う。ただ受けの良い十八番が皆無なのだ。
好きな曲が暗い曲、ひねくれた曲ばっかりで、私が歌うと大体場が静まり返る。歌っている最中の私は最高に気持ちが良いのだが、聴衆にはただの自慰行為としか映っていないことだろう。
音楽を人と楽しむ、音楽で人を楽しませるという文化が私の中にはない。だから人前で歌うのは苦手だ。しかし、二人きりの状況で一度リモコンを受け取ってしまった以上突き返すのは難しい。
どう誤魔化そうかと脳に血を送り込んでいると、ふいに友人の姿が思い浮かんだ。私と同じように少しひねくれていて、けれども人々から愛されている彼女は何を歌っていただろうか。何を聴いていただろうか。
彼女のレパートリーを思い出しながら、液晶画面をペンで叩く。音程が取れそうな中からノリの良くCメロまで歌えそうな曲を選んで送信した。
マイクを持って椅子に座る。うろ覚えの歌詞を字幕で補完しながら、聴衆の顔色をそれとなく見た。少なくとも引いてはいないみたいだ。
大きく外さなかったことに胸を撫で下ろしながら、私は視線をテレビに戻す。曲に入りすぎないよう注意しつつ、最後まで歌い上げる。後奏は手癖でカットした。
なんとなくバツが悪くて頭を下げる。そんな自分を自分で馬鹿らしく思う。
できるだけさり気なく視線を彼に戻してから、鞄のスポーツドリンクで喉を湿らせた。気疲れで少し頭がフワフワする。二曲目はもう無理だ。
「これ歌うんだ。ちょっと意外かも」
行儀よく聴いていた彼がそんなことを言う。意外に思うのは当然だろう。私の趣味ではなく私の友人の趣味なのだから。
「や、今日が初めて」
人の好きな歌を借りてしまった妙な後ろめたさから、嘘にならない程度の釈明が思わず漏れる。理解してもらうつもりは毛頭なかった。単なる自己防衛だ。
「え? ……え?」
これ以上話を広げられるとボロが出そうだ。
狼狽える彼を置いて、私はノートを開き直す。目は惰性で参考書の解説を追い始めたが、頭の中では曲のことしか考えていなかった。
私は人の趣味を借りないと人前で歌えないのだろうか。
室内では、ボリュームを下げ忘れたままのテレビが延々と曲の宣伝を続けていた。
ありがとうございました。