PIECE6:現実
冷たい鉄の箱は、まだそこに答えを残したまま存在していた。紙切れを入れた小さな箱一つ分のためにしては、この底は深すぎたのだ。
もう空っぽのはずのそれを覗くと、角にわずかにへこみがあった。指をひっかけて持ち上げてみる。ガコンと音がし、やっと目の前に"この世で一番美しいもの"が姿を現した。
――箱。丁寧に布で包まれて紐で結ばれている。それをほどいて、中身を手に取る。
手すりにもたれて無意識についた長いため息は、震えて途切れ途切れになった。
「やっぱり、気がついていたんですね」
デオットは目を見開いて、声のする方に顔を向けた。同時に、手に持っていたものをしまって、それを元あった鉄の箱へと戻す。そして何事もなかったように訊いた。
「どうして戻ってきたのですか?」
その質問に、入口に立つヴェルナンド探偵は、はっきりと言った。
「あなたが確信している別の答えを確かめたかったのです」
「答えなら、もう出たじゃありませんか」
「いや、トレントさんが"空"と読むと説明した時、あなたは『そうともとれる』と言いました。自分の考えを妥協していない証拠です」
デオットは無表情で灰色の地面を見ていた。
「ママに夫がいたというのは事実ですか?」
「もちろんです」
「では、なぜどこにも仏壇がないのでしょうか。お墓はあるのですか?」
「……関係などありましょうか」
「ええ。なぜならそれこそが、本当の意味を示すものなんですから。あなたが見て知ってしまった、彼女の愛する夫の――」
「言うな!やめてくれ!……あまりにも残酷というものです」
怯えたようなその眼で睨み、探偵の口を閉ざした。それから幾分か落ち着きを取り戻して、「前に一度、見てしまったのです」と自ら語り出した。
「皆寝ていたある早朝のことでした。私はなぜか目が覚めてしまって、屋上から光が洩れているのに偶然気がつきました。不思議に思って階段を上がってみると、出入り禁止のはずのドアが開いていました。その先にはママがいて、何やら笑っているようなのです。そして微かに残る月明かりに照らされて、ママの手の中にあるそれを見た時、私は身も凍るような恐怖を覚えました」
数秒の沈黙の後、隠した箱を取り出して前へ見せながら、その答えを口にした。
「――骨です。恐らくママの死んだ夫の」
箱の中に無残に収まった白い遺骨は、見るに堪えなかった。
「リーシャさんが正しかった。あれは"カラ"と読むのですよ。人間のカラ――すなわち"死"を意味するのです」
「デオットさん、それを受け入れることはできませんか」
「彼女は死ぬことを嫌だと思っていなかった!悲しみもせずに私たちをまた置き去りにしたことや、今まで励ましてくれたことさえもが腹立たしく感じて……急に裏切りとしか思えなくなってしまったのですよ。それと、ずっと一緒に過ごした日々が嘘のようで、崩れていくようで、怖かった!」
「一人で抱えるには重すぎます。だから最初から、扉が開いたら僕たちを帰す気だったのですね?トレントさんと二人きりで全てを話すために」
「ああ、そうです。今までずっとトレントや他の家族たちには見せまいと遠ざけてきたのですが、今になってあいつがどうにも言い訳できぬ程知りたがったので、渋々あなたの所に手紙を出すことを許したのです。その時にトレントには話そうと決心しておりました。が、実際あんな風に言われたら言い出せなくなってしまって……」
「これは憶測ですが、僕を呼ばなくても、あなたは扉を開けることができていたのではないですか?」
「はい、実は。鍵の在り処は最初に屋上でママを見た時に知っていましたし、暗証番号も血眼になって必死に考えました結果、分かったのです。そしてちゃんと確かめようとやっと思い立って、一人でこっそり階段を上がっていく途中で、転んで脚を怪我してしまい、それから一人で上までいくのが困難になってしまいました。その時思ったのです。『忘れなさい』と、神は私に告げているのだと」
「しかしその後、先ほど話されたことがあって――」
「はい。今さら扉の仕掛けを解いたと口にするのも気が引けたし、何よりも……別の誰かにいてほしかったのです」
探偵は目を細めて聞いていた。続けて「自己嫌悪の塊です」とデオットは告白した。
「双子というのは不思議で、時々自分を見ているような気分になるのです。何も知らないトレントが言うことは正しいのかもしれない。だから自分もいい方に現実を塗り替えてしまうべきだ、と思ってしまうのが嫌なのです」
そこまで言って、寄りかかっていた手すりから一度離れ、向き直って今度は手をかけて遠くを見つめた。
「私は、どうしたら……何もかも失ってしまった」
探偵はデオットに数歩近づいて、静かに言った。
「人間は生まれてきた以上、生きなければならない。それは、時が来れば誰でも死は訪れるからです。だから彼女はこう考えたのではないでしょうか。どんな人間も最期には美しくあることができると。力の限り生きた証を消すのではなく、焼きつける瞬間に輝けるのだと――違いますか?」
「そう……思えてきましたよ」
デオットは振り向くと、そのまま探偵の方へ力なく足を引きずって歩き出した。探偵はすぐに肩を貸す。
「誰でもよかった。でも――あなたでよかった」
目を閉じてそうつぶやくデオットは、楽しそうだった。
それからしばらくして、「兄さん」と呼ぶ声が下から聞こえた。
「すまん兄さん、待たせてしまったな」
トレントが探偵の代わりに肩を貸し、階段を下りてゆこうとする。
探偵は見送りながら最後に、「折角来たので一つ言っておきます」と真剣な口調をした。それから少し笑って、デオットに言った。
「捕まえるためにウナギを死なせてしまっても、食べてしまえば幸せになれるんですよ」
「……兄さんたちは一体、何の話をしていたんだ」
トレントは首を傾げたが、デオットは「そうか」と大声で笑った。
その二人の背中は、空の暖かいオレンジ色に染まっていた。