第二十三話 回り始めた悪意の歯車
長雨も終わり、久々にイストンの町には、晴れ晴れとした青空が広がった。
「うーん、風が気持ちいいねえ」
「溜まっていた洗濯物が干せるよ」
町民らは暖かい陽気に包まれた、爽やかな昼下がりを謳歌していた。
「本当にいい天気だ。空には雲一つない」
しかし、日が傾き空が焼けるような赤に染まると――
「えっ……?」
惨劇が訪れた。
「一体なんなんだコイツは!?」
突如現れた、漆黒の巨獣。強固な北門も、この規格外のバケモノの前には、全く意味をなさなかった。
そして、破壊の嵐が吹き荒れる。
「うろたえるな新兵共!所詮は獣だ!!一人一人の力は弱くとも、一斉にかかれば必ず倒せる!!」
「了解です!!」
警備隊長の檄は、隊員たちを勇気づけた。彼らは機敏に動き、包囲を完成させた。
「遠巻きにして矢を射ろ!そして弱ってきたら、包囲環を狭めて、とどめを刺すんだ!!」
「承知!!皆、行くぞ!!一斉掃射だ!!」
隊員たちは一斉に矢をつがえ、討ち放った。的の大きさもあり、外すことはない。命中する。
しかし……
「グギャバア!!」
鋭い唸り声と共に、怪物が体を震わさせると、矢はパラパラと落ちてしまった。分厚い毛皮の前には、魔力を込めた矢ですら、小雨のようなものだった。
「そ、そんな……。攻撃が効かない!?」
隊員らの表情に、絶望がありありと浮かぶ。
「グルルルル!!!」
嘲るように喉を鳴らした怪物は、地を蹴り、隊長に襲い掛かった。包囲網は、いともたやすく破られる。
「うっ!!」
ましらのように機敏な身のこなしで、襲いくる巨体。隊長は、一歩も動くことが出来ない。
「隊長!!」
悲痛な叫び声を、隊員たちは上げた。誰よりも勇敢で、誰よりも厳しく、そして優しい。そんな誰からも慕われた隊長が、今にも命を失おうとしている。それなのに、自分たちには何も出来ない。隊長を、助けることが出来ない。
誰もがおぞましい惨劇の予感に、思わず目を覆った。しかし、その時だった。
「ゲル・パニシュラ!!」
唐突に響き渡る、詠唱の声。
「えっ……?」
おそるおそるまぶたを開けた、隊員たちの目の前には、一人の魔術師と……
「グルルルル……」
片目を溶かされ怒りに震える、怪物の姿があった。
「ギュアアアア!!!」
怒りと憎悪に震える、凄絶な絶叫。怪物は牙を剥き出しにして、魔術師に飛び掛かった。鋼鉄の爪を、犠牲者の鮮血で濡らすべく。
「突っ込んでくるか……。これだから獣の相手は楽だぜ」
魔術師は不敵な笑みを浮かべると、俊敏な動作で、怪物の腹の中に潜り込んだ。
「トキシマム!!!」
猛毒の一撃が、急所である柔らかな腹に突き刺さる。
「グベッ!!」
毒素は瞬く間に、細胞を侵し尽くす。内臓を溶かされた怪物から、潰れた悲鳴が一息漏れる。そして奴は倒れた。息絶えたのだ。
「毛皮に覆われてる背中や四肢は頑丈だが、それがない腹こそ弱点となる。そしてそこをつけば……」
亡骸の下からゆっくりと、返り血にまみれた魔術師が姿を見せた。
「……Lv3魔法でも仕留められる」
その魔術師とは、熟練の冒険者にして、魔獣討伐のプロ、ニトロであった。
「いやあ、どうもありがとうございました。おかげでこの町が救われました」
豊かな白髭を蓄えた町長が、ペコペコと頭を下げる。
「お礼と言ってはなんですが、どうぞお召し上がりください。イストンの山の幸、海の幸を集めた、貴賓のためのごちそうであります」
「うっひゃあ……。こんなの初めて見るぜ……」
宴席の、贅を尽くした馳走の数々に、ニトロは目を丸くしていた。貧乏冒険者だった頃はモチロン、倹約家のナデコがいる魔王城でも、まずお目にかかれないほどの豪華さである。
「心をつくしたもてなし、感謝します町長。あとニトロ、あんまり浮かれるなよ。明日の朝になったら、すぐ出発だからな」
「堅いこと言うなよピエール。お前ら何の役にも立たなかったクセに」
「確かに魔獣を倒したのはお前だが……オレたちだって瓦礫の下敷きになった人を救助したり、役に立ってない訳じゃあない」
「フォフォフォ。ピエール将軍様と、部隊の皆様にも、随分と助けられました。さあ、将軍と、兵隊の皆様も遠慮なさらず召し上がってください」
「じゃあ、お言葉に甘えていただくとするか。皆、今日は一日よく頑張ってくれた!心行くまで食べ、飲み、英気を養ってくれ!後悔のないようにな」
「分かりました!では、いただきます」
兵士らはそう答えると、一斉にがっついた。皆腹ペコだったのである。
(そうだ、存分に味わえ。もしかしたら、これが最後の晩餐になるかもしれないからな……)
豪奢な料理も、今のピエールにとっては、砂を噛むようなものだった。
「つれねえ顔すんなよ。こっからがキツイからこそ、今のうちに緩めとかないと、後々大変だぜ」
見かねたニトロが、助言を投げかける。
「分かってるさ。だが……やはり緊張してな」
(この暗い表情、やっぱり『あのこと』を気にしているのか……)
先程までニトロとピエールは、町長を交え、いろいろと話し合っていた。議題は主に、魔獣の襲来の原因と、これからの行動についてだった。
そこでニトロの言ったある言葉が、ピエールにとっては気がかりだったのだ。
「魔獣ってのは、基本魔窟から離れないんだろ?それなのに、どうして突然この町を襲ったんだ……?」
ピエールの問いに対し、専門家であるニトロの出した答えは、以下のようなものだった。
「たまにあるんだよ。自分より圧倒的に強い魔獣が現れると、ソイツの被食対象である魔獣が、その魔窟から逃げ出して、近隣の町や村を襲う現象……」
「おい、それって……」
「……ああそうだ。今からオレたちの向かう魔窟には、あの魔獣でも歯が立たないような、規格外のバケモノがいる可能性が高い」
「――!!」
ピエールらの目的地である、ブラウ洞窟は比較的安全な魔窟であり、ニトロレベルの冒険者がいれば、攻略は比較的容易いとピエールは考えていた。この見解にはスイカもニトロも賛同しており、信憑性の高いものだった。しかし、ブラウ洞窟に最強クラスの魔獣が現れたと仮定すれば、前提は大きく狂う。
(イストンを襲った魔獣は、ニトロに手も足も出なかったとはいえ、中堅クラスと言える。それを一方的に嬲り、住処を奪うほどのバケモノ……。そんな奴がいるとすれば、リスクは跳ね上がる)
別にリスクが低いからといって、ピエールは油断したりはしない。だがやはり、プレッシャーの度合いが変わってくる。
(緊張してもしょうがない。そんなことは分かっている。だが……やはり部下の死は怖い。父親の棺にすがりつく、子どもたちの泣き声を聞くのは、心が砕けそうになる)
軍人、しかも兵士らを指揮する立場である。仲間の死は、つきものといっていい苦しみだ。しかしピエールにとっては、絶対に慣れることもない苦しみであった。
(モチロン全力は尽くす。だが、やはりこの恐怖は拭い切れない……)
いつもの威勢のよさはどこに行ったのか。ピエールの表情はシケていた。
「オイ、飯を食う手が止まってるぜ。上司がそんなんじゃ、部下が遠慮しちまうだろ。パーッと行けパーッと」
そんなピエールの様子を横目で見ていたニトロが、発破をかけた。
「……おっと、その通りだな。どれ、ペロリと平らげるとするか」
そう言うとピエールは、一心不乱に飯をかきこみ始めた。
(……カラ元気も元気の内ってな)
ニトロも、ピエールの今の態度が、虚勢ということは分かっている。
(将校だからな。情けない姿なんて晒すと、士気に関わる。朝までには自力でどうにかしてくれよ。オレが出来るのって、これくらいだからな)
ウェットな気分になっているピエールに対し、ニトロの心は案外落ち着いていた。乾いていた。理由はいくつかある。純粋に、ニトロは魔獣との戦いに慣れていること。ピエールとは違い、魔獣は未知なる強敵ではないのである。そして、もう一つ大きな理由としては――
(魔獣よりもな、人間や魔族の『悪意』の方がオレにとっては怖い。爪も牙も、その『悪意』と比べればまだ丸い刃さ。あんなに残酷で、狡猾な生き物は他にいない……)
このニトロの考えは、正しかったといえる。何故なら、あの魔獣をイストンに差し向けたのも、「悪意」だったからである。すでに姦計の歯車は、カラカラと音を立てつつあった。恐るべし邪智と、底知れぬ狂気、二つの刃を諸手に持った、「悪魔」の触手は、もうすぐそこまで迫っていた。




