第十二話 試される覚悟ー前哨戦ー
晩秋の夕暮れ。日は既に暮れ、空は藍色に染まりつつある。もう、誰もが家へと帰る時間だ。雑踏は少しずつ、密度を薄めつつあった。その中を縫うように進む少女が一人いた。息を切らし、白い頬っぺたを真っ赤にしながら走る彼女。その様子は健気だった。きっと誰か、大切な人が家で待っているんだろう。すれ違う人々は少女の懸命な表情に、そんな思いを次々と寄せた。
「遅いねえ…。」
街角の小さな民家。その軒先で一人の老女が、暮れゆく空を見上げている。
「道にでも迷ったのかねえ。あの子は賢いから、大丈夫だと思ったんだけど…。」
老女の心配は杞憂に終わった。夕日が地平線の下に沈む前に、なんとか少女は帰ってきたのだ。
「おお、スイカ。ありがとうねえ。」
「ただいま、おばあちゃん。ほら、頼まれていたものよ。」
少女は手に提げていた袋の中身を見せた。ニンジンやジャガイモなどの野菜が中には入っている。
「どうもありがとねえ。これで晩ご飯のシチューが作れるよ。」
「本当?最近寒くなってきたし、きっと美味しいわ!」
「はは、楽しみに待っていてね。」
「あっ、おばあちゃん。私も手伝うよ。早くご飯食べたいし。」
「悪いねえ。本当に、私にはもったいない孫だよ。」
老女は目を細めながら、孫娘の頭を撫でた。
「もう、おばあちゃんったらそればっかり。」
二人は家に入ることも忘れ、軒先で屈託なく笑い合っていた。
「…夢か。」
目の前にあるのは、もう祖母の笑顔ではない。ボロボロの天井だ。空虚なリアルは、冷や水のような作用を持つ。
(…今日の賭けに失敗すれば、もう二度と見れない笑顔か。)
窓から差し込む陽ざしは柔らかっった。青天の広がる爽やかな朝だ。しかし、ちっともうれしいものではない。むしろ忌々しい。これから生死をかけた戦いに挑む者にとっては…。
「ふあーあ、眠てえ。」
まぶたをこすりながら、隣のベッドのニトロが目覚めた。
「…おはよう。」
「おう、おはよう…。いい天気だなあ、ムダに。」
屈託のない調子でニトロが呟く。
「呑気ねえ…。大丈夫かしら?」
「大丈夫だよ。ぐっすり寝たし体調は万全だ。」
(…目の下にクマが出来てるようだけど。)
(本当は賢者さんが「おばあちゃん、おばあちゃん…。」ってうなされてたせいで眠れなかったんだけどな。まあそれくらい気がかりってことか。オレみたいに物心ついてすぐに両親死んだ奴には分からないけど……。)
「それより、作戦覚えてるよな。」
「もちろんよ。私は見物に来た群衆に紛れて隙をうかがい……。」
「オレはこいつを使う。」
ニトロはカバンから、真っ黒な球体を取り出してみせた。
「頼んだわよ。この作戦の肝は、その球にあるんだからね。」
「分かってらい。オレの才能に震えやがれ。」
内心は不安でいっぱいだったが、ニトロはあえて強がってみせた。そうしないと、緊張で押し潰されそうなのだ。
(実験ではうまくいったが、実戦にアクシデントは付き物だ。不測の事態を常に想定して戦わねえとな。)
「とにかく、一瞬たりとも油断しないで行こうぜ。オレも、アンタも。」
「当然よ。」
スイカの瞳には闘志が漲っていた。思いの丈がヒシヒシと伝わってくる。
(本気だな…。オレと戦った時も手を抜いているわけじゃなかったが、今日は熱が全然違う。)
「それじゃあそろそろ、お互いに準備を始めましょう。」
「おう。」
(しかし、その熱意が仇にならなければいいが…。)
必死になったからと言って、全てが上手くいくわけではない。むしろ空回りすることもある。特に、余裕を失いつつある人はそうだ。ニトロは何度もそうして破滅の道を歩んだ冒険者を目の当たりにしてきた。
(まあ、賢者さんに限ってそれはあるまい。この人も高位の冒険者だ。相応の修羅場をくぐってきている。大丈夫だろ。)
しかしスイカの抱く思いは、自分以上に大切なものがまだないニトロの想像を超えるものであった。いくら賢者とはいえ、まだ十代の小娘である。そして渦巻く感情は、意外な作用を、この後の戦いで発揮することとなる。
日は高く昇り、じりじりと地上に照りつける。春とは思えぬ暑さであった。それでも広場には、多くの群衆が集まっている。誰も彼もとめどなく流れる汗を拭いながら、期待に目を輝かせていた。彼らが見つめるのは、広場の中央にある高い櫓。あと30分ほど経てば、あの櫓で罪人の処刑が行われる。櫓の下には円形の柵があり、中にはいくつもの拷問道具が並べられらていた。物々しく血生臭いあれらの器具が、これより罪人に地獄の苦しみを味合わせるのだ。善良で国家に忠実な自分たちとは違い、性根の腐った危険で残虐な人でなしに対して。公開処刑が市民にとって、最大の娯楽である理由だ。
しかし、見物客全員が期待に胸を膨らませているわけではない。中には、ひどく冷めているものもいた。うつむきがちで、沈んだ表情をした少女。周りが人であふれているため目立つことはなかったが、かなり場にそぐわぬ雰囲気である。このイレギュラーな彼女の正体は、スイカ・リービッヒである。魔法で人相を変え、刑場に潜り込んでいるのだ。
しばらくすると、牢獄の方から一台の檻車がやってきた。中から引き出されたのは、一人の老女だった。スイカの祖母、アシタバ・リービッヒである。
(……おばあちゃん!)
群衆が歓声を上げる中、スイカは思わず息を呑んだ。愛しの祖母はボロ切れを着せられ、ぐったりと生気がない。牢獄で、粗暴な看守から、酷い仕打ちを受けてきたのだろう。
(畜生め!)
覚悟はしていたが、やはりその痛ましい姿に動揺せずにはいられない。怒り、悲しみ、申し訳なさ。悲痛な感情が迸る。そしてそのことが、アクシデントを一つ招くこととなった。
(――むっ!?)
周りの群衆は、興奮のあまり異常なスイカの様子に気づくことはなかった。しかし、ずっと離れたところにいた一人の青年だけは違った。
(妙だな…。今人混みの中で一人だけ、心音の沈んだものがいた。それも恐ろしく低くだ。)
彼の正体はディバイス・マドセンである。彼もまた群衆の中に紛れ、怪しい者がいないかチェックしていたのだ。
(老婆が引き出された瞬間だ。人々の心音はみな一様に上振れした。処刑は民衆にとって退屈を紛らわすための娯楽なのだから当然だ。修道院暮らしのおこちゃまシスターなどは違うかもしれんが、そんな奴はこの残虐な見世物をわざわざ見にこない。そしてこの沈み方…悲しみや贖罪の念に混じって、緊張の高まりが感じられる。間違いない!スイカ・リービッヒだ!この心の揺れ方は、スイカ本人だけのものだ!!)
周囲の群衆との対比、強すぎる想い、この二つの要素が、ディバイスに味方してしまったのである。
(先程の心音の位置から探知するに…そこか!!)
次の瞬間、ディバイスは宙に跳ねた。そしてスイカの背後より、襲いかかった。
(<黒華斬>!)
ディバイスの左手に鋭く研ぎ澄まされた黒色の気が宿った。
対するスイカは攻撃に気づかず、無防備な背中を晒している。
(終わりだ……!)
ディバイスは勝利を確信していた。しかし……。
「ザウム・フリーデン!!」
「何!?」
振り向きざまに放たれた激しい氷槍の連撃が、ディバイスへと襲い掛かる。
「ぐっ!!?」
ディバイスはすぐさま漆黒の膜を展開し、かろうじて攻撃を防いだ。
「ちっ、仕留めそこなったか!」
「コイツ…!」
まんまとやられた。スイカは攻撃を察知しつつも、あえてギリギリまで引き付けたのである。敵を一撃で仕留めるために。
「ザウム……。」
(マズイ!)
続けざまにスイカが二撃目を放とうとした、その時である。
「きゃああ!」
「に、逃げろぉ!!」
色めきだった群衆らが我先にと逃げだしたのだ。
「きゃっ!?邪魔よ!どいて……。」
「好機だ!民衆共は大急ぎで退け!散らばっている憲兵ども、こいつを囲んで生け捕りにしろ!」
「はっ!!」
この時憲兵らは要所要所に配置され、各持ち場を警備していた。元冒険者を含む、指折りの精鋭を集めたものだ。いくらスイカが高位の賢者といえども苦戦は必至である。
「お前たち、今すぐディバイス殿の援護に迎え!」
詰め所の一つにいた分隊長ががなり立てる。しかし、ここで妙なことが起きた。
「た、隊長……。」
「ん!?ど、どうした!!」
何故か憲兵たちの足元がふらついているのだ。
「何をやっているのだ!まだダメージを受けていないはずだぞ!!」
「ね、眠いんです、隊長。うう…もうダメだ……。」
一人、また一人と憲兵たちが倒れていく。
「ば、馬鹿な!一体何が起きて……。うっ、オレまで眠たく……。」
こうして隊長も倒れてしまった。しかもこの部隊だけでなく、このときどこの部隊も同様の事態に陥っていた。誰もが眠気に負け、倒れていたのである。
「くそっ!どういうことだ……。」
うろたえるディバイスに対し、スイカは事の真相を知っていた。
(ニトロだ!)
「なんとかうまくいったな。」
ニトロがいるのは、広場から北西の方にある時計台である。彼はここから、とっておきの催眠ガスを散布したのだ。
「風向きも絶好だ。スイカさんの予想通りだな。」
ニトロは手に、破裂して萎んだあの球体を持っていた。この中に催眠ガスがたっぷりと詰まっており、風に乗って広場にまき散らされたのだ。
(元々は、魔族用のものだったんだがな……。)
ニトロがガス爆弾を開発したのは、まだ勇者のパーティーにいた頃である。この頃から彼は毒ガス兵器に興味を持ち、実験を繰り返していた。そして彼独自のアプローチと偶然から、これまでにない催眠ガスを発見したのだ。
(まあ、誤算が一つあった。何故か魔物じゃなくて人間にもの凄く効くんだよな……。しかし、今回の作戦ではうってつけだ。おかげで憲兵の大半を無効化することが出来た。)
時計台からは、広場の様子がよく見えた。すでに動くものは少なくなりつつある。不安もあったが、これ以上なく上手く決まったわけだ。しかし、高位の実力者相手にはガスだけでは足りない。直接戦闘を行う必要がある。
「さて、向かうか!」
むしろ、ここからが本番である。ニトロは一層気を強く引き締めた。
「クソ、このアマぁ!!」
「ザウム・フリーデン!」
その頃広場では、ディバイスとスイカを激しい攻防を繰り広げていた。
「喰らえ!!」
「おのれぇ!!」
戦況は、スイカ優位に進んでいた。憲兵がバタバタと倒れ始めるという異常事態。種を知っているスイカに対し、何も情報がないディバイスには困惑が生まれる。スイカはその隙を見逃さなかった。凄まじい気迫で、休むことなく攻撃を繰り出し、容赦なく攻め立てた。
「ザウム・フリーデン!!ザウム・フリーデン!!!」
(コイツ…いったい何発連続でLv5魔法を打つ気だ……!?)
ディバイスはよくよけたが、防戦一方になりつつあった。少しずつ体力と魔力を削られ、ジリ貧なっていく。そして遂に氷槍の一つを捌きそこねた。
「しまっ……!!」
「貫けえっ!!」
研ぎ澄まされた切っ先が、ディバイスの脇腹を抉った。
「グガ……。」
苦悶の呻きを上げながら、ディバイスは地に臥した。
「ハア、ハア……。やった!倒した!!」
なんとか勝ちはしたものの、スイカも激しく消耗していた。
「おい、スイカ!大丈夫か!!」
「ニトロ!」
ちょうどその時である。時計台の方からニトロが戻ってきた。
「おお、効果抜群だな。」
逃げ遅れた観衆の一部に憲兵らがまとめてぐっすりである。
「半信半疑だったけど、効いてくれたわ。ありがとう。」
「まあな。」
(対策法も解毒薬もまだない毒だからな。防ぐのは困難だったんだろ。)
「さて、行きましょう。」
「おう。」
二人は素早く、櫓の方へと向かった。
(良かった!無事だ!)
そう、そこにいるには、スイカの最も愛しい人、アシタバである。
「おばあちゃん!大丈夫!?」
「ケホ、ケホ…。す、スイカなのかい…?」
アシタバは朧な眼で二人を見つめた。ガスを吸いはしたが、かろうじて意識を保っているようだ。
「ご、ごめんね。こんな目に合わせちゃって……。」
「ば、馬鹿言うなよ。どうせ私なんて老い先短いんだ……。」
(とりあえず、命に別状はないようだな……。)
感極まるスイカに対し、ニトロは状況を冷静に分析した。疲弊してはいるが、命に関わるほどではない。これなら大丈夫である。
「スイカ、思い出話は後だ。あれを起動しろ!」
「は!そ、そうね……。」
感動のあまり呆けていたスイカだが、この言葉で我に返った。
「す、スイカ…。何をする気だい?ま、まだ言いたいことは……。」
「ごめんねおばあちゃん!後でゆっくり話そう!時河氷結陣発動!!」
氷の息吹がアシタバを包み込む。
「こ、これは……。」
「今はその中にいて。すぐに出してあげるから!!」
「わ、分かったよ…!」
身を守る手段のないアシタバは二人の弱点になりかねなかったが、これで一安心である。
(よしっ、おばあさんも確保した。全て計画通り!後は、ナルコレプシに帰るだけだ。)
スイカの飛行魔法を使えば、ニトロを連れてでも三十分ほどで砂漠まで着く。後は連絡石を使いナデコを呼べばいい。万事思い通り進みつつある……はずであった。
「ニトロ、危ない!!」
「えっ!?」
スイカにいきなり突き飛ばされたニトロは、地面に尻餅をついた。
「い、いて!何んだよ急に……。」
その時である。高速で飛んできた巨大な鉄塊が、ニトロの頭上すれすれをかすめた!
「いっ!!?」
鉄塊はそのまま地面に激突し、轟音と共に砂埃を巻き上げる。周囲の土は激しく抉られ、巨大な窪みが形成されていく。
(あ、あぶねえ……。スイカが突き飛ばしてくれなきゃ即死だったってことかよ!!)
「ちいっ、外しましたか…!」
砂塵の中に、孤影が一つ浮かび上がる。
「な、何者だ!?」
「…正義の執行者ですよ。」
砂煙が晴れ、全てが明らかになっていく。鉄塊の正体、それはフルプレートアーマーを纏った巨漢であった。
(あ、あれは……!?)
マッシブなシルエットに、兜から覗く鋭い眼光、そして耳障りの悪いしゃがれた声色。
ニトロにとっては全て見覚えのあるものであった。
「レイモンド・ダルマルアー教授!まさかアンタが出てくるとはな!!」
「…知っているの!?」
「知ってるも何も、養成学校時代の教官だよ。生徒をいじめるのが趣味みたいな奴だったぜ!」
随分と忌々し気な口振りである。やはり因縁のある相手なのだろう。
「ククク、久し振りですねえ…。落第生のニトロ君。将来ロクな奴にならないとは思っていましたが、まさか反逆者に手を貸すとは。いやはや、重畳重畳!!」
ダルマルアーは大声で高笑いしてのけた。
「随分と余裕ね…!!」
ダルマルアーの鷹揚とした態度を、スイカは不気味に感じていた。
(私たち相手に、これほど余裕をもっと振舞えるなんて…間違いなく只者じゃない!!)
対するニトロは勇ましく、ダルマルアーに対し攻撃的な眼光を迸らせていた。
「けっ!ちょうどいい…。学生時代、サンザン殴られた鬱憤をここで晴らさせてもらうぜ!目にもの見せてやらあ!!」
「ガハハハッ!どうぞどうぞ、…出来るものならね。」
凄まじい殺気が、ダルマルアーから放たれた。
「こ、この人…。」
スイカの背筋に、悪寒が走る。
「…本気で来る気か。いいぜ!どうせここで勝たなきゃ何もかも終わりだなんだ!!」
ニトロは一瞬ひるんだが、すぐに闘志を取り戻した。彼も彼なりに修羅場をくぐってきたのである。この程度は当然だ。
(ニトロの言う通りね!ここで勝たなければ、私たちに未来はない!!)
スイカもまた、強敵を前に覚悟を決める。退路など残されていないのだ。
「ククク、いきりたっちゃって。全て無意味な足掻きなのにねえ…。氷よりも冷たく、砂よりも乾いた現実の苦さというものを、とくと味合わせてやりますよ……。」
そして老戦士もまた、不気味な哄笑を満面に浮かべた。




