その石の名は母
「さあ、あなた! 今日も泳げるように特訓ですよ!」
再びの海辺、カトレアは前日にも増して溌溂とした声でそう言った。
ベルズはというとその逆。昨日以上に沈んだ面持ちである。
文字通り朝から晩まで泳ぎの練習を続けてわかったのだが、これは克服できるような弱点ではないのだ。
こんな行為をどれだけ続けようと、ベルズが泳げるようになる事は未来永劫なく、弱点も消えないままだろう。
まあ、それとは別にカトレアが楽しそうなので文句を言うつもりも止めさせるつもりもないのだが。
妻が諦めるまではベルズも一緒に楽しむようにするつもりでいる。
「うん。……いや、待った、やっぱりちょっと心の準備が」
心の中ではそう思ってもやはり怖いものは怖い。海に足を浸けたところでベルズは及び腰になっている。
これは決して逃げているわけではない。最終的には泳ぐのだから(泳げないが)。ただその前に心を落ち着けたいだけなのだ。
つまり単なる引き延ばしなのだが、そうでもしなければ覚悟ができない。1つ間違えば暗い海の底へと沈み込んでしまうのはベルズにとって非常に恐ろしいものなのだ。
深呼吸とか、ストレッチとかを念入りに繰り返すが、決して海に入らずに済む理由を考えていたりとかはしない。しっかりと準備をすれば意外と泳げるかもしれないと思っての行動なのだ。
誰か、もう本当に誰でもいいから、この際ビスクとかでもいいから誰かこの島にやってきてもう泳ぐどころではない状況にならないかな、なんて事も決して考えてはいない。決して。
「……あ」
準備運動が終わるのを待っているカトレアの肩越しに、水平線の向こうから1隻の船が見えた。まっすぐ、この島へと向かっているようだ。
やった! ……ではなくカトレアに万が一の事があってはならないので、手を引いて砂浜から上がっていく。
「まいったな、あれはもしかしたらこっちに来るかもしれないな。よし、怪我をするかもしれないから一旦上がろうか? カトレア」
「大丈夫ですよ。あれくらいでしたら私が」
そう言って手袋を外そうとする。が、ベルズはその両手を慌てて上から包むように握った。
手を握られて嬉しそうだが、なぜ止めるのかという疑問の方が強そうな顔をカトレアは見せる。
「あの……あなた?」
「いや、これは……ほら、別に向こうは戦うつもりじゃないかもしれないし、もしかしたら遭難とかしてるのかもしれないじゃないか。いきなり迎撃したりはしなくていいよ」
「……んぅ、あなたがそう言うのでしたら」
若干不満げな様子は見せるが、カトレアはおとなしく引き下がってくれた。
ベルズと泳ぐのを楽しみにしていたのに、それをこうして中断させてしまうのに申し訳なさも感じるので、いつか別の形で埋め合わせをしたい、とベルズは思う。
ともかく、依然船の進路が変わる様子もない。2人は海辺から少し離れ、誰がやってくるのかを待つことにした。
「お前か……」
船から降りてきたのは、もはや見慣れた顔の勇者、ビスクだった。
また何かベルズ達を殺すための新兵器でも引っ提げて来たのかと思いきや、手ぶらの様子だ。金属鎧と一振りの剣を腰にぶら下げているが特に何か目新しい物を持ってきてはいない。
他に変わった場所はないかと品定めをするようにじっくりと観察してみるも、せいぜい今までよりも顔に覇気がない程度しか変わりはない。
そしてこれまた覇気のない声をビスクは口からこぼす。
「貴様ら、なんだその恰好は。ついに気でも触れて下着姿で歩き回るようになったのか」
「さてあなた、別に困っている方でもないとわかりましたし早く殺して続きをしましょうか」
カトレアは既に手袋を外していた。胸元に手袋をかけて黒鉄の両腕をビスクに向けている。命令してくれればいつでも即焼却可能という所か。
ビスクの言葉が癪に障ったのか、なんだかいつものカトレアよりも攻撃的な気がする。自分の選んだ水着を貶されたと取ったのだろうか。
いや、そうではない。それもあるかもしれないが、2人の時間を邪魔された事に1番腹を立てているのだろう。相手がビスクと分かればそれを隠す必要もない。このままベルズが何も言わずとも数秒後にはビスクは灰すら残さず蒸発する事だろう。
「ッ、待て! 今回の私は戦いに来たのではない! 話し合いに来たのだ!」
ビスクの叫びを聞いて、カトレアは止まった。それからどうしようか迷うような複雑そうな表情をして、一度ベルズの方を見てから黒鉄を人型の手に戻し、手袋をはめ直した。
「…………まあ、そういうことでしたら、わかりました」
口で言うほど納得している様子ではないが、唇を尖らせてカトレアはそう言った。
「ですが、私達もそこまで暇なわけではありませんので制限時間は設けさせていただきます」
そう言うとカトレアは砂浜を駆け上がっていく。そして途中で振り返り、
「碧の玉座を呼んできますので、お話はその間にお願いしまーす!」
「なッ……! ま、待て!」
ビスクの言葉は聞く耳持たず、カトレアはそのまま走っていった。
その場にはベルズとビスクの二人が残る。
「……本当なら何の話だろうが聞くまでもなくブチ殺してる所なんだが、まあ、今回は特別に聞いてやるから、手短に話せよ」
「納得いかん……いかんが、いいだろう、話してやる」
時間もないしな……、とカトレアが去っていった方を見ながらビスクは呟いた。もう碧の玉座に捕まえられるのは懲り懲りなのだろう。
「貴様に会わせたい者が……いや、私としては会わせたくなどないのだが、ともかく貴様と会いたがっている者がいる」
「俺と?」
ベルズは首を傾げる。いったい誰が自分と会いたいと思っているのか見当もつかない。
そもそもベルズには友人も知人もいない。最近は徐々に増えているでもないが、それも全員島の中にいる程度。海の向こうにそんな人物など心当たりなしだ。
以前この島にやって来た封術師とやらは該当するかもしれないが、またベルズに会いたいと思っているかと言えば、全くそんな事はないだろう。むしろもう顔すら見たくないかもしれない。
「……興味ないな。帰って会う気は無いって伝えとけ」
そして呼んでいるのが誰であろうと、わざわざ会いたいとも思えない。
そう広い島というわけでもない、カトレアももう間も無く玉座と共に戻って来るだろう。他に話もないようだし、溶けて死にたくないのなら早く帰れ、とベルズは手で追い払う動作を見せる。
だが、ビスクは退かなかった。
「私としてはそれで構わんのだがな……。しかし絶対に連れてくるよう念押しされているのだ、なんとしても来てもらおう」
「へえ……なら力ずくでってか? やれると思うなら試してみろよ」
ビスクは実力行使も辞さない構えということか。まあ、その肝心の実力ではベルズを組み伏せるなどできないことは分かり切っているのだが。
そういう余裕からベルズは先手を譲る。何をする気かはわからないがあまり意味のない行動だろう。だとしても折角用意してきたのだ、披露させてから殺す。
そう思っていると、ビスクは腰の皮袋から橙色の輝石を取り出した。透明感のあるそれは太陽の光を浴びて艶やかに光る。
「なんだ? その石」
「よく見ろ。それでわかると言っていた」
何がわかると言うのか。そもそも誰がわかると言ったのか、そう聞き返そうとしたが、体が動かなかった。
視線が固定されたように輝石へと向かう。指一本動かせず、ベルズはしばらくそれを見つめていた。
ただ見ているだけで、ベルズの頭の中に何かが流れ込んでくる。それは今までずっと忘れていた、記憶。
「……俺の、母……?」
信じられない、というようにベルズは口から零した。しかし、それが偽りの記憶ではないと本能が告げている。
「その様子を見るに、思い出したようだな。……では、改めて聞こう。貴様に会わせたい者がいる。来てくれるな?」
「…………」
「――はい、時間切れです! それでは勇者様にはお帰り願いましょう!」
それから間もなく、カトレアが戻ってきた。碧の玉座もすぐ横に並んでいる。
ビスクの姿を見た碧の玉座はすぐさまその四肢を捕縛しようと――しなかった。
「……あれ?」
自らの隣に立ったままの玉座に首を傾げたカトレアが前方の砂浜をよく見る。
そこに、ビスクの姿はおろかベルズも存在しなかった。ビスクの乗ってきた船も同じく消えている。
「…………あなた?」
カトレアの呼びかけに答える者はなく、ただ静かな波の音だけが響いていた。




