2章 前編
聖堂の中で、女神像の前に佇む男性がいた。真白い像とは真反対の漆黒の聖衣に身を包み、その手に持たれた本も、同じく黒い。聖衣から覗く嗄れた肌は彼が老人である事を周囲に理解させる。それと同時に、まっすぐに伸びたその背筋には老いを感じさせない力強さを感じていた。相反、対立、一つのものには必ず向かい合う何かがある。
女神像の前に佇む男性は、持っていた本を開く事なく、教壇の上に置き、小さく息を吐いた。
ドラッヘ・クリスチャン・アーカイブトルム。
光の国に生まれた、闇の王である。
彼の素質は闇に傾倒していた。だが王位継承権を持つ彼は何としてでも光の魔法を習得する必要があった。結果として、彼は怒りの感情を失い、六道となった。
何かを失った六道だからこそ、失ったものの辛さは痛いほどわかる。特に六道になったもの同士なら尚の事だ。なにせ、それは一生帰ってこない。どんな手を使おうが、絶対に戻ってこないのだから。
優しい国王、そう呼ばれようとも、彼は、最早民衆の怒りを理解する事は出来ない。一人の迷い子も救えず、民衆の心も洗えない。自責の念は積もるばかりだ。
「父上、お話とは何でしょうか」
声をかけられ、振り返る。スーツを着こなし、キッチリとタイを締めた男性、一人息子のグランツ。唯一の王位継承権を持つ男性だ。とはいえ、自分が長いこと国王をして来たせいで、彼も随分と歳を重ねてしまった。ただその分社会経験も潤沢に重ねてきた。素質はあるだろう。
グランツに対し、ドラッヘは大きく手を広げた。
「私はそろそろこの壇から下りようと思っている」
「…父上、それは…いささか突然ですね…。母上には…?」
「まだ伝えていない。が、彼女がどうするかは、私の御する所ではない。私は精一杯、お前の味方になろうと思っている」
「そう…ですか。ですが、何故今なのですか?」
「子供は、いくつになった」
「今年で十二になります」
「その子が絞首台に登ったとしたら、どう思うかね」
「そんな…!あり得ません!あってはならないことです!」
「そう、その通りだ」
ドラッヘは柔らかく、そして静かに口許を緩めた。
「私は、登らせてしまった。これは変えようのない事実だ。先日の大魔法の事件があっただろう、これは起こるべくして起きたのだ」
何のことか、未だに理解しきれないグランツに、ドラッヘは優しく語りかける。
「とある司教が、身寄りのない子供達の未来のために魔法を教えるという申し出をしてきた。私はそれに賛成した。それはとても良いことだ。魔法が使えることで身寄りのない子供達が未来に生きる術を手に入れる、喜ばしいことだった。だが、その教育はやり過ぎた。子供ながらにして、その子は六道にまで上り詰めた。才能が有ったのだ。だが代わりに、その子は人としての肌の色を失った。そして、彼女は台を登らされた」
ドラッヘは自分の手を見つめる。自然と、その眉が下がっていく。
「私は欠いてしまった。王として持たねばならなかった感情を、その司教を咎めることが出来なかった。これでは成らぬ。国として成り立たぬ。優しさだけで、国は続かぬのだ。だからこそ、私はお前に託したい」
この国の、未来のために。
グランツは少し諦めたようにわかりました、と呟いて、壇を登った。
「もう御意志は硬いのでしょう。私からは言うことはございません。ただ、私にも勉強の時間が必要です。またしばらくお側で見せていただければと思います」
「あぁ、そうだな。それが良かろう」
ドラッヘは優しく、微笑んだ。
それを影から見ている影が二つ。
一つまだ年端も行かぬような少年、もう一つは、人ではない何かだった。時にうねり、時に動きを止め、不規則に動きながら少年の側で蠢いていた。
「だってさ、アーノルド、僕たちも動く時間かな。あの子が帰ってきたら、お祭りを始めなきゃね」
それは蠢くだけで言葉に反応したような様子はない。ただ、それを見つめる少年の目は嬉しそうに光り輝くのだった。
それから少年はいそいそとその場を後にする。足音はなく、扉を開ける音も無く。スルリと、その場から去っていく。城の中にある大聖堂。神官達が集まり祈りを捧ぐその場から、城の一角に歩いていく。
「ネフェ、お呼びがかかっているよ」
「ルッカ!誰から?」
ルッカと呼ばれた少年は、左目を隠すほどに伸びた髪を弄りながら、先生だよ、と少年に伝える。
「それより、その虫まだ還らないのかい?」
「? 何で還す必要があるの?」
「何でって…、召喚獣なんだから、契約期間中に還さないといけない決まりだろう?その約束は必ずしてるはずさ」
「召喚?召喚なんてしてないよ?」
「…え?」
ルッカはようやく、うねうねと蠢くそれが、何処から伸びているのかを目で辿った。が、その目線が根元に到達する前に、ネフェは踵を返した。
「じゃあ僕先生の所に行ってくるね」
「あ、うん」
ばいばーい、と手を振るネフェを見送りながら、ルッカは自分の左目を抑えた。そこに丸みは無く、窪んだ底だけが感じられる。
この道は、未来を切り開く為の道だった筈なのに。
「どうしてここまで醜くならねばならないんだろうね、エンヴィ」
§
エルブンとは反対に伸びる街道を窓から目で追いながら、俺はリュックの中を漁る。特に何かがあるわけじゃあないが、少なくとも食糧は調達した。会話が無いのも口寂しいので、漁っているわけである。
エンヴィは俺の膝を枕にしてスヤスヤとお休み中だ。真新しい衣服がフードの隙間から覗いている。息苦しくないか少し心配だ。もう一人、ついてきた輩は、用心棒らしく次の街までの護衛として、御者の隣に座っている。御者の鼻の下が心なしか伸びているのは、キャメロンがそれなりの容姿を持っているからだろう。
まぁ…わからんでもない。ただ中身を知ってしまうとどうしてもな。
キャメロンは時折小窓から此方を覗き込んではエンヴィを見て微笑んでいる。彼女が警戒しないのも、ファミリアの契約を結んでいるから、なのだろう。
とはいえ、疑われる事には疑われたのだが。
ファミリアの上下関係は絶対だ。いくら何をどうしたってそれが覆る事はない。そして主人の意志は魔力の通ったマグを通してすぐさま反映される。つまり、エンヴィがこうして自由に身動き出来ているのは、俺がそれを許しているから、なのだが、常識的に考えて、ファミリアが主人を差し置いてベッドで寝るなんて事はあり得ないし、こうして膝で寝ている事だっておかしな事なのだ。
キャメロンのように、事情を知らない人間からすれば、俺の頭がおかしいか、底無しに溺愛しているかのどちらかと取るだろう。だが俺の行動からすれば後者はあり得ないので、やはり俺の頭がおかしい事になる。
うん、よろしくない。
だからってなぁ…おいそれと話すような事じゃねえしなぁ…。
不意に馬車が足を止め、客車にキャメロンが入ってくる。
「馬の休憩をさせたいそうだ。近くに小さな村があるらしいが、どうする?」
「あぁ、構わないよ。俺も少しケツが痛い」
「それじゃあ動けないだろうしね」
小窓を叩いて親指を立てると御者は頷いて改めて馬車を動かし始めた。少し進んだところの分岐点で右に曲がって、少し行くと小さな村が見えてくる。エルブンよりも少し小さい村だが、途中にあった畑はとても立派なものだ。少し散策するには丁度いいかもしれない。
馬車が入り口に止まると、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。御者はこの村とは交流が深いようだ。キャメロンが先に降りて御者といくつか言葉を交わすと、すぐに戻って来た。
「二時間程滞在するそうだ。降りるかい?」
「あぁ、そうする。エンヴィ、起きれるか?」
肩をポンポンと叩きながらエンヴィを起こす。少し唸ってから、目をつむったまま、くぅ、と伸びをして目を擦る。
「せんせい…?」
「残念ながら先生じゃねえぞ、ほら目ぇさませー」
むにむにとほっぺたを揉んでやる。んにぁー、とちょっと反抗する素振りだけ見せて、エンヴィは起き上がった。余程馬車の揺れが気持ちよかったのか、本当に寝入ってしまっていたようだ。頰にぴっちり跡がついている。
先に馬車から下りて、それからエンヴィに手を伸ばす。未だ寝ぼけ眼の目を擦りながら手を乗せてくるエンヴィの小さな手を取りながら、エンヴィも降ろす。
「なんだか、お嬢様と執事みたいだね」
「服のせいだろ、高い買い物だったぞ」
「おやおや、女の子にあの格好のままでいさせる君の方がどうかしてるんじゃないかい?」
「ぐ…」
ど正論で返されて返す言葉もない。ちなみに、エンヴィの手には真新しい手袋がはめられている。キャメロンの得意な土属性の魔法陣が書いてあり、効果は以前街でもらったものと同じものだ。とはいえ、前回の反省を踏まえて今回は耐熱、耐水仕様の手袋を買っている。ぬかりはないはず。服装も整えて、動きやすいパンツと手首まである長いインナー、七分丈のフード付きの衣服を着ている。少しダボっとしているが本人曰くちょうどいいらしい。本人が言うならかまわないさ。
俺とエンヴィは揃って伸びをする。俺の背骨がポキポキと小気味良い音を鳴らす。
改めて周りを見渡す。のどかな良い風景が広がっている。エルブンと似たような雰囲気も感じつつ、エルブンよりも小さい町並みに果たしてマグ工房があるのか心配になる。べ、別に点検しようだなんて思ってないんだからな。
とまぁ気色悪いこといってないで、少し足を動かすことにする。
エンヴィは何もいわずに俺の後ろについてくる。ひな鳥でも連れている気分だが、キャメロンもついてくるからややこしい。兄弟にしては似てないだろうからな。二人の髪色は暗いが、俺の髪の色は確か灰色だったはず。長らく白くしか見えていないせいで若干記憶が薄れつつある。
…いつか、色を忘れるときがくるんだろうな。
頭の中に残る色合いを思い起こしながら、目の前の風景に目を移す。モノクロの風景には、ゆれる稲穂とススキの区別すらつけにくい。
「あぁ、そうだ。護身用の武器を調達したいんだが、武器屋を探してもいいかな?」
「それはかまわねえけど、たぶんこの村にはないと思うぞ。こんな小さな村に武器を専門に取り扱う店は必要ないだろうしな」
「…いつも思うけど、この国は無用心だよね。魔法が使えないことを考えようとしない」
「考える必要もないんじゃないか?使えなくなることなんてないだろうし」
「あるよ、一番身近にある」
俺の隣を歩いていたキャメロンは俺の前に躍り出て、俺の胸を指でつついた。
「魔力切れだ。魔法の仕組みは私もわかっているつもりだ。人が体内に保持していられる魔力は限度がある。特に君の使う魔法は完全なる発散型だから消耗が激しい。だから血反吐を吐く思いをしなきゃいけない。きっと魔力の保持量が多いから同時に使うこともできるだろうけど、息切れも激しい。そんなときにどうやって戦うんだい?」
ぐ、と言葉に詰まる。
確かに、俺の使う五行の魔法は自身の魔力をそのまま形にするタイプで、この国で教えるような形とはまるでそぐわない。それはあっちの国が戦うことをマグナイトに一任しているからであり、魔法よりも『魔術』が栄えているのは確かだ。
魔法と技術の組み合わせによって労力の大部分を削っている。印付きのマグだってそうだ。普通なら、こめる魔力にもイメージが必要で、炎を出すための魔道具につけるマグなら、炎に変換できる魔力をこめる必要がある。さらに吸入口から取り入れる魔力にはその効果は備わっていないため、点検と魔力のこめなおしが必須になってくる。
それを印という技術で取り払うことでトリマニアは楽をすることとしている。この印がマグを半永久機関にしている。印は簡易的な魔方陣だ。魔力さえあれば効力を発揮する。そしてマグは空気中の魔力を取り込み続けている。そして免許を持たない輩が印をつけると国際法違反で捕まる。事故の元だからな。
印付けに失敗するとマグはたちまち濃密な魔力を持った爆弾に変化する。ミリ単位でも失敗は許されないし、魔方陣のイメージも欠かすことはできない。
これが、印付きのマグが高くなる最も大きな理由であり、職人の道が厳しい理由でもある。
「それなのに武器のひとつも持たないなんてどうかしてるよ。それともレディに戦わせるつもりなのかな?」
「…お前もレディだろ、だったらお前も武器なんて持たなくて良い」
「わ、私のことは良いんだ!私はレディというには程遠い…」
ムキになったかと思えばうつむいて口をつぐんだ。俺は少し不思議に思ってその顔を覗き込む。
「そんなかわいい格好してレディじゃないっていうのも無理があるだろ。だから良いよ、この武器も前に出て戦うのも俺がする」
もともとそのつもりだったからな。
俺がそういうと、キャメロンは一呼吸おいてから俺とエンヴィの手を取って走り出す。民家の物陰に身を潜め、口を開く。
「ミラーウォール」
俺たちを囲むように透明な壁が築かれる。何をするのかと思えば、キャメロンは急にその服を脱いだ。
「………、ちょっ!」
反応が遅れた…!
手を伸ばしてももはや服は地面に落ちている。視線はその体から離せない。
「…キャメロン……」
「わかるだろう?この傷の意味。私は一度女を捨てて、戦士として生きた。人生に後戻りはないんだ」
体に残る無数の傷跡。切り傷だけではなく殴打、抉られた様なものも見受けられる。どれも女の子の体に残ってていいようなものではない。
剣闘士の言葉に嘘偽りがないことを思い知る。戦っているからこそできた傷は生々しさとともに彼女がレディとして扱われることの抵抗の表れだと感じられた。だが、それでも彼女が女性であることに代わりはなく、その肢体を見れば、彼女の女性的な体つきは無視できないと感じた。
傷があるから女性として扱えないなんてことは、俺の中にはない。
「戻る必要なんてないだろ。戻らなくたって、やり直す事は出来る」
落とした服を拾い上げる。
「いいから服着ろよ。風邪引くぞ」
「………、」
キャメロンはそれを受け取って、その服を見つめた。女ではない、そう言いながら、彼女はどんな思いでその服を選んだのか、俺にはわからない。だってワンピースって、女の子の象徴みたいな服じゃないか、組み合わせだって可愛らしいものだ。俺はどうしても、キャメロンが女を捨てているとは思いきれなかった。
「私に、やり直すチャンスはあるんだろうか…」
「てぃ!」「っ!!」
エンヴィが下からむんず、と胸を鷲掴みにする。カッ!とキャメロンの顔に色が差す。声こそ出なかったものの、反応自体はあった。
エンヴィはそのまま自分の胸を掴む。
スカ
「…私より大っきいのにレディじゃなかったら…私どうなるの…」
やべぇ、言葉の重みがグラヴィティ(闇魔法)。気を取り直してエンヴィがキャメロンの腹を突いた。
「ちょ、ちょっと!」
「キャメロンはそのままでいいと思う。他の人になんて言われたって、ラックも私も、キャメロンの事はレディだって思ってるから」
「レディ…」
小さく笑って、服を着込む。なんだか晴れやかな顔をしてるな。
「わかったよ。私の負けだ。その代わり、キッチリ守っておくれよ?だ・ん・な・さ・ま?」
「…は?」
旦那様?
「少なくとも君は私の雇い主、だが私を用心棒にしたくないという。なら契約内容が変わってくると思わないかい?」
「いや、まぁ、そりゃあそうだろうが…」
「となれば、私を女として扱いたいという君の要望に応えて、こうすることにした」
服をちゃんと着込んだあと、前屈みになって俺に悪戯っ子の如く笑いかける。
「私が夜のお世話をしようじゃないか」
「よっ…!」
一瞬思考がフリーズする。どうしてこいつはこう、突拍子も無いことばかり提案してくるんだ…?!
俺は懸命に手を振ってそんなことも必要ないと言う。だがキャメロンの意志は固い。
「…私から肌を見せたのは初めてなんだからな。君から手を出してもらえなきゃ、私の気が収まらない」
「ただの意地じゃねえか!」
透明な壁が解かれ、風が吹き込んでくる。
その風に、艶やかなその髪がなびいた。
「覚悟してくれよ?私は意地が悪いんだ」
それはもう嫌というほど思い知ってるさ。
口には出さず、笑って言ってやる。
「上等」
それがお前を生かす道だってんなら、それに付き合ってやるのも悪くない。
勿論、俺たちの旅のついでにはなるがな。