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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

悪魔が惚れた青い瞳

作者: 花南



 蛇は禁断の果実を男に勧めた。

「食べなさい」

 ひどく穏やかな声音だった。急に責められるという恐怖よりも、この果実を味わってみたいという気持ちが勝った。

 金色の果実にかぶりついた。そうして男は、女が先に自分をそそのかしたのだと言うように、蛇に仕向けさせた。

 かくてアダムとイブは楽園を追われる。

 追い出された? いいや、出て行ったのだ。


 教授と俺が知り合ったのは随分昔のことだった。当時、目の見えない妹を守るために、俺は彼のもとを訪れた。

 教授は俺が側にいてくれるのであれば、彼女がみじめな生活をせずにすむようにしてやろうと言った。

「なあに、近くにいてくれるだけでいい。私は青い目が大好きなんだよ」

 爬虫類のような目を細めて教授は笑う。頬を撫でる手を払えなかったのは、妹を腕に抱えていたからだった。

「君の妹の目が無事でなかったのが残念だよ」

 教授は至極残念そうにそう言った。



***

 妹の片目は白濁している。もうひとつの目は、俺と同じ青い色をしている。

 ベネチアグラスのような深い青を湛えたその目は、いつも物憂げに半分まぶたがおりていた。

 彼女は足元で靴を履かせている従者を見下ろす。そうして靴を履かせ終わる頃に、そのつま先で男の頬を蹴った。そうして靴を脱ぎ捨てる。

「靴を履かせるのにどれだけ時間を割かせるつもり?」

 ベンダはそう言った。従者はぺこりと頭を下げて、もう一度靴を履かせようとする。

「ああ、このままじゃあいつまで経っても出発できないね」

 ベンダを待っていた俺の隣で、にこにこと上機嫌な笑顔を作った教授がそう言った。

「ベンダを甘やかすのはよくない。ちゃんと叱ってくれよ」

「君が叱ったらどうだね? オルト」

 俺はため息をついて、妹が靴を脱いで従者をからかっているのをずっと待っていた。だけどいい加減、俺が待ちくたびれて何かを言おうとしたとき、ベンダはこちらを見て笑った。

「お兄様、私、お兄様の秘密をばらしてもよくてよ?」

 俺はぐっと黙りこむ。

「ふたりの間で秘密事かい? 私にも教えてくれればいいのに」

 教授はうらやましそうにそう言って、頬杖をつきなおした。

「おじさま、私の片目はなんでも見通すのよ。そういう魔法の力を持っているの」

「ああ、そういう設定で遊んでいるのだね」

 教授は取り合わずに口の端を持ち上げるだけだった。

 ベンダは知っている。俺が妹の片目を捧げるかわりに、悪魔から音楽の才能をもらったことを。

「目は口ほどにものを言うのよ」

 物心ついたばかりのベンダはそう言った。

「お兄様、私、お兄様の秘密を黙っていてもいいわ。だけど私ひとつお願いがあるの。私、お兄様とおじさまがやっていることに興味があるわ。混ぜてほしいのよ」

 それは俺がずっと妹にだけは知られたくなかった秘密だった。俺が「いけない」と言うと、ベンダは綻ぶように笑って、俺の手をコルセットの内側へと差し入れた。

「お兄様、もう一度言うわ。私はあなたの秘密を知っているのよ?」

 彼女の片目は青い目だった。そうしてもう一方の目は、悪魔の眼球が嵌っていた。


 教授は歳をとっている。毎夜毎夜のように求められることはまずない。

 ことわっておくが、俺は別に姦淫を犯しているわけではなかった。教授は俺の目をしげしげと見つめ、そうして瞼を押さえつけて、眼球の真上にキスをする。水晶体に圧迫感を感じて俺の体はびくっと震える。

 教授はとかく、眼球を愛する。そうして彼の部屋にはたくさんの標本があった。

 詩人の眼、乞食の眼、美しい少女の眼、死んだ家族の眼……その中にいずれは俺の眼も加えられるのだろうと思った。

「君が死んだらこの眼をくれるかい?」

 恋人をいとおしむように男はいつもそう言った。


「お兄様とおじさまの遊戯に私も混ぜて」

 老成た妹の言い分はそうだった。

 俺が教授にそう言ったら、彼は快くその儀式を承諾してくれた。

「お兄様。私、大人になるんだわ。秘密に混ぜてもらえるってことはそういうことよね?」

 ベンダは嬉しそうにそう言いながら廊下を歩いた。

「言っておくがな、ベンダ。あれは、教授は普通の趣味の持ち主じゃあない」

 変態なんだよ。胸中呟いた。

「お兄様、お世話になっている方の悪口を呟くなんてはしたなくてよ」

 見透かしたかのようにベンダはころころ笑いながらそう言った。

「気味のいいもんじゃあない」

 嘔吐が出るとばかりに俺はもう一度呟いた。


 教授は保存液に漬けられていた眼を舐めている最中だった。

 俺は部屋に入った瞬間、少しだけ眼をそらす。

「やあ、ベンダ。そしてオルト」

 教授はベンダを抱きかかえて、俺の背中を部屋の中央まで押していった。

「今日は素晴らしい日だね。君たちふたりの眼を堪能できるというのは」

 そうしていつものように、俺の瞼にキスをして、瞼をこじ開けるように舌を挿し込んできた。気持ち悪い背中を這い上がる蛆のような感覚に耐えながら、俺はその行為が終わるのを待った。

「次はベンダだね」

 そう言って教授が彼女の白濁した眼に舌をあてた瞬間だった。

「……?」

 教授の顔に少しばかり怪訝な表情が浮かぶ。

 どうしたんだ? そう思っていると、教授はその場で眼を押さえて苦しみに苦しんだ。妹の眼と彼の眼は青い放電を放ち、バリバリと音を立てて壁を揺らしたかと思ったら、しばらくして教授は静かになった。

「ああ……やっとこの時がきた」

 その声音は教授のもののはずなのに、何故かいつも以上に俺の肌を凍りつかせた。

「おじさま、お久しぶりです」

 毎日会っている存在に、ベンダがうやうやしく挨拶をする。

「お前、誰だ?」

 俺は警戒しながら教授に聞いた。

「なんだと思う?」

 教授はクツと笑って、こちらを見た。

「ベンダ、契約は終わったよ。眼は元に戻してあげよう」

 言うや否や、ベンダの眼はみるみるうちにその青さを取り戻していった。

「そんなに正体が知りたいならば教えてあげようか? 君に昔、音楽の才能をあげた者だよ」

 ぞわりと身の毛がよだつのを感じた。悪魔が目の前に、教授の体を乗っ取っているというのか。

「君はベンダの眼を捧げて、音楽の才能を手に入れた。そうしてベンダは教授の肉体を捧げて、視力を取り返した。私の目的はなんだと思う? オルト」

 悪魔は俺のネクタイを掴むと引き寄せて、そうして言った。

「君に至上の音楽を作ってもらうことだよ。聞けば気が狂うように美しい、文字どおりその音楽に魂さえ捧げてしまうような曲だ。喜ばしくないのかい、喜ばしいだろう。君はかつて、才能のためならば妹の眼を差し出した男だ。富を手に入れるために自分の眼球を老人に舐めさせられるような少年だった。ならば歴史に残る爛れた音楽を作るのに抵抗などないだろう」

 悪魔は手を離し、そうして笑う。

「手は貸そう。君そのものが地獄の音楽を聞けばきっとわかるはずだ。これが芸術だということが」

 芸術には、毒がなくてはいけない。教授の皮をかぶった悪魔はそう言った。


 目が覚めた、のだと思う。視界に光は入ってこなかった。

 隣で誰か、女の子が寝ている吐息がした。俺はきっとベンダが隣で寝ているのだろうと思った。俺は手探りで立ち上がり、そうして壁を伝ってここがどこなのかを考えながら歩いた。

 頭の中には美しい曲が流れている。気が狂いそうなくらい繊細で、いとおしいあまりに壊れてしまいそうな、そうして自分の心を蝕んでいくような、甘い旋律だ。

「誰か、誰か、譜面を持ってきてくれ。今すぐだ、今すぐ書き落とさないと気が狂ってしまいそうだ!」

 俺は叫んだ。頭の中で音楽が流れ続ける。俺の目はすでに機能していなかった。この音楽が流れ始めたときに既に失明していたのだ――。

 享楽的な生活が始まった。

 ベンダとかわって失明した俺の身のまわりの世話を、彼女は甲斐甲斐しくやってくれた。本当に甲斐甲斐しかった。彼女は俺の体を綺麗に拭くこともしたし、汚物を始末することもしたし、俺を穢しもした。

 彼女はとても快楽的な少女だった。そうして俺は暗闇の中で彼女の指先や舌に溺れていった。

 教授――悪魔は譜面を手にとって、俺の近くに座る。俺はピアノに腰掛けて、頭の中に降ってくるインスピレーションを指先に落としていった。

 教授はそれを譜面に書いていく。

 失明したピアニスト、彼の作曲したものはひどく浮世離れした美しさでもって人を惹きつける。そういう謳い文句で俺は一躍有名になったようだった。正確には俺は部屋に引きこもっていたからほとんどのことはわからなかった。

 教授は俺の見えなくなった目を本当に愛してくれた。

「この眼はきっと悪魔にくれてしまったのだろうね。こんなにも美しい音楽と引き換えに、君はこの光りを売ってしまったのだろう」

 そうして彼は俺の瞼にキスしてくれた。その正体が悪魔なのか、かつての教授なのか俺には判断がつかなかった。

 背筋を這い上がる、腰に生まれる甘い疼きは今も変わらず、いや、前よりも確かに増した感覚をもって俺の心を蝕んでいった。

 体は妹に溺れ、心は教授に蝕まれ、鼓膜は美しい音楽に犯され、俺という存在はどんどん無力になっていった。

 ただ享楽的に生きて、ただピアノに触れて、ただ笑い、だらしなく生活していた。

「お兄様、林檎が剥けたわ」

 耳元にベンダの声が入る。

「食べて」

 口に林檎を押し込まれる。一口齧った。ざらついた食感と共に、甘酸っぱさが口の中に広がった――。


「いつまでそんな生活をしているつもりだね?」

 耳に声が聞こえた気がした。

「わからないな。いつまでだろう」

 そろそろ狂ったのかなと、考えた。ある日シューマンみたいに「天使のくれた旋律」を残して、俺も自殺するんじゃあないかって。

「俺にとって、音楽で成功することは何者よりも替えがたき幸せだったんだ」

「今、君は幸せかね?」

 答えられなかった。YESともNOとも言いがたい質問だなと思う。

「君の幸せはどこにある?」

「あんた神様? 俺の幸せは、音楽を作ることだよ。裁かれたっていい、俺は音楽を作り続けるんだ」

 その言葉に声の主は「そうか」と言った。裁かれもせず、光あれとも言われなかった。そうしてやわらかい羽のようなものが、頭と頬を撫でたのがわかった。

 鼓膜にあたたかな感覚が降りてくる。俺はやわらかな旋律を聞いた。久しく見ていない、太陽のようなまぶしさをもった旋律を。



◆◇◆◇

 世界的に有名な作曲家の青年が何も作曲できなくなったという噂は、音楽業界にすぐに広がった。

「耳が悪くなったわけじゃあないんでしょう?」

「眼は見えないままらしいけれどもね」

 そうしてまことしやかに、二十七の歳になったから才能が死んだのだと囁かれたのだっった。


「もう作曲はしないのかね」

 教授は疲れ切った、穏やかな表情をしたまま少女の指先に遊ばれる男を見た。

「もう、書けないと思うから……」

「最も美しい音楽でも聴いたのかね?」

「そんなものは、たくさん聴いてきたよ」

 オルトは微笑んで、言った。

「最もあたたかい音楽を聴いたんだ」

 教授は少し微笑むと、彼の瞼にキスをして、そうして部屋をあとにした。


 彼の手記にはこう残されている。

 

 俺の悪魔は音楽の中にいた。

 そして俺の神も、音楽の中にいた。

 世界で最も美しい音楽よ

 世界で最もやさしい音楽よ

 君たちの照らした世界は、

 なんと眩しく、なんと気だるいことだろう!


 彼の頭の中では、今も音楽が流れている。それはそれは、やさしく囁くように……


(了)

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