恋して抜け忍
「急いで」
糸魚川君に促され、あたしはリアルを抱いて走り続けた。
後ろからエンジン音が迫ってくる。
「こっちへ」
あたし達は河川敷に逃げ込んだところで、三台のバイクに追いつかれた。
「大人しく猫を渡せ」
ライダーの一人がそう言うと、三台のバイクはあたし達の周りをグルグルと回り始める。
「美樹本さん。ちょっと力を抜いて」
「え? なになに?」
糸魚川君はしゃがみこむとあたしをお姫様だっこの状態で抱き上げた。
ちょっ……ちょっとドキドキするんですけど……
「しっかり捕まってて」
糸魚川君の首にしっかり捕まったけど、どうするの?
これから……
その答えはすぐに出た。
糸魚川君は、あたしとリアルを抱いたままジャンプしてライダー達の頭上を飛び越えたのだ。
うそ!!
人間業じゃない!!
「ここで待ってて」
草むらにあたしを降ろすと、糸魚川君は抜刀して三台のバイクに向かっていく。
「でええい!!」
糸魚川君はジャンプすると先頭のバイクのライダーを蹴落とした。
乗り手を失ったバイクは惰性で滑っていき川に落ちる。
盛大な水しぶきが上がった。
その時には糸魚川君は二台目のバイクに向かっていた。
今度はジャンプせず、姿勢を低くしてバイクに切りつける。
前輪を切り落とされたバイクは転倒してライダーは投げ出された。
だけど最後の一台が糸魚川君の背後から猛スピードで迫る。
後ろからとは卑怯なりぃ!!
でも糸魚川に通じなかった。
糸魚川君はまるで背後が見えていたのようにバイクがぶつかる寸前にジャンプ。
空中で一回転するとバイクの後ろに飛び乗っていた。
いきなり無賃乗車されたライダーは慌てて振り落とそうするが、ヘッドロックをかけられ操縦不能になって転倒。
バイクが倒れる寸前に糸魚川君は脱出。
地面で苦痛にうごめいているライダー達を背中に糸魚川君はあたしの方へかけてくる。
「さあ、行こう」
あたしたちは再び走り出した。
でも、どこまで逃げればいいの?
なんて考える余裕もなかった。
突然あたしたちの行く手をライトバンが塞いだ。
降りてきた三人の男がピストルを構える。
真ん中の男が一歩前に出て……
「ホールドア……」
までしか言えなかった。
「ホールドアップ」の「プ」を言う前に、抜刀した糸魚川君が瞬時に間合いを詰めて男をみね打ちで倒したのだ。
左右の男たちが慌ててピストルを向けるが、その前に銃身が切り落とされてしまった。
男たちはそれに驚く暇もなく打倒される。
でも、さすがに徒歩で逃げ回っていたせいか、彼の顔にも疲れの色が見えてきた。
どこかに隠れないと。
背後から車の音が聞こえてきた時、あたし達は近くの公園に入り遊具の中に隠れた。
隠れたのはいいんだけど、肝心なことをあたしはまだ聞いてない。
「あのさ、なぜ、あたし達を助けてくれるの?」
「事情は落ちついてから話す。今は僕を信じてくれ」
信じろと言われて『はい、信じます』というほどあたしもお人好しではないけど、今は
そうするしかないわね。
「これから、どうするの?」
「潜入調査のマニュアルに、いざという時に逃げ込める隠れ家を用意する事になってるんだ。今回はそれが役に立つ事になるよ」
「だったら、どうしてまっすぐ行かないの?」
糸魚川君は、逃げる方向を次々と変えていた。
当てもなく彷徨っているかのように……
「まっすぐ逃げ込んだら、隠れ家を特定される。だから、ランダムに逃げ回って敵を混乱させてから逃げ込むんだよ」
車が通り過ぎるのを待ってから、あたし達は再び走り出した。
「こっちだ」
糸魚川君に案内されて、ついたのは木造モルタル二階建てのありふれた住宅。
隠れ家って言うぐらいだから、てっきり忍者屋敷みたいなのを想像していたのに。
「この家はなんなの?」
糸魚川君は慣れた手つきで裏口に掛かっていた鍵を開けた。
「電気、ガス、水道は止められているけど、身を隠すぐらいの事はできるよ」
入口の横に置いてあったLEDランタンを灯してそれを持って中に入っていく。
あたしもリアルを抱いてその後から上がり込んでいった。
「いや、あたしが言いたいのは」
糸魚川君はリビングに入ると、床に置いてあったカセットガスストーブに点火した。
「これって不法侵入じゃないの?」
「心配ないよ」
「そうなの?」
「ここの住民が刑務所に服役中という事は調査済みさ。帰ってくる心配はないよ」
「そうなんだ。それなら……ちょっと待って!! やっぱり不法侵入じゃないの!?」
「まあ、そうだけど。しばらく身を隠さなきゃならないし」
「瑠璃華。別にこの家の物を盗む訳じゃないし、休むぐらいいいんじゃないか」
「そうかな……え?」
あたしは慌ててリアルの口をふさいだ。
「美樹本さん。僕はリアルが喋れる事を知ってるよ。今更そんな事はしなくていいって」
「そうだったわね」
あたしはリアルの口から手を離した。
「いつから俺が知性化猫って気づいていた?」
「図書室で美樹本さんから、君の名前を聞いた時。て、言うか本気で隠れる気があるなら、名前ぐらい変えたらどうだ?」
「それは……」
「首輪も上からカバーかけるぐらいして、カモフラージュしていると思っていた。まさか、そのままだったとはな。逆に罠じゃないかと思ったよ」
言われてみれば迂闊だったかも。
バイクのエンジン音が近づいてきた。
あたし達は緊張して押し黙る。
バイクは何事もなく通り過ぎていく。
「瑠璃華。俺を下ろしてくれ」
「え? 大丈夫なの?」
「ちょっと頭をぶつけただけだ。もう大丈夫だよ」
あたしはリアルをそっと床に下ろした。
「俺、ちょっと外の様子を見てくるよ」
止める間もなくリアルは部屋から出ていき、あたし達は二人きりになってしまった。
ええっと……ちょっと気まずいんですけど。
ちらっと、糸魚川君に目を向けると、ちょうど彼もあたしに目を向けたところだった。
目と目が合い、あたしは慌てて視線をそらす。
ヤバい!!
なんか変な雰囲気だよ。何か話題を……
「ねえ、糸魚川君」
「な……なに?」
「メガネないけど、大丈夫なの?」
「メガネ? ああ!! あれは元々変装用で度なんか入ってないんだ」
「そうなんだ……よかった……」
いや、よくない。
そんな事よりもっと大事なことを聞かないと。
「やっぱり、君は内調のエージェントなの?」
「正確には見習いエージェントかな」
「見習い?」
「僕は正規のエージェントじゃなく、工作員養成所の生徒なんだよ」
「どうして、内調を裏切ってあたし達を助ける気になったの?」
「え? それは……その……それは……いいじゃないか。そんな事別に」
いや、よくないって。
「実を言うと、自分でもなんでこんな事をしたかわからないんだ。最初はリアルが連れて行かれるのを黙って見ているはずだった。それが僕の任務だから。だけど、あいつが美樹本さんに危害を加えそうになったのを見て、その……なんていうか……身体が勝手に動いたというか……気がついたら、美樹本さんの家に飛び込んでいた」
「どういう事?」
「こんな気もち、初めてで自分でもどうしていいかわからなくて」
いきなり、糸魚川君はあたしの手をガシッと掴んできた。
「好きだ!! 美樹本さん」
え? えええ? 今のって何?
ひょっとして、あたしコクられてるの?
「好きなんだ」
「えええ!? ちょ!! ちょちょ!! ちょっと待って!! なんでそういう話になるの!?」
「ふぎゃあ!!」
いつの間にか、偵察から戻ってきたリアルが糸魚川君に飛びかかり手を引っ掻いた。
「痛てて」
糸魚川くんがあたしの手を離すと同時にリアルが彼の顔に飛びかかる。
「ふぎゃー! 瑠璃華に触るな!!」
尻餅をついた糸魚川君の体に乗っかり、リアルは彼の顔に猫パンチを連発した。
「わ!! よせ!! リアル!!」
「二人ともケンカはやめて」
この場合『二人』でいいのかはさておき、あたしはリアルを捕まえて抱き上げた。
抱き上げても、リアルは足をジタバタさせるのをやめない。
「やっぱ、こいつ信用できないぞ。俺がいない間に瑠璃華にエッチな事するなんて」
「されてないもん!!」
「え? じゃあこれからするとこだった?」
「だからあ、そうじゃなくて。ちょっとコクられただけだって」
「そうなのか?」
リアルは糸魚川君に視線を向ける。
彼は無言で頷く。
「じゃあ、お前が内調を裏切った理由ってそれ?」
「そうなるかな」
「糸魚川君。気持ちは嬉しいけど、いきなり好きだなんて言われても困るわ」
「ごめん。困らせるつもりはなかった。ただ、あの時から、君の顔が頭から離れなくって」
「あの時って?」
「図書室へ行く時、美樹本さんに手を握られてから」
「ええ!? そのぐらいで? だって、糸魚川君はスパイでしょ。手を握られたぐらいで」
「惚れてしまったものは仕方がないだろ」
「そうだけど、スパイってもっと女慣れしてるんじゃないの?」
「諸先輩方が女で失敗する事があまりにも多すぎたために、僕らは禁欲主義を徹底的に強いられたんだ。養成所は全寮制で外出は一切禁止。女人と交わる事もご法度だったんだ」
その教育方針、絶対間違っているよ。現に今、彼は女で失敗しようとしているし……
あたしにとっては好都合だったけど、純情少年を弄んでいるみたいで気が引けるなあ。
「まあ一応信じておこう」
と言いながら、リアルの目は完全に疑っている。
「それより、ここにパソコンあるか?」
「あるけど」
糸魚川君は床に置いてあったカバンからノートパソコンを出してリアルの前に置いた。
「瑠璃華、頼む」
あたしはリアルの首輪からUSBケーブルを延ばしてパソコンにつないだ。
「何をしているの?」
「糸魚川君。リアルの能力を聞いてないの?」
「能力? 日本語、英語、フランス語、中国語、ロシア語それと猫語が話せる事と、普通の猫より手が器用でパソコンの操作ができる。それと改造手術で右前脚にリューターを仕込んであると資料にあったけど」
「首輪メモリーの事は?」
「首輪メモリー?」
「そうね。説明するより見た方が早いかな」
そうしている間にパソコンが立ちあがった。リアルの見てきた映像が映る。
「これは?」
糸魚川君の驚き様を見ると本当に知らなかったみたい。
あたしがやったのと同じように、リアルの顔にカメラがないかしばらく探してから、ようやくそれがリアルの視覚を直接映したものだと納得した。
「BMI!! まさか、これほどの物が実用化していたなんて」
「BMIってなに?」
「ブレイン・マシン・インターフェイスの略だよ」
「ええっと……お願い。日本語で言って」
「つまり、脳と機械を直接つないで相互に作用させるシステム」
「よくわからないけど……それって、凄いことなの?」
「そりゃあ凄いよ。僕みたいな下っ端に教えてくれないはずだ。これでリアルの処分に反対している人がいる理由がわかった」
「え? 可哀そうだから反対しているんじゃないの?」
「まさか。この技術、おそらく動物実験でかなりの失敗をしているはずだ。リアルは奇跡的な成功例だと思う。研究者からしたら、そんな貴重な実験体を政権延命のために処分されちゃたまんないだろうな」
「にゃにゃ!! 俺ってそんな危険な実験されてたの?」
「知らなかったのか?」
「知らなかった」
たぶん、知らない方が幸せだと思って誰も教えてくれなかったのね。
「まあ、その事は置いといて、これ見てくれ」
リアルはパソコンのディスプレーを示す。隠れ家の前の道路が映っている。
たぶん、リアルが屋根の上から見た映像ね。
「前の道路を車が何台か通り過ぎた。知ってる奴が乗っていないか見てくれ」
「わかった」
映像が動き出した。
車が通る度に映像を止めて糸魚川くんが運転席と助手席の人間の顔を確認すると言う地味な作業がしばらく続く。
「拡大してくれ」
彼がそう言ったのは六台目の車が通った時。
運転席には若い白人男性がいた。
助手席の人はアラブ人のようね。いや、なんでアラブ人と思ったかと言うと、アラブの女の人が顔を隠すのに使う布……ブルカとか言ったっけ?
あれを被っていたから。
「内調か?」
「いや、内調じゃない。見覚えのある顔だったので。思い出せないけど、あの男、どっかの組織の人間だ」
「んじゃ顔認証システムで……」
キーボードに前足を乗せようとするリアルを糸魚川君は慌てて止める。
「やめろ!! お前、昨日美樹本さんのパソコンから内調にアクセスしただろ」
「にゃにゃ!? バレてた? 海外サバ経由したのに」
「当たり前だ!! 内調の電脳戦能力を甘くみるな。2ちゃんねるに書き込むのとはわけが違うんだぞ。串刺したぐらいで騙せるか」
「んにゃ。甘かったか」
「まあ、どっちにしてもこれは関係ないな」
あれ? 後ろの車って?
「ちょっと映像を進めて」
さっき、家の前に止まっていたのと似ているような。
「やっぱり!!」
運転しているのはハミルトンだった。
そして助手席にいるのは村井。
二人を乗せた車はゆっくりと通り過ぎていった。
「気づかれなかったかな?」
「わからない。念のためここから逃げる準備だけはしておいた方がいいな」
「ねえ。なんでハミルトンみたいな外人が、日本のスパイやってるの?」
「え? ああ、そのことか。あいつらは正規のエージェントじゃないんだ。ていうか、このミッションには 正規のエージェントは投入されていない」
「にゃ!? 俺も舐められたもんだぜ。猫一匹捕まえるのに正規のエージェントなんかもったいなくて出せないってか」
「違うよ。正規のエージェントを使わない理由は内調内部の人間が信用できないからさ」
「おい、それって俺を逃がしたのが内調内部の人間だってばれてるからか?」
「ばれてないと思ってたのか?」
「それは」
「内調内部の協力なしに君達が逃げられるはずがない。だから誰か手を貸した奴がいる事ぐらい容易に推測できる」
「確かに」
「だが誰がやったかはわかってないから、安心していいよ。とにかく、そんなわけで正規のエージェントが信用できないので、僕みたいな見習いか、あるいは探偵とか外部のエージェントに依頼していたんだ」
「ハミルトン達も?」
「あれが、正規のエージェントだったら、僕みたいなペーペーが勝てるわけないよ。もっとも、あの中に村井がいたのでちょっとビビったけど」
「村井? 瑠璃華の父さんに化けてた奴か?」
「ああ。奴は内調の元エージェントさ。五年前に問題を起こしてクビになったらしい」
「知り合い?」
「写真で見ただけだよ」
「ねえ、糸魚川君は信用されていたの? いくら養成所の生徒と言っても、内調内部の人間みたいなものじゃないの?」
「まあ、そうだけど今回のミッションは中学生と接触する必要があったからね。大人のエージェントを出すわけにはいかないので」
「接触する中学生って、あたしの事?」
「いいや。石動だよ」
「ええ!? なんであいつと」
「そもそものきっかけは、インターネットに『喋る猫を見た』という書き込みがあったから。石動という中学生が書き込んだのはすぐにわかった。どうせ、ガセだと思ったけど、念のために僕が送られてきたってわけさ」
「あいつ、そんな事書き込んでたんだ」
「君と初めて会った時は、石動と接触するために周囲でのあいつの評判を探ってたんだ」
「最悪だったでしょ」
「そりゃあもう。とにかく、石動の性格がわかったから、気の弱い転校生のふりをして奴に近づこうとしたわけ。そうすれば奴の方から噛みついてくると思って」
「じゃあ、あたしはよけいな事しちゃったのかな?」
「え?」
「だって、糸魚川君、本当は石動なんかよりずっと強いんでしょ?」
「よけいな事じゃないよ。演技とは言え、石動にはかなりムカついていた。だけど、一般人に暴力を振るえば僕は処分される。奴らにリンチされても反撃はできないんだよ」
「そうなの?」
「うん。だから、美樹本さんには感謝してるんだ」
「本当に?」
「ただ、あれはちょっとやっかいだったな」
「あれって?」
「石動が悪さをしている動画を撮って投稿した事」
「う!! そこまで知ってたの?」
まあ、相手は本職のスパイなんだからすぐわかっちゃうよね。
「君の投稿した動画、石動にかつ上げされた子の親が見てしまい、警察沙汰になったんだ」
「それは知ってるけど……」
「石動が逮捕されると僕としては困るので、上に頼んで警察の動きを止めてもらっていた」
それで、警察が動くのが遅かったんだ。
「じゃあ、あの日まだ学校に来ていなかったはずの黒沢先生の姿をリアルが見たのは?」
「ああ!! あれは僕の変装。黒沢先生には気の毒なことしてしまったけどね」
よかった。やっぱり黒沢先生は買収されるような人じゃなかったのね。
「ところが、その後、図書室であっさりリアルの居場所がわかってしまった。だから、君達がトイレに行ってる間に内調に連絡して警察にかけていた圧力を解除してもらったってわけさ」
「そうなんだ。でもさ、なんでリアルを見つけたのに何もしなかったの?」
「上からの命令でね、見つけても手を出すな。しばらく泳がせろと」
「なんで?」
「総理から、内調動物部隊を処分する命令が出たのは知っているかい?」
「ええ。それはリアルに聞いたわ」
「だけど内調の一部の人達がそれに異を唱えて、動物部隊を逃がしたんだ。もちろん、すぐに追跡命令が出たけど、動物部隊はその前にある国の大使館に逃げ込んだ」
「大使館に? なんで?」
「外国の大使館に逃げ込まれたら、日本政府は手が出せない。もちろん、工作員を送り込む事もできなくはないが、失敗したら外交問題に発展する。特に柳川総理は、そういう事をいやがるんだ」
「でも、リアルは……」
「正直言うと、リアルも大使館に逃げ込んだものと思っていた」
「思っていた?」
「普通、そう思うだろ。一緒に逃げていたんだから」
糸魚川君はリアルに目を向けた。
「逆に聞きたい、なんでトロンやサムと一緒に大使館に逃げ込まなかったんだい?」
「悪かったな。あいつらと逸れたんだよ」
「なるほどね。とにかく、リアルだけ捕まえても意味がない。トロンとサムがリアルに接触してくるまではリアルは泳がしておくということになったんだ」
「トロンとサムと俺が揃ったところを一網打尽にってことか」
「そうだよ。そして今朝、とうとうトロンとサムが現れてしまった」
「え? あいつら来てたの?」
「会ってないのか?」
「そういえば、あたしさっき庭でサルの姿を見たよ。あれがトロンだったの?」
「え? いつ見たんだよ? あいつら来てたのか」
「とりあえず、僕はその事を報告したんだ。そしたら僕には手を出さずに庭で待機していろという指示が来た。そしてしばらくしてあいつらが来た。後は知っての通りさ」
「なあ。トロンとサムは捕まったのか?」
「いや。なぜか回収部隊の奴らはトロンとサムには見向きもしないで君だけを狙っていた」
「あいつらはどこの大使館へ逃げたんだ?」
「それは僕も聞いてない」
「ねえ、糸魚川君。内調はずっとリアルが大使館にいると思っていたわけ?」
「ああ、そうだよ。大使館周辺を見張る以外に特に何もしていなかったんだが……」
何もしていない?
「しかし、リアルもドジだな。石動に見つかったりしなければ、僕がここへ来ることも無かったのに」
「ほっとけ。だいたいチュウボーのカキコぐらいで動く内調もどうかしているぜ」
「しょうがないだろ。あの書き込みは総理の秘書が見つけたんだ。総理から『確認しろ』と言われたら動かざるをえない。僕はガセネタだという事を確認してこいと命令されてきたんだ。もっとも、普通の学校生活を送れるまたとないチャンスがもらえたので感謝しているぐらいだけどね」
「という事は、おまえ任務期間をのばそうとしてわざと調査に手を抜いたな」
「なんの事だ?」
「ふつうなら、最初の日に石動に校舎裏に呼び出された時点で調査は終わっていたはずだ」
糸魚川君はリアルから視線を逸らす。
「そんな事ないよ。あいつなかなか口を割らなかったし」
「石動が逮捕されそうになったのを、警察に圧力かけて止めたそうだが、そんな事しなくても、そのまま逮捕させて内調の権限で取り調べ室に乗り込んで尋問できたはずだ。なぜ、そうしなかった?」
「いやあ、それは思いつかなかったなあ。今度からそうするよ」
糸魚川君。セリフが棒読みだよ。
まあ、それはともかく……
「ねえ、糸魚川君。内調は大使館を見張る以外なにもしてなかったって本当?」
「え? そうだけど」
あたしはリアルに視線を向けた。
リアルもあたしに言いたいことに気が付いたみたいだ。
あたし達は星野さんに送られてきたメールの事を話した。
「メール!? いや、内調ではそんな事はやっていないはずだ」
「じゃあ、いったい誰が?」
「おそらくあいつらだな」
「あいつら?」
「僕が美樹本さんと初めて会った時、リアルをさらおうとしていた奴らがいただろ」
「あ!! そういえば、あいつら何者なの?」
「あの後、内調に連絡して調べてもらった」
「わかったの?」
「シーガーディアンだ」
「それって、この前桜ケ丘SCを爆破しようとした奴ら?」
「ああ。あいつら、かなり追いつめられてるからね」
「そうね。そのあたりは取材に行ったパパに聞いたわ。シャチがシーガーディアンのボートを襲ったって」
「それだけじゃない。シーガーディアンのポールは頭にきてシャチをライフルで撃とうした。その動画を世界中に流されてしまった。おかげで奴ら、スポンサーからも見放されてしまった。『動物愛護団体がシャチを撃つとは何事だ』てね。まあ、それがこっちの狙いだったわけだが」
「それで、シーガーディアンはなんでリアルを追いかけていたの?」
「それなんだ。最初はなんで奴らが黒猫を追い回しているかわからなかった。ところが、リアルを美樹本さんが保護している事が判明してから状況が変わった。奴らは何らかの情報源から内調ですら掴んでいないリアルの潜伏先を知ったんだ」
「でも、リアルを捕まえてどうするの? まさか、カツラをはがされた復讐?」
「そんなんじゃない。奴らはホームページに知性化動物の事を書いたけど証拠がなかった。だから、生きた証拠であるリアルを捕まえようとしていたんだ」
「そんな事してどうするの?」
「日本政府を貶める材料にするか、あるいはそれをネタに政府を強請って逮捕されたメンバーの釈放を要求しようってつもりだろ」
ガタン。
上から音が聞こえてあたし達は押し黙った。糸魚川君は、懐からピストルを抜く。
「糸魚川君。それは……」
「大丈夫だよ。弾は殺傷能力のないゴム弾だから」
「俺が様子を見てくる」
リアルが部屋から出ていく。
「糸魚川君。ここを出てからどうするか考えてあるの?」
「一応ね。柳川内閣が倒れるまでの間、隠れていようと思う」
「にゃあああ!!」
不意に大きな猫の鳴き声が聞こえた。
「リアルは何をしているんだ? 外へ聞こえちゃうじゃないか」
「違うわ。これリアルの声じゃない」
ドタドタと大きな音を立てて一匹の三毛猫が駆け込んできた。
「ふにゃあ」三毛猫はあたし達に気が付いて鳴き声をあげる。
「心配ない。二階の音はこいつだった」
三毛猫の後から、リアルが入ってきた。
「にゃにゃにゃ」「にゃあにゃあ」
しばらく猫同士で何かを話していた。
「リアル。この子何を言ってるの?」
「悪い人に追われているから匿ってくれと言ってる」
「でも、この猫はどこから入ったんだろう? 戸締まりはしてあったはずだが」
「甘いぞ糸魚川。この家はあちこちに猫用の出入り口があるんだよ。それを見逃したな」
「いや、見逃したわけじゃないが忘れていた。鍵かけとくんだったな」
「じゃあ俺が鍵をかけてくるよ」
リアルは部屋から出ていく。
ガタガタ。
その音は裏口の方から聞こえた。
「いけない。あたし、ここに入った時、裏口の戸締まりしなかった」
「なんだって? ここも嗅ぎ付けられたか?」
「そうかな、猫の言ってる悪い人じゃないの?」
ん? 悪い人?
それって猫にとって悪い人って事よね。
まさか……
扉が開き『悪い人』が姿を現した。
『悪い人』はピンクのウインドブレーカーをまとい、大きなマスクとゴーグルで顔を覆っていた。糸魚川君がピストルを構える。
「だあ!! 撃っちゃだめ!! この人は」
「美樹本さん、糸魚川君。ここで何してるの?」
「え?」
『悪い人』に突然名前を呼ばれて糸魚川君は呆気に取られる。
「ああ、ごめん。私よ私」
星野さんはマスクとゴーグルを外した。
三毛猫を追ってここに入ってきたんだな。
「委員長!! なんでそんな格好?」
星野さんの趣味については、あたしから糸魚川君に説明した。
「私の高尚な趣味については理解してもらえたかしら? 糸魚川君」
こ……高尚なのか?
「それで、今度はこっちが聞きたいんだけど、ここで二人は何をしていたの?」
ヤバい。なんて言いわけしよう。
「ごめんなさい。聞くまでも無かったわね」
なんか変な誤解をされた予感。
「美樹本さんが新しい恋を見つけた事は良いことだと思うわ。でも、二人とも中学生なんだから、そういう事は節度をもってするべきだと思うの」
「もちろん、僕はそのつもりだ」
こら!! こら!! 糸魚川君!! どさくさに紛れて何を既成事実にしようとしてんのよ!!
「そうなの? でもこんな空き家に二人切りでいたら……ん?」
星野さんの視線が糸魚川君のピストルに向いた。
ヤバい!! これはもう言い訳できない。
「ああ!! ごめんなさい。私勘違いしちゃった。てっきり二人が不純異性交遊をしているのかと思ったわ」
「不純なんてそんな……僕は純粋に美樹本さんが好きなんだ」
あたしはまだ付き合うとは言ってないんですけど……それより、星野さんはピストルをどう解釈したんだろう?
「これって、サバイバルゲームって奴でしょ?」
そう思っていてもらった方がいいかな。
扉の隙間からリアルが駆け込んできて、あたしと糸魚川君を見上げた。
「猫用出入り口は鍵かけてきたぞ。助かったよ、猫の手でもかけられる単純な構造で」
室内の空気が一瞬にして氷りつく。
そりゃあもう『ピシ!』と擬音が聞こえてくるぐらいに……
りいああるうぅぅ、喋る前に確認しなさいよおおぉぉぉ。
「あれ? あれ?」
リアルは顔をひきつらせて硬直しているあたしと糸魚川君の顔を交互に見つめた。
「どうしたんだ? 二人とも。俺、何か不味いこと言った?」
言ったよ。人間の言葉を……
「リアル……ちゃん」
「ん? なに」
リアルは声の方を振り向く。そして硬直。
「にゃ……にゃあ」
もう遅いって……星野さんにきっちり聞かれたよ。
「喋れるの?」
「にゃあ」
「石動が言ってた事は嘘じゃなかったんだ」
星野さんはリアルの前にしゃがみ込む。
リアルもどうやら観念したようだ。
「ばれちゃあ、しょうがないな。そうさ。俺は人の言葉が喋れるんだ」
「信じられない」
「そうだろう。こんな猫気持ち悪いだろ。にゃ!?」
電光石火のスピードで星野さんはリアルを捕まえると、抱きしめてほおずりを始めた。
「もう。喋れるなら喋れるって早く言ってくれればいいのに。リアルちゃんたらあ」
「おい!! まて!! 俺は喋る猫だぞ!! こんな猫気持ち悪いとか怖いと思わないのか?」
「全然」
星野さんに一言の元に否定され、リアルは返す言葉をなくした。
「あの委員長」
「なんなの糸魚川君。私とリアルちゃんの愛を邪魔する気?」
いや、あんたが一方的に思ってるだけだろ。
「そうじゃなくて。僕らは今、非常に危機的な状態にあって……」
「ああ。サバイバルゲームの途中だったのね。じゃああなた達二人でやってて。リアルちゃんはこれから私がもふもふするから」
「だから、そうじゃなくて」
糸魚川君は泣きそうな顔で事情を説明した。もう国家機密も何もあったもんじゃない。
でもエージェントがそれでいいのかな?
リアルだって、そういう事はガンとして喋ろうしなかったのに。
糸魚川君って、肉体能力は優れてるけど、精神面で弱い人なのかも……
「なんですって!? リアルちゃんを処分」
話を聞いて星野さんは案の定激怒した。
「おのれ柳川総理許すまじ。だから、あんな奴、総理にすべきじゃなかったのよ。お父様
だってあんな奴に票入れなかったし」
いや、そもそも総理大臣は国民が直接選ぶんじゃなし。まあ、星野さんが言ってるのは、
与党に投票しなかったって事だろうな。
「とにかく、話を聞いた以上私も一肌脱がしてもらうわ」
「ダメよ、星野さん。危ないわ」
「そうだよ。僕らはこれから、日本国を敵に回すんだよ。君まで巻き込むわけには」
「いいえ。猫ちゃんの敵は私の敵だわ」
あんたが一番猫の敵だと思うけど……
「でも、あたし達はこれから逃げ回るのよ。人数が増えても」
「あら、私はあなた達と一緒に逃げたりはしないわ。そんな無粋な事」
「え?」
「せっかくの愛の逃避行なのに、着いて行ったら馬に蹴り殺されちゃうわ」
だから、愛の逃避行じゃないって……糸魚川君!! そこで嬉しそうな顔して頷かない!!
「とにかく、私にできるサポートはなんでもするわ。なにかできることある?」
「それじゃあ星野さん。頼みたい事があるの」
「なになに!?」
「あたし達、逃げるのに精いっぱいでグッキーを家に置いてきてしまったのよ」
「グッキー?」
「ハムスターなの。預かってくれないかな?」
「ハムスターなら大丈夫よ。ママも弟もアレルギーはないわ」
「本当!! ありがとう」
「でも、あなた達。この後、政権が変わるまで隠れてるとか言ってたけど、もっといい方法があるじゃない」
「え?」「星野さん。どんな方法があるの?」
「政権が倒れるまで待つんじゃなくて、倒してしまえばいいのよ」
はあ? なに言ってんだ? この人は?
糸魚川君は女に免疫がなかったようですが、本来の陸軍中野学校では女性との接し方は必要な技術とされていました。
新中野学校で糸魚川君を女に接触させないようにしていたのは、単に彼がまだ子供だからです。けっして諸先輩方の失敗が原因ではありませんが、彼が勝手にそう思い込んでいたようです。