銀子、人と出会う
住処を出て、3日が経ちました。
大人の人間の足なら、休みなしで1日あれば降りれるはずなのですが、いかんせん私は仔猫なのです。この短い手足ではどんなに急いでも数日かかります。傾斜が激しいところでは転がった方が速いくらいです。一度やったら岩にぶつかって凄く痛かったですけど。
精霊には休息が必要ないとはいえど、私は元人間なので疲れたら寝るようにしています。それがこの3日は、一度も休むことなく歩き続けています。疲労はマックスです。もう泣きそうです。帰りたい。
とはいえ、ここから住処まで登って帰る方が、ペインの街まで降りるよりも大変なのはわかっています。降りるのはどうしても辛くなれば転がれば良いですが、登るのはそうもいきません。ボス狼さん、迎えに来てくれないかなぁ……。
良かったのは、あれから1度も吹雪が起きていないことです。休みなく雪は降り続いていますが、あまり酷くないので移動に支障はきたしません。
でも、3日も歩いたのですからそれなりに進んでいるはずです。
あと少し!と自分を勇気づけて、今日も短い足でよたよたと走ります。猫なのによたよたって。仕方ありません、マンチカンもどきですから。それに猫は犬と違って陸地を走るのは得意じゃないんです。私に至っては上下運動、木登りもわざを覚えてやっと失敗せず出来るようになったくらいですが。
……アイドルへの道のりは険しいです。
***
やっと山道が終わりました。
ここまでかかった日数、7日。3日目の時点で半分も進んでなかったって、どうなんですかね。あの時点で疲労マックスだったのに、それから4日頑張った私を誰か褒めてください。
今はペインの街へと続く小路をてくてく歩いています。よたよたじゃないですよ。あれは下り坂で走ったからそうなっただけで、本来の私はてくてくなのです。
む、わかれ道に差し掛かりました。どちらに進めば良いのでしょうね。ぐるりと顔を動かすと、看板が目に入りました。これにどちらの道がどこに繋がっているのか書いてあるようです。どれどれ……
……字が読めませんでした。そういえば異世界なんでしたここ。適応能力が高すぎて忘れるんですよね。
仕方がないのでマップを出します。拡大しまくった結果、どちらの道を通ってもペインには辿り着くようです。悩んだ意味。
ですが私の見たかった雪の精霊の像は右の道を進んだ先にあるようです。それにこちらの方が私の目的地の一つである冒険者ギルドに近いので、右の道を進むことにします。
初めて来るところで興奮してますが、なんか楽しくありません。疲れすぎて。とりあえず早く寝たいです。ここらへんで1度休憩を取ろうかとも思いますが、こんなところで寝て誘拐されたら困りますし、すぐそこに目的地があるのに足踏みはしたくありません。一刻も早く着きたい、でも疲れて早く歩けない……。
下を向いてとぼとぼと歩いていると何かに当たりました。
頭部強打した!ごんって言いましたよごんって。
何にあたったのでしょう。壁かなにかかと思いましたが、この質感は壁ではなさそうです。硬いのですが、ただ硬いというわけでもなく……。
「ん?なんだぁ?」
顔を上げると、そこにはたぶん人の顔がありました。何故たぶんかというと、ぼやけてよく見えないからです。疲れが限界に達していたうえに頭部を強打したからでしょうか、なんだかクラクラします。
「っおい!?」
人が何か言ってるような気がしますが、よくわかりません。ただ今はクラクラして、そう、とにかく眠くて……
***
目が覚めました。
なんだか最近こんな始まりが多いですね。気がつくと、とか目が覚めると、とか。でも他に言いようがありません。
えっと、私は何をしていたんでしたっけ?雪山を降りていて……いや、もう降りてましたね。小路をぼんやりと歩いていて、そしたら何かにぶつかって、それで……。
「……あ、起きましたか」
声につられて顔を上げると、眼鏡をかけたお兄さんがこちらを見ていました。
うわぁ、こっちの世界で初めての人間だー宜しくお願いしますー、という意味をこめてひと鳴きしようとしたら、体中の毛がボッ!となって私はいつの間にかお兄さんから離れていました。口からはフーッと音が漏れています。
私は猫のこれがなんなのかを知っています。威嚇です。
いや、私も多少驚きはしましたけど、威嚇しようなんて気は全くなくてですね。むしろ友好的でしたよ。でも猫の本能的に、人間に警戒しなくてはならないようで。ああ、こんな習性があったらアイドルどころじゃないではありませんか!
そんな私を見て、お兄さんは一瞬少しだけ悲しそうな顔になり、すぐに無表情になって言いました。
「……ああそうですね。野生動物は警戒心が強いですから、人が近くにいれば驚くでしょう。失念していました」
違うんですお兄さん!本当は近寄りたいんですけど、人間ファン第一号にしたいんですけど!猫の体が許してくれないんです!
それと、野生動物じゃありません!可愛い雪の精霊、アイドル銀子ちゃんです!
「でもあなたを連れてきた人なら大丈夫ですかね?」
私を連れてきた人?
記憶を遡りましたが、人との接触はお兄さんが初めて……いや、あの時ぶつかったのが人であったのなら、お兄さんは2人目ですね。ということは、私を連れてきたのはその人なのでしょうか。たぶん体格からして男の人だとは思うんですけど、いかんせんふらふらだったのでどんな人なのか全然覚えていません。
「ガイアさん!」
お兄さんが人の名前を呼ぶと、がやがやしていた人混みの中から誰かが出てきました。
というか、ここどこなんでしょう。それなりに広くて、特に男性が大人数います。私が今立っている場所は周りより高くなっていて、台というよりはテーブルのようです。いや、カウンターでしょうか。お兄さんはその内側の椅子に座っています。
「どうした?お、なんだ起きたのか猫」
「ええ。ですがどうも警戒しているようで、ガイアさんなら大丈夫かと思いまして」
「なんだ、そんなことか?」
近付いてきたその人はかなり大柄な男の人でした。2メートルはあるのではないかというほどの背丈、横にも広くまるで熊のようです。なるほど、確かにあの時ぶつかったのはこの人のような気がします。
「来い!」
ばっと手を広げそう言った男の人の顔を見上げると、その顔はとても嬉しそうな笑顔––––なのですが。
「にぃぃぃぃぃーーーーっ‼︎‼︎‼︎」
なんせ、その顔が超凶悪なので。
私は考える暇もなく、本能のままにお兄さんの懐に飛び込みます。さっきまで威嚇してたじゃないかって?昨日の敵は今日の友というやつです。いや違いますけど、この熊さんよりはお兄さんの方が数百倍マシです。
これは、ボス狼さんに初めて会った時と似ていますね。でもボス狼さんは雪の精霊の加護を受けた存在であり、いちおう私は彼にとっての主ということになるのだそうです。最初に会った時はまだ知りませんでしたが、やっぱり怯えると共に大丈夫な気がしてました。なんとなく。
でもそう、人間は敵なのです!
「……おいヴィル。警戒心が強いって言ったよな?」
「……そのはずなんですけど」
熊さんがお兄さんを恨めしそうに半目で睨むと、お兄さんは困ったように肩を竦めました。熊さんがガイアさんでお兄さんがヴィルさんですかね。私は頭の良いアイドルですからちゃんと覚えますよ。
……そうではありませんでした。ガイアさんは私をここまで連れてきてくれた人で、たぶんあの時私は疲労の所為でぶっ倒れてしまったのでしょう。つまり彼は私の恩人であり、アイドル活動関係なしに感謝を伝えるべきなのです。
なのにヴィルさんに逃げ込んでしまった……不義理にもほどがあります。
ヴィルさんの懐から少し顔を出し、ガイアさんを観察します。やっぱり顔も熊さんみたいで、それも黄色い蜂蜜好きの熊さんじゃなくてグリズリーみたいな感じの凶悪なやつです。
いやいや、顔で判断してはいけません。私を連れてきてくれたくらいですから、優しい人に違いないのです。なのに雪の精霊として、というか猫としての私は彼を信じるべきではないと告げています。頑張れ人間の私!猫の私に打ち勝つのです!
「お?」
猫の私の警戒心が少し薄らいだのか、人間の私の努力が実ったのか、どうにかヴィルさんの懐から脱出することに成功しました。もともといたカウンターの上に戻り、ですがガイアさんとは一定の距離を保って座ります。
「なんかよくわかんねぇなぁ。結局懐いてんのか?こりゃあ」
「どうなんでしょうね。ある程度恩は感じてるようですけど。さっきは驚いただけではないですか?ガイアさんの顔が怖すぎて」
「どういう意味だ?」
そう!その通りですヴィルさん!あなたを私の翻訳係に任命します。
ガイアさんがヴィルさんを軽く睨みますが、なんででしょうね、笑顔の方が怖いのは。笑顔が一番怖いってなんか可哀想です。ガイアさんのお母さん、なんでもっと優しい顔に産んであげなかったんですか。せめて笑顔の優しい子に育ててあげてくださいよ。
でも私が近付いてくれたのが嬉しかったんでしょう。ガイアさんは「ちょっと待ってろ」と言ってどこかに歩いて行きました。少し待つと、手に何かを持って帰ってきます。
「食堂のおっちゃんに味付ける前の鶏肉もらってきた。ほら、腹減ってたから倒れたんだろ?食えよ」
そう言ってガイアさんは鶏肉–––––茹でたささみのようなもの–––––を突き出しました。
いや、倒れてたのはお腹が減ってたからじゃないんですけどね。まあ空腹も感じてたかもしれませんが、この体は食料を必要としないので、お腹が減ったからと言って倒れることはありません。
でも、目の前でゆらゆら揺らされると、なんだか凄く美味しそうに見えてきました。食べたいのだけれど、人の手から食べるのは抵抗が……はっ、違う違う。それは猫の私です。別に良いではないですか手から食べても。その方が可愛さも増すというものです。
安全かどうかを確認するためくんくんと鼻で嗅いで、はぐっと小さく一口嚙りました。
……う、うまーーい!
全然味ついてないんですけど、なんかすごい美味しい!久しぶりに食べたまともな食事だからでしょうか。久しぶりというか前世ぶりです。
警戒することも忘れて、ガイアさんの手からはぐはぐと一心不乱に食べ続けていると、ガイアさんとヴィルさんが顔を弛めて私を見ていることに気付きました。
もしや私の可愛さにほだされましたね?全然計画していませんでしたがラッキーです!2人をファンとして認めてさしあげましょう。
「なんだこいつ、すぐに心許しすぎだろ……」
食後の毛繕いをしていると、ガイアさんが恐る恐る手を伸ばしてきて触られますが気にしません。ご飯をくれる人に悪い人はいませんよね。あ、もちろんこの考えは猫としての私であって、人間としての私はもともと信頼に足る人物だと思ってますよ。決してエサにつられたわけではありませんよ。
「ですが、どうするんですかガイアさん。この様子だと自然界で生きていくのは難しそうですよ」
「そうだなぁ。こんなんじゃ自分で狩りも出来ねぇんじゃねぇか?だから腹ペコで倒れたんだろうし」
失礼な、私を誰だと思ってるんです?雪の精霊、才色兼備、アイドル銀子ちゃんですよ?自然界で生きるのなんて楽勝に決まってるじゃないですか。山ではそうやって暮らしてたわけですし。
それと狩りが出来ないのは必要がないからです。そもそも狩りするアイドルって嫌じゃありません?私はキュートな癒し系アイドルですよ〜。
「だが俺は宿暮らしだしなぁ。許可とりゃ飼えねぇこともねぇだろうが、俺が宿を離れてる時の方が長えし、正直面倒見れる自信がねぇ」
「でしたら、うちで面倒みましょうか?」
「お前ん家でか?そりゃお前ん家なら猫の1匹や2匹……いや、10匹くらい増えても構わんだろうが」
え、もしかしてヴィルさんってお坊ちゃん?そんな家で飼われたら毎日贅沢三昧……それなら飼われてもいいですかね。違う違う、私はアイドルを目指さなければならないのです。セレブ猫銀子も魅力的ですが、やはりアイドル銀子にならなければ。
頭の中で猫の私と闘っていると、ヴィルさんは首を横に振りました。
「いえ、実家ではなくてここ、ギルドでですよ」
「ギルドで?」
「ええ。署名を集めれば可能だと思いますよ。女性職員は大喜びでしょうし、冒険者にも癒しは必要でしょう。特に独り身には」
「うるせぇ!」
お、ガイアさんは独り身なんですね?見たところ三十路くらいですが……大丈夫です、年をとってから結婚する人もいますから、まだチャンスはあります。きっといつか熊さん好きが飼って……いや伴侶になってくれますよ。頑張れ。
「ギルド長が王都にいるのですぐに許可はとれませんが、逆に言えば準備する時間があるということです。許可を取るまでの間は私が世話代を出しましょう」
「いいのか?」
「ええ、それにこれはギルドにとっても悪い話ではないはずです」
ヴィルさんは悪い笑顔を浮かべて続けます。
「うまくいけばさらにギルドが賑わって商業効果も見込めます。癒しがあれば職員も冒険者も作業効率が上がるでしょうし。そして商業ギルドとの関係を深めることが出来、なんだかんだ見下してくる魔法ギルドの連中も強く出れなくなるはずです。ゆくゆくは看板猫として食堂で猫用のおやつを販売し、餌代も賄うことが出来ます。損するのは最初だけで、最終的にはプラスになるはずです。投資と思えば、世話代など安いものです」
怖い!ガイアさんの笑顔以上にヴィルさんが怖いです!
そもそもなんで私を飼うだけでそんなことになるんですか!?商業効果とか、いったい私になにを求めてるんです!?それはもはや予想ではなく妄想です!
……いや、それだけ可愛いと思われてるってことですか?よし、許します。思う存分私を利用なさい。
「休憩時間が終われば女性職員も帰って来ます。ちゃんと愛想を振りまくんですよ。あなたの生活がかかってるんですからね」
あの、さっきまで警戒心丸出しで威嚇してた猫に愛想振りまけはないんじゃないですか?そりゃ私もそのつもりですけも、どのくらい猫の私を抑え込めるかわかりませんよ?
反論したいですけども、ヴィルさんの笑顔の圧力が怖すぎて「にぃ〜……」と返事することしかできません。私、この人を信頼して良かったんですかね?
「……ヴィル怖ぇ……」
「にゅっ」
激しく同意です。
こうして、私はナンバーワンアイドルへの第一歩として、癒し系看板猫となるのでした。
ちなみに、会話でだいたいわかっていましたがここは冒険者ギルドだそうです。倒れてしまったのは想定外でしたが、冒険者ギルドは目的地のひとつだったのでラッキーでしたね。
あ、雪の精霊の像見忘れた……。
猫としての警戒心も薄い銀子ちゃんでした。