銀子、救う
かなり更新が遅れてしまいました。
かわりといってはなんですが、今回はやや文字数多めです。うまくまとめる能力がないからですが……。
何で怒られているのかもよくわからないまま、しかししばらくお説教が続く気がしたので身構えると、予想に反してヴィルさんは恐怖の笑顔をときました。笑顔より真顔の方が怖くない……少し意味合いが違いますが、ガイアさんと同じですね。
「……まあ説教は後にしましょう。今は他にやることがありますからね」
「にぃ?」
小首を傾げて鳴くと、口からポロポロと何かが落ちました。薬草です。そうです、私は薬草を探しに出ていたのでした。何だかこちらの世界に来て記憶力が著しく低下したような気がします。
できる限り多く咥えてきましたが、長い道のりの中で落ちてしまったのか大分減ってしまっています。これだけで足りるのでしょうか。薬草って単価がすごく安くて沢山ためて売るイメージがあるのですけど。
不安を感じていると、ヴィルさんは薬草を軽く束ねて少年へと近付きました。少し怯えるような仕草を見せた少年と視線を合わせるようにしゃがみ、珍しく笑顔を作ります。
「夜分に訪ねるのも失礼かと思いますが、この薬草は効能が長く続かないんです。折角手に入ったのでお届けしたいのですが、大丈夫ですか?」
「……ふぇ?」
状況を理解できていない様子の少年に代わって、門番さんが肩を竦めて答えました。
「大丈夫だろ」
「そうですか。モニカ、ジルを呼んできてください。今手が空いている薬師は彼女だけですから」
「りょうかーい」
「あとは––––」
もとより返事は気にしていなかったのでしょう。ヴィルさんはテキパキと指示を出して行き、野次馬状態だった冒険者をさばいてあっという間にギルドは静かになりました。その間にモニカさんが大きな木箱を持った女性を連れて来て、数言話して頷きました。
最近本当によく思うのですが、ヴィルさんってギルド長じゃないんですよね?なんだか手腕が一職員ではない気がするんですけど。なんだかんだ職員の中でリーダー的存在ですし、ちょっと怖いところもありますけど優しいですしそのうえお金持ち……やだ優良物件!
とはまあ言いませんけど。文系の仕事ならなんでもうまくこなしそうで、もう完璧なエリートなんですよね。いや、前は冒険者として経験を積んだとか功績があるとか言ってましたから、文武両道?もう本当どこの主人公なんですか。フツメンですけど。
「ギン、何をぼーっとしてるんです」
気がつくといつの間にか上着を羽織ったヴィルさんが私の前に立っていました。私を見下ろす目は冷たく……あの、心なしか私への当たりが強くなってませんか?やっぱりまだ怒ってます?
「あなたが採ってきたんです。結果もあなたが見届けるのが筋でしょう」
そう言ってヴィルさんはわたしの首根っこを無造作に掴んで持ち上げました。
文面だけ見ればヴィルさんが酷いように感じているかもしれません。
しかし私は知っています。首根っこはしっかりと掴んだ方が持ち上げたときに痛くないと知っての行為なのだと。しかも、持ち上げた後すぐにお尻を手で支えてくれるので限りなく負担が小さくなっているということを。
つまりです、ヴィルさんは不愛想で冷淡で鬼畜に見えて実は凄く良い人なんです!
っと、説明してる場合ではありませんでした。脳内ヴィルさんを褒めまくる会をしていた所為で、イマイチ状況が理解できていないのです。いえ、正しくはなんとなくわかっているのですが、こちらの世界に来てからというもの、頭が少々弱くなっているので考えがまとまりません。
腕の中でぬくぬくしながら––––最初は恥じらいもありましたが、今では謳歌するに至りました––––ヴィルさんを見上げますが、特に何も言ってくれそうにありません。
考えた結果、今日1日歩き回った疲れとヴィルさんの程よい体温が合わさって、強烈な睡魔が襲ってきたので眠ることにしました。
本当は怒っているであろうヴィルさんの腕の中で寝るなんてしたくはないのですが、睡魔には勝てません。眠ることにしました、というよりは寝ざるを得なかったのです。
「……仕方ないですね」
呟いたヴィルさんの声音がいつも通りであることに安堵して、私は眠りに落ちたのでした。
***
私はもともと、よく夢––––ここでは寝るときに見るものを指します––––を見る質です。というか、恐らくノンレム睡眠が他の人より長いのだろうと医者に言われました。それが現実世界からの逃避のためなのか、想像力が異常に豊かだったのかはわかりませんが、そのおかげで私は割と慢性的な寝不足でした。
ですが、人間でなくなってから、めっきり夢を見なくなってしまいました。現実が充実しているので問題はありませんし、特に気にしてもいませんでした。それを何故今さら取り上げたのかというと、今まさに夢を見ているからです。
いわゆる明晰夢、というものなのでしょうか。意識はハッキリしていて、現実ではないということもわかり、けれど久しぶりの夢だからか、奇妙な違和感があります。
そこは何もない真っ白な場所で、どこかに似ていました。そう、私が転生する前に神様と対話したあの場所です。
しかしこの空間は永遠に続いているわけではないようで、遥か先に暗い場所が見えます。あの場所でこの空間が終わってしまうのか、或いは別の空間へと繋がっていくのか。なんとなく気になって、何も考えずそちらの方へ歩いていきます。
しばらくすると、人影が見えてきました。
こちらの世界では珍しい、私には懐かしい真っ黒な長い髪に白いシンプルなワンピースを着た女性。あと一歩で白の空間は終わる、そんな場所で一人佇む彼女は、私の存在に気づいたのか顔だけこちらを振り向きました。
黒くて大きい瞳の、けれど可愛いというよりは綺麗という言葉が似合う整った顔立ちをしています。ただその表情からは一切の感情も感じられず、空虚な瞳に猫の私の姿が映りました。
何もない、ということに恐怖を覚えたのは、初めてでした。普通人は、何かが"ある"ことに恐怖を覚えます。
たとえば、ナイフを持っているから。
これは相手のその手にナイフという凶器が"ある"から怖いと感じるのです。
なのに彼女には何もありません。
恐怖するに足り得るものを所有しているわけでもありませんし、私に対して何らかの感情を抱いているわけでもありません。
ただ何かが足りない。不十分であることがとても恐ろしく感じられました。
そんな私の心中を知ってかしらずか、彼女は再び前を向きます。そして、一歩踏み出そうと脚を上げました。
行ってしまうのです。
この空間から消えてしまうのです。
「––––待って!」
本当に咄嗟に、私は叫びました。
よく考えるとこちらの世界に来て初めて言葉を喋ったのですが、そんなことを気にかける精神的余裕はありません。
何故彼女に行って欲しくないのか?
自分がこの空間に一人ぼっちになることを恐れているから?
彼女に何か悪い予感がするから?
いや違う、彼女に行って欲しくないのは、どうしようもない違和感があるから。
––––私は、彼女を知っている……っ!
私の声は彼女に届いたのか届かなかったのか、それは定かではありません。
ただ最後の最後に、何かを呟いて左脚を踏み出しました。それと同時に、彼女は黒に呑み込まれ、その存在は紛れもなく消失しました。
……何故。
私は、何か彼女にしたのでしょうか。確かに彼女とは初対面で、そのうえここは夢の中。でも彼女が言った言葉は、とてもではありませんが初対面の相手にいう言葉ではありません。
もしかしたら聞き間違いかもしれません。けれど小さくハッキリした声で紡がれたその言葉は、私の耳に焼き付いて離れないのです。
––––許さない。
***
「––––ギン。ギン、起きなさい」
寝起きのうとうともなく、突然意識が覚醒しました。
ヴィルさんの言葉に反応したからなのか、あの夢のせいなのかは定かではありません。
……一体、あの夢は何だったのでしょう。
かなり久しぶりの夢ではありますが、明晰夢自体はそこまで珍しいことではありません。前世ではごく稀にではありましたが明晰夢を見ることもありましたし、それを楽しんですらいました。
そもそも、私が見る夢というのは、いつも楽しい夢であったように思います。だから私は寝るのが楽しみでもありました。
なのに、今回は明晰夢でそのうえ悪夢。自分で夢であるということを自覚し、ある程度操作できるところが明晰夢の良いところであるはずなのに、少しも自分の思い通りになりませんでした。
それに、彼女が一体誰なのか……私は確かに彼女を知っているはずなのです。そもそも、夢というのは自分の記憶や知識の中にあるものが具現化したものなのですから。
にも関わらず、全くと言って良いほど彼女のことを思い出せません。名前も、どこで出会ったのかも。
いったい彼女は……
「お母さん」
……いや、今考えるべきではそんなことではありませんね。
仮に彼女が私の知人であったとしても、もう出会うことはありません。思い出せなくても精々私がモヤモヤするくらいのもので、大した問題もないでしょう。
だから今頭を働かすのはそんなことに対してではなく、妹が病気なのだと泣いた少年のこと、その問題に対してであるべきなのです。べきなのですが。
泣きそうな声で母を呼んだ少年は、ベッドに座っている、少年と似た淡い金髪の女性に駆け寄ります。彼女の痩せ細った腕には小さな赤子が抱えられています。恐らく、女性が少年のお母さんで、赤子が例の妹なのでしょう。そしてこの汚な……いえ、古風なお家が彼らの家なのでしょう。
ええ、なにぶん寝ていたものですから、状況が把握しきれていません。
「……あら、ルーク。お帰りなさい。今日は遅かったのね?」
「ただいま。あのね、ギルドの人たちを連れて来たんだよ」
「ギルド……?」
お母さんはゆるりと顔を上げ私たちを見つめました。頬はこけ、クマはひどく、なるほどこれでは倒れてしまうのも時間の問題かもしれません。
突然夜中に人が押しかけてきたから警戒しているのか、訝しげな目をしているお母さんに、ヴィルさんが一歩前に出て一礼しました。
「夜分に押しかけてしまい申し訳ありません。冒険者ギルドのヴィルヘルム・バーミリオンと申します」
「……バーミリオン……?あ、伯爵家の方ですね。いえ、こんな汚い所にあげてしまってこちらこそ申し訳ございません」
おお、今明らかになるヴィルさんの家名!とてつもなくどうでもいいですね!かっこいいですけど!
伯爵家という肩書きはどこででも通用するのか、お母さんは焦ったように頭を下げました。ですがヴィルさん、そこはお得意の作り笑顔で和らげます。
「いえ、私は確かに伯爵家の者ですが、今は冒険者ギルド職員としてお邪魔させていただいています。失礼かつ迷惑な行為をしているのはこちらですから、そちらは糾弾する権利こそあれど、謝罪する義務はありません」
「……ありがとうございます」
力なくも笑みを浮かべたお母さんの表情からは、少し警戒心が薄れたように思います。
やはりヴィルさんは優秀ですね。
人心掌握術もまた……あ、なんか頭が痛くなってきました。どうも前世の嫌なことを思い出してしまう単語があるようで、人心掌握の類もその1つのようです。
よし、前言撤回しましょう。ヴィルさんが持っているのは人心掌握術ではありません。自分の持ち得る能力と権力を駆使して人の心をある程度操作する……どうしましょう、さらに印象が悪くなってしまいました。
「それで、その……ギルドの方が何かご用でしょうか」
ヴィルさんをどう表現しようかと悩んでいる間にも、話は展開していきます。
やはり、最近の私は注意散漫です。というか、前までは他のことを気にせずに考え事をしていても特に困るようなこともなかったのが、人と接するようになって困るようになった、と言う方が正しいでしょう。猫だからと許されることではありません。今後改善していく所存です。
ああ、と呟いたヴィルさんは、微笑を浮かべたまま、お母さんに抱えられた小さな赤ちゃんを手で示しました。
「本日このような非常識な時間に参ったのは、そちらのお子さんについてお話があるからなのですが」
瞬間、お母さんの顔が強張り、赤ちゃんを抱える腕が僅かに力みました。
何故、お母さんがまたも警戒心を露わにしたのか––––その原因は、赤ちゃんが持つ病、黒呪病に対する、民衆の偏見にあります。
黒呪病とは、簡単に言うと四肢が腐ってしまう病気です。特徴としては、顔や手足に黒いシミのような紋様が浮かび上がります。それを放置し続けると、末端から壊死していき、最後には死に至ります。
が、それはあくまで放置すれば、の話です。完治は不可能ですが、定期的に薬を摂取すれば紋様すら浮かぶことなく、健常者となんら変わりない生活を送ることができます。薬を摂取する頻度も、ある程度成長すれば月に1回くらいで事足りるような、そんな病気なのです。
困るのは、薬を作るための薬草が貴重であるがゆえに薬が高価なこと。そして、「黒呪病の人間は前世で罪を犯した人間だ」といって迫害された過去があることです。
身体に浮かび上がる黒い紋様は神からの罰であり、罪人の証である、というのが昔の人の言い分です。そのために黒呪病などという物騒な病名がつけられているわけですが、当然そんなことはありません……たぶん。
勿論言い切ることはできません。私は神ではありませんから。ただあの神様を見る限りそんな面倒なことはしなさそうですし、前世の罪など今世の人間には関係ないことです。
どうせ、最初にそんなことを言い出した人は、黒呪病を迫害した方が都合の良いことがあったのでしょう。前世のファシズムを思い出します。
何故私がそんなことを知っているのかというと、ギルドでヴィルさんたちが準備してるのを待っている間に、門番さんと冒険者さんが話してるのを盗み聞きしてたからです。考え事してても、なんとなく周りの言ってることは頭に入ってくるんですよねぇ。おかげ授業に困ったことはありません。
あ、別に彼らが私のように説明口調で話していたわけではないですよ。ただあまり黒呪病について詳しくない冒険者さんに、門番さんが軽く説明していて、その会話を自分流にまとめただけです。
まあ結論から言いますと、今も黒呪病の人が迫害されているわけではありません。少なくともこの国では十数年前に病気による迫害を禁止する法が発表されています。
ですが、十数年前ですから、古い人は未だに黒呪病のことをよく思っていない人もいるわけです。なので、お母さんも、できる限り自分の子供が黒呪病であることを隠していたのでしょう。
そして、今目の前に、その子について話があるという見知らぬ人間が立っている–––––相手がギルド職員とはいえ、もしかしたら……と思ってしまうのも仕方がありません。
勿論、ちゃんと誤解は解きます。ヴィルさんが。
「心配しないでください。我々は貴女とお子さんに危害を加えるつもりはありません。むしろその逆です」
「逆……?」
「ええ。ジル、例の薬草を薬にしてください。行動で示した方が良いでしょうから」
「了解です」
ジルと呼ばれた亜麻色の髪の女性が、背負っていた木の箱を下ろしました。確か、モニカさんが呼んできた薬師だったはずです。木箱は棚のようになっていて、ジルさんは一番上の棚から私が採ってきた薬草を、一番下の大きめの棚からすり鉢を取り出しました。
そういえば、と思って辺りを見回します。ヴィルさんに抱っこしてもらってすぐに寝てしまったので、ヴィルさん以外に誰がいるのか確認していません。
私とヴィルさんを除いて今ここにいるのは、お母さんと赤ちゃん、少年––––さっきお母さんがルークと呼んでいましたかね。その家族3人と、ジルさんに門番さんです。
……あ、門番さんいたんですね。そういえば門番さんとルーク少年のお父さんは知り合いなんでしたっけ。ルーク少年も門番さんにある程度心を開いているようですし、気を遣ってついてきてくれたのかもしれません。本当に面倒見良いですね。
「すみませんが、少し火を貸していただけますか。それと少し臭いますので、窓を開けさせていただきたいのですが」
「え、あ、はい……」
「彼女は医療ギルドから3年契約で冒険者ギルドに来てもらっている薬師です。腕は保証できますので、ご心配なく」
へぇ〜ジルさんって冒険者ギルドの人じゃないんですね〜。まあ薬師って時点でお察しですけど。どうやらこの国には、冒険者ギルド以外にもたくさんのギルドがあるようです。
お母さんが勢いに流されてあたふたしているのを、ルーク少年が「大丈夫だよ」と落ち着けようとしていますが、あまり意味を成していないようです。そもそも押しかけてきた相手の腕に猫が収まっていることに疑問を抱かない時点で、通常の精神状態ではないと思われます。よって、私が落ち着けることもできないでしょう。
ヴィルさんは特に説明もする気がないらしく、門番さんも強引さに苦笑いしながらもテキパキと準備しているジルさんを眺めています。ここに味方はいません。がんばれルーク少年。
ジルさんは窓を開け、暖炉に薪を入れて火をつけました。薬草を細かく切り、次いで木箱の2番目の棚から乾燥させた葉のようなものを割って、2つをすり鉢に入れます。
ゴリゴリとすり潰し、水を入れ、暖炉の火を木の枝につけてすり鉢を熱すと、なんとも言えない香りが漂ってきました。なんと言えばいいんでしょうか……決して良い匂いではないのですが、くっさ!というほど臭くもなく、でもあまり嗅ぐと気持ち悪くなりそうな、そんな香りです。
グツグツと煮込むと、なぜか液体がトロトロしてきて、色も見るからに不味そうな緑色に変色してきました。最後に小瓶に入った紫色の粉をひとつまみ入れて少し熱して完成です。
ここは年中寒いので、すぐに液体は冷めます。粘土をこねて作ったような不恰好なコップに液体を入れ、スプーンで中身をかき混ぜながら、ベッドの上に置きました。その中身は、正直とっても不味そうです。
「黒呪病の薬です。普段使っているものとは違うかもしれませんが、こちらの方が成分が凝縮されているうえに苦味が少ない。まだ開発されて間もないですから、広まってはいませんけど」
どうぞ、とジルさんが笑顔で差し出すと、お母さんはふるふると首を横に振りました。
「でも、お金はありません。そんな高価なもの……」
「そうですね。私もギルド職員としては、一人を優遇するわけにはいきません。ですから、お金がないのなら無料で、とは言えません」
え、ヴィルさん私が採ってきた薬草でお金とるつもりなんですか!?
ちょっと、見損ないましたよ!お金持ちの癖に!冷血漢!貴方には人の心ってもんがないんですか!
「ですが、今回は依頼を受けておりません。冒険者ギルドの主な仕事は、依頼者と冒険者の仲介役です。この薬草は冒険者が依頼として採ってきたものではなく、このバカ猫が勝手に採ってきたものです。先ほど、ギルド職員として来たと申しましたが、さらに厳密に言えば、ギルド職員としてでもありません。今の私は貴族でもギルド職員でもない、一個人に過ぎません。
故に、私には貴女から報酬を受け取る権利はない。……ですから、今この薬だけは、受け取ってもらえませんか」
お願いします、とヴィルさんは頭を下げました。
……あの、なんかすみません。
やっぱり話は最後まで聞かなくちゃいけませんよね。一つ教訓になりました。
「……ありがとう、ございます」
私が心の中で全力でヴィルさんに謝罪していると、お母さんが震える声で言いました。その瞳には涙が滲んでいます。
お母さんが赤ちゃんを抱きしめていた力を緩めます。やっとまともに見えた赤ちゃんはとても小さく、手足と顔に黒い紋様が浮かび上がっていました。
赤子の場合でも、1週間に1度ほど薬を飲ませていれば、紋様は浮かばないはずです。つまり、ここまで進行してしまうほど、薬を飲ませることが出来なかったということでしょう。
それでも、眠っている赤ちゃんの表情は安らかに見えます。––––あるいは、表情を歪めることもできないほどに、衰弱しているのか。
お母さんがスプーンで薬湯を救い、赤ちゃんの口に持っていきます。赤ちゃんは目も口も開けることなく、しかし流し込むとごくりと飲み込んだようでした。
パッと見は、特に変化は見られません。ですが、飲み込めないほどには衰弱していなかったことに安堵したのか、ジルさんがほっと息を吐きました。
「一口飲めたので、しばらく進行はしないでしょう。これからは1日に1回、この薬湯の残りをスプーン一杯分飲ませてあげてください。1週間もあれば紋様は消えると思います。
……ところで、この子、女の子ですよね?生後何ヶ月ですか?」
「……8ヶ月、です」
私は驚きました。なにせ、とてもではありませんが生後8ヶ月には見えなかったのです。精々5ヶ月くらいかとばかり。
私は子育てをしたことがありませんし、どちらかというと小さい子は苦手でしたので詳しくありませんが、8ヶ月といえばハイハイするくらいじゃないでしょうか。世界が違うのである程度差があるにしても、8ヶ月でこの大きさは、いくらなんでも小さすぎます。
「やっぱりそうですか。体は小さいですけど、お腹が少し不自然に膨らんでるでしょう?栄養失調の証ですよ。お乳もろくにあげられてないんじゃないですか?」
「……すみません」
「責めてるんじゃないんです。お母さんも、ろくに食べてないでしょう。だから母乳が出なくなった。違いますか?」
薬師と言っていましたが、どうやら医者としての知識も持ち合わせているようです。ジルさんの推理はビンゴだったようで、お母さんは無言で俯きました。
「けれど、ルーク君は、痩せてはいるけれど栄養失調というほどではありません。薬を買うためには食費を切り詰めなければならない。上の子にも食べさせてあげなくてはいけないから、自分が我慢しなければならない。それはわかるんです。
でもお母さん、貴女が倒れてしまった時に、一番困るのは子供たちですよ」
「お母さん」と蚊の鳴くような声でルーク少年が呼びました。とても心配そうなその顔を見て、お母さんは嗚咽を漏らします。
「……また、明日来ます。その時に何故我々がここに来たのかについても、今後のことについてもお話ししましょう。もう遅いですし、ゆっくりお休みください」
優しげに微笑んで言ったヴィルさんに続いて、私も出来る限り優しさを含んだ声で「にぃ」と鳴きました。




