私、乙ゲー主人公。今、牢の中にいるの。
食事だ、という短い声と共に、食事を差し入れるために作られた小さな窓から、パンとスープが差し入れられる。
「ありが――」
がちゃん。
ありがとう、そうお礼を言う前に不愛想に窓は閉められ鍵がかけられた。
「……まったく、お礼ぐらい聞いてくれたっていいじゃない」
ため息をついて、がちゃがちゃと手枷足枷の鎖を鳴らしながら、座っていたベッドから立ち上がる。質素すぎると言える食事を手に取って、もう一度そのベッドに戻った。
――私、乙ゲー主人公。今、牢の中にいるの。
ちなみに主な罪状は国家反逆罪で、下された判決は斬首。処刑日は明日だ。
乙女ゲームへのヒロインとして転生して十六年。まったく、あっという間の一生だったわね、とフィオナは牢獄のベッドに腰掛けたまま皮肉気に笑った。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
憎い。
憎い。
怨めしい。
ああ、決して赦すものか。
いつか必ず、贖わせてやろう。
この怨みを晴らしてやろう。
――祖国の仇を、必ずや。
フィオナが地球からこの異世界に記憶を持ったままうっかり生まれおちてから、最初に聞いたのは家族のそんな怨嗟の声だった。…………なんかとても重い。
いわゆる転生というやつを体験した理由も経緯もよくわからない。気づいたら赤ん坊になっていて、家族のそんな声を聴いていた。
もちろん、儚い系美人の母は優しく愛してくれていたし、優男風の父は存外大きな手で頭を撫でてくれて親ばかっぷりを発揮してくれていた。祖父母も時に厳しく時に優しく慈しんでくれたのはよくわかる。
……よくわかるのだが。
赤子には理解できないと思っているのだろう。ふとした時に彼らは、互いに話している中で、あるいは独り言のようにそんな怨嗟の言葉を紡いでいたのである。正直ちょっと引いた。まあ、普通の赤ん坊だったら意味を理解するわけがないから、彼らの行動は別に変じゃないし、さまざまな情報をくれたから今では感謝しているのだけど。
おかげで、泣く飲む笑う寝るという赤ん坊の仕事以外たいそう暇だったフィオナは、そんな彼らの言動をつなぎ合わせて、自分が生まれ落ちた環境を大概のところを理解することができたのである。
自分の名前はフィオナ。生まれた家はグレイスト男爵家。残念ながら前世の名前は覚えていない。
グレイスト男爵家があるのは、この世界で最も大国であるフィディラ王国で、辺境の領地を賜っている。外国の血が混じっており立場はさほど高くない。
そもそも、我が家族が恨みを呟いているのは、その外国の血が起因していた。
恨みの相手は、よりにもよってこのフィディラ王国なのだ。混じっている血があった国は、よりにもよって、このフィディラによって滅ぼされてしまっていたのだという。
祖父母はその滅ぼされた国の侯爵家で、母はその末娘。恋愛結婚の末にこの国に嫁いできた。国が滅ぼされた折に、断腸の思いで「裏切り者」を装ってこの国に入り、母のいたグレイスト男爵家に身を寄せて、復讐の機会を虎視眈々とうかがっている、らしい。祖父母は、そして両親は、その滅ぼされてしまった国に忠誠を誓っていたのだ、と。
男爵家に流れる血筋は、母に限らず全てその滅ぼされた国の血だったのである。
「あなたは、私たちの希望なのよ」
六歳の頃、病気になった母の代わりに世話をしてくれていたお祖母様がそういいながらフィオナの髪を撫でた。
「きぼう?」
まだ舌ったらずな自分の声。フィオナは、首をかしげて聞き返した。希望っていわれても、心当たりがない。一族復興でもかけてるのだろうか。私にできるのは、血をつなぐことぐらいだろうけれど。そんな子供らしくないことを思っていた。
「そう、希望よフィオナ。私の美しい孫娘。あなたならば、きっと私たちの悲願を遂げる鍵になってくれるもの」
「ひがん?」
「そうよ」
穏やかに微笑むお祖母様は、けれどその眼に密かな狂気を込めて。
「あなたは、きっとこの国の“傾国”になれるわ」
…………。
それはどういうことですかお祖母様、と思わず心の中で突っ込んだフィオナは悪くない。
確かに、フィオナの容姿は両親のいいところばかりを受け継いで生まれたと言っていい。桃色のさらりとした綺麗な髪、整った甘い顔立ち、みずみずしい唇、大きめの瞳。
ナルシストとか関係なしに、絶世の美少女と言って差し支えなかった。我ながら作り物みたいで怖いと思ったりもしたり。これは犯罪を呼ぶだろうなぁと思ったし、実際に何度かロリコンやら人さらいやらに目をつけられて襲われかけた。
そんなフィオナを見て、父親は親ばかを発揮してでろでろに甘やかしてくれたし、母親は嬉しそうにしていて。そして祖父母は狂喜していたのだ。……そう、みんな喜んでいたのである。心配するよりも、だ。
――この子はきっと、この国にほころびを作ってくれる、と。
彼らは、フィオナにこの国の中枢の人間の懐に入り込み、引っ掻き回してほしかったのだ。恋愛的な意味で。
古今東西、恋愛は様々な争いや騒動を生む。恋に走る若者は得てして暴走するものだ。そこにできた隙を利用して、この国に一矢報いたい、と。
……まあ、正直。この容姿があれば、よっぽど特殊な好みの人でないかぎりころりとほだされると思う。大概のことで「ただし美人に限る」という無茶が適応される容姿だもの。
だから彼らは、フィオナに繰り返し復讐について語って聞かせたし、礼儀作法や話術、教養や知識、とさまざまな教育を丁寧に施してくれた。これについてはとても感謝している。
彼らの復讐に手を貸すことを、「やりたくない」とは言えなかった。家族は、一途にこの国を亡ぼしたがっていたし、確かにこの国は滅ぼした国に対して傲慢な態度を取り、選民思想が根付き、他の国を見下して馬鹿にしている。大きいがゆえに何も言われないが、あまり「素敵な国」とはいいがたい。
でも、本当は。薄情な子供、というかもしれないが、生まれた子供にまでそれを押し付けるのはちょっと、と思わなくもない。別にフィオナは家族たちのいう「祖国」を知らないし、正直現実味が無くてこの国について特に恨みに思うほどではないのだから。
ただ、祖父母については純粋に凄いと思う。この国を滅ぼしたい一心で、裏切り者の汚名を被り、この国に取り入り、そして今までひっそりと牙をむく機会を狙っていたのだから。執念深いと言えばそうだし、一途だと、限りない忠臣だと言えばそうだろう。一種の尊敬だっておぼえている。……その思いを共感はできないけれど。
それに、歪んだ愛ではあったけれど。
確かに彼らは彼らなりにフィオナをとても愛してくれていたから。
だからフィオナは、家族の望む「フィオナ」になることを決めた。
…………いらない存在として、嫌われてしまいたくなかった、から。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
もそもそと美味しくないパンを薄いスープに浸して食べて、食器を適当な場所に置いた。ばたりとベッドに倒れ込めば、格子の入った窓から月明かりが見える。綺麗だなぁ、と思ってから、たった一人でそれを見上げるのは初めてかもしれないと不意に気づいた。
家族がいたころは家族と、キャラたちを攻略していたころはキャラたちと。
――そして何より、いつだって、どんな時だって、精霊たちと一緒だった。
この部屋は、想像していたよりも劣悪な環境ではない。シンプルだけれど清潔だしそれなりに設備も整っている。下手をすると、貧しい国民の家よりも上等だ。
それもそのはず、放り込まれたこの牢獄も、嵌められた手枷と足枷も、どれも高価で特別製だ。国の中でも、この王城か、相当な金のある大都市ぐらいにしか存在しないだろう。
それはフィオナが偉いからとか尊ばれて好かれていたから特別扱い、というわけではなくて。
部屋には精霊が一切入れないように幾重にも術がかけられていて、手枷足枷はそれぞれ精霊術――精霊の力を借りて行う魔法のようなもの――の使用を封じる素材が使われている。
――要は、精霊術を使って逃げ出されるのを危惧されているだけなのだ。何しろ、フィオナは「精霊術の才能を持つ少女」として王城に入ったのだから。
一人で見上げる夜の空は、ほんの少し寂しくて。こんな時に闇の精霊たちが――中でも、人の姿をしていた高位精霊の友人を思い出して、そっと目を閉じた。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
初めてフィオナが精霊を精霊として認識したのは、十二歳の時だったと思う。
……そして自分が乙女ゲームのヒロインに転生したと気づいたのも、十二歳の時だった。
どうして気づいたか。それは、これが取り入る相手なのだと見せられた絵姿と名前が、前世にやりこんだ乙女ゲームのキャラ達とピッタリ一致したからである。それと同時に、自分の容姿がゲームのパッケージに描かれたヒロインのものとまったく一緒だったことに気づいた。そうだ、よくよく思い出してみれば、ヒロインのデフォルト名は「フィオナ・グレイスト」だったはず。
私は、乙女ゲームの主人公に転生してしまったのね……、と。
衝撃の事実をきっかけにして、次々にそのゲームの内容がよみがえってくる。
その乙女ゲームの名前は、『ドリーム・オブ・スピリット~恋する精霊使い~』というもので。精霊使いの才能を持った少女が、その才能を爆発させたことをきっかけに希少な精霊使いとして王城に召し上げられて、そこで出会ったキャラと恋に落ちる……という、非常にありがちな話だ。
主人公は稀代の精霊使いの才を持っていて。才能をねたむ人間や容姿と人脈をねたむ侯爵令嬢たちなどからいじめられつつも、才能を開花させてやがてキャラとくっつき、国に繁栄をもたらすというシンデレラストーリー。
その中の、逆ハーエンドを迎えた後に特殊なルートを通るとみることのできる、「裏逆ハーエンド」というものがあった。
それは、逆ハーを築きながら、ヒロインの「謎」に迫っていく推理物要素が入っており、最終的にヒロインが「傾国」として処刑されてしまうという悲恋エンド。ある種のバッドエンドだ。
そこではヒロインが実は「復讐」に利用された悲劇の少女だったことが明かされる。家族の期待とキャラたちの間で苦悩しながら、最終的にキャラたちとの愛を取る。全てを告白して、国の滅亡を阻止するのだ。しかし、犯した罪は変わらないために処刑される、という。……まあ、このエンドを見るまでやりこんだ人間はほんの一握りしかいなかったようだが。
そのことを思い出したフィオナの心は、一気に冷めた。丁度その時期に母を亡くしたこともあるのかもしれない。このままだと処刑まっしぐら、けれど家族を捨てて出る勇気もなければ、攻略キャラたちを愛する情熱なんてものもない。……きっとどうしても「キャラ」以上には見れないと思う。
ならばいっそ、本気で「傾国」になるのも悪くないかもしれない、と。
どうせ一度は終わった命だったのだ、そのおまけを家族にささげたところで、結果は変わらない。せめて家族孝行をして消えようと吹っ切れてしまって。
開き直って、ゲームの知識と祖父母が集めてきた彼らの情報を突き合わせて綿密に考察し、攻略の作戦を練り始めたのだった。
それと同時に、自分には精霊使いの才能があることを認識した。
生まれてから今まで、精霊らしき不思議な存在と一緒にいた。ふよふよと漂う光の玉のようなそれらは、フィオナにとってはあまりに当たり前に見えるものだったから、精霊が見えることが特異な才能であることを知らなかったのだ。これがきっとこの世界の当り前なのだと勘違いしていた。父に確認して、それが確かに「普通ではありえないこと」であると確信したフィオナは、精霊術の勉強にも力を注いだ。必要だから、ということもあったが、純粋に楽しかったからでもある。
精霊たちは、非常に人を愛している存在だ。もちろん、自然や動植物、美しいものなどを愛しているが、精霊たちは人の感情と言うものを精霊たちは、ことのほか愛している。――いわゆる、負の感情であっても。
事実、怨みを募らせていた祖父は炎の精霊に好かれていたし、はかなくなってしまった母は水の精霊に好かれていた。
そもそも、感情の正負など表裏一体なのだから当たり前かもしれないが、それを知った時はとても不思議な気持ちだった。――そう、明らかに憎しみの感情を募らせている人の傍にも精霊がいたのが、フィオナが精霊を精霊だと思っていなかった要因かもしれない。物語に出てくる精霊たちは、人の負の感情を厭うものだったから。
「あなた、人じゃなかったの?」
一人で本を読んでいたフィオナは、いつの間にか近くに来ていた男を見上げて問いかけた。穏やかな顔をした長い黒髪の男は、その問いにぱちりと瞬きをして、フィオナと視線を合わせた。
非常に背が高く、髪に似合う真っ黒な髪だ。まるで夜を溶かし込んだみたいな髪だと最初に逢った時に思ったのを覚えている。今はもう、桃色の髪になってしまった自分の髪を思うととてもうらやましい。交換してほしいぐらいだ。でも、彼にピンクは似合わないからそれを口に出すことは諦めたのだけれど。
彼はフィオナが赤ん坊の時からちょくちょく現れては話をしたり遊び相手をしたり、ただ一緒にいるだけだったり、ともかくも良く傍にいてくれていた。
そんな風に彼はいつもフィオナのいた家にいるから、てっきり人だと思っていたのだが。使用人には見えないし、家族でもないことはわかっていたから、長逗留している客人か何かなのかと。
けれど精霊術を学んだフィオナの感覚が最近やっと告げたのだ。彼は人ではないのだ、と。
「いいや。――私は、闇の精霊だ」
精霊、と聞いてフィオナはきょとんとして、自分の周りにいる光の玉のような――形のない精霊たちを見やった。
「ヒトの形の精霊もいるのね」
人ではないが、何か別の魔物かなにかだと見当をつけていたのに。
ちなみに、闇、と聞くと不吉なイメージかもしれない。魔のものを思い浮かべる人もいるかもしれないし、ただ単に暗いイメージを持っているだけの人もいるだろう。この世界でも、前の世界でも、一般人によるその認識は変わらない。
しかし、この世界において闇の精霊というものは、実のところ非常に穏やかな性質で、どんなものでも許容することのできるとても懐の広い存在だった。だからこそ、魔のものすらも受け入れているのだ。夜の平穏を、安らぎを、眠りを静かに見守っていてくれている。
精霊使いの才能として、フィオナは精霊たちに特別好かれていた。その中でも闇の精霊たちに一番好かれていたし、フィオナも彼らが精霊たちの中では一番好きだった。夜が好きな性質だから闇の精霊に好かれていたのか、闇の精霊に好かれていたから夜がすきだったのか、わからなかったけれども。
彼はフィオナの物珍しそうな様子に気分を害した風もなくうなずく。
「力が増すにつれて形を持つようになる。高位になれば、人の形をするものが多いな。そちらの方が便利だから」
ふうん、と頷いて視線を本に戻すと、彼から面白そうな視線を向けられる。何故か頭を撫でられて、フィオナはもう一度彼に視線をやった。ちょっとむず痒い気持ち。
「なに?」
「いや」
ふっと笑う彼に、フィオナは何となく心が騒いで、視線を泳がせる。彼の傍は居心地のいい空気が流れていると言うのに、時折こうしてひどく心をざわつかせるから困りものだ。それから、ふと思いついて口を開いた。
「そういえば、あなたの名前、ずっと聞いていなかったわ。――今更だけど、教えてくれる?」
彼は一瞬虚を突かれたような顔をして、それから「ああ」と破顔した。精霊の存在を利用する対象としてでもなく、恐ろしい存在としてでもなく、ただ自然に受け入れ名を問うということがこの世界においてどれほど珍しいのか、この時のフィオナは知るはずもなく。
「ディアノス、だ」
…………結局、彼のとても嬉しそうな笑みに気を取られてしまって、もう一度聞き返す羽目になったのだけれど。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
ふ、と意識が浮上して、どうやら少し眠っていたらしい、とフィオナは目を開けた。月はまだこの窓から見えるから、それほど長い時間だったわけではないのだろう。
「……懐かしい、夢だったわね」
そう独り言ちて、あくびをもらした。母に続いて祖母も亡くなった時のことや、精霊たちとの精霊術の訓練、それからディアノスと過ごした日々――。そんなことが、浮かんでは消えて、夢に出てきた。処刑の前だと言うのになんて呑気なのかしら、と自分に呆れる。――いや、処刑の前だからこそ、こんなに懐かしい思い出がよみがえってくるのだろうか。走馬燈のように。
と、不意にこつこつと複数の足音がして、ガチャリと鍵の開く音がする。フィオナはそれに思わずドキリとして、身を固くした。処刑にはまだのはず、攻略キャラ達がここに来るはずがない。……ならば、下種な看守か貴族だろうか。どうせ死ぬのだから使い捨てたっていいじゃないかと思う輩など山ほどいる。
「――面会だ」
扉を開けたのはやはり看守で、しかし予想に反してフィオナを見もしない。まるで見たら危ないとでも思っているようだ。いや、実際そう思っているのかもしれなかった。フィオナは「魅了の術」を使って国の中枢の若者を虜にした「傾国」とよばれているのだから。あの看守もまた、うっかり魅了にかかるのを恐れているのかもしれない。そんなことは決してないのだけど。
それにしても、面会に来ただなんて奇特な人間はいったい誰だろう、とフィオナは首をかしげる。看守の様子だと、本当に面会人がきているようだ。
そう思っていたフィオナの目の前に現れたのは、釣り目気味でキツイ顔立ちをした美少女だった。金の髪をゆるくカールさせて、落ち着いたドレスを着た令嬢は、ゆっくりと部屋の中に入ってきて、そして部屋を見渡してから私に視線を定める。彼女の後から一人の騎士が入ってきて、寄り添うように立ち、扉がしめられる。
「……こんばんは、フィオナ・グレイスト」
ああまさか、彼女がくるとは。
「こんばんは、アデル・ハインツ侯爵令嬢」
最期の面会人としては、確かに彼女がふさわしいかもしれない、と思いながら、「ゲームでヒロインをいじめていた悪役令嬢」の登場にくすりと笑った。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
十六歳になってすぐ、私は意図的に精霊術の大爆発を起こして、王城へと上がることになった。未熟な精霊使いの暴発を防ぎ、優秀な精霊使いへと育成するため、という名目のもと、王城の精霊術師団の一角に身を寄せることになったのである。
「こんにちは、フィオナ・グレイストです。これからよろしくお願いします!」
ベースは、明るく朗らかな原作ゲームの主人公。
「――あっ、ごめんなさい。大丈夫でしたか?」
「――そんな、無理に笑わなくていいですよ? 無理に笑っているあなたは――正直気持ち悪いです」
「――ありがとう、ということにも、ごめんなさいということにも、身分だなんて関係ないわ!」
「――すごい……! だって私にはできないもの。……え? 怖いだなんて、気持ち悪いなんて、そんなことあるはずないじゃない! あなたはあなたでしょう?」
「――本当はね、少し、寂しいわ」
俺様王子に笑顔の腹黒教師、ひねくれた魔術師に、わんこ系の騎士、そして絶対の味方としての侍女頭。
ベースのフィオナの上に、調べ上げた一人一人の情報とフィオナのゲーム知識をすり合わせて作り上げた、一人ずつにぴったり合った――けれど決して別人にならない範囲の中の――それぞれの“フィオナ”を重ねていって。
そうして望んで、計画通りに進めたのならば、逆ハーレムになるだなんて、ひどく簡単で。
あっさりと、実にあっさりと彼らは私を好きになった。
そうやって好きにさせてしまえばこっちのものだった。
ちょっとずつ好感度を上げて、けれど一線だけは超えさせないようにして。それぞれの「イベント」がかぶらないように調節したり、適度に嫉妬心を煽らせてみたり、うまくうまくバランスを保ち続けるようにして。ちやほやされて、ほんの少し気分がよかったのは否定しない。そのぐらいのご褒美がないと正直逆ハーレムなんてやってられない。……けれど、それで癒されるだなんてことは決してなかった。むしろ荒んでいった。
フィオナは「未熟な精霊使い」でなければならなかったから、精霊たちとのおしゃべりはほとんどできなかった。それに原作のヒロインが特に好かれていたのは「光」の精霊で、確かに「みんなに好かれる女の子」に相応しいと世間一般に思われるのは「光」だったから、闇の精霊たちと過ごす時間はとても少なくて。王城に来る前に、おしゃべりはできないことと、闇の精霊たちには遠慮してもらうこと、そして光の精霊たちに協力してもらうことなどを精霊たちにお願いしてあったから、なおさらだった。
当然、精霊たちと好きに戯れて癒される時間なんてほとんどなかったし、ディアノスに逢うこともできなかった。――正直、彼とはもう会うこともないだろうと、王城を来るときには今生の別れのつもりで挨拶をした記憶がある。
それぞれ愛想を振りまいて、言外に物を強請っておごらせて。フィオナの考え付く無駄遣いだなんてすぐに案が尽きたから、民のためだと言ってうわべだけの施しをしてみたりして、国庫を傾ける。金をつかせて民の人気を上辺だけ掴んで見せて、さも善良な顔をしてあちこちに争いの火種を巻いた。
乙女ゲームの主人公補正でもかかっているんじゃないかと思うほど、「攻略キャラ達」はあっさりフィオナの言うなりになったのだった。
しかし、まったくの障害が無かったかと言えば、そうではない。
何を隠そう、わざわざ牢獄に私を訪ねてきた王子の后候補の筆頭だった「悪役令嬢」、アデル・ハインツ侯爵令嬢が、私に噛みついてきたのだ。
ゲームではライバルキャラだったからそれは想定済み、しかし彼女に関しては少々想定外なこともあった。
「ねえ、フィオナ・グレイスト。あなたの言っていることは、確かに庶民だったら素晴らしいコトだわ。でも、この王城で、王族に近しいものがそんなことをしてはいけないのよ!」
ゲームでは、そして調べた情報では「傲慢で高飛車な貴族令嬢」だったというのに、こうして噛みついてきた時には正論で戦ってくる「まともな令嬢」だったのである。
これにはフィオナも計画の変更を余儀なくされ、精霊たちに協力を要請して、情報を集めた。
結果、わかったのはひとつ。
「――ああ、どうしましょう! このままじゃあ、絶対に私、悪役令嬢として処刑されてしまうわ!」
彼女も私と同じく、転生してきたお仲間だった、ということ。しかも、ゲームの記憶を持った子だった。
彼女は、フィオナをきっかけにして前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢だと悟り、今までの自分を反省して、悪役令嬢として処刑されてしまうルートがあることに気づいたらしい。そして、それを回避するためにあがきだしていたのだ。
それはフィオナの目にとても好ましく映って、もしも別の時に出会っていたら仲良くなりたかったと思う。
「どうして、そんなことを言うの? 王族だって庶民だって、同じ人なんだもの、そうやって差別しては、きっといい国にはならないわ!」
……だからといって、自分は止まることなんてできなかったのだけれど。
やがて、国が崩れだした。
このフィディラ王国に虐げられていた近隣の小国が連合軍を組織して、宣戦布告をしたのだ。
国庫を傾けられていた王国はそれに対応しきれず。また、それに合わせてフィオナはわざと逆ハーレムのバランスを崩して人間関係を一気に険悪なものにさせたから、国の中枢は見事に分裂した。
そして王国が、何とか連合軍に対抗するため、軍を派兵しだした。そして王都の警護が薄くなったタイミングを狙って、王都で祖父たちがクーデターを起こしたのである。もちろん、この王国を亡ぼすことを条件に連合軍と祖父たちが組んだのだ。
一気に混乱に叩き込まれた王城内で、皮肉にもフィオナを守るためにぎすぎすしていた攻略キャラたちは一致団結した。
まあ、あくまでもフィオナを守るためにしか動かない彼らに、アデルが諫言して何とか説得しようとしていたけれど、彼らは聞く耳を持たなかったし、自分もそんな彼らに、怯えたふりをして動かないように働きかけた。内心でだけ、アデルに謝っておく。
――そうして、混乱の中、王城にもクーデターの暴徒たちや紛れ込んだ連合軍の兵たちが侵入してきていて。
緊張感の高まる中、広間に集まっていたフィオナたちのもとにも、バンッと扉を開けて一人の男が乱入してきた。
遠くに騒ぎが聞える中、その男は、つかつかとこちらに歩いてくる。警戒するようにフィオナを庇うキャラ達。一人だけ、攻略キャラになっていなかった騎士団長だけがアデルの前に立って庇う。
そうして、緊張の中、その男は。
「よくやった!」
高らかに、そう叫んだ。
「よくぞやった、私の可愛い孫娘よ!」
彼の視線は、一直線にフィオナに向かっている。はっと息を飲む周囲。視線がフィオナに集まる中、呼び掛けられたフィオナは無邪気そうな作り笑いを浮かべて、鈴の転がるような声で言葉を紡いだ。――彼の望むままに。
「ご満足いただけましたか、お祖父様?」
――その言葉に、もう一度、周囲から息を飲む音がもれた。
「ああ、満足だ! 満足だとも!」
男は狂ったように哄笑する。
「これほどの大国が、一人の女に惑い破滅に進む姿が見れるとは! これほどの満足なことはない! そしてこれから、私たちが、この国に蹂躙されたものどもが復讐に立ち上がりこの国を滅ぼせるのだから!」
男は、フィオナの祖父は笑い続ける。その背後には、けれど一人の兵が剣を振り上げていて。
フィオナが何かを叫ぶ間もなく、ザシュ、と朱が散る。倒れ込んだお祖父様のうしろには、ぜいぜいと息を切らした王国の兵がいて、話の前後を知らないのだろう、「ご無事ですか!?」と問いかけてきて。束の間、誰も何も言えずに沈黙が横たわった。
その隙にフィオナは、誰かが止める間もなく軽やかに祖父に近づいて、そっと頬に触れる。苦痛にゆがむ顔は、しかし、満足そうな色をしていて。ゆるりと目を開いた祖父に、フィオナは問いかけた。
「幸せでしたか、お祖父様?」
祖父はうっそりと微笑んだ。
「ああ……、幸せ、だとも……」
そして、こんな戦場に似つかわしくないほど穏やかに彼は息を引き取った。
誰も何も言えないまま、フィオナはそっと自分の祖父の瞼を下ろして、それから額に口づける。――これは、親愛の、そして尊敬のキスだ。
「――綺麗とは言えないものだったけれど、一途に夢を追いかけ続けていたことに。歪んではいたけれど、確かにたくさんの愛情を注いでくれたことに。敬意と「ありがとう」をささげるわ」
しん、と静まり返った広間に、やがてはっと我に返ったらしい王子が「どういうことだ」とフィオナに詰め寄った。
「どういうことも、そういうことよ」
見ての通り、自分は祖父の味方だったのだ、と。
そう告げれば、彼らは事情を悟って見る見るうちに顔色を悪くしていく。
だましていたのか、と咎める彼らに、フィオナは肩をすくめた。
「そうね。そうなるのかもしれないわ。――でも、言わせてもらうならあなたたちちょろすぎよ。何なの? 俺様王子に笑顔の腹黒教師、ひねくれた魔術師にわんこ系の騎士? みんなテンプレすぎなのよ。存在がありがちなら悩みも薄っぺらいとか、それって国の重鎮としていいかしら? ――いいかしら? あなたたちの悩みは、別にあなたたちだけが抱える特別なものじゃないわ。他の人だって経験しているし、あなたみたいな境遇も悩みも世の中にあふれかえっているの。自分が特別不幸で特別深刻な悩みを抱えてるだなんて顔しちゃって、うっとうしいッたらありゃしないわ」
思っていたよりも自分は鬱憤がたまっていたらしい。ずっとツッコミも文句も正直な感想も言えなかったせいか、全てがばれた途端、解放された気分で全てをぶちまける。
まず腹黒教師をにらんで口を開く。
「笑顔が気持ち悪いとか言われて愛に目覚めるとかマゾなの? 愛想笑いぐらい誰でもするじゃない。それを突っ込まれたら怒るのはともかく興味を持つとかマゾなの?」
次にその隣の俺様王子と目が合った。
「自分にたてつくなんて珍しい! 構ってやる! とかわけわからないし、この国の一位王位継承者としてどうなのそれ。普通に不敬で罰する場面でしょうそこ」
フィオナ様、とショックを受けたわんこ系騎士には、ずっと言いたかったことが口をついてでた。
「っていうか、フィオナ様フィオナ様って鬱陶しい!」
ひねくれた魔術師が睨んでくるが、逆に睨み返してしまった。
「怖くないのか、と聞かれたって怖いにきまってるじゃない! っていうか、あんな風に威圧的に接してれば誰だって怖く思うわよ。コミュニケーション放棄してるのに、誰かに構われて愛されたいとかそんな都合のいいコト起きるわけないじゃない。努力ぐらいしなさいよ」
最後に、この世の終わりのような顔をしている侍女頭に向かって、口を開いてから、ほんの少しだけ息を吐いた。
「あなたは……あなたと過ごした時間は唯一癒しだった気がするわ……もう、本当に……男どもがアレな分……」
精霊たちがいない分、ともいう。
そんなフィオナを見て、彼らは憎しみのこもった瞳をこちらに向ける。王子が一言「罪人を連れていけ!」と祖父を斬った兵に告げた。彼は戸惑いつつも命令を実行しようと思ったのか、フィオナの腕をためらいがちにつかんで引く。
抵抗なんて、しなかった。
する必要が、なかった。
――私の生きている目的は、終わったのだから。
連れていかれる最後に、フィオナはふとアデルに視線を向ける。
「あなたは、その男を選んで正解よ、悪役令嬢サマ。彼らのどれを選んだって、あなたは幸せになれないと思うわ。――まあ、そもそもこれはあなたが死なない唯一のルートだったから、その点では心配なんていらなかったのだけれどね」
「っ、え、それって、どういう」
その問いが終わる前に、広間の扉は彼らの安全のためにバタンと閉ざされたのだった。
結局、この国が滅ぼされると言うことはなかった。ハインツ侯爵家が尽力したということもあったし、そもそも連合軍ははじめからそのつもりだったらしい。祖父はそういった点では騙されていたのだ。
大きすぎたこの国は、連合軍に国土を半分ぐらいに削られて、敗国として存続している。
――そして、裏切り者の傾国として、フィオナは処刑されることになった。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
結局、グレイスト家で残っているのはもうこうして牢に捕らわれている自分だけ。父も他の縁者も皆、今回のクーデターで死んでしまった。
「ねえ、あなたは、“ドリーム・オブ・スピリット”って言葉を知っている?」
「“恋する精霊使い”、でしょう?」
単刀直入に問われた内容に、笑顔のまま即座に答えた。彼女の瞳が、確信に染まって、それから揺れる。
「じゃあ、あなたは、それを知っていて……? そんなにも逆ハーレムがよかったの?」
「さあ、あなたはどう思っているの?」
フィオナははぐらかすように首をかしげてみせた。彼の隣にいる騎士は、剣呑な瞳でこちらをにらんだ。愛されているわね、と苦笑。
アデルが、この騎士を恋の相手として選んだことは精霊たちから聞いて知っている。とてもいい選択だったと思う。一途で、誠実で、頼りがいがある。攻略キャラたちとは大違いだ。
複雑な表情をしている彼女に、フィオナは笑って言葉を足した。
「ふふ、見ての通りよ。祖父母の復讐のために、私はこの国の重鎮の若者たちを引っ掻き回して国を乱した。――これは予定調和よ」
「……これも、ゲームにあったルートだというの?」
私はこのルートをしらない、と戸惑ったようにこちらに聞いてくる彼女。騎士にもそれを聞かせていることから、きっと彼はアデルにとってすべてを打ち明けられる特別な存在なのだろう。
頷いて、それからすべてが納得ずくだということを笑みに含ませて言外に語った。侯爵令嬢として優れた才能を持つ彼女は、やがてそれらを察して言いたいことをほとんど飲み込んだらしく。
――羨ましい、と思った。私も、誰かそんな人が欲しかった。選んだのは私だけど、たとえそんな人がいたとしてもこの道を進んだと思うけれど。
ああ、彼女とは。もしも、もっと早く別の形で出会えていたら。
そうしたら、別の道があったのかもしれないのに。
「あなた、このまま死ぬ気なの?」
フィオナはその問いにきょとんとしてから、くすりと笑う。
「そうね、戯れに一度くらい、助けを求めてみるのも面白いかもしれないわ」
…………ああ、人生最後の夜ぐらいは、頑張ったご褒美に闇の精霊たちの――ディアノスのあの穏やかな空気の中で過ごしたかった、と。不意に強く思った。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
何事もなかったように一人の夜が明けて、処刑の朝がやってくる。笑ってしまうぐらいの快晴で、これが処刑日和ってやつなのかしらとフィオナは息を吐いた。
「――なにか、最期に言いたいことはあるか?」
足枷だけが外されて、手枷をつけたまま処刑場へと引っ立てられる。高くなった台の上で、ギロチンの横に立たされた。……一人の女の処刑に、こんなに民衆が集まるものなのか。
見届け人なのだろう、私が攻略したキャラ達がずらりと並んでいてこちらを見ている。憎しみをたぎらせている人もいれば、困惑を浮かべたままの人もいた。
流石にあの牢を出たので、精霊たちの姿も見て取れた。人が多くいる所為か、どこか浮ついた雰囲気の精霊たち。近くにいる子たちは、私を見て嬉しそうに寄ってきて、けれど手枷の術に跳ね返されて不満げにしている。可愛いなぁとこんな時だけれど心が和んで。
さて、と縛られたフィオナは、ぐるりと彼らを見渡して、それから無邪気な笑みを浮かべた。眉を潜める彼らを無視して、「そうね」と朗らかに言葉を紡ぐ。……気分は「パンが無ければお菓子を食べればいい」とのたまわった逸話のある、悲劇の王妃。恋愛ごっこの終盤にはお似合いだ。
「誰か、私を助けてくれない?」
今更助けられると思っているのか、という顔や、憐れそうな顔、そして愚かなとさげすむ顔などが見てとれた。……少し遠くにいるアデルが、困惑したような表情をしていた。
当たり前だが、あれだけ私に好きと囁いていた彼らは嫌悪の表情しか浮かべていない。
アデル、やっぱりあなた、彼らを見捨てしまって正解よ。だって彼らは“自分に愛を返してくれる人”しか愛せないのだもの。
そう思いながら思った通りの結果に笑いがこみあげてくる。それに同調――もしくは同情――するかのように、周りの精霊たちがさざめいた。
そんな中、不意に、声が響いた。
「――君が、そう望むのならば」
……その聞えた声にはっと息を飲んだのはむしろフィオナだった。
低い、声。夜を思わせる、なめらかで静かな、音。
声と同時に、ぶわりとあらわれた闇から一人の男が生じる。……見覚えの、ある顔だ。
人々がどよめき、キャラの誰かが「何者だ!?」と叫んだ。その問いに男は律儀に「闇の精霊だ」と答え、そして私に視線を合わせる。
「……ディアノス……?」
呆然と古い知り合いの名前をつぶやいて、それから、はっと我に返った。
「何故きたの」
妙に心がざわめいている。
「君が呼んだから」
優しい瞳。静かな声。自分はこの声が、好きだった。……その語る内容は、納得がいかないのだけれど。
「私は呼んでないわ」
挑むように、何故、と問いを重ねると彼は何でもないように微笑った。
「なら、俺が来たかったからだ」
キッとにらみつけても、気にした様子もなく。
「助けて、といったろう?」
違う。そうじゃない。自分はただ、誰も助けようとしない事実を嘲ってやるつもりだっただけだ。
「聞いてみただけよ。本気でなんて言ってないわ」
彼らの上辺だけの安くて薄い愛に、この国は乱れたのだと。
「――なら、俺が助けたいからということにしよう」
そんなフィオナの思いなんてお構いなしに、彼は穏やかにそう言葉を紡ぐ。あまりに穏やかで、そして優しい声に心がざわめいた。
嗤ってやるはずだったのに、後悔なんてないはずなのに、助けてだなんて本当は思っていなかったはずなのに、――どうしてこんなにもその言葉が嬉しいのだろう。
おいで、という言葉にフィオナは思わず手を伸ばしかける。伸びきる前にその手をぐいと取られ、フィオナは彼の胸にとびこむ形になった。ぎゅう、と抱きしめられる。夜の匂いがした。穏やかな夜の、外の空気の匂い。キャラ達に抱きしめられることはたくさんあったけれど、こんな風に――泣きたいぐらいに――落ち着く気持ちになったことはなかった。
こんな風に、胸がいっぱいになるようなことは、なかった。
「この娘は、闇の精霊の花嫁となった。――それでお前たちにとって事足りるだろう?」
がちゃり、と手枷が壊れる。不意に体が軽くなって、そして泣きたい気持ちを抑え込むようにぎゅうっと彼の服を握った。
――精霊の花嫁。
普通、文字通りの意味で使われることは決してない。それは、地方の村では時折ある、豊穣を願う供物となった少女の呼び名だったり、口減らしのために間引かれた子を意味して使うのが通例。
いかにも乙女ゲームに似合いそうなエンド名だ。でも、ゲームの中にそんなエンドは存在していなかった。
自分はきっと、このままバッドエンドを迎えるのだと思っていたのに。
脈絡もなく、囚われた、と思う。そうだ、囚われたのだ。だってこの手を振り払えない。逃げられない。この暖かくて優しい闇に捕まってしまったのだ。
待て、という王子の声がする。しかしその声をかき消すように、フィオナの視界が闇に染まる。同時に音が消えた。
――“傾国”、と呼ばれた大罪人は、衆人環視の処刑台の上で、文字通り闇へと消えたのだった。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
深い深い森の奥にある、静かな湖畔。
闇の精霊たちが、そこかしこで遊び、動植物がまどろんでいる中。
彼らの聖地に当たるのだ、というその場所にまで連れてこられたフィオナは、自分を丁寧に地面に下ろしてくれた闇の精霊を見上げる。
「私、あなたの花嫁になるだなんて言ってないわ」
「俺は君に花嫁になってほしいんだ。……嫌か?」
「…………嫌じゃ、ないわ」
嫌だったら、あの時あなたの手をとったりはしないもの、という言葉は胸の内に消えた。そんな風に聞くのは、卑怯だと思う。――そんな、穏やかで優しい瞳で問いかけるのは。
素直じゃないフィオナの返事に、しかしディアノスは嬉しそうにそうかと言って頭を撫でて。
「俺に縛られなくていい。嫌だと思ったら捨ててくれて構わない。わがままを言ったって、愛してくれなくたって、いいんだ。君の生きたいように生きてほしい。――俺は、どんな君だって好きだから」
だから、と彼は言葉をつぐ。
「どうか俺が君と同じ時間を過ごすことを、許してくれないか?」
どうして、こう。
この男は、時折傲慢なぐらい自分勝手な言葉を吐くと言うのに、全くそれを気にできないぐらいこんなにも優しいのだろう。
私がひねくれた言葉を吐く前に、全ての言葉を封じてしまうだなんて。
「あなたは、卑怯だわ」
フィオナは、いっそ苛立たしいぐらいな気持ちになって、キッと自分をゆるく抱きしめる男を上目づかいで睨んだ。――その余裕なぐらいの穏やかさが、憎たらしくてたまらない。
「いいわよ、許してあげる。許してあげるから――」
ぐいっと彼の胸ぐらをつかんで自分に引き寄せて、フィオナはやや乱暴に唇を重ねた。
「――あなたが消えるその時まで、私を離さないでいて」
――私、傾国だった女の子。今、優しい腕の中にいるの。
大国を惑わせた“傾国の精霊使い”、フィオナ・グレイスト。大罪人として死刑が下されたが、彼女の墓はどこにも存在していない。あれだけその時代の有力者たちの手記や日記、伝記などに登場するも、彼女の処刑に関しては“精霊の花嫁となった”以上の記述はなく、その死の多くは謎に包まれている。その時代に最も栄えていた国を滅亡に導いた彼女については、現在も研究者たちは真実にたどり着こうと盛んに研究に励んでいる。
――レイ・フィリスト『世界歴史人物事典』より