私用メモ|2026.05.19|誰が笑った?
失敗記録 No.??1|社員証を忘れた日
俺、森田裕には特技がある。
失敗だ。
ただの失敗ではない。
ちゃんと準備して、ちゃんと間違える。
これはもう、才能と言ってもいい。
例えば昨日の夜、俺は完璧だった。
翌日の持ち物メモを作った。
スーツにアイロンもかけた。
靴も磨いた。
目覚まし時計は二つセットした。
会社用のカバンには、財布、スマホ、名刺入れ、筆記用具、メモ帳、折り畳み傘まで入れた。
ここまでくると、まるで社会人である。
いや、社会人ではある。
一応。
新卒二年目。
会社員。
肩書きだけは立派な大人だ。
問題は、中身があまり追いついていないことだった。
【前日準備】
財布:○
スマホ:○
名刺入れ:○
筆記用具:○
メモ帳:○
折り畳み傘:○
スーツのアイロン:○
靴磨き:○
目覚まし時計:○○
自己評価:完璧。
備考:この時点では、まだ自分を信じていた。
今日の朝、予定通り起きた。
歯も磨いた。
簡単な朝飯――トーストとジャムとゆで卵とコーヒー――も食べた。
髪も一応整えた。
そして、前日にアイロンをかけたシャツを着て、ネクタイを締めた。
ここまでは完璧だった。
鏡の前に立つ。
悪くない。
少なくとも、何か大きなミスをする男には見えない。
俺は少しだけ胸を張って家を出た。
そして、会社の最寄り駅についてから気づいた。
社員証がない。
首から下げるあれ。
そう、会社に入るために必要なやつ。
会社における通行手形。
あれがない。
俺はカバンを開けた。
財布はある。
スマホもある。
名刺入れもある。
メモ帳もある。
折り畳み傘もある。
なぜか、昨日使った洗濯ネットも入っていた。
……いらない。
会社に入れないのに、洗濯物を守れて何の意味があるんだ。
【本日の持ち物】
財布:○
スマホ:○
名刺入れ:○
筆記用具:○
メモ帳:○
折り畳み傘:○
洗濯ネット:○
社員証:×
【結論】
会社には入れない。
洗濯物は守れる。
会社の始業は八時半。
現在の時刻は八時ぴったり。
俺は三十分かけてここまで来た。
とてもじゃないが、家に戻って間に合う時刻ではない。
仮にタクシーを奮発しても、十分くらい遅刻する。
絶妙に腹の立つ時間だった。
俺は駅のホームでカバンを漁りながら、静かに天を仰いだ。
その時だった。
ふっ。
誰かが笑った。
俺は振り返った。
通勤客が流れている。
誰も俺を見ていない。
いや、一人だけ見ていた。
同期の鷹野レン。
同じ部署。
同じ新卒二年目。
でも、仕事の出来は三年分くらい違う。
鷹野は俺のカバンと、俺の顔と、俺の首元を順番に見た。
「ひょっとして、社員証?」
俺は答えた。
「家で留守番してる」
鷹野は、ほんの少しだけ口の端を上げた。
笑った。
たぶん笑った。
ふっ。
俺も笑った。
まったく面白くない状況だが、なぜか二ヤついてしまった。
きっと、そうでもしないとやっていけないからだ。
その後、俺は会社に電話した。
「すみません、社員証を忘れまして」
電話口の先輩は、三秒ほど黙った。
この三秒がきつい。
怒られるより、沈黙の方がきつい時がある。
人間の想像力は、沈黙の中で一番元気になる。
結局、俺は会社の入口で先輩に迎えに来てもらい、仮入館の手続きをして、普通に遅刻した。
そして普通に怒られた。
しかも、怒られている最中に余計なことを言った。
「洗濯ネットは持ってきたんですけど」
先輩は言った。
「今、その情報いる?」
いらなかった。
本当にいらなかった。
【本日の失敗】
社員証を忘れた。
怒られた。
怒られている最中に、洗濯ネットの存在を報告した。
【学び】
報告・連絡・相談にも、出していい情報と出さなくていい情報がある。
洗濯ネットは後者。
夜。
俺は家に帰って、メモ帳を開いた。
今日の失敗を書き残すためだ。
俺は今日、社員証を忘れた。
いい年して、こっぴどく叱られた。
余計なことを言って、余計に怒られた。
たぶん明日も、何かしら間違える。
でも、今日の失敗は、少しだけ昨日よりましだった。
いや、ましではないかもしれない。
ただ、書ける失敗だった。
あとで読み返したら、少しだけ腹が立つ。
でも、少しだけ面白いかもしれない。
その時、メモ帳の奥から小さく聞こえた気がした。
ふっ。
不思議と、今度は腹が立たなかった。
俺はペンを取って、最後の行に書いた。
【目標】
明日は社員証を忘れない。
【対策】
社員証を玄関に置く。
【懸念】
玄関に置いたことを忘れる。
【最後の疑問】
さっき、誰が笑った?
【疑問への推測】
俺だと思う。
たぶん俺の中の、
「またかよ」と思っている俺
終わり




