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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

海底のコインランドリー

作者: さえき

自殺した人と最後に会った時どんな感じだった?【X】



257 名前:ななしのいるせいかつ[] 投稿日:XXXX/XX/XX(X) XX:XX:XX


意外と前触れってないよね。昨日まで普通に話していたのにって思うもん。


258 名前:ななしのいるせいかつ[] 投稿日:XXXX/XX/XX(X) XX:XX:XX


コインランドリーでたまたま出会って話をした。とても優しくて居心地の良い人で、他愛のない話をしながら洗濯が終わるのを待った。私の人生で間違いなく最もかけがえのない時間だった。


259 名前:ななしのいるせいかつ[] 投稿日:XXXX/XX/XX(X) XX:XX:XX


>>257 ほんそれ、生きてさえいれば良いこともあるだろうに

 天井のすみで気だるげに回る古い扇風機は、私に枯れかけの向日葵を思い起こさせた。貼り直されたばかりの壁紙がそれをひどく助長していて、思わず苦笑する。

 洗濯物を乾燥機へ移して佐伯周(さえきあまね)の『雨の果て』を読み始める。

 五分ほど経って足を組み直そうとしたそのとき、カラカラと音をたてて入口の扉が開いた。何気なく時計を見ると既に午前二時を回っている。

 会釈をして入ってきたのはクリーニング用の大きな袋へ洗濯物をいっぱいに詰めた女性だった。袋を置いたときの様子をみるに、濡れた洗濯物のようだ。

 彼女はそれを二つの乾燥機へ分けて入れ、続けて硬貨を入れてスイッチを押す。そしてゆっくりと乾燥機が回り始めると、私から三人分くらいの隙間を開けて椅子へ座った。


「話しかけても良い?」

私がページを五回ほどめくったとき、彼女がそう言った。気づかないうちに二人分ほど席を詰めてきたらしい。私は頷きながら栞紐を挟み本を閉じる。普段なら突然タメ口で話しかけてくる人の相手などしないのだけれど、なんとなく彼女には警戒をとかせる魔力のようなものがあった。

「本が好きなの?」

「ええ、まあ」

「良いね、何読んでるの?」

黙って表紙を彼女へ向けると、まるで展覧会にでも来たみたいに、真剣な表情でそれを眺め始めた。

「読んだことないやつだ」

「本がお好きなんですか?」

「好き、なんだけど、最近は読めなくなっちゃって。なんていうか、子供の頃は好きでよく読んでたんだけどさ」

自嘲気味に笑うと、彼女は両手を椅子につきため息をついた。乾燥機の扉に反射した彼女の顔は実物のそれよりひどく疲れているように見える。

「本って現実の世界に蓋をしてくれるシェルターみたいなものだったんだけどね」

「大人になるとなかなか集中できなくなりますよね、私もこういう合間に読むのが精一杯で」

「わかる」

しばらくの間、乾燥機の回る音がメトロノームのように夜の空気を打ち、私たちの身体をわずかに揺らした。時折こっそり彼女を覗くと、天井の扇風機を眺めたり、腕を組んで考え込んだりしている。

 再び本を読み始め十分ほど経った頃、彼女がそっと呟いた。

「あたしね、夜が明けたら死ぬんだ」

神経症的な修道女が蝋燭を順番に灯していくみたいに、彼女は言った。私は思考を総動員して次の言葉を探し、やがて選び抜かれた当たり障りのない言葉たちが彼女の元へ届けられる。浅はかだなと自覚しながら言葉を吐くのはいつだってひどく憂鬱だけれど、当時の私にはそうすることしかできなかったのだ。

「そうなんですか?」

どこか安心したような表情の彼女を私は些か戸惑って見つめた。そんな私を鼓舞するかのように、ランドリーの前を通り過ぎるタクシーに合わせて、入口の引き戸がガタガタと揺れる。

「そう、疲れちゃってさ。だからね、服やらタオルやらなにやら、全部洗濯しに来たんだ。その方が後片付けする人が楽かなって思ってさ」

彼女はどこか恥ずかしそうに微笑みながら言った。こんな状況じゃなければ照れて目を背けてしまいそうなほど、魅力的な微笑みだった。

「どうして私に話したんですか?」

「なんとなく、死が身近にあるタイプの人かなって思ったの」

「そう、かもしれません」

念のため、控えめにそう表現した。実際はまさにその通りだったのだが、ここで同調することで、引きずり込まれてしまうのが少しだけ怖くなったのだ。

「ほら、万が一違ったら冗談ってことにしちゃえばいいし。まあ少なくとも、死ぬのはだめだとか生きていれば楽しいことがあるとか、そういうことを言わない人なんじゃないかなって思ったんだよ」

私に向けられたその信頼は、逆説的に彼女の言葉が既に明確な形を持っていることを示していた。そのことに気づかないふりをすればするほど、私の思考は深い場所へ沈んでゆく。自分の言葉の重みが急激に増大して、少しだけ息が苦しくなった。

 私が目を逸らしてしまいそうになったことを悟ったのか、彼女は再び自分の乾燥機へ向き直った。私もそれに倣って向き直ると、視線の先で洗剤の自販機がその存在を主張するみたいに、二度明滅した。

「そういう言葉はね、なんていうか、深海には陽の光が届かないのと一緒なんだよね」

沈み始めた時はいくらかの恐怖や焦燥にもがいたのかもしれない。でもおそらく、このとき既に彼女の背中は海底の柔らかな砂の上にあったのだと思う。私は彼女の肋骨の間を泳ぐ深海魚を思い浮かべた。そこにはもう彼女を彼女たらしめていたものはなく、珊瑚や貝殻と何も変わらない、ただ彼女の形をした物体があるだけだった。

「死ぬのはだめだと思う?」

彼女の声は持ち主を失ったラジオから聞こえるノイズのように、ランドリーの中を何回か跳ね返って私の耳へ届いた。

「いえ、私も考えたことがあるので」

「そうなんだ」

「どろっとした夜が身体の中へ流れ込んできてとてもとても苦しくなって。明け方までずっと泣いて、電車の音が聞こえると共に力尽きたように眠る」

記憶の底に沈んだ泥をすくいとって、私はゆっくりとそれを(よな)げる。時折息がしづらくなりながらも、そうして三回ほど籠を揺らすと当時の記憶がよみがえってくるのだ。それらは此岸の果てで隣に腰かけ、私の背中をさすってくれることもあれば、対岸で手を振っていることもある。

 しばらく固まっていた私を、彼女は優しく見つめていた。こういう時、共に沈黙へ揺蕩うことを良しとしてくれるところが、私が彼女をなんとなく拒めなかった理由の一つだった。

「そういう時期があったので……」

「頑張ったね、えらいよ」

言葉を遮るように、傍へ来た彼女が私を抱きしめた。体温が混ざり合って仄かに温かくなる身体が、なんだか自分のものじゃないような不思議な感覚になる。意識していなければ、今にもその蠱惑的な熱に引き込まれそうだった。

「うん、あなたも。疲れたんだね」

強く抱きしめ返すほど、彼女の中身が夜へ溶け出しているのが分かる、そんな気がした。私はかろうじてその渦から抜け出すことができたけれど、彼女はもう半身を夜に捧げているようだった。

 時計の針が恐ろしいほど遅く進んでいる。もしかするとそれはある種の錯覚のようなもので、本当にその程度しか時間が進んでいないのかもしれないけれど、それにしてはランドリーの窓が割れてしまうんじゃないかと思うほど、そこには高密度な時間が滞留していた。

「死ぬことはだめじゃないと思う。すぐそばに絶えず死を置くことでそれが支えとなって生きていけるってこともあるし、その最中で死に(いざな)われても……」

彼女の頭を撫でながら、私は底の見えない深海に(いかり)を下ろしていく。それがどれほど意味のある行為なのか、いや、無意味な行為であるのか私にはよく分かっていた。ただほんの少しだけでも彼女の中にある生命の残火のようなものをすくいたかったのだと思う。

「ごめん、うまく言えない」

「大丈夫だよ、伝わってる」

彼女の頭越しに見える乾燥機の時間表示が減ってさえいなければ、永遠に感じられるほどの時間、私たちは互いを抱きしめた。

 その残り時間が二十五に変わると、再び目を合わせて彼女がこう言った。

「ねえ、ひとつ頼み事をしても良い?」

「ええ、私にできることなら」

「インターネットの匿名掲示板に『自殺した人と最後にあった時どんな感じだった?』って題名の掲示板があるんだけど、そこにお姉さんが感じたことを書いてくれない?」

思いがけない願い事に面くらったものの、どこかに彼女のしるしを残せるのならそれに越したことはないと私は思った。たとえ彼女自身がいなくなっても、痕跡がプランクトンのように他の生を育むかもしれない。

「良いけど、でもどうして?」

「昔からその掲示板を見るとなんだかもう少しだけ頑張ろうって思えたんだよね。どうしてそう思ったのかはうまく言語化できていないんだけど。ただその掲示板の存在に何度も救われたのは事実なんだ」

湿気を帯びた彼女の手は震え、私は覆い隠すようにそれを強く握った。

「分かった、必ず書くよ」

その返事に安心したのか、手の震えが落ち着くと彼女は優しく微笑んだ。今までで一番自然で、彼女らしい微笑みだった。

 錨につながれていたすべての鎖がいつの間にか海へ消えていた。私はメンテナンスが済んだばかりのオートマタのように、筋肉を一つ一つ順番に動かして笑う。口角を少し上げて、次は首を少しだけ傾けて。朝が近づくにつれて、そういう風に意識をしないとうまく笑える自信がなくなっていた。

「自殺なんてしないに越したことはないんだろうなっていうのは分かるんだよ。だからかつてのあたしみたいにあれを見て『もう少し頑張ろう』って思う人がいたら良いなって思うんだ」

 ショートショートを一つ読み終えられるくらいの時間、私たちは手をつないだまま回り続ける乾燥機を眺めた。私は表示される残り時間がひとつ減る度に、彼女の手を気づかれないほど少しだけ、さらに強く握った。

 しかしやがて、残酷なまでに公平な()という波が、完了を示すアラームを私たちの元へ連れてきた。平然と席を立つ彼女の背を、私はただただ眺めることしかできない。

「お、乾燥が終わった。そうだ、お願いを聞いてくれる代わりに何かあげようか?」

蓋を開けた彼女が振り返って、戸惑う私を乾燥機へ促す。

「ええ……じゃあ一番気に入っているものがいいかな。もちろんもしあなたが良いというのなら、だけど」

「もちろん、お姉さんにならなんでもあげるよ」

彼女が乾燥機の中身をかき混ぜると、それに合わせて洗剤の心地よい香りが舞った。彼女の手に促され差し込まれた私の手に、一枚のハンカチがおさまる。取り出してみると、一つの(すみ)文目(あやめ)の花が描かれたハンカチで、ところどころ(ほつ)れを直した形跡がある。

「じゃあこれかな。あたしが子供の頃から使ってたハンカチだからちょっとぼろいけど」

「これにする。良いの?」

「うんうん、もう使うことはないからね。でもこれがお姉さんの人生で重しになっちゃうなら他のにするよ」

「ううん、これが良い」

ハンカチの皴を伸ばしながら、彼女は楽しげに笑った。角を合わせて丁寧に折りたたむと割れ物でも乗せるみたいにそれを私の手に置いた。

「子供の頃はおばあちゃんっぽくてちょっと恥ずかしかったんだけど、かわいいよねこれ」

 残りの衣類をしまう彼女を眺めながら、私はハンカチを握りしめた。時折目を背けて外を見るとわずかに空が明るくなっているのが見える。

「お姉さんともっと早く出会えていたら、少しくらいは違う人生になってたかもしれないね」

丁寧にデニムをたたみながら彼女がそう呟いた。いつの間にか空っぽになった乾燥機は、私にブルーホールを思い起こさせた。硫化水素層の下では、貝殻とプラスチックが肩を寄せ合って沈黙を続けている。

「そうかもしれない」

「でもそうはならなかった」

「そうだね」

「そういうもんだ」

「あのさ……」

「どうしたの?」

「ううん、なんでもないよ」

乾いた洗濯物がすべて彼女の袋へしまわれたのを見て、私は思わず深呼吸をする。意識して呼吸をしなければ、今にも溺れてしまいそうだった。

「……ありがとね、本当に。何も訊かないでいてくれて。最後に話せたのがお姉さんで本当に良かったよ」

私はその存在を確認するみたいに、力を振り絞って彼女の手にそっと触れた。でもその手はもう、役割を終えたかのように冷たくなりはじめていた。

「ごめんね」

「お姉さんは何も悪くないよ、むしろあたしの人生で一番かけがえのない時間になったよ。今日のおかげで悪くはない人生だったなって思える気がする」

 目に見えて朝が滲み始めた空は、まるで船の灯りが近づいてくる海岸線のように見えた。

「ーー――ーー」

入口の引き戸を開けた彼女に向かって、私は何かを呟いていた。しかしその時に何を呟いたのかは、いまだに思い出せないでいる。

「あたしもだよ。そうだ、一つだけ!」

おそらくそれは溢れ出した感情が音となったものであり、私の思考が紡いだ言葉ではなかったからだと思う。

 そしてもう一つ、私はその時彼女に告げられた彼女自身の名前もまた、一向に思い出せずにいる。彼女の柔らかな肌の感触や今にも壊れそうな身体からじんわりと伝わる体温は恐ろしいほど鮮明に覚えているのに、たった数文字の言葉は、沈んだきり二度と浮かび上がってこなかった。

「じゃああたし行くよ、またね。お姉さんも無理しないでね」

 それからどれくらいの時間が経ったのかはよく覚えていない。朝の匂いがすることに気づいて乾燥機へ目をやると、いつの間にか乾燥は終わっていた。

 ランドリーの外からは、楽しげな学生の声や原付きのエンジン音が聞こえた。



 今でも時々、彼女の笑顔と後ろ姿を思い出す。結局何が、彼女に死という選択肢をとらせたのかは分からないけれど、安堵に満ちた優しい表情と触れられそうなほど濃密な死の気配が、紡ぎかけた言葉のことごとくをさらっていった。

 もしこの世界の果てでまた彼女に出会えたのなら、私はできる限りの力で彼女のことを抱きしめ、そして枯れ果てるまで涙を流すだろう。

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