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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

海底のコインランドリー

作者: さえき
掲載日:2025/11/07

 満員電車が疲弊しきった身体を固定して、はからずも一時の安寧を与えられる。普段あんなにも毛嫌いしている乗り物を()()と表現してしまう時点で、相当追い込まれているな、と自覚する。

 そんなんだからやっとのことで帰宅しても電気をつける気力もなく、私はほとんど無意識で廊下に座り込みスマートフォンのブックマークを開く。疲れた身体に画面の明るさがひどく沁み、とっさに一番暗くしてからある掲示板を開いた。

 そこには今日も様々な話題のスレッドが立てられているが、私が見るのは決まって同じスレッドだ。「自殺した人と」と入力し検索ボタンを押す。するとすぐにいつものスレッドへたどり着く。

 『自殺した人と最後に会った時どんな感じだった?』とそこには表示されていた。私は二百五十八番目の投稿まで下がると、時間をかけてそれを黙読する。


「コインランドリーでたまたま出会って、他愛のない話をしながら乾燥が終わるのを待った。私の人生で間違いなく最もかけがえのない時間だった」


 スマートフォンの画面を閉じた私は立ち上がり、おぼつかない足取りでキッチンへ向かう。コップに四割くらい水を汲んで飲み干すと、ようやく一息つけた気がした。

 わずかばかり気力が戻ったのでキッチンの電気をつけ、リビングの床にバッグを置き、壁際の棚へ向かう。そこには額装したハンカチとアヤメを生けた花瓶が置かれている。どんなに疲れていても、その水を入れ替えて「ただいま」と告げることが私の日課だ。

 いつも通り水を入れ替えて栄養剤を少し加えてから、アヤメを元の位置へ戻す。

「ただいま」

 畳みっぱなしにしていたバスタオルのうち一枚をソファーに敷き、その上へ座ったら目を閉じて天井を見上げ、あの日のことを鮮明に思い返す。

 それは年に一度、私が生きていることを確認するために行う儀式のようなものだ。




 そのコインランドリーは当時住んでいたアパートの大家さんが子供の頃から通っていた年季の入ったランドリーで、天井のすみで気だるげに回る古い扇風機は、私に枯れかけの向日葵を思い起こさせた。貼り直されたばかりの壁紙がそれをひどく助長していて思わず苦笑する。私は洗濯物を乾燥機へ移すと、佐伯周(さえきあまね)の『雨の果て』を続きから読み始めることにした。

 ちょうど十ページ読み進めて足を組み直そうとしたとき、カラカラと音をたてて入口の扉が開いた。何気なく時計を見ると既に午前二時を回っている。当時は今みたいに二十四時間営業の綺麗なコインランドリーがどこにでもあるような時代じゃなかったから、そんな時間に誰かとかぶるなんてことはめったにない。私は思わず入口のほうを一瞥する。

 会釈をして入ってきたのはクリーニング用の大きな袋にいっぱいの洗濯物を詰めた同い年くらいの女性だった。重そうな袋だったので手伝うべきか判断に迷ったものの、ひとまず私は本を読むふりをしながら彼女を見守ることにした。いくら同性といえども、自分の洗濯ものを見られる、あるいは触られるのは嫌だろうと思ったからだ。

 彼女はゆっくりと乾燥機の傍に置いてあった棚まで移動すると、深呼吸をしてから袋を持ち上げそこへ乗せた。そしてしばし呼吸を整えた後、それらを二つに分け乾燥機へ放り込み、続けて硬貨を入れスイッチを押した。そうして無事に乾燥機が回り始めるのを見届けると、彼女は私から三人分くらいの隙間を開けて椅子へ座った。これでようやく安心して読書へ戻れる。


「話しかけても良い?」

彼女がそう言ったのは、ページを七回ほどめくったときだった。ふと視線を向けるとさっきよりも近い位置にある顔が、いかにも申し訳なさそうな表情を浮かべている。どうやら気づかないうちに一人分ほど席を詰めてきていたらしい。

 私は頷きながら栞紐を挟み本を閉じた。普段なら突然タメ口で話しかけてくる人の相手など決してしないのだが、こんな時間にこんな場所で出会ったのだ、何かしらの縁があるのだろうなどと考え彼女と会話をすることにした。

「本が好きなの?」

「ええ、まあ」

「良いね、何読んでるの?」

黙って表紙を向けると、彼女はまるで展覧会にでも来たみたいに真剣な表情でそれを眺め始めた。視線が表紙の題字にしたがって縦に動くのを見て、私は少しだけ笑いそうになる。

「読んだことないやつだ。どういう話?」

「雨が止むことのない国で、主人公がその原因を探る話です」

「へえ、面白そうだね」

「本が好きなんですか?」

「好きなんだけど、最近は読めなくなっちゃって。なんていうか、子供の頃は好きでよく読んでたんだけどね」

自嘲気味に笑うと、彼女は両手を椅子につきため息をついた。なんとなく次の言葉が見つからなくて視線を逸らすと、乾燥機の扉に反射した彼女の顔が目に入る。その顔は実物のそれよりひどく疲れているように見え、私の視線は再び行き先に惑う。

「本って現実の世界に蓋をしてくれるシェルターみたいなものだったんだけどな。それを読めなくなっちゃうとさ、結構もうなんていうか……逃げ場がないよね」

「大人になるとなかなか集中できなくなりますよね、私もこういう合間に読むのが精一杯で」

「わかるわかる、なかなかね、気力がなくって」

会話が途切れしばらくの間、乾燥機の回る音がメトロノームのように夜の空気を打ち、私たちの身体を揺らした。大学時代はジャンルが異なる本を常に三冊持ち歩いていた私も、働き始めてから徐々に本を読めなくなっていった。読みたいという気持ちがあるのに、昔のように集中して読むことができないのだ。この斥力のようなものは、時折ひどく私を苦しめる。今日こうして真夜中のコインランドリーに本を持ち込んだのも、そういった焦燥があったからかもしれない。

 再び本を読み始め十五分ほど経った頃、彼女がそっと呟いた。

「あたしね、夜が明けたら死ぬんだ」

神経症的な修道女が蝋燭を順番に灯していくみたいに、彼女は一文字一文字を丁寧に発した。読みかけていた文章が泡のように消え去り、代わりに彼女の言葉が私の中をめぐり始める。「()()()()()()()()()()

 その言葉が心の底で反響する中、私は発すべき次の言葉を探していた。いくつもの言葉が形成され、すぐさま崩壊し流されていく。それは濁流にのみ込まれていく家々を思い起こさせた。とはいえ、このまま黙り込むという選択肢もない。

 やがて選び抜かれた当たり障りのない言葉が彼女の元へ届けられる。浅はかだなと自覚しながら言葉を吐くのはいつだってひどく憂鬱だけれど、当時の私にはそうすることしかできなかったのだ。

「そうなんだ」

私が苦し紛れに放った言葉ははからずも()()()ではなかったようで、恐る恐る見上げた視線の先にはどこか安心したような表情を浮かべる彼女がいた。

「そう、疲れちゃってさ。だからね、服やらタオルやらなにやら、全部洗濯しに来たんだ。その方が後片付けする人が楽かなって思ってさ」

そういって恥ずかしそうに彼女は微笑む。状況さえ違っていれば誰にでも魅力的に映るような、そんな微笑みだった。私は本を膝の上から隣の席へ移すと、ゆっくりと身体全体を彼女へ向ける。

「どうして私に話したの?」

「なんとなく、死が身近にあるタイプの人かなって思ったの」

私はおそらく驚いた表情をしていたのだと思う。それを誰かに見透かされたのは初めてだったし、なにより()()()()()などではなく()()()()()()()という表現が、私と死の距離感を表現するうえであまりにも的確であったからだ。

「そう、かも」

「悪い意味じゃないのよ」

「大丈夫、分かるよ」

念のため、私は控えめに()()と表現した。実際はまさにその通りだったのだが、同調することで彼女の死に手招きをされたとき、それを振り払える自信が私にはなかったのだ。仮に私が「まさにそうなんだ」と彼女の指摘を認めたときに「もし良かったら一緒にどう?」なんて言われたら、その誘いはあまりに甘く逃れようのないものだったろう。

「ほら、万が一読みが外れても冗談ってことにしちゃえばいいし。まあ少なくとも、死ぬのはだめだとか生きていれば楽しいことがあるとか、そういうことを言わない人なんじゃないかなって思ったんだよ」

 私に向けられたその信頼はちょうど(まばゆ)い光の元で影がその濃度を高めていくのと同じように、逆説的に彼女の言葉が既に明確な輪郭を有すことを示していた。その事実に目を向けまいとすればするほど、思考が深い場所へ沈んでゆく。自身が発する言葉一つ一つの重みが急激に増大して、私はわずかに息が苦しくなった。

 そんな私の状態を感じ取ったのか、彼女は再び自分の乾燥機へ向き直った。私もそれに甘んじて向き直ると、視線の先で洗剤の自販機がその存在を主張するみたいに、二度明滅した。

「そういう言葉はね、なんていうか、深海には陽の光が届かないのと一緒なんだよね。それ自体が悪いとは言わないけど、もうそれが届くところにあたしはいないんだよ」

 沈み始めた時は、彼女もいくらかの恐怖や焦燥にもがいたかもしれない。でもおそらく、このとき既にその背中は海底の柔らかな砂の上にあったのだと思う。私は彼女の肋骨の間を泳ぐ深海魚を思い浮かべた。そこにはもう彼女を彼女たらしめていたものはなく、珊瑚や貝殻と何も変わらない、ただ彼女の形をした物体があるだけ――もしかするとそれを人間だと分からない者さえいるかもしれない――だった。

 私はこっそりと深呼吸をして、こみあげてくる何かを必死に押しとどめた。浮かびかけたその言葉をかけることは一般的には正しいのかもしれないが、彼女が求めているものとは対極に位置するもので、それは私もよく分かっている。でもかといって彼女の選択をすんなりと飲み込めるほど、私はまだ大人ではなかった。

「死ぬのはだめだと思う?」

彼女の声は「滑走路が混みあっているから待て」と伝えられた航行中の飛行機のように、ランドリーの中をしばらく飛び回ってようやく私の耳へ届いた。私は少し考えて、結局自分が素直に思っている通り答えるべきだと結論づけた。

「ううん、私も考えたことがあるから」

「そうなんだ」

「どろっとした夜が身体の中へ流れ込んできてとてもとても苦しくなって。明け方までずっと泣いて、電車の音が聞こえると共に、力尽きたように眠る」

 そこまで言うと、私は記憶の底に沈んだ泥をすくいとってゆっくりとそれを(よな)げる。時折息がしづらくなりながらも、そうして三回ほど籠を揺らすと当時の記憶がよみがえってくるのだ。それらは此岸の果てで隣に腰かけ背中をさすってくれることもあれば、対岸で手を振っていることもある。

 しばらく固まっていた私を、彼女はただ優しく見つめていた。今思えばこういう時、共に沈黙へ揺蕩(たゆた)うことを良しとしてくれるところが、私が彼女を拒めない理由の一つだったのだろう。

「そういう時期があったから」

「頑張ったね、えらいよ」

言葉を遮るように、隣へ来た彼女が私を抱きしめた。体温が混ざり合って仄かに温かくなる身体が、なんだか自分のものじゃないような不思議な感覚になる。意識していなければ、今にもその蠱惑的な熱に引き込まれそうで、一体どうしたら良いのか分からない。

 その逡巡が伝わってしまったのかそっと身体を離そうとする彼女に、私は抵抗する。今は彼女を離すべきじゃないと、そう思ったからだ。

「うん、あなたも。とってもえらいよ」

強く抱きしめ返すほど、彼女の中身が夜へ溶け出しているのが分かる、そんな気がした。私はかろうじてその渦から抜け出すことができたけれど、彼女はもう半身を夜に捧げてしまっているようだった。

 時計の針が恐ろしいほど遅い。もしかするとそれはある種の錯覚のようなもので本当にその程度しか時間が進んでいないのかもしれないけれど、少なくともランドリーには窓が割れてしまうんじゃないかと思うほど高密度な時間が滞留していた。

「さっきの答えだけど、死を考えることはだめじゃないと思う。すぐそばに絶えず死を置くことでそれが支えとなって生きていけるってこともあるし、実際私もそうだった。だからたとえその最中で死に(いざな)われても……」

彼女の頭を撫でながら、私は底の見えない深海へ慎重に(いかり)を下ろしていく。それがどれほど意味のある行為なのか、いや、無意味な行為であるのか私にはよく分かっていた。ただほんの少しだけでも彼女の中にある生命の残火のようなものをすくいたかったのだと思う。

「ごめん、うまく言えない」

「大丈夫、伝わってるよ。ありがとう」

彼女の頭越しに見える乾燥機の残り時間が減ってさえいなければ永遠に感じられるほどの時間、私たちは互いを抱きしめた。彼女の鼓動が伝播して私の心を揺らすたび溢れそうになる言葉を、私は必死にせき止める。

 残り時間が二十五に変わると、再び目を合わせて彼女がこう言った。

「ねえ、ひとつ頼み事をしても良い?」

「うん、私にできることなら」

「インターネットの匿名掲示板に『自殺した人と最後にあった時どんな感じだった?』って題名の掲示板があるんだけど、そこにお姉さんが感じたことを書いてくれない?」

思いがけない願い事に面くらったものの、どこかに彼女のしるしを残せるのならそれに越したことはないと私は思った。たとえ彼女自身がいなくなっても、痕跡がプランクトンのように他の生を育むかもしれない。

「良いけど、でもどうして?」

「昔からその掲示板を見るとなんだかもう少しだけ頑張ろうって思えたんだよね。どうしてそう思ったのかはうまく言語化できていないんだけど。ただその掲示板の存在に何度も救われたのは事実なんだ」

湿気を帯びた彼女の手がかすかに震えていた。それが覚悟からなのか、あるいは恐れからなのかは私には分からない。ただそれを覆い隠すように彼女の手を強く握ることが、当時の私にできる唯一のことだった。

「分かった、必ず書くよ」

その返事に安心したのか、手の震えが落ち着くと彼女は優しく微笑んだ。今までで一番自然で、彼女らしい微笑みだった。

 いつのまにか、錨につながれていたすべての鎖が夜の海へと消えていた。私はメンテナンスが済んだばかりのオートマタのように、筋肉を一つ一つ順番に動かして微笑みを返した。

『口角を少し上げて、次は首をほんの少し傾けて』

朝が近づくにつれて、そんな風に意識をしないとうまく笑えなくなっていた。

「自殺なんてしないに越したことはないんだろうなっていうのは分かるんだよ。だからかつてのあたしみたいにあれを見て『もう少し頑張ろう』って思う人がいたら良いなって思うんだ」

 それからまたしばらくの間、私たちは手をつないだまま回り続ける乾燥機を眺めた。表示される残り時間がひとつ減る度に、手を握る力を気づかれないほど少しだけ強めた。

 やがて、残酷なまでに公平な()の波に乗って、乾燥完了を示すアラームが砂浜へ上がった。彼女がすぐに立ち上がり乾燥機へ近づく一方で、なんだか足元の空間が崩れてしまいそうで、私は平然と席を立つその背をただただ眺めることしかできない。

「お、乾燥が終わった。そうだ、お願いを聞いてくれる代わりに何かあげようか?」

蓋を開けた彼女が振り返って、戸惑う私を乾燥機へ促した。私が平静でないことは彼女だって気づいていたのだろうが、彼女がそれに触れない以上、私も可能な限り平静を装うよりほかない。それが彼女の信頼に対する私なりの答えなのだから。

「ええ……じゃあ一番気に入っているものがいいかな。もちろんもしあなたが良いというのなら、だけど」

「もちろん、お姉さんにならなんでもあげるよ」

彼女が乾燥機の中身をかき混ぜると、それに合わせて洗剤の心地よい香りが舞う。やがて彼女に引かれ差し込まれた私の手に、一枚のハンカチがおさめられた。そのまま取り出してみると、一つの(すみ)文目(あやめ)の花が描かれたハンカチで、ところどころ(ほつ)れを直した形跡がある。

「じゃあこれかな。あたしが子供の頃から使ってたハンカチだからちょっとぼろいけど」

「これにする。良いの?」

「うんうん、もう使うことはないからね。でもこれがお姉さんの人生で重しになっちゃうなら他のにするよ」

「ううん、これが良い」

ハンカチの皴を伸ばしながら、彼女は楽しげに笑った。角を合わせて丁寧に折りたたむと割れ物でも乗せるみたいにそれを私の手に乗せる。ハンカチの重さが彼女の魂の重さのように感じられ、私はまた少しだけ息苦しくなった。

「子供の頃はおばあちゃんっぽくてちょっと恥ずかしかったんだけど、かわいいよねこれ」

 残りの衣類をしまう彼女を眺めながら、私はハンカチを握りしめた。時折目を背けて外を見るとわずかに空が明るくなっているのが見える。記憶からよみがえったあの始発列車の音が、今にも頭の中で鳴り響きそうだった。目の奥が痛い。

「お姉さんともっと早く出会えていたら、少しくらいは違う人生になってたかもしれないね」

丁寧にデニムのパンツをたたみながら彼女がそう呟いた。いつの間にか空っぽになった乾燥機は、私にブルーホールを思い起こさせた。硫化水素層の下で肩を寄せる貝殻やプラスチックの元に、ゆっくりと彼女の肋骨や頭蓋骨がやってきて、そっとその傍で砂埃をあげる。私はそれを見て「彼らであれば彼女の心を脅かすこともないだろう」と独り安堵する。そうだ、もう彼女を苦しめるものは何もない。そこには何もなくて、彼女はようやく安らぎを得られるのだ。

「そうかもしれない」

「でもそうはならなかったんだ」

「そうだね」

「そういうもんだよね」

「あのさ……」

「どうしたの?」

「ううん、ごめん。なんでもないよ」

乾いた洗濯物がすべて、ついに袋へしまわれた。私はまた深く深く、時間をかけて呼吸をした。まるでコインランドリーごと海底へ沈んでしまったみたいに、意識して呼吸をしなければ溺れてしまいそうだった。

「……ありがとね、本当に。何も訊かないでいてくれて、何も言わないでくれて。こんなことに付き合わせちゃってごめんね、でも最後に話せたのがお姉さんで本当に良かったよ」

私は力を振り絞って彼女の手に触れた。気のせいかもしれないが、その手はもう、役割を終えたかのように冷たくなりはじめていた。

「ごめんね」

「お姉さんは何も悪くないよ、むしろあたしの人生で一番かけがえのない時間になった。今日のおかげで悪くはない人生だったなって思える気がするよ。だからありがとう」

 目に見えて朝日が滲み始めた空は、まるで船の灯りが近づいてくる海岸線のように見えた。彼女はそっと私のことを抱きしめると、耳元で何かを囁いた。

「ーー――ーー」

呆然とする私は彼女がコインランドリーを出ようと引き戸を開けた段階で、ようやく我にかえり声をかけることができた。

 しかしその時互いに何を言い合ったのかは、いまだに思い出せないでいる。おそらくそれは溢れ出した感情が音となったものであり、私たちの思考が紡いだ言葉ではなかったからだと今は思う。ちょうど潮騒や海風が言葉ではないのと同じように。

 そしてもう一つ、私はその時彼女に告げられた彼女自身の名前もまた、一向に思い出せずにいる。彼女の柔らかな肌の感触や今にも壊れそうな身体からじんわりと伝わる体温は恐ろしいほど鮮明に覚えているのに、そのたった数文字の言葉が沈んだきり二度と浮かび上がってこないのだ。

「じゃああたし行くよ、またね。お姉さんも無理しないでね」

 それからどれくらいの時間が経ったのかはよく覚えていない。朝の匂いがすることに気づいて乾燥機へ目をやると、いつの間にか乾燥は終わっていた。

 ランドリーの外からは、楽しげな学生の声や原付きのエンジン音が聞こえる。私は溢れ出す慟哭をただひたすらに喉の底へ押し込めた。




 今でも時々、彼女の笑顔と後ろ姿を思い出す。結局何が、彼女に死という選択肢をとらせたのかは分からないけれど、安堵に満ちた優しい表情と触れられそうなほど濃密な死の気配が、紡ぎかけた言葉のことごとくをさらっていった。

 もしこの世界の果てでまた彼女に出会えたのなら、私はできる限りの力で彼女のことを抱きしめ、そして枯れ果てるまで涙を流すだろう。

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