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足元を跡形もなく喪失しながら、わたしはようやく立ち上がった海の肩口にたどり着いた。
生まれてからずっと眺めていた青い景色が広がっているのが見えた。
遊びながら、向こうにある遠い国の想像をいくつもした海。
たまに浜にあがった奇妙なものをつつき回して、魚を干していたおばさんに怒られて一目散に後にした海。
家族とケンカして、誰も探しに来ないのを段々心細く思いながら夕闇へと変化するのを眺めていた海。
自分の好きな海が広がっていた。
まるでいつも通りみたいに。
肩口に立って真下を見下ろすと頼りなく浮かんだ不恰好な舟が見えた。
皆の声が聞こえる気がした。
舟の不恰好さに苦笑したりからかったり、大したもんだと誉めてお菓子をくれようかと言ったり、危ないことはするんじゃないよとお説教する声が。
しゃくりあげて泣く声もずっと近くで聞こえている。
生まれるはずだったお姉さんの子どもだろうか。
アップリケの入った上着は、結局持ち主の姿もなく沈んだはずなのに。
ずっと、泣き声が聞こえている。止まない。
村を振り返った。
ここから見下ろせば本当に小さくてささやかな場所だった。
皆がいてわたしがいた場所は、ただの残骸だった。
でも、目が離せない。
本当に酷い変わりようでも、確かに皆もわたしもあそこにいたのだ。
足元に固い海を感じる。
ゆっくりと両腕を広げた。
踏み出そうとする。
振り返った先、村があった方角へ。
時間が埋まった場所へ向かって。
海に呑み込まれなくても、この高さなら。皆がいる方へ行ける一歩を。
重力を失ったと思った一瞬、どかっと黒い影にぶつかられ固い海に叩きつけられた。
そのまま落ちないように押しつけられ、不揃いな翼でバシバシ叩かれた。
「痛い、痛いよ、影」
ぐい、と手を取られ、舟のある方へ垂れている残ったロープを握らされる。
バシバシ叩かれ、舟の方へ降りろと急かされる。
とぷん、と水音がした。
「そんな、嘘でしょ影。なんで?」
影も、立っている海に触れて中にゆっくりと沈んでいく。
「だって、一緒に行くんでしょ? 一人で不安だからわたしと行こうとしたんでしょ。待って、今ロープをあなたに結ぶから、引っ張りあげるから──」
バシッと、翼でなく手ではたかれた。
自分がここでロープを固定している間に舟へ降りろと、また手で叩かれた。
脅すみたいに。
無理やり痛いぐらいにロープを握らされた。
「嫌だよ、影」
ぱしん!
思い切り頬をはたかれて。
それからぎゅうっと抱き締められた。
澱んだ声が言った。
「あなたは大事なことは、ちゃんとやり遂げる子でしょ」
初めて影が喋った。どこか別の場所から反響しているような、かなり雑音の混じったまるで泥の水溜まりから発せられたような声でも、誰の声かはっきりとわかった。
そして舟へ向かえと声よりも言葉よりもはっきりと威厳を持って示された、沈みながら。
わたしは泣きながら海の肩を下り始めた。
あの声が、あんな口調で喋るときは、従うべき大事な時だけだったから。
影は少しでも長く沈まずにロープを保たせようと翼をはためかせていた。
それでもゆっくりと水に埋まっていく。
そして海の表面を水がざざと流れはじめていた。
立ち上がって彫像のように固まっていた海も、皆を呑み込んでほつれ始めようやく全体が脆く朽ちはじめたようだった。
わたしは何度も上を見上げ、見えなくなっていく影を少しでも確認しようとした。
ざざざ、ざざざん。
水が滝のように上から流れてくる。
海が崩れ始めている。
崩壊が一挙に来ることを予感させた。
もう影の姿は見えない。それでもまだロープの端は握られている。
まだ、繋がっている。
言い聞かせたとたんに、ロープは張りを失ってわたしは落下した。
天上から大量の水が追いかけてくる。
海に 呑まれる 皆と同じように
ドン、と崩壊する水の壁から手が突き出てわたしを呑み込もうと落下する水から、凪いでいる海の方へと突き飛ばした。
影は、まだ翼を生やしていたがもう影の姿をしていなかった。
濁流に繋いでいた手をもぎはなされてしまった母の姿をしていた。
母が笑んで水に呑まれていくのが見えた。
気がつくと満点の星の夜で、わたしは舟の上で揺られていた。
カチコチと、あの日から泥が詰まって動かなくなった時計は泥が海水で洗い流されたのか、再び動き始めていた。
身を起こす。
舟には缶詰めや水が積んであった。
影がせっせと舟に重石を運び込んでいた姿を思い起こす。
まわりを見渡した。何も見えない。
海は無辺の孤独だった。
皆のいなくなった時間から遠く遠く離れてしまった。
二度とあの時と場所には戻れない。
夜明けの方向に迎えの船が来るのが見えた。
《了》