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わたしは不恰好な舟と、影がそこら中を浚ってあらゆるものを継ぎ足したロープを持って再び海を見上げた。
海は身じろぎもしていない。
困って影をふりかえる。
「まずはロープをひっかけなくちゃいけないけど……」
わたしはあまりに小さすぎて、立ち上がっている海は腹立たしいほど大きい。
日向は汗ばむけど、ずっと日射しを遮られた海の影の足元にいると肌寒いくらいだ。
影がずい、と前に出た。
ぶおおおん。
空の青が凄い勢いで吸い込まれ始めた。
影の背中越し、泥で固まったわたしの髪が余波の風でバサバサ揺れた。
遠くにいた海鳥の群れが、巻き取った絨毯に巻き込まれるみたいに、喚きながら影に吸い込まれていく。
ぱくん、と影が口を閉めた。
影の輪郭が泡立ち始める。
バサリバサリ、影にあちこちから黒い翼が突き出た。
背中からも頭からも足からもバラバラに生えて、まるで整合性がない。
村が流される前なら、怒号を上げ殺気だった決死の覚悟の大人たちに囲まれて退治されるに違いないと思える姿だった。
そんなめちゃくちゃな翼の生え方でも、はためかせると影は浮かんだ。
影がわたしからロープを結んだ舟を受けとる。
舟を、立っている海の肩の向こうに落とすから、それで登ってこいと、多分説明された。
翼のせいで、ジェスチャーが前よりはるかに分かりにくい。
舟をぶら下げてふらふらと海に向かって飛んでいくのを見て、わたしを抱えて飛んだ方が早いのではないかと思った。
が、幾度か舟を取り落としすんでのところで空で受け止めるのが繰り返されるのを見て考えを改める。
思い返せば影はわたしにも物にも触れることはできたが、時々は触れようとしてわたしや物を透過していた。
ずっとしっかり掴んでおくことはできないみたいなのだ。
コントロールはできないのだろう。
鳥たちもいなくなった、少し引きちぎれた部分のある静かな青空を見ながら待っていた。
立ちつくした海の背中の向こうから、ばしゃんと舟の落水した音がした。
唐突に思った。
ああ、わたし、村を出ていこうとしているんだ。
もう跡形も無くなってしまった村の、真夜中の皆の悲鳴を、置き去りにしていくんだ。
そう思うと、なんだか背中に引き止める皆の手を感じた。
振り返りたくなる。皆の手を握りしめたくなる。
どうして海がわたしだけ除け者にしたのか納得できないままなのだ。
ピョコン、となんだかわけのわからない姿になった影が海の背中から現れて、手と翼を勢いよくぶんまわして、ロープを示してわたしに上がってこいと合図した。
皆の引き止める手がそっと背中から離れて行く。
わたしはロープを登り始めた。
ただ無心に登った。
長さが足りなくて、布やビニール紐でくくりつけ結び足した部分はところどころ危い。
強く握って破けることも度々だった。
いつ落ちても不思議はなかった。
バキッと握っていた大腿骨が砕けた。
慌ててもう片方の手で絡めていた網を強く握り体重を支える。
寝たきりで歩けなくなった斜向かいのおばあちゃんの細くなっていた骨。
砕けた破片はなぜか垂直に落ちずに海の水の中に落ちる。
わたしには固い壁のような海なのに。
手に水しぶきがかかってゆらりと、海の水面の中に沈んでいくおばあちゃんが見えた。
すぐに足をかけていた上腕骨が結んだ紐から外れて落ちて、おばあちゃんを世話していたたくましいおじさんが追うように海に沈んでいく。
わたしも落ちるかと思ったけど上から垂れた隣のお姉さんの冬物のセーターが絡まって事なきを得た。
けれどそれもズルズルと下がってきたから慌ててよじ登る。
いつも無口で怖いと思っていた埠頭のおじいさんの釣竿、仲良くしてあげてねと言われたけど小突かれて一度も口を利かなかった男の子のお母さんが刺繍したシーツ。
皆の名残が、皆の姿になって沈んでいく。
その目はもう死んでいて、わたしと目が合うことはない。
時々挟む小休止で海を蹴りつけて、こちらの足が痛むほど海はわたしを拒否しているのに。
海は皆を呑み込んで沈めていく。
わたしは皆を追って飛び込むこともできない。
そして小さな水しぶきを浴びるごとにロープは脆くなるようだった。
同時に、皆が沈んでいくごとに海に小さな流れの筋ができた。
影が、ばさばさとわたしのそばにやってきてわたしを急かした。
先ほどまで舟に重石を運んでいたがそれも済んだらしい。
急いで。急いで。
朽ちていくから。
時間の負荷を、皆とこの世界が背負ってくれているから。
わたしは急いで登った。
ぼろぼろ弱くなっていくロープの感触を感じたから。
役目を追えたようにわたしが登り終えた箇所は崩れてほつれて。
皆の骨や髪や家の一部や洋服や愛用のドライヤーや自転車が、束ねていた漁網や紐や糸と一緒に落ちていった。
水の中で、皆の姿が底へ向かって沈んでいった。
既に滝のような勢いの流れの筋もできている。
海が溶け出しているみたいに。
空は青く、海はわたしにだけまだ固い。
なのに海の味が口に流れ込んでしょっぱくてたまらなかった。
悔しくて悔しくて、ずっと登り続けている傷だらけの手よりも心が軋んだ。
わたしが大人なら。
こんな風にぼろぼろとわたしの生活を取り囲んでいた皆の名残を取り落としながら、登っていかなくても済んだのだろうか。
皆が落ちて沈んでいくのをただ眺めながら、一人だけ進んで行かずに済んだのだろうか。