あんなことの前兆
あんなことの前兆
高志の父親高雄さんが宇治神社を訪れて護摩木に〈京大合格〉とサインペンで記し受付に渡そうとして顔を上げた。その時、目の端に同じく護摩木にペンを走らせている女性の姿を捉えた。ドレッシーな濃紺のスーツに控えめなピアス、清楚な真珠のネックレス、栗色に染めた髪は前頭部で二つに分けて三つ編みにし横に回し後ろで束ねていた。似ていると思って送った眼差しにその女性が答えるかのように高雄さんを見返した。
ニコッと微笑んで、「こんにちは、佳世がいつもお世話になっています。今日は高志さんの合格祈願ですか?」と挨拶した。
「はい、神頼みはしたこと無これいのですが息子のために、お恥ずかしい姿を見られてしまいました」と高雄さんが引き寄せられてうっとりした眼差しを返した。
「私は度々来ているのですよ。まで商売繁盛と記していたのですが今回初めて〈合格切願〉としました」
「お互いに気が揉めますなあ。今日は会社を休んで懇談会に行く予定ですが時間がありますので祈願に参りました」
佳世の母親道世さんは高雄さんに寄り添うように肩を並べた。美容業界人なので着付けは玄人だし、それでなくても人目を惹く容姿だ。
「私は懇談会に行くのは初めてです。娘が来年受験ですのでいつまでも本人任せにして、放っとくわけにはいきませんのでね」
高雄さんが眩しそうに目を細めて尋ねた。
「懇談会には何で行かれるのですか」
「幾らなんでもあの派手なスポーツカーで乗り付けるわけにはいきませんのでタクシーで行きます」
「よろしかったら私の自動車でご一緒しませんか。神社のガレージに止めています」
「すみませんね。そうしていただければありがたいです」
夫婦のように肩を寄せ合って笑み浮かべ、昨今の世間の出来事を巡って会話がポンポンと弾んでいた。
さして参拝者が多いわけではない。注連縄を張った御神木に身を隠して、二人の様子を窺っている貧相な中年の男がいた。脇に偽ルイ・ビトンのハンドバックを挟み、右手に合格祈願と記した護摩木を握りしめていた。
「懇談会が始まるのは午後からですので時間がたっぷりあります。近くで蕎麦でも食べて行きませんか。私はそのつもりでした」
「そうですね」
高雄さんと道世さんは参道を出たところにある蕎麦屋さんの暖簾をくぐった。後をつけていた貧相な男は二人が座敷に上がるところまで見届けて、姿を消した。
正午を過ぎたころ佳世のケータイが鳴った。
「お父さんや。あんな悪いけど約束した時間に遅れそうや」
「またスッポカスのと違うやろな。あんまり遅くなるんやったら来んでもええわ!」
「怒るな、どんなことがあっても行く」
「先生にそのように伝えとく」
午後一時きっかり、二年一組では高志の懇談が始まった。
「京大の法科は大丈夫ですね?」
父親の高雄さんが毎日進学塾に通っていることや東京の進学塾の通信教育を受けていることを取り上げて確認した。
「はっきり申し上げて、合格するのは至難です。全科目において成績が低迷しています。志望校のレベルを落とすか、京大以外に滑り止めにもう一校選んでおいた方がよいと思います」
「なんと⋯⋯」
高雄さんの顔面から血の気が引いた。思い上がりもいい加減にしてほしいと言わんばかりの「はっきり申し上げて⋯⋯」であった。
俯いて頭を垂れている息子の高志に向き直った。
「お父さんはお前を信じて要求する通り援助してきた。無理だとなぜ言わなかったのだ」
進路指導の教師が慌てて仲立ちした。
「お父さん! 息子さんは一生懸命勉強なさっています。それこそ血の滲むような勉強漬けの毎日を送っておられます。学年で抜群の高成績です。それでも国立の難関校は合格できない状況なのです。ですから京大を受験されて、もう一校予備を考えておかれてはどうですかと申し上げているのです。予備を作っておくと心の重荷が軽くなります」
「他の大学に行かせることは毛頭考えておりません」
高雄さんはきっぱり断言した。
再び教師が両者の顔色窺いながら仲立ちした。
「高志君の意見を聞かせてください」
「はい。勉強、勉強、の毎日を過ごしていますので苦しくて息が詰まります。もう限界です」
高雄さんの顔色が興奮して真っ赤に変わった。
「お前はなんてことを言うのだ。これほど恵まれた環境下で勉強しているのに、苦しいとは、よくも言えたもんだ」
高志はキッと表情を引き締めて父親を見返した。
「お父さん、この際我が儘を言わせてください。僕を信じて静かに見守っていてほしい。もう毎日進学塾に通うのをやめる。週に一度だけ塾に通っていた時の方が成績は良かった。原点に戻って自分の勉強方法で立ち向かう。まだ一年ある」
仲立ちしていた教師が「うん」と大きく頷いた。
「高志君、自分の意見をはっきり言ったな。人、それぞれに勉強の仕方がある。クラスの服部君に振り回されてたんや。彼は大手の進学塾に通うことで、成績が向上したので自分もそれに倣って、と勉強法を変えてみたけど高志君には合わなかったんや。自己を信じて自分流にやったら成績は向上する。道草を食ったと思えばよい。如何ですお父さん」
「⋯⋯」
しばし沈黙ののちに、興奮して赤くなっていた高雄さんの顔色が平常に戻った。
「思い入れが強すぎたのかもしれません。私が一生懸命になってしまい、本人をそっちのけにして京大受験にのめり込んでいました」
教師がホッとして強く握っていた拳を緩めた。
「今日は腹を割ってお話ができました。京大目指して頑張る環境が整いました。よかったです。確かにあと一年あります」
二人が思いをぶっつけ合った懇談会が終わった。
少し遅れて二年三組の懇談会が始まった。佳世は母の道代さんと初めて二人で挑んだ。
「本人が希望している大学に入れそうですか?」
母の道世さんが日頃娘を放ったらかしにしているので、模試等の成績を参考にした話をすることができず、単刀直入に佳世が希望している進学先の名を上げて叶うかどうかを確認した。
「一年生時は家事に追われて勉強どころではなかったように聞いていました。二年生になられて、お父さんや妹さんの協力が得られるようになり、受験勉強に精を出す環境が整った、とご本人から報告を受けています。以降めきめきと成績が良くなり希望されている大学はほぼ合格できると思います。ただし佳世さんは落ち着きがないわけではないのですが、物事を楽観的にみる傾向が強いですので油断しないように戒めて勉強に励んでください」
「ホッとしました。仕事をしていますので十分に構ってやることができず気掛かりでした。父親も来る予定でしたが仕事の手が空かないようですので遅れてまいります。二度手間になりますがその節はよろしくお願いします」
「ご主人のご意見もあろうかと思いますので、お話させていただきます。次の方が控えておられますので、一旦これで終了とさせていただきます。お母さんの承諾が得られましたので、学校として準備に入ります。後はご本人の努力次第です。佳世さんから何か言っておきたいことありますか。学校に対する意見があれば言ってください」
「進学先のレベルを落としました。楽勝と思うけど、まだ決定したわけではありません。成績が向上すれば国公立大に変更するかもしれません」
「いいですけど、そういう考え方をするところに落とし穴がありそうです。油断大敵です」
「へい」
「これっ! 先生に何という返事をするの」道世さんがぴしっと佳世の腕を叩いた。
「痛て、ててて」
佳世は母に甘えた。嬉しかったのだ。こういう母娘関係を切望していたのだ。
高雄さんと高志は先に懇談会が終わったので、学校のガレージで道世さんと佳世の懇談会が終わるのを待っていた。自宅まで送り届けるつもりしていた。
二人が姿を現したところで高雄さんは助手席と後部座席のドアを開けて「帰る方向が一緒ですのでどうぞ乗って行ってください」、と進めた。佳世と道代さんは快く応じて乗り込んだ。
高雄さんが運転する乗用車が住宅街を抜けて府道に出るT字路で逆に学校に向かうため進入してきた純雄さんの軽自動車とぱったり鉢合わせした。スピードを緩めているので、助手席にゆったり座っている妻や後部座席でくつろいでいる娘を確認できた。どう見ても仲の良い一家のお出かけの雰囲気だった。
高雄さんはニコッと微笑んでお先に、と軽く片手を挙げて会釈したが純雄さんは目を逸らして無視した。
懇談会に、遅れてきた父兄のために、職員室の応接間で個別対応できるようになっていた。純雄さんは持ち前のいかつい鬼のような顔でずかずか突き進んでいった。着席するなり佳世の担任に怒気を帯びたすごい剣幕で迫った。懇談するという態度ではなく、俺の意見を聞いてその通りにしろ、と血相変え迫った。
「家内とは居を別にしていますので娘の進学問題を夫婦で話す機会がありませんでした。妻は家族を放ったらかしにして商売にうつつ抜かしています。佳世や下の娘を幼いころから世話してきたのは私です。そういう家庭環境を察してください。佳世には二年生になるまで買い物や食事の用意や掃除洗濯など家事一切を任せておりました。もう少し早く気づいて手を打ってやるべきでした。私の怠慢です。佳世から勉強が遅れていると聞いて、そこで遅れをどのようにして取り戻したらよいのか、考えました。いっそのこと東京の進学塾近辺に下宿して毎日通うようにすれば遅れている勉強が捗ると思うんです。この学校をしばらく休学することはできないのでしょうか」
突然の途方もない相談に担任は目を白黒させた。
「そんなことする必要ありません。学校の勉強を疎かにしてはなりません。佳世さんから将来について相談を受けております。大きな夢を持っておられます。夢を現実にする大学を選んでおられます。よほどのことがない限り入学は可能と判断しています。奥さんはそれを確認して援護しておられました。お二人の御意見をよく聞いてあげてください」
純雄さんは虚仮にされた気がした。担任は母子の意見を聞いてあげてくださいと言った。父親の意見は聞かないのか、どうでもよいのか、憤り戦慄いた。鬼瓦の顔を赤鬼瓦に滾らせて立ち上がり、中腰になって雷を落とした。
「父親の意見を取り上げないのか! 理由を聞かせろ!」
応接間を突き抜けた怒声で職員室に戦慄が走った。担任教師は驚いて後退りした。間を取って相手が冷静になるのを待った。
「在籍している学校を無視した御意見です。塾は勉強本位です。大学に提出するもろもろの書類の作成は在籍している学校が行うのです。佳世さんは希望されている大学にほぼ入れます。静かに見守ってあげたらよいのではないですか。万が一不合格になれば本校を卒業して浪人になります。そうすればどこか知りませんけど塾生となってそちらに行かれたら良いと思います。それでも進学先への書類提出は出身校が行うのです。本校を疎かにしないでいただきたい。もう一度佳世さんや奥さんと話し合われたらどうです。考えがあまりにも飛躍しすぎて現実的ではありません」
純雄さんは腰を下ろし溜息ついた。虚脱状態に陥ってしばし休息した後に無言でよたよたと席を立った。
気を持ち直し妻と話し合おうとして急いで自宅に帰った。相手は別なところに帰って居なかった。
*
懇談会の翌々日になる。
下校後、佳世は夕食の下拵えを済まして高志の家に行くため玄関の框に座って靴の紐を結んでいた。そのときお父ん帰ってきた。
「何処へ行くね」と、頭の上から訊ねた。
「高志君が模試の問題集を手に入れたので見せてもらいに行く」
「あの家に出入りするな」
「えっ? なんで」
「俺の娘を、我が娘のように呼びつけやがって」
「呼びつけられたんと違う。私から自主的に伺うんや」
佳世は首を傾げて不機嫌なお父んの横をすり抜け小走りで向かった。
栗原家に到着して上がり込み高志にお礼を言った。
「この間の懇談会の後、家まで送ってもらってありがとう。お父さんにあんじょうお礼言うといて」
「余計なことしたかもしれんな。お父さんは近所の人を乗せて帰るのは当たり前と思ってあんなことしたけど、佳代のお父さんが来るのは分かっていたんや。それではお先に、と言って帰るのが常識人のすることや。お人好しなので軽はずみなことしているのに気づいてへんね。後で聞いた話やけど、宇治神社で合格祈願の護摩木を納めに行って佳世のお母さんと偶然会ったようや。成り行きで二人で蕎麦食って一緒に懇談会に来たらしい。人の奥さんを誘うのはやめた方がよい。佳世のお父さんが見ていたら面白うないわ。ちょっと行き過ぎたことしてしまった。お礼なんて言わんでもよい」
「へー そんなことあったんか。お父んは捻くれもんやから、二人が一緒にいるところを見たら、やきもち焼くやろな」
高志は当日の模様を語ってから模試の問題集を見せた。
「一通り目を通したけど心配しなくてもよいわ」
「えらい自信持ってるな」
「僕らは学習指導要領に従って教科を学んでいるので各校でレベルの違いはあるけど勉強をきっちりこなしていたら心配することはない」
高志は問題集をポイッと卓上に投げ捨て、「持って帰ってもよいで」と言った。
その言いぐさが確信に満ちていたので、服部君に惑わされていた一連の迷いから覚めて自信を取り戻したと判断した。
「確かに、狼狽えんことやな。一年後に迫ってきた段階でじたばたしてもどうにもならんわ」
二人は結局模試の問題集を広げて解くことはしなかった。その代わり将来を論じた。
「高志、話変わるけどな、国際子ども平和賞、て知ってるか。子供の権利を主張して闘争している人に毎年授与されている。オランダのアムステルダムに本部あるね。子供の権利、てなんやろと考えて私自信を振り返ってみた。小中学生のときはぶつくさ文句言いながら家事を適当にこなして、暇なときは漫画読むかアニメを観て過ごしていた。世界中にその日の食べ物がない子がいるんや、街頭で靴磨きや物貰いしている子がいるんや。衰弱して路上に横たわって死を待っている子がいるんや。知っていたけど、どうしたらそういう子を救えるのか、と考えて行動を起こそうとはしなかった。日本の政治家や企業家は自分らの都合の良い社会構造を作って若者を都合の良いように飼いならし無気力な若者に仕立て上げた。体制に馴染めへん者や、はみ出した者は改造車でドリフト走行するか、バイクで道路を暴走するか、家庭に閉じこもって不登校になるか、それぐらいの抵抗しかできなくなってしまった。若者のエネルギーを引き出し、導くリーダーがいないからこんなことになってしまったんや。日本だけやで、政治活動しない若者なんて。かつての全共闘は一部の民衆にしか支持されなかったので、政治家が警察権力を使って潰した。社会活動を通して政治家を動かしたら民衆も支持してくれる。誰かを待っていては駄目なんや。自ら行動を起こさんとあかん。私はなんとなく生きてきた。ボケーと生きてきた。遅まきながらそのことに気づいたのはまだまっしかもしれん。高志! 自分を変革せえへんか、私はやってみる。ボランティア活動始めるわ。大学に入ってからの話になるけどな。今は受験勉強に集中する。それも塾より学校の授業を重きに置く。もう始業時間ギリギリに駆け込むとか、午後一の授業に居眠るとか、せえへん。塾に通わないと進学できひんような教育制度はおかしい。塾の業者にまんまと嵌められているんや。学校の授業に集中してどこまでやれるか試してみる。もう塾業者の金蔓にはならへんで」
「佳世! 突拍子もないことを言いだしたな。その国際子ども賞とかに影響されて、ふらふらしたらあかんで。現実と理想をブーメランのように行ったり来たりしてたら、気が付いてみればおんなじところに居たことになるわ」
「私な、自分の進む道がみえてきたんや。私に同調して一緒に進む気ないか?」
「僕が進む道は外交官と決まっている。国連職員でもなく社会活動家でもない」
「そうか、私を突き放すつもりやなあ。一度宣言したことは実行するで、放言で終わらせへんで」
「進む道を巡って意見が割れたな、これも成長していくうえでのプロセスや、将来、どういう風に結実するか楽しみや。コーヒー淹れるから飲んでいけよ」
「頂くわ。高志に打ち明けたので心がすっきりした。きっと今日のコーヒーおいしいわ」
家に帰ってきたら紗世が話しかけてきた。
「遅かったなあ。楽しんでいたんか。お腹空いた」
「楽しんでたんか、とはどういう意味や。下拵えが済んでいるので自分で料理作ったらよいね。甘ったれたらあかんで」
「あんなあ、お父さんが変なことを言うた。お姉ちゃんはもうすぐ高志の嫁になりよる。お母さんも高志の父親の高雄さんの嫁になりよる。そうしたら紗世は如何する。ついて行くか。て真剣に訊いた。紗世はこの家を出ていかへん、お父さんと一緒に住む。て答えた。そうしたら強く抱きしめられた。目が潤んでいた」
「お父んは時々変なことを言いよる。高志と結婚する予定なんかない。お母んの話など荒唐無稽の作り話や。けどなそんな話をしたい心境に、お姉ちゃんもお母んも追い込んだんかもしれん。反省するわ」
「うん、わかった。仲良くやっていこうな」
紗世はニッと顔面の筋肉を緩めた。そして背中に隠していた回覧版を、「はい」と言って見せた。「仲良くやっていこうな」はこれを見せるための前触れだった。
佳世は一見して憂鬱になった。
〈東部公園の清掃について。最近とみにゴミが散らかり苦情が出ています。市に連絡はしているのですが手が回らないようです。そこで町内として清掃ボランティア活動を行いたいと思います。いろいろなご意見があろうと思いますので一度お集まりください。〉
となっていた。ゴミを散らかしているうちの一人はお父んである。困ったことになった。対応を誤れば、「仲良くやっていこうな」とはならなくなる。
夕食後黙って回覧板をお父んに見せた。固唾をのんで佳世と紗世が挙動を窺っている中、一読したお父んは顔を歪め食卓に放り投げて二階の自室に閉じこもった。姉妹二人はその後姿をじっと見つめていた。
*
十月も中旬になると京都市内の紅葉が話題に上るようになった。色づき始めてはいるが見頃はまだ先だ。
佳世は今日もビニール袋に火挟を忍ばせてお父んが居る東部公園の外周路を訪れた。ごみのポイ捨ては相変わらずで、今日は特に散らかっていた。火挟みで拾い上げてビニール袋に収納してからバックミラーをトントンと叩いて助手席に乗り込んだ。
「お父ん! ええ加減にしてくれへん。回覧版見たやろ」
「あいつがなんで清掃ボランティア活動を思い付きよったか知ってるか
「ごみが散乱して汚い、苦情が出ている、て、書いてあったやろ」
「煙草の吸殻や菓子袋のポイ捨ては以前からあった。中学生の悪ガキが集って騒いどる。あいつらの所為や。お父さんもポイ捨てしてるけどしれたる」
「しれてても、やったらあかんことや」
「止められへん。掃除は清掃局のやつらに任したらよい。そのために税金払っている。町内でボランテア募って清掃することはない」
「公衆道徳の観念が全くないな」
「どこかで何かスカッとすることして憂さはらんと気が狂う」
「聞いてあきれるわ。まるで幼児の駄々っ子や」
「そんな風にしよったやつに文句言うたらよい」
「お母んを指しているのか」
「言わぬが花や」
「時代小説ばっかり読んでるので言い方が浮いてるわ」
「佳世もあいつとこへ嫁に行くんやろ」
「変なこと言うなあ。高志君とは仲が良いだけや。結婚なんて考えたことない」
「その内うち分かることやけど、あいつは佳世を高志と結婚させて己は道世と結婚する段取りしとるんや。そのためにはなんか手を打ってきよると思ってた。まさか町内を巻き込んでくるとは思わんかった。道世を清掃活動におびき出して世間話をしている中で食事に誘って、深みにはみこもうとしとるんや。この問題はお父さんが解決せんとあかんね。妻を盗られたら男の名折れになる。あいつに毅然とした態度示したる」
佳世は奇想天外な嫉妬に呆れて気持ちの収まりが付かなくなり、助手席から飛び出しドアを思い切り閉めた。バタンと空気を裂く悲鳴が親子の関係を断つように響いた。
公園のベンチに腰掛け天を仰いた。このままでは放っとけへん。お母んをケータイで呼び出した。
「お父んが死んだ」
「えっ!」
「嘘や。そう言わんと切ってしまうから嘘ついた。お父んが高志君のお父さんとお母んの仲を疑って逆上しとる。懇親会に行く前に二人きりで蕎麦食べに行ったと高志君から聞いた。なんでか知らんけどお父んはそのことを知っとるようや。それから帰りに家まで送ってもらったやろ、ひねくれもんやから、そういうことが重なったので、変な風に想像して手に負えん。お母んが帰ってきて宥めんとどうにもならへん」
「脅かさんといてや。あの人はあらぬことをひとり合点して嫉妬することがある。お父さんがいる前では男性美容師と話ししないように気を付けてた。高志君のお父さんとは近所の付き合い、という関係でそれ以上のことは絶対にない。あの人の嫉妬は子供と一緒で一時で終わる。事実ではないから、日が経ったら収まって何事もなかったようになる」
「普段の様子とかなり違うで。大事になっても知らんで」
「佳世が段取りつけて、高志君のお父さんと腹割って話し合う機会を設けたらよいね。私が仲持ったら余計捻じれてしまう」
「お父んはその問題について毅然とした態度示したる、というとったから、刃傷沙汰になるかもしれんで」
「心配せんとき、刃物振るう度胸なんてない。ええ歳して困った人や」
「何回も言うけど今回は普段と違うで。これまでお父んを放ったらかしてた待遇面の鬱憤も含んでるので暴走すると思うわ」
「暴走したところで知れたるがな。精々部屋にある調度品を蹴って壊す程度で収まる。心配せんと受験勉強に励んどり」
佳世は夫婦の心情の隔たりを埋めることはできなかった。
*
日曜日のよる。町内会の寄合が高志の家で夜の八時から始まった。
会長の栗原高雄さんが、挨拶した。
「全員揃いましたので始めましょうか?」
寄合に木村家の代表として佳代が出席している、昨夕、お父んと、どちらが出席するかについて話し合った末決めた。今回はポイ捨てしているお父んの問題をどのように解決すべきか話し合うようなものだ。当人が行きたがらないのは当然である。しかし出席して面と向かい話し合う唯一の機会でもある。佳世は執拗に出席するよう説得した。
「会って心の内を確認したらすっきりするわ。男やろ」
「あいつの顔見たらむかむかして反吐が出る。糺してみてもシラ切りよるに決まってる」
「それならお母んを呼び出して話し合ったらよいね。夫婦やろ」
「あいつの方から詫びてくるのが当たり前や」
「不倫している、と決めつけているような言い方するな。お母んはそんな事せえへん、精白な人や」
「何が精白や。佳世が知らんだけや」
「自分の嫁さんを全く信じてへんな。分かった。私が寄り合いに行くわ」
親子でそんな言い争いがあって佳世が出席することになった。
町内の寄合に出るのは嫌いではなかった。幼い頃、遊んでもらっていたので、高校生になってもその当時の気分が抜けていなかった。しかし今日は憂鬱だった。つるし上げに会う危険性があった。
美鈴さんが手馴れてないので手をブルブル震わせながら急須でお茶を淹れた。茶菓子も進めた。
「おいしそうなお饅頭どすな、高かったですやろ。話に入る前に先に頂きましょか」
「お茶が冷めんうちに頂いた方がよろしいな。それでは」
ムシャムシャお饅頭を食べ、お茶を啜る音がした。
「佳世ちゃんは食べたらあかんで今以上に太ったら高志君に見捨てられるからな」
「そんなにがつがつ食べんでも盗らへんわ」
「いや、わからん、佳世ちゃんならやりかねないわ」
高雄さんが回覧板を振りかざして余談を制止した。
「予めお知らせておいた、公園の清掃を町内で行う件についてですが、まず賛同する、しない、のご意見を窺いたいのですが」
誰も口を開けず静まり返った。様子見していた一人、梅田のおばちゃんが「今の現状では放っておけまへんな」と答えたので全員頷いた。
高雄さんは同意を得たとして笑み浮かべ次に進んだ。
「あくまでボランティア活動として行うのですから強制はしません。今回は都合悪いけど次回は出ますとか、月に一度ぐらいは何とか都合つけます、でもよいと思います。問題は活動を始める日と時間です。毎日行うのか隔日に行うのか、それとも週一にするのか。また、昼間にするのか早朝か夕方にするのか、ここのところを話し合いたいのです。木村さん宅のようにご夫婦とも働いておられるご家庭もありますのでね」
いろいろと意見が出た。実施について反対する者はいなかったが、日と時間についてはそれぞれの家の都合があるので、容易に決まらなかった。
話し合いの結果、二班に分けることになった。一班は引退したお年寄り家庭を中心にした早朝班。二班は現役世代を中心にした土日曜の夕方班になった。用事あれば出てこなくてもよいし連絡もしなくてよい。定められた時間に自主的に東部公園の芝生広場のあずまやに集まる、と決まった。
佳世は困った。早朝班か夕方班か、どちらかに決めなければならない。
躊躇していた時、声が掛った。
「佳世ちゃん、あんた偉いなあ。時折公園の掃除しているようやな。見かけた人が感心してた」
「えへへへ」
笑ってごまかしたがギクッと唾のみ込んだ。きっちり見られていたのだ。この時あっさり、お父んが散らかしていますので、と白状すればよかったのだが、喉元迄出ていた言葉を飲み込んだ。
「あんたとこは、お母さんもお父さんも働いたはるので、佳代ちゃんの時間の都合がついたときでよいのと違う」
「そのようにしてもらったらありがたいです」と誘導に乗ってしまった。
高雄さんが、うん、と頷いた。
早朝班にお父んが見つかることはまず考えられない。まだ寝ている時間になる。問題は夕方班である。見つかることは明らかだ。その時どの様に弁明したらよいのか、頭を悩ましながら寄合の席を後にした。
*
公園清掃のボランティア活動が始まった。今日は日曜日なので二班担当で夕方に始まる。
なるようになるか、と佳世は一旦開き直った。しかしお父んと衝突するのは明白なので気になって仕方ない。高雄さんらが活動始める時刻は一刻また一刻と迫り、居てもたってもいられなくなった。追い込まれるとアイデアが浮かんでくる。見つけられないうちにお父んを帰宅させようと一策を編み出した。
ケータイで呼び出した。
「お母ちゃんが緊急の用事ができたので帰ってきてほしいて」
「俺に用事なんてあるはずない。あるとすれば此処にハンコ捺してくれと離婚承諾を迫る時や」
お父んはプチッとケータイを切った。嫉妬は相当根深かった。もう、なるようになるしかなくなった。
午後五時半に公園のあずまやに町内のボランティア有志八人が集合した。早朝班はすでに今週の月曜日から始めているので、想像していたほど散らかってはいなかった。しかし犬を散歩させている人もいるし野良猫や土鳩に餌をやりに来る人もいる。後始末が不十分でうんこが転がっているし餌袋がポイ捨てしてある。煙草の吸殻も落ちている。
有志八人は二人一組になって四組に分かれた。マスクを掛け、軍手をはめ、火挟とビニール袋を持って所定の場所に移動した。
栗原高雄さんは外周路付近担当になった。もう一人と道路の溝に沿ってゴミを拾い始めた。この時間帯になるとジョギングしている人、ウオーキングしている人、犬を散歩させている人、が多くなる。大概は顔見知りである。「ご苦労さんです、ありがとう」「お気をつけて」と挨拶交わしながら軽自動車が止まっているところまできた。そのとき、待っていましたと言わんばかりに運転席側の窓がするすると開いた。鼻汁をかんでクシャクシャに畳んだティシュ、お菓子の空袋、がポイポイと捨てられた。どう見ても、嫌がらせしているようなやり方だ。
栗原高雄さんはサイドミラーに映った木村純雄さんの顔がニヤニヤしているのを見た。
無言でつかつかと近づき捨てられたゴミを火挟で拾い上げた。ビニール袋に回収するとき手が小刻みに震えた。
「木村さんと違いますの?」
同行者が素っ頓狂な声を上げた。
「こんなところに車止めて何したはるんや」
怪訝な顔つきで近づいていったとき、またポイっとごみが捨てられた。今度は飲み干したお茶のボトルだった。
栗原高雄さんが黙って近づきビニール袋に収納した。そしてまだあるのなら此処に捨てなさい、と言わんばかりに袋の口を広げて迫った。
純雄さんの眼と合う。睨み合う。火花が飛ぶ。
運転席のドアが壊れんばかりにドヒャーと開いた。
「馬鹿野郎! ええ恰好しゃがって! ゴミがそんなに欲しけれゃ、くれてやるわ!」
助手席に敷いていた布団やタオル、それに図書館のマークが印してある単行本を地面に叩きつけるように放り投げた。
ゴミ拾いしていた二人はゴミ袋と火挟を持ったままあっけにとられ立ち竦んだ。
一瞬の間があって姿勢を持ち直した栗原高雄さんは顔面蒼白になり怒りで体をわなわな振るわせ注意した。
「ごみを捨てないでください、公園の利用者が気分良く利用できるように協力願います。この本は図書館に返しておきます」
「ふざけるな! 面の皮剥がせ! 人の嫁さんに手を出しやがって!」
「なんと⋯⋯」
言い掛かりにも程がある。つかみかかろうとして踏み出したとき同行者が腕を強く引っ張って、そのまま引きずって後方に下がらせた。
栗原高雄さんはベンチに座って顔を真っ赤に滾らせ憤りに堪えていた。しかし昂る気持ちを抑制することができなかった。再び立ち向かおうとして同行者に後ろから羽交い絞めにされた。振りほどこうとしてもがき喚いた。
「放してくれ! 話をつけさしてくれ! 人の嫁さんに手を出したと言われて黙って引き下がれるか!」
阻止しようとする同行者は力を抜かなかった。力尽きて泣きながら思いとどまった。
*
公園で両者が渡り合った翌日になる。
授業を終えて下校時間になった。自転車を押しながら仲良しカップルが心の根を絡ませた。
高志が前から後ろの佳世に語り掛けた。
「昨日、お父さんの様子がいつもとちがったんや、休日だったので午後に近所のスーパーへ冬物の衣料品を買いに行ったんや。その時は機嫌よかったんや。帰ってきてごみ拾いに行ってくるわ、といって公園へ出掛けたんや。出掛ける時も機嫌よかった。一時間ほどで帰ってきたんやけど、顔面蒼白で体をブルブル震わせてんね。興奮した時に出る症状や、きつかったのでびっくりして、しばらく休息したら、と言ってみたんや。けど、耳に入らなかったのか黙って手も洗わんと夕食の用意を始めたんや。途中で気づいて洗面所で洗ってきたけどな。それからも、むつっとして一言も喋らへんね。通常通り夕食拵えて家族に食べさしてくれたんやけど、おいしいかとか、味はこれでよかったか、とかいつもなら話しかけるのに青い顔して黙々とお箸を動かしてるね。放っとけへんので妹の志乃と目配せしてお箸を置て語り掛けようとしたんやけど、表情があまりにも険しくて声かけられなかった。家族みんな沈黙の中で夕食終えた」
佳世もその話に乗っていった。
「うちのお父んも帰宅した時様子がおかしかった。何か考え事しているらしく冴えない顔しているので、どうしたん? 体調悪いんか? て尋ねても口噤んでだんまり決め込みよった。何度も、呼びかけたんやけど、そのうち怒りだして『構うな、放っとけ』と腕を組み天井見あげとった。凄まじい形相やった」
佳世も高志もそれぞれの父親の身に何かあった、と気づいたが関連付けはできなかった。
「親はやりにくい、子供の前でストレートに心を表さへん。迷惑かけんとこと思って配慮してくれてるのかもしれんけど、それは逆効果や。親の体面を繕うために最後はだんまり決め込む」
「うちのお父んな。段々扱いにくくなってきた。お母んとの間でいろいろと問題はあるんやけど、自分を閉ざしてしまったら解決せえへん」
二人はそれぞれの父親を愚痴りイライラしていた。
「バイバイ」
「それじゃな、バイバイ」
佳世は家に帰っていつものように夕食の下拵えをした。お父んの動静が気になっていつもの演歌はなかった。
様子を窺っていた紗世が、
「高志さんと喧嘩したんか」とニヤリと頬を歪め突っ込んできた。
「うるさいな! ちびは黙っとり」
「おー怖わ。なー、いつになったら料理教えてくれるねんな」
「覚えたかったら、側に来て見てたらええね」
「機嫌悪いし、今度にする」
佳世は黙々と下拵えを終えて、ビニール袋に火挟を忍ばせ公園に向かった。
あれっ、お父んの自動車、助手席側のガラスに蜘蛛の巣が張ったような罅が入っている。
「どないしたん、事故たんか?」
「石が飛んできた」
「動くんやろ? 今から修理工場に持って行き」
「あいつと交渉して修理代出させる」
「石投げたやつは分かっているんか、誰や」
お父んは一呼吸おいてから、「通りすがりに石投げよったので顔は見てへん、また来ょるやろ」と答えた。明らかに相手を隠している。
佳世は石を投げた相手がなんとなく読めた。ごみのボランティア活動している人と揉めたのに違いない。探ろうとして助手席に乗り込んだ。
フロントガラス越しに、西山連峰に沈まんとする太陽が雲をオレンジ色、燃えるような赤色、神秘的な紫色、に染めていた。
「夕日綺麗や」
お父んが心持身体を佳世に寄せて前方を指さした。タバコの臭いがした。
「ピョコンと突き出ている山あるやろ。あれが愛宕山や。あの麓の出雲という在所でお父さんは生まれたんや。お祖父さんやお祖母さんが元気なころは、何度も連れて行ったから覚えているやろ」
「覚えてる、お祖父ちゃんがお父んを、〈スミ、スミ〉と、呼んでいたので真似して怒られた。お祖母ちゃんの膝の上に座ってご飯食べたことも覚えている」
「春になったらあの山に赤紫のきれいな花が咲くんや、九輪草と言うてな。一度も見たことないやろ。群生しているからきれいやで、来年連れて行ったるわ」
「楽しみにしとくわ、お母んも紗世も連れていかなあかんで」
「ああ、みんなを連れて行ったる」
今日のお父んは母を持ち出しても感情的にならず冷静だった。
「四人で家族旅行したことないな、冬休みに温泉に行こうや」
「温泉か、ええなあ。頭に手ぬぐい乗せてつかってみたいなあー 海に沈む夕日が見えるところやったら尚更ええなー」
「うちなぁ、温泉に行ったことないね。お母んと紗世と一緒に湯につかってみたい」
「お母さんは忙しいのでなあ。実現するかどうか」
「お父んが温泉に行こう、と決めたらええね」
「お母さんを甘く見たらあかんで。先にお伺い立ててからでないと実現せえへん。結婚して二十年ほどなるけど、勝手に動いたばっかりに身の毛がよだつほど凄い気迫で怒鳴りつけられたことがあった。夫であっても出し抜いたことをしたら容赦せえへん。自分が立てた方針をブルトーザーのように推し進めていく人や。その馬力で浮き沈みの激しい美容室を六店舗経営してきた。そのためには夫や子供を犠牲にするぐらい何とも思っとらへん。佳世をごまかして一蹴するぐらい朝飯前や」
「私にそんなことせえへん」
「今にわかるわ。母子の間でも秘密にせんならんことはあるんや」
「あるかもしれんけど、私はお母んを信じている」
フロントガラスの枠内から見る夕景は刻々色が変化するのでアニメの映像を見ているように美しかった。父と娘は無心になって見とれていた。
佳世はお父んが落ち着いていて冷静だったので石を投げた相手を特定する話しに持ち込めなかった。何となくもう済んだ気がしたのだ。ゴミで膨らんだビニール袋を前篭に乗せて、夜陰に溶け込むように自転車を漕いで帰った。
誰しも後年になってあの時に手を打っておけばよかった、と後悔するときがある。今日がそのときだった。
お父んがなかなか帰ってこない。いくら待っていても帰ってこない。フロントガラスが破損していたので、修理工場に持って行ったのだと想っていたがそれにしても遅い。胸騒ぎがする。佳世、佳世、と呼んでいる声が聞こえる。公園へ様子を見に行こうとしたが足がすくんで動かなかった。「あー疲れた。腹減った」の声を聴くまで夕食を温めて待っていた。
あんなことの実際
翌朝、澄んだ秋の空が広がり五雲峰の山嶺が鮮やかな姿を見せていた。春の若葉の頃は躍動する生命力を感じさせるが秋の風景は逆に万物の終焉を知らせるように沁みる。
高志は報道機関のヘリコプターが低く旋回しているのを見た。カタカタとプロペラの回転音を聞きながら自転車のペダルを漕いでいた。深く考えることもなく学校に着いて午前中の授業を終えた。
昼休みになって食堂に行ったとき佳世の姿がなかった。キョロキョロ辺りを見回していたら顔見知りの女子が近づいてきた。
「彼女、休んだはるで」と、知らせてくれた。
「えっ、珍しいな。風邪引いたわけでもないと思うけど、どうしたんやろ」
「ごまかしてもあかん、佳世は産婦人科医院に行ったんと違う?」
「変なこと想像するなよ!」
「それではなんで休んでるの。高志が知らんはずない。お腹大きかったしな」
ぎょろっと下から目を剥いて探った。
「学級担任が何も知らせなかったのか?」
「木村佳世さんは本日は休みです、と言っただけや。突然だったのでクラスがざわついてた」
高志は気になってケータイを取り出した。
〈⋯⋯お呼び出しいたしましたがお出になりません〉の音声が流れるだけだった。
佳代の身に何か予期できない問題が起こったのだ。心臓が呼応してドクドク、ドクドク高鳴った。
上の空で七時限目の授業を終えた。
自転車に跨り、走行禁止になっている校内の急坂を一気に下って佳世の家に向け住宅街の抜け道を疾走した。
東部公園の外周路迄帰ってきたときパトカーが停まっていて規制線が張られ先に進めなくなっていた。
此処で何か事件が発生したのだ。佳世は学校を休んでいる。事件に巻き込まれたのに違いない。心臓の鼓動が一層高くなり無我夢中で自転車を漕いで佳世の家を訪れた。
家の佇まいが森閑としていて三階の高窓に嵌め込んであるステンドグラスも陰っていた。家人が生活している気配は全くなかった。玄関チャイムを鳴らした。応答はなかった。
ケータイで呼びだしてみた。
〈⋯⋯お呼び出しいたしましたがお出になりません〉
何度掛け直しても同じ文言が流れてきた。
仕方なく、とぼとぼと自転車を押して家に帰った。
妹の志乃がテレビを見ていた。
「お兄ちゃん! 大変や。佳世さんのお父さんが殺された」
仰天してごくッと唾を飲み込んだ。
テレビニュースは東部公園で殺人事件があったことを報道していた。ヘリコプターから映し出された映像は見慣れた公園の外周路に張りめぐされたブルーシートを旋回しながら何度もアップしていた。
唇を小刻みに震わせ食い入るように画面を見た。テロップが流れて被害者は近所に住む木村純雄さんと出た。青天の霹靂、驚愕して呼吸困難になり息が詰まった。どうしたらよいのかわからずヘナヘナとその場に固まった。
しばらくして夕刊をポストに投函する音がした。
志乃が取ってきた新聞をひったくった。顔写真が出ていた。紛れもなく佳世のお父さんだった。軽自動車の外で腹部を刺され血まみれになって死んでいた。運転席側のドアが開いていたので引きずり出され殺害された模様。遺体の状況から推定して犯行は昨日の夕刻から夜にかけて、自動車の助手席側の窓が蜘蛛の巣状に損壊していたので何かトラブルがあったようだ、犯人はまだ見つかっていない。と記していた。
外出していた母の美鈴さんが帰ってきた。妹の志乃が新聞を広げてみせた。
「町内でこんな大事件が起こるなんて、静かなところやったのに物騒になったなあ、気の毒に⋯⋯⋯木村さん」
案外冷静で取り乱した振る舞いはなかった。しかし顔は青ざめていた。
時間が経って父の高雄さんが帰ってきた。いつものようにガレージで洗車し洗面室で顔を洗い歯を磨き、居間に入ってきた。違ったのはいきなり夕刊を広げて食い入るように目を通したことだ。これまでは夕食を終えて一家団欒の場に移ってから新聞を広げていた。
「木村さんが殺されたんか。えらいことになったなー」
新聞を読む手が震えていた。気を奮い立たせるように顔面を両手でピタピタと叩いて勢いをつけ「今日は御馳走作るわ」と台所に立った。
そんな夫の姿を妻の美鈴さんはシラーとした眼差しで見詰めていた。
高雄さんは前掛けをして夕食の用意を始めた。冷蔵庫のドアをバタンバタン開け閉めし、水道の蛇口から水がほとばしり、包丁がトントントンとリズミカルな音を立てた。
「あっ、指切った。高志、バンドエイド持ってきてくれ」
滅多にないことだ、手元が狂うなんて、と思いながら高志は薬箱を開け父の左の人差し指にテープを巻いた。傷が深くて滲んでくるので三枚重ねて巻きつけた。
父は食後の一家の団欒を早々に切り上げて二階の自室に引き上げた。美鈴さんはその姿をじっと見送っていた。高志は包丁で切った指が痛いんかもしれないな、と思おうと努めた。が、打ち消すようにお父さんが事件にかかわったと察した。動揺しながら自室の六畳間に入ってベッドに寝ころび、もう一度佳世をケータイで呼び出した。佳世が死んだのではないことは判明したが、父を失ったのだ、どうしているのか、とにかく会って励ましてやりたかった。しかし躊躇もした。殺害事件に父がかかわった気がしてならないのだ。
〈⋯⋯お呼び出しいたしましたがお出になりません〉
繰り返すだけだった。ケータイを握りしめて空中を遊泳するようにふらふらと道路を泳いだ。佳世の家は先ほど訪れたのと同じく静まりかえっていた。どの部屋にも明かりが灯っていなくて人の気配はなかった。廃墟同然となって闇に忽然と佇んでいた。念のためにチャイム押したが反応はなかった。「佳世! 佳世!」と呼び掛けた、勿論返事はなかった。
*
事件のあった二日後の朝。風雲急を告げるように、輪郭をほぐした白い雲が青空を駆けていた。
この日も佳世は学校を休んでいた。高志は一人で下校し直接佳世の家を訪れた。やはり人の気配はなく、ひっそりしていた。チャイムを一度だけ押して帰った。
一筋違いの自宅まで帰ってきたとき家の様子を窺っている日頃見かけない短髪でがっしりした背広姿の中年男性に会った。鋭い目つきで睨みつけたが声掛けはなかった。気味悪かったがそのまま家にこそこそと入った。
母の美鈴さんは動揺した顔つきで高志の帰りを待っていた。
「あんな、家の前を何度も行き交いながらこちらを窺っている人がいる」
「僕も会ったけど何にも言わへんかった」
「これから買い物に行くのでついて来てくれへんか、一人で行くのが怖い。帰ってくるのを待ってたんや。お父さんが夕食にバーベキューをするので肉を買っておけと連絡してきた」
「うん」
と、返事して自転車で出かけた。母と一緒に買物に行くのは何年ぶりだろう。
スーパーで牛肉と野菜を買って店を出たところ、報道機関の腕章を巻いた男性(記者)が買い物客にインタビューを試みていた。母と高志は避けるようにして自転車に乗った。
二人は家に帰ってからも冷静な状態ではなく、心臓を揺さぶるような怯えを感じて平常心では居られなかった。
父はいつもの時間に帰ってきていつものように洗車して顔を洗い歯を磨いて高志らが待っているダイニングルームに入ってきた。指に包帯が巻いてあったので痛々しかった。医院に行ったのだろう。
「今日はバーベキュ―にしようか、指を怪我したので料理できひん。ガレージでみんなで楽しもうや」
何度もやっていることなので手分けして用意した。高志は七輪に炭を入れ着火剤を使って火起した。妹の志乃は台所で茄子とピーマンとシイタケ、キャベツを刻んで竹製のボウルざるに入れ、肉をお皿に並べて運んできた。四人分の小分け用のお皿と御箸、フォーク、ジュースと缶ビールをプラスチック製の白い簡易テーブルに並べた。母の美鈴さんはお箸を持って椅子に座り準備が整うのを待っていた。用意ができたのを見計らって高志はフライパンを七輪に掛けた。その様子を見ていた高雄さんが、「よっしゃー みんなでやったら早いな、食べよう」と号令した。
「うん、柔らかくておいしい肉や」と高志が口に入れて眼を細め笑み浮かべた。志乃が「野菜食べんとあかん。うん、美味しいな。ご飯いらんわ」と屈託なく微笑んだ。高志は次々フライパンの上でお肉や野菜を焼くのに忙しかった。旺盛な食欲に手元が追い付かない風だった。この日の焼肉パーティで最も口数が多かったのは父の高雄さんだった。高志や志乃の小学生時の思いでを繰り返した。高志がなかなか泳げなくて、夏休みにプールに連れて行って特訓したこと。志乃が学芸会で魔女に扮して竹箒にまたがり得意満面で父兄席にいる家族に手を振っていたこと。一つ一つ思い出しては眼差しを遠くに向けひとりで相槌打っていた。普段は一缶しか飲まない缶ビールを二缶も開けた。
高志はその夜寝つきが悪く、何度も寝返りを打った。佳世はどこで何をしているのだろう、父の死とともに忽然と姿を消した一家を案じていた。そして、父が犯人では⋯⋯という確信も諸状況から察して持つに至った。もはや取り越し苦労で終わってほしい、と願う淡い望みはなかった。
深夜、母のすすり泣く声を聴いて目が覚めた。その夜はまんじりともせず翌朝を迎えた。珍しく母が早起きして階下の食卓に端然と座っていた。高志と志乃に学校を休むようにと言い渡した。
父が高志を自分の部屋に呼んだ。
「木村純雄さんを殺したのはお父さんや。公衆道徳をわきまえず、注意しても聞かせず、ありもしない佳世ちゃんのお母さんとの仲を疑って罵倒された。意に添わないことを言われたので黙って済ますわけにはいかなんだ。感情が頂点に達し、善悪の見境がつかなくなり、台所から包丁を持ち出して、木村さんが自動車を止めている公園に走った。ドアを開けて逃げようとしたところに、心臓に包丁を突き刺した。木村さんは『この野郎!』と息を引き取る間際の引き攣った声音を残しガクッと首を垂れた。あれから三日たって天の声が諭してくれた。あの人にもあの人なりの事情があり生き方があったのだ。公衆道徳に反するからと言って、あらぬ疑いを掛けたからといって、命を奪うことはなかった。話し合えば折り合いをつけられた。一時の感情が理性を上回れば、人とて簡単に殺害してしまうのだ。木村さんは他人に命を断たれて、さぞかし無念だったろう。『この野郎!』と叫んだ断末の一声に、生き続けたい思いが込められていた。ご遺族方にも相済まない。お前たち家族にも申し訳ないことをした。親は子を一人前になるまで育てなければならない。そうでなければ親とは言えない。私は失格だ。高志と名付けたのは高い志を持って世の中に貢献するようにという意味だった。私の願いを忘れないでほしい。これから犯罪者の子として世を渡っていかなければならない。境遇が一転するが耐え忍んでくれ。お父さんの実家は引き取る能力がない。お母さんの実家は裕福や。昨夜電話してよろしく頼むと言っておいた。離縁するのでお前も妹の志乃も姓を母方に変えて生きていってくれ。お母さんは何にもようせえへん。志乃は難しい年ごろや。一家の存続と繁栄はすべてお前にかかっている。こんなことになって本当に申し訳ない。許してくれ」
父は床に頭を擦りつけて肩を震わせ泣いた。階下からも志乃の空気を切り裂く激しい泣声がした。母が事情を説明したのだ。
高志は覚悟していたとはいえ父の告白に戸惑い一言も発することができなかった。こともあろうに、犯人は全面的に信頼していた実父だった。面と向かって告白されて事の重大さに慄いて容易に受け入れることができなかった。といっても事実なんだから逃げるわけにはいかない。父によって維持されていた栗原家は存続の基盤を失った。経済力を失ったので、勉強一辺倒の境遇はガラガラと音を立て崩壊した。もう京大を卒業して外交官になる望みは幻と化した。佳世との関係もこれで終わりだ。積み上げてきた十七年間の友情が父によって断絶してしまった。近所の方々にも顔向けができない。殺人犯の子として世間をさまよう姿を想像した。現世に未練があるなら過去を隠して見知らぬ遠い地に移り職を見つけて働くしかない。未練がないのなら僧籍に身を置いて世を儚むしかない。父が託した姓を変えて生きて行ってくれ、一家の繁栄と存続はお前に掛かっている、と言われても、これからを生きる何の指針にもならなかった。
高志は父の前で怒りをぶちまけたかった。がその気力さえ沸かず呆けたように座り込んでいた。眼差しは何処を見ているのか宇宙に漂っていた。
母の美鈴さんと高志と志乃は父が手配したタクシーで住み慣れた家を後にした。慌ただしかったのでそれぞれの身の回りの物を詰め込んだバッグ一つずつ大事そうに抱えての出発だった。
高志は車窓から見慣れた街路樹や電柱や虫籠窓のある駄菓子屋や漆喰の塗屋造りの酒屋が後ろに流れていく風景を虚ろな目で眺めていた。もう此処に戻ることはないと思ったら目尻に涙が滲んできた。落人になって町を去るのだ。
あんなことからの再出発
栗原高雄が自首して事件は解決した。報道機関は鳴りを潜めた。
京都市の北山通りに面した高級住宅街の一角にある母の実家に、高志ら三人が移って一週間経った。此処に犯罪者の家族が潜んでいることは近辺で知られていない、と思う。しかしいつまでも潜んでいるわけにはいかない。母は泣いてばかりで時折神経が昂り自殺する、とか喚いて祖母に慰められていた。志乃は一切外に出ないで沈黙している。音楽を聞いているわけでもなく、テレビを見ているわけでもなく、漫画や週刊誌を読んで過ごしているわけでもなかった。目は虚ろ、感情を表に出さず捉えどころがなかった。高志も志乃も学校に行っていない。世間から身を閉ざす隠遁生活は精神的に耐えがたい。
母が祖父に泣きついた。
「嫁いでいった娘が子供二人を連れて戻ってきた、となればなんかあったと詮索するのが近所の習いです。噂が立つ前にどこかに引っ越したい」
祖父は願いを聞き入れて高志ら家族を匿うために、遠く離れた辺境の地左京区大原三千院の近くで、賃貸のアパートを見つけてくれた。築二十年の二階建て、その一階の端の部屋である。間取りは2LDK、家賃は六万二千円と聞いた。此処に移って住民登録をして義務教育下である志乃は転校し、高志は中途退学して就職先を探すことになった。祖父がすべて段取りしてくれた。当面生活していく預貯金はある。アパートの賃貸料は祖父が出すと言ってくれた。
高志はこのアパートに移って姓を母方に変え心機一転再出発する気になっていた。これまで学んでいた坂の上高校の二学期末の考査は明日から始まる。土日を挟んで六日まで続く。未練はあるが仕方ないとあきらめた。
何も家具の無い、祖母が買いそろえてくれた三人分の蒲団と食器があるだけのアパートの一室で最初の夜を迎えた。布団を敷いて車座になり、母の美鈴と妹の志乃と三人で今後ついて話し合った。
母の美鈴はこんなことを言った。
「お母さんは離縁して姓を戻し、このアパートで余生を過ごすつもりや。栗原ではなくなったんや。それはあんたらもおんなじや。再起するにはお父さんと縁を切った方が身のためや。栗原として過ごした期間は二十年ほどやった。座敷牢に閉じ込められて何にも面白くなくて苦痛の日々を送っていた。あんたらもお父さんに抑えつけられて委縮していたと思う。成長期にこんな思いさせたお父さんを憎んだらよい。これは虐待や。このアパートで自由を謳歌したらよいね。窮屈な囲いから出て、世間を気の向くままに羽を広げて飛び回ったらよい。なにも京大を卒業して外交官になる思いに囚われんでもよい。お父さんが押し付けた生き方なので自分の道を見つけて歩んだらよい。お母さんもそうする」
高志は呆気にとられた。自由に羽ばたいたら良いとはどういうことだ。そんな無責任なことを良くも言えたもんだ。母親なら働いて二人の子を養うと決意するのが普通だろう。甲斐甲斐しく働く母親の姿を見て子供は難局を乗り越えようと奮起するのだ。子供を守る動物的母性のない母は、飾り物の母に終始した。
高志は憤然として身を乗り出した。
「僕は就職先を探す。一流の会社に就職するのは難しいと思うので、まず自動車の運転免許証を習得する。二種免許を取り大型免許を取ったら何とか生計を立てていける。このアパートに落ち着いて徐々に体制を整える」
志乃は兄の当面の方針を聞いて、きりっと眉を吊り上げた。
「私は万福寺町のあの家に戻る。あそこで生まれたんや、友達もいる。料理も作るし洗濯も掃除もできる。もう中二や、心配せんといて、姓も高原のままでええ。この間、こそっと友達とケータイで話し合った。みんな待っている、と言ってくれた。担任の先生にも学校に戻れるか聞いてみた。何の心配もいらん教職員全員で支援する。早く登校してんか、待っているからな。と勇気づけ励ましてくれた」
母の美鈴さんは志乃の決意を聞いて激しく嗚咽した。
「私はあそこにどうしても戻れへん。お父さんが血相変えて台所の包丁を持ち出したとき身を挺して止めたらよかったんや。理由がわからんでもただ事ではないぐらいわかっていた。それができひんかった。ボケーと見てた。その責任を被って、亡くなられた木村さんの冥福を祈る日々を送る。近いうちに剃髪して仏門に入る。そう決めた。栗原と縁を切るとはそういうことや。高志も志乃も犯罪者の子として足かせ嵌められて生きていくのは辛いと思う。前歴を隠すために母方の姓を名乗れと言っているんや。せやけどあんたらが罪を犯したんではないんや。そういう意味では犠牲者や。万福寺町の生家に戻るというんやったら戻ったらええで、お母さんと縁切って、ここに捨てていったらええ。お母さんは料理も掃除も何にもでけへんから足手まといになるだけや」
母は二人の子を前にして瞳を覗き込むようにして決意を語った。
高志は母と妹の決意を聞いて心がぐらついた。
「志乃が生家に戻って住むというんやったら僕も戻る。一人で住まわすわけにはいかん。そうなると現在の坂の上高校を中退して就職することになる。いつまでも祖父に頼っているわけにはいかん」
とは言ってみたものの思考が混とんとして定まっていなかった。現在の学校に未練があったし十七年間にわたって目指してきた外交官の道を容易に断ち切れなかった。黙り込んだところを兄の迷いを洞察した志乃が提案した。
「お兄ちゃん、佳代さんと相談したら。どんな時でも話し合っていたやんか。良い知恵授けてくれると思うわ」
高志は混沌とした状況の中で二週間ぶりに佳世に電話した。
受信した時の音が鳴った。
「あのー」
「高志か? 何が、あのーや。さっさと学校に戻っといでな! いったい何日休んだら気が済むねんな。期末考査が明日から始まるで。京大受験するんやろ。受けなかったら評定下がるで。うちは葬式済ませた翌日には学校に戻って勉強してる。世間気にして沈み込んでたらあかんで、根性あるところをみせてんか!」
口調はとげとげしくて、苛立っていた。
「佳世とは立場が違う。僕は佳世のお父さんを殺した犯人の子や」
と細い声で立場を吐露した。
「父親が起こした事件で、めげててどうするの! 私はお父ん失ったんやで。口に出せへんぐらい腹立ったわ。その気持ちは時が経っても変わらへん。ケータイで長話もできひんので明日事件のあった東部公園のあずまやで午後三時に待ってるわ。期末考査が始まるけど高志と会う時間ぐらいは作れる」
高志は佳世の声を聴いて心に一条の光明が差した気がした。
*
二人は再会した。佳世の顔に笑みはなかった。
高志はベンチから立ち上がって頭を下げ佳世を迎え入れた。
「私に詫びんでもええで。高志が殺したんと違うやろ」
「佳世は大切なお父さんを失ったんや。犯人の子として詫びたい」
「何度でもいうけど高志は犯人ではないんや。平然としてはいられへんと思うけど、勉強に励んだらよいんや」
「そんなことを言われても⋯⋯犯罪者を親に持った者しかこの心境は理解できひん」
「警察から犯人が自首してきたと連絡あったとき、包丁持って押しかけ、刺し殺してやると息巻いた。紗世が背中に抱き着いて『私をこれ以上悲しませんといて』と言って止めた。紗世は、父の死を知らされた時、気が狂ったように泣いた。普段はお父んとの仲が良いとは言えなかったけど、裏返せばもっと構ってほしかったんだと気づいた。出生が出生だけに父親の愛情に飢えていたんや。なんで紗世を置いて死んだんや、と喚き号泣して手が付けられなかった。私も大泣きしたかったけど紗世に先き越されて宥め役に回るしかなかった。お母んは被疑者でもないのに事情聴取で警察に行ったきりで、家に二人がぽつんと取り残されていたときや。夫を突然失ったお母んは変わりよった。早よ家に帰ってきて子供二人と一緒にご飯食べるようになった。料理も作ってくれる。『お母さんが家を空けていたからこんなことになった、佳世がお父さんの様子を尋常ではない、知らせてくれたのに放っておいた。許してや』と私と紗世に頭下げて詫びた。反省しとる。けどな、お母んは幾つも違う顔を持っとる、時と場に合わせてころころ付け替えよる。今は自粛しとるだけかもしれん。しかし家族を放置していた責任は感じとるようや。事件から十日経って取り乱していた家族は妙な静寂の中で息を潜ませて過ごしている。私は事件があった日の二、三時間前にお父んと会って家族旅行の話しをしていたんや。いつもと違って家族に対する思い入れが素直やった。虫の知らせに気づかんと一足先に帰ってきた。何で一緒に帰らへんかったのかと悔やんでも悔やみきれんわ。一緒に帰ろうの一言を添えていたら死ぬことはなかったんや。不慮の死であの世に渡ったお父んの魂は思い出と化して家族三人に深く浸透して、永遠に存在し続ける。魂が鎮まるのはまだまだ先や。怨霊となって犯人一家に憑くかもしれん。高志にこんなこと言ったのは、被害者の気持ちをしっかり心に留めておいてほしいからや。留めたら次に何をしなければならないかわかる。事件を乗り越えて前に進んで行くんやで。あの世に渡ったお父んの魂はそのように願っていると思う。きついことを言うたけど今の私の気持ちや」
「僕の父は何事も自分で考え実行してきた。ワンマンで単刀直入な人やった。その性格ゆえに職場でもトラブル起こしている。その一方、僕ら家族に尽くしてくれた。感謝しているし尊敬もしている。しかし残された者は世間に知れ渡った殺人犯の子供として生きていかなければならない。お父さんは家族がどんな気持ちで過ごしているのか、留置場で振り返り反省していると思う。被害者の佳世を前にして勝手な悔やみ事を言ったかもしれんけど」
二人は沈黙し手のひらをじっと見ていた。
「あんな高志、現実を考えてみて。これからどうして生活していくの。おそらくお父さんは懲戒解雇処分されると思う。退職金は出えへんやろ。僕とこはぎりぎりの生活をしている、と言っていたので心配や。アルバイトして稼いだお金では生活していけへんで。妹はまだ中二やんか、どうにもならへんで」
「何とかなると思う」
「何とかならへん、サラ金で借金するのは簡単やけど二進も三進もいかんようになる。それこそ地獄に落ちていく」
「どんなことがあっても、京大に入って外務省に入る。外交官になる夢は捨ててへん」
佳世と話していて、諦めていた夢がむくむくと盛り上がってきた。佳世は事件を記憶にとどめたら次に何をしなければならないかわかると言った。
揺れる心を察したかのように佳世が語り掛けた。
「高志、言うとくけどな。父によって刻印された一身上の条件を考慮せんとあかんで。このままやったら、外交官になる望みは夢で終わるわ。現実はそんなに甘いもんやない。国家試験は努力次第でパスするかもしれん。しかし外務省が実施する面接試験で落とされる。面接官は家庭を調べ上げる。殺人犯の子なんて採用するかいな。なにも外交官にならんでもよいやんか。とにかく今の時世やから資格を身に付け卒業した方がよい。高志なら弁護士になれる。学生の間はうちのお母んに面倒見てもらい。働けるようになったら少しずつ返していったええね」
「夫を殺した犯人の息子を、殺された夫の妻が支援する、そんなバカげた話はない。下手すれば手をくんで夫を殺害したと陰口叩かれる」
「黙ってたらわからへん。うちのお母んは幾度も身を切って難関を突破してきたんや、高志の苦境は理解しとる。こんなことは口外したらあかんねけど、お母んは私を騙しとった。お父んが事件に遭う直前に気になることを言ったので不審に思ってビュウティサロンmitiyoの左京にある清水店を尋ねたんや。二階に住んでいると言っていたしな。寮にはなっていたけどお母んが住んでいる形跡はなかった。働いている美容師に急用で来たけどまだ店に着てへんのか、とカマかけたところ、この時間はマンションにやはります、と答えたんや。シメタと思って店の電話の着信記録から電話番号見つけて掛けた。男性が出て、甘い声で、『もしもし』と言った。それ聴いて頭に血が上った。大声で、『佳世や! 帰ってこい』それだけ言ってプチっと切ったった。お父んがお母んを信用してなかった理由がこれで分かった。夫婦間でお父んの役目は終わってたんや。お母んは次の世界を構築して燃えとる。それでよいと思う。髪結いの亭主で一生を過ごそうと企んだお父んが浅はかやったんや。お母んはこのことについていまだに何にも言いよらへん。私も訊かへん。家に帰ってきて料理を作り子供と一緒に過ごすようになったのが答えだと思うことにした。けど、これぐらいでお母んを信用できるかいな。あの男と切れてへんやろ、ほとぼり冷めるのを待っとるだけや。道徳や社会秩序無視した図々しい生き方かもしれんけど、お父んのような生き方はしたくない。そんなお母んやから遠慮せんと堂々と利用したらよいね」
「いや、佳世のお母さんにそんなことは金輪際頼めへん」
「高志はお父さんの懐でぬくぬくと育ってきて突然世の中に放り出されるんや、まだわからんやろな、世の中の厳しさを。なんとかなる、で済まへんことを。これから思い知らされるわ。困ったら相談してんか。とにかく明日、学校に出といで、考査の二日目になるけど全く受けんと〇点で終わったらどうしようもなくなる。母親の里に居るようやけど転校したらあかんで、世の風評に負けて逃げたことになるで。絶対に逃げたらあかんで、熊は逃げるやつを追いかけて食べるんや。世間も一緒や。気迫で立ち向かっていくんや」
佳世の意見を聞いて高志は心の中をまとめた。
「これからは僕なりに世の中を渡る。艱難辛苦を乗り越えていく。悔いのない人生を送りたい。たとえ外交官の道が経済力の破綻や経歴の条件で道半ばで尽きても納得できるようにしたい。これからは自分で決めた道を歩むのだから自己責任や。何んども言うけど佳世とは立場が違う。佳世は世間の同情の中で支援されて生きていける。僕と志乃と母は風評に怯えびくびくして生きていくんや、この違いは大きい」
佳世は上目つかいで、確認するように高志の瞳を覗いた。
「高志は『何処の家でもお父さんはお父さんや』と言って、その存在感の大きさを語ったことがあったな。ぐうたらの父であったけど実際に失ってみて、その通りだったと身に染みた。心にぼっかりあいた穴を埋めることができずに過ごしているのが現状や。それは悲しみとか寂しさとかで言い表されるものではないわ!」
高志を突き放しベンチから立ち上がった。
「お線香用意してきたからあげに行こか」
事件現場はつい目と鼻の先である。
花束が添えられていた。リボンにビュティサロンmitiyoとさりげなく記してあった。
「高志、ようみとき、お母んは世間の目を意識してこういう供養ををするんや。これが夫を失ったお母んの強かさや。高志は世間の同情を集めて生きていけると言ったけど、お母んは利用して生きていくんや、健気さなんてあるかいな」
二人はお線香をあげ、額ずいてしばし瞑目した。
佳世と別れ、心を固めた高志はしっかりした足取りで十七年間住んでいた生家に向かって歩いた。
筋を曲がったところで近所のおばちゃんたちが固まってヒソヒソ声を落として話し合っていた。みんな顔見知りである。避けるようにコソッと脇をすり抜けようとしたところ振り向いた梅田のおばちゃんと目が合った。形相が好意顔に変容した。
「あらっ、高志君、お母さんも妹さんも元気、早よ此処に戻っといで。あんたらがここに戻りづらい気持ちはようくわかるけど、此処で生まれ育ったんや、嫌がらせさせんように私らが庇うがな。いつも顔見ていたものが突然いなくなったら寂しいわ。お父さんは、動機はどうであれ人を殺害したんやから、罪に服すのはしようがない。いま話し合っていたのは嘆願書を集めようとしてたんや。町内の人はいろいろ助けてもらったことを忘れてへん。裁判で情状酌量が取り上げられて、刑期が短縮されるように願ってな」
高志は家の中に跳んで入り玄関戸を後ろ手でピシャと閉め、三和土に突っ立ってオンオン泣いた。近所の人の心遣いが涙をとめどなく次から次へ瞼に送り続けた。
框から廊下に掛けてうっすらと白い塵が浮いていた。一家団欒の場であったダイニングルームは湿っぽかった。窓を開け放ち滞留していた忌まわしい空気を放出した。自分の部屋に入ってベッドにゴロンと寝ころんだ。身に馴染んでいるクッションの弾みはここが高志の場所であるとして迎えてくれた。父は託していた、「一家の存続と繁栄はすべてお前に掛かっている」と。
天井見上げて此処に戻ってくることを考えた。幸いなことに世間の目に怯えていたが温かく迎えてくれそうだ。甘えかもしれないが、生まれたこの地に戻って出直すのだ。そう決意した。
担任の教諭に電話した。
「おおっ、栗原! 連絡を待っていた。何にも心配するな。学校を信頼して登校せよ。クラスの皆はまだかまだかと待っている。服部は張り合いがないと言ってしよげとる。三組の木村は葬式が済んだ言うて登校しよった。仲の良かったもんが迎えに行ったそうやけどな。お前は男や、一人で登校できる」
ジーンと胸に込み上げてくるものがあって息が詰まった。
通学用のバックパックを引っ張り出して教材を整えた。自転車を整備した。明日学校に行く。ぶっつけ本番で期末考査を受ける。と決意して。
身体にエネルギーが漲った。日常に戻るために走ろう、走るんだ。と自分に言い聞かせた。Tシャツとトレパンに着替えて表に出た。佳世の家の前を通ったが覗き込んだだけで声掛けはしなかった。
「ようし!」と奮い立つように気合を入れ、馴染んだ町内の空気を吸って大地を蹴り再生のスタートを切った。
「あれっ? 高志君や」
「一人で走ってる」
「そなことない、地響きしてきた」
「佳世ちゃんや。佳世ちゃんが後を追ってきた」
町内のおばちゃんたちが大勢集まってきて拍手して応援始めた。「頑張れ! 頑張れー高志くーん」
「頑張れ! 頑張れー佳世ちゃあん」
「頑張れ! 頑張れー」
「フレー フレー 高志くーん」
「フレー フレー 佳世ちゃあん」
人世の応援歌を聞いて二人は町内を駆けた。
あんなことを振り返る
琵琶湖を源として大阪湾に流れ行く淀川の中流域は宇治川と名称を変えて景勝地になっている。春の桜、夏の鵜飼、秋の紅葉、宇治茶の里、を観光するために訪れる人たちで賑わう。左岸に国宝平等院、右岸に同じく宇治上神社があることも人心を駆り立てるのだろう。
今日は西暦二〇二三年十一月三日、文化の日という祭日。
日本三古橋の一つ宇治橋の袂にある料理旅館の二階に中年夫婦が投宿していた。暮色に染まる対岸の風景をまさぐるように眺めながら会席膳に舌鼓を打っていた。晩秋の夕暮れ時であり、中洲で餌をあさっていた鴨や鵜が一斉にねぐらに飛んでいく。瀬音が過去を振り返るように心を揺さぶる。
男性は濃紺のポロシャツの上に白っぽいジャケットをラフに羽織っている。ズボンは裾の狭いブルーのデニム。背が高く腕も足もすんなり伸びている。白いものが混じった五分刈りの短髪、品の良い顔立ち、なのだが日焼けして浅黒い肌にシミが浮いている。眉間の縦皺は抉ったように深い。どこかアンバランスな風貌だ。とてもデスクワークの仕事に従事しているようには見えない。
女性は足首まで覆うギャザーの細かいゆったりした濃紺のワンピース着て同色のカーデガンを肩に掛けている。衣服で工夫しているがどう見てもお腹が膨らんでいる。栗色に染めた頭髪はロングで縦巻きにカールさせている。顔立ちは可愛らしく丸い目元に愛嬌がある。哀惜の念に堪えてきた影が頬にへばり付いている。
苦難を乗り超えてきた曰くを秘めているようだ。
「この旅館に食事に来たのは何回目になるのかな」とデニムの男性が対岸に目を配りながら訊ねた。
「結婚したのが二十五歳ときや、今三十三歳やから八回目になるのと違う。毎年十一月三日の結婚記念日にはここで食事している」
女性は反応を窺うように上目遣いになって答えた。
「八年経ったか、二人の子育てに忙殺されてあっと言う間に過ぎたな。のんびりできる温泉に行きたいな」
「三人目の子がお腹にいるで」
「小一の一美と四つになる二美を道世祖母ちゃんに預けてきたけど、おとなしくしとるんかいな」
「心配せんでもあっちの方がええらしいで。お祖母ちゃんとこへ泊まりに行くか、て訊ねたら目輝かして『行く、行く』と言いよる。早よ食べろ、と急かされへんし、残しても叱られへん。部屋汚しても悪戯しても怒られへん、やりたい放題しとる。それにしてもお母んは変わりよった。あんなことがあったときは私等二人の子供と夫を放ったらかして真っ赤なフェラーリ乗り回し遊びまくっとったんや、若い男をマンションに連れ込んで傍若無人な生活を楽しんどったんや。けどお父んを失ってから目覚めよった。放蕩の象徴だったフェラーリ手放して白の国産セダンに乗り換えよった。事件のあった当時はほとぼり冷めるまで自粛しとるだけや、と思っていたがそうではなかった。今では孫二人の世話しとる。抱き上げて頬にチューしながらあやしている姿見たら、おんなじ人間かなと疑いたくなるわ」
「僕の父親はあんなことをしでかしたので刑務所に入っとる。孫二人の写真を送ったら、上の一美は父親似や下の二美は母親似や、と手紙に書いてくる。抱きしめてチューしたいと思うけどなあ。まだ娘の方が刑務所にいるお祖父ちゃんを受け入れられへんと思うわ。中学生になったら連れて行こうか」
「今日は深刻な話しせんとこ。美味しい料理を鱈腹食べて、お風呂に入って、ぐっすり眠ろう。あっ、対岸の宇治神社にライトが灯った。夜間照明するんや。あそこで挙式してこの旅館で披露宴代わりの食事会をしたんや」
「質素な挙式やったな。俺んとこからは剃髪して尼になり墨染の衣を着た母親と妹の志乃と二人だけ。父親は刑務所で俺たちを見守っとった。お前んとこからは母親の道世さんと妹の紗世ちゃんの二人だけ。両家とも親族は一人も列席してへん。仲人してくれた梅田のおばちゃん夫婦もわかっていたこととはいえ、心なし冴えない顔していたな」
「世間を引っ叩くように、強引に結婚式を挙げたので、事件を知っている人は『なんでー 、加害者と被害者の子同士が結婚するなんて⋯⋯考えられへん』と眉潜めていたと思う。披露宴はなくてこの旅館で両方の家族が静かに食事して顔合わせしたんや。知り合い同士なので顔つなぎする必要なかったけど、挙式上げただけで終わりにするのは如何かな、と梅田のおばちゃんが提案したので一緒にご飯食べようかいうことになった。新婚旅行に行ってへんので、銀婚式を盛大にして、埋め合わせしような」
「こらっ! 俺の肉盗るな」
「この近江牛のステーキ美味しい。なんぼでも喉通る」
「小さい頃とちょっとも変わってへんな。俺のお菓子を美味いこと言うて掻っ攫ってたな」
「そんな、言い方せんといて。返すわ」
「一旦、箸しつけたもんいらん」
「そう言うやろと思ってた。ウッシッシ」
「本間に、ちょっとも変わってへんわ。小さいころを思い出す。二人の誕生日は一九九〇年の八月や。お前が一〇日早かったんや。将来を共にする運命を背負って生まれてきたんや。お父さんに聞いた話やけどお前の方が三〇〇〇グラムで俺は二五〇〇グラムやったと言うてた。児童公園で遊ぶようなった頃は、砂場でも滑り台でもブランコでもお前の尻を追いかけて走り回っていた。スコップで頭に砂懸けられ泣いて帰ったこともあった。ボール遊びしていて逸らしたら拾ってこいと言って蹴られた。そんな関係であっても楽しかった。性格によるものだと思うけど生育環境の違いであったかもしれん。僕は子育てに熱心なお父さんと、夫に従属しているお母さんの手で腫れ物に触るように大事に、大事、に育てられた。お前は両親が共稼ぎだったので、放ったらかしにされ野性児仕様で育ったから強かった」
「ひどい言い方するな、事実やけどジャングルで育ったんと違うで。親が共働きだったので仕方なかったんや。そんな中でも梅田のおばちゃんには可愛がられたし躾もされた。お母んの代役をしてもらってた」
「梅田のおばちゃんは施設で元気に暮らしているのか。仲人を買って出てくれたし、いろいろ世話になった。あのおばちゃんが居なかったら、僕らどうなっていたか分からん。近所の人達にも助けられた。今度は僕らが助ける番や」
「忘れてへん。恩返しはする」
「僕は小さい頃からお父さんが施設したレールに乗っかって外交官目指し走り始めたんや。けどな、あんなことをしでかして刑務所に入ってしまったので、そのレールは取り外された。現在の仕事はコンテナのドライバーや。大阪の南港もしくは神戸フェリーターミナルと京都の間を一日一往復している。忙しい時は二往復して夜遅くまでハンドル握っている。この姿に作り替えたのはレールをなくした俺自身の判断や。導いたのも、今の姿に造り替えざる得なくしたのも、お父さん」
「あんたは父親に翻弄された生き方を後悔する時があるな。私も気持ちはおんなじやで、あんたのお父さんによってうちのお父んはあの世に送られたんや。こんなこと言ったらお父んが怒ると思うけど、あの世に強制的に送り込まれた為に、荒んでいた家は正常になった。私は大学に入って勉強もせんと遊びまくり当初の目的を叶えられずに結婚してしまった。今では子育てに追われる毎日や」
あんた、と呼ばれた中年の男はこの話になると矛先を変える。余程避けたい話なのだ。
「お前の実家の仕事旨くいっているのか?」
「本当は長女の私が美容室六店舗を継承して経営していかなあかん立場やったけど、あんたと結婚するため家を出ていくことになったので妹の紗世に継がすことになった。まだお母んが元気やから経営のノウハウの特訓受け取る。紗世は頭いいし心配してへん」
「紗世ちゃんは母親の若い時にそっくりや、別嬪でモデルみたいな体形している。モード界の一端を担っていくには適している。佳世の妹とは思えへん」
「父親が違うのでな。このことはまだ気づいてないので絶対に喋ったらあかんで。二十五歳になっとるけどウブなとこあるね。私はその歳には結婚してた」
「今から思うと紗世ちゃんに嵌められた気がする。顔を合わしたとき、お姉ちゃんどうしている、て聞いてたんやけど、男友達と旅行に行って一週間ほど経つ、とか夜はどっかで止まっているようや家に帰ってきいひんとか、不安になるようなことばっかり言ってた。薄笑いしてたので、がっちり捕まえておかんと誰かの嫁さんになるで、と嗾けられているのだと分かっていたけど、佳世の事や突然結婚した、と言ってくる気がして焦った。これまで、とにかく話が突然なんや」
「結婚してくれ、とバラの花束持ってやってきたので、こいつこんなキザなやつだったんか、と躊躇したが私の本心を焚きつけたので受け取ってしまった。そのときからルンルン状態が続いている。波乱万丈やったけど、今は幸せや。お腹にいる子は女の子のような気がする。名前は三美にする。もう決めた」
「今度は男や、男なら僕が名付けることになっている。三太郎にする」
「そんな古の名前つけて、笑われるわ」
「お前のように上から一、二、三と単純に名を付けるよりは古風な方が風情ある。三人目が女やったら四人目つくろうか。どうしても男の子が欲しい。そうでないと家庭が女子パワーに圧倒されて身を縮めていなければならない。子供が大勢いる家庭は賑やかで楽しい
「あんたも変わったな。子供に夢中になるなんて。京大の法科に進んで外務省に入って第二の杉原千畝を目指す、と息巻いていた頃の面影ないわ」
「あんなことがあったのでガムシャラに勉強して京大に入れた。問題はその後や。父親が刑務所に入ってしまったので学費と生活費の調達に明け暮れ、勉強どころではなくなった。母親は子供を捨てて仏門に入ってしまったし、面倒看ると約束していた祖父が病気で倒れたので生活面で窮地に追い込まれ、どうにもならなくなった。妹の志乃を高校だけは卒業させてやりたいと必死になってバイトに励んだ。頭では外交官になる夢を捨てていなかったけど、体がその日に食べる御飯を渇望してアルバイトに走らせた。生き延びることが先決やと体が教えた」
「あんたの生活が厳しくなるのは分かり切っていた。お母んは金持っとるから援助を乞えと何度も言ったのに我を張って自分で打破しようとして結局将来の夢を棒に振ることになったんや。あんたは世間の荒波を知らない育ちやから学業の傍らアルバイトで乗り切っていけると漠然と思ったんやろ」
「あんな状況下では自力で乗り切るよりほかなかった。トラックの運転手のアルバイトして大学は何とか卒業できた。今ではよう頑張ったと自分をほめている。妹の志乃は高校卒業後に看護学校に入った。いまでは結婚し看護師として病院勤めしながら子供を育てとる。母親は手紙すらよこしてきいひん、世間と断絶して尼寺で厳しい修行に入ってる。僕はアルバイトの続きで運送会社に就職して、運転手として生計立てるようになった。それぞれの生きる道に入って前に進んでいるんやからそれでよいと思う。僕の判断は間違ってなかった」
「まあええわ。外交官になる夢を捨てた話しになったら強情を張るな」
「お前も大学に入ってから夢を捨て遊び捲くってたんと違うんか、外務省に入って緒方貞子さんを目標にして頑張るとか、国際子ども平和賞の話しを持ち出して自分を変革するとか、恵まれない人のためにボランティア活動するとか言っていたけど、どうなったんや。俺の前で宣言したことは必ず実行する、方言で終わらへん、と大口叩いていたけどな」
「大学に入ってから、家事に追われていた中高生ののときの反動で遊び捲くるようになったんや。コースの仲間たちとコンサートに行ったり、美味しいもん食べに行ったり、パーティ開いて深夜まで騒いだりしているうちに四年間が過ぎてしまった。大学に入った目的の一つだった国家公務員上級試験はパンフレット貰いに行っただけで終わってしまった。しかしなあ自分の事を棚上げするつもりはないけど、あんたが運送会社に就職すると聞いてびっくりしたなあ。こいつ苦労して京大卒業したのに何考えとんねと頭を疑ったわ」
「運送会社の社長も信じられへん、アルバイトと違ったんか、本気か、と何度も確認しよった。学卒の運転手は珍しくないけど京大のそれも法科新卒で、となると聞いたことないと言っていた。運転手になったのは早く生活の基盤を固めて佳世を迎えたかったからや。外務省に入って在外公館に勤めるようになるまで十数年かかる。それも順調に言っての話しや。公使や大使になれるかどうかわからないのにいつまでも外交官の道に囚われていてはお前と一緒になる機会を失うと思った。お前が傍にいてくれると安心なんや。小さい時からそうやってきた」
「頼りにされるのはうれしいけどな。私らにあんなことが起こっていなくて、夢を追う順調な日々を送っていたら、まだ結婚してなかったやろな」
「そうかもしれん。僕はどこかの国に外務省の書記官として赴任して、お前はは国連職員としてボランティア活動に励んでいる、ということになるな。あんなことが起こったからすべて仕切り直しになった。その方が良かったのかどうかはこれからの生き様が答えてくれる。一旦進む道が遮断されたけれど絆は切れていなかった」
「私等、毎年ここにきて食事しながら同じような話を繰り返しているな」
「過ぎた日々を振り返って現在の姿を確かめ合うのは良いことや。あんなことが起こったんは忘れもしない二〇〇八年十月二十八日や。今から十五年前になる。波乱万丈やったけど乗り切れた。佳世と結婚してよかった」
「ウッシシシ、チュウしたげるわ」
「本間にお前は変わらんな。頭の神経のどこかが高校生の状態で止まっているのと違うか」
「私の遺伝子を子供らが受け継いでいくんや、楽しみや。私な、鵜飼を見に行った帰りに、あんたの頬ををバシッと叩いた感触忘れんと大切にしまっている。変なことしたらまたバシッとやるかもしれんで、覚悟しときや。ウッシシシ」
完
参考資料
黄檗山万福寺
https://.wikipedia.org/wik/万福寺
東宇治高校ホームページ
https;//www.kyoto―be.ne.jp/higashiujiーhs/mt
宇治観光案内
https://ujimiyage.com/userーdata/event―01
宇治上神社
https://ja.wikipedia.org
センター試験
https;//ja.org/wiki/
京都府高校普通科分類
https://detaigl.chiebukuro.jp/qa/questinーdetail/
インフルエンザ検査
https://www.meiji.co.jp/imfluーnavi/ppevention/detail03.html
神戸ハーバーランド公式ホームページ
https://harvorirand.co.jp
緒方貞子
https://ja.wikipepedia.org/緒方貞子
国際子ども平和賞
https://www.euglene.jp/times/archives/1942#
京都新聞
2008年10月25日と26日版。
高校生活が二年目を迎えたとき、進む方向を巡って別離の兆しが見えてきた。二人に学力差がついていたので高志は京大へ、佳世は私学の道を進むことになった。二人に恋愛感情が芽生えていたので、特にその気持ちが強かった佳世は、何とか高志をつなぎとめようと折に触れ気持ちを表わす。高志は学習能力は高いが軟弱で気が弱く、神経性胃炎を発症する身であった。逆に佳世は肥満体で気が強くて人を引っ張っていくタイプであった。喧嘩しながらも互いに助け合って進んできたが二人の父親の仲違いによって一旦引き裂かれそうになるが踏ん張った。
高志の父親はワンマンで筋を通す性質だ。佳世の父親はひねくれもので、やきもち焼きで、嫉妬深かった。美容界の超スター佳世の母親を巡って両者の仲がこじれてくる。佳世の父親の僻みが原因なのだが、尊厳を傷つけられた高志の父親が佳世の父親を殺害してしまう。高志は親の殺人事件を受けて、経済的基盤を失い、将来の夢を断たれた。佳世の助言でアルバイトしながらなんとか京大を卒業する。佳世は中高校時に家事に追いまくられた反動で、大学に進んでから遊び捲くって当初のボランティア活動家の道を捨ててしまった。高志の外交官への道は遠い、このまま過ごして居れば佳世を誰かに取られてしまうと怯えて、学生時代にアルバイトしていた運送会社に就職し生活の基盤を作る。佳世に結婚を申し出て家庭を持つことを決意する。それは実現したのだが厳しいものだった。結婚式は形だけで新婚旅行すら行けなかった。そんなことがあって八年後、三人目の子をお腹に宿して二人は当時両家族が顔つなぎした思い出の旅館で食事しながら回顧している。