【婚約 4】
侍女が用意した紅茶に視線を落として、何から話そうかとレンリは思案した。
先に簡単な挨拶を済まし、今現在席に着いているのはレンリとストラトス第二王子アランのみである。
その他の者達はこちらの話し声が聞こえるかどうかというような少し離れた場所でこちらの様子を窺っている。
レンリが目線を上げると、碧い瞳とかち合った。
優しそうな顔つき、しかし、緊張しているのか目元が薄らと赤くなっていた。
「――到着したばかりだとお伺いしましたが、お疲れではありませんか?」
「いえ、大した距離ではありませんでしたから。お気遣い感謝いたします、レンリ様」
「即位までは数多の民の一人と変わりありませんので、敬称は必要ありません」
「では、レンリ……殿、と」
「はい、殿下」
小さく続けられた敬称を指摘することなくレンリが微笑むと、アランは目元の赤みを濃くした。
「私のことも、名でお呼びいただいて結構です」
「それでは、アラン様と呼ばせていただきます」
アランは赤ら顔で微笑むと一つ頷いた。
「それで、本題なのですが……」
レンリが真っ直ぐに見つめると、アランが表情を引き締めたのが見えた。
「此度の事は、アルデラ様とアラン様のお父上との間で話題に上がったのみであり、最終的な決定はアラン様が本国にいてくださる内になさると伺っています」
「はい、私もそう聞き及んでいます」
「私は決定に従うつもりですが、アラン様の気持ちにも配慮しなければと考えております」
アランが口を閉ざしたのを横目に、レンリは続けた。
「ストラトスは王族関係において血縁を大切になさる国だと聞いております。対して我が国は紋章の有無が王位の決め手となります。紋章が身体に現れた瞬間、一国民から王位継承者へと変わるのです」
「それは、存じていますが……」
レンリは自身の左腕を衣服越しに撫でた。
この布の下には、紫色の紋章が刻まれている。
「次の者に紋章が引き継がれた時、私は王族ではなくなります。アルデラ様が私の王位継承の儀と共に只国民に戻るように」
レンリが目を合わすように視線を向けると、アランは僅かに目を丸くした。
「血統から王族のアラン様と、紋章で王位に繋ぎ止められた私とでは、これはアラン様にとって些か不公平な婚姻ではないかと懸念しています」
「そんなことは、」
「このお話、アラン様が望まぬものであれば私からアルデラ様に進言いたしましょう」
レンリが小首を傾げてアランの答えを待つと、アランは逡巡する様子を見せた。
それを見て、自分と同じように当事者でありながら、アランもこの話には一切関わっていなかったのだとレンリは確信を得た。
とは言え、両国の現王が望むことは簡単に覆せるものではない。
それは血縁者が全て王族のアランの方が理解が深いことであろう。
代替案が出せれば或いは、と言うところか。
考えながらレンリがカップに口を付けると、意を決したような顔のアランと目が合ったため、レンリは静かにカップをソーサーに戻した。
「本音を申し上げますと、実は、ここに来るまでは断ることができたらと考えていました」
「当然の考えです」
「しかしそれは、レンリ殿のような考えがあったわけではなく、恥ずかしながら独り善がりな感情で、今、己の稚拙さを痛感しています」
アランは真っ正面からレンリを見つめた。
その瞳に先程まで揺らめいていた迷いはないように見えた。
「このお話、正式なものとして進めていただきたい」
「……よろしいのですか? 紋章が消えれば、私に求められるような価値はありません」
「そのようなことはありません。もし紋章が消えても、国王として在籍した経験は糧になります。一国民に戻った際は、共にストラトスに行けばいい。王族の血筋ですから、出戻った私にも離宮か領地かを与えてくれるでしょうし、レンリ殿の知見が我が国の発展に役立つかと思いますので」
アランはにこりと微笑んだかと思うと、恥ずかしそうに目を伏せた。
「と言うのは建前で、本当はもう少し貴女のことが知りたくなりました」
小声で呟かれた言葉は、おそらく周囲には聞こえなかっただろう。
王城では余り触れることのない嘘も打算もないその温かい言葉に、レンリは耐えきれずに口元を手で隠して笑った。
「ふふ、そうですね。もし私のことを知って嫌になったらまた改めてお伝えください」
「お互いにです」
アランも年相応に笑っていた。
レンリは視線を巡らし、フィルの姿を見留めた。
フィルにも正式に話を進めるという言葉が聞こえていたのだろう、レンリと目が合うと一礼と共にその場を去って行った。
「アラン様、不躾なことかと思いますが、断ろうとしていた理由を伺っても?」
「折角濁したのに聞くのですか?」
レンリが声を潜めながら悪戯っぽく微笑むと、アランは頬を染めて困ったように目を細めた。
「……即位する兄を補佐するのは自分だと思い込んでいたのです。その為に努力してきたつもりでしたが、父に突然縁談の話を持ち出され、それが他国の王位継承者となれば、自分の努力は何だったのかと……父に反抗するつもりで、その、もういいですか?」
アランは片手で口元を隠した。
正直に話してくれる辺り優しい人なのだろうとレンリは相手に好感を持った。
「ごめんなさい、意地悪な質問でした」
「いえ、幼稚な自覚はあります」
アランは目を泳がせた後に、じっとレンリを見つめた。
その瞳の中にとろりと甘さを含んだものが見て取れて、レンリは目を瞬いた。
「ですが、学んだことが貴女の力になれるのならば、それでいいと思ったんです」
本心ですと続けられて、レンリはどう返したらいいか分からなくなった。
全ての者を平等に見なさいと言われ続けてきたために、レンリは誰かを特別に愛したことがない。
家族から愛された記憶もない所為か、どうすればそのような特別な感情が持てるのかも分からなかった。
今までも彼のような想いを含んだ視線を送られたことはあったため、それが好意の一種だとは理解していた。
しかし、それだけだった。
これまではそれを受け流すだけで良かったが、婚約者となる彼に同じ対応でいいはずがない。
しかしながら、だからと言って同じものを返す術がない自分に若干のもどかしさを覚えた。
それでも、それを表面には出さずにアランと他愛のない会話を続けた。
そのため、フィルにそろそろと声をかけられた時、レンリは内心安堵した。
また晩餐会で、とにこやかに去って行くアランに笑顔を向けながら、ふと傍に立つホセを見上げた。
ホセはレンリと同じ紫色の瞳で優しくレンリを見つめている。
「殿下は、どうでしたか?」
「優しい方のようで、安心しました」
「そうですか」
そう言えば、ホセからも似たような視線を感じることがあったとレンリはぼんやりと考えた。
しかし、ホセのは明らかに他者とは違う。
明確に何がとは言えないが、とにかく他とは異なるのだ。
「戻りましょう。晩餐会に向けて侍女達がまた張り切っていますから」
ホセに促されてレンリは頷いた。
ただ分かるのは、ホセの傍はとても安心できるということだけだった。