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【星の行方 2】

 その夜は妙な胸騒ぎを覚えた。


 就寝にはまだ少し早く、自室で本を読んでいたレンリは突然胸を掠めた不安に思わず本を閉じた。

 不意に目を向けた窓の外には満月が見える。

 優しい光で淡く周囲を照らすその様は、普段であれば心を穏やかにさせてくれるはずなのに、何故かより一層胸をざわつかせた。


 落ち着かない心地で、レンリは立ち上がり扉の方へと向かった。

 部屋の外にはいつもホセが控えてくれている。

 信頼している彼が大丈夫だと言ってくれれば、この言い知れぬ不安が消えてくれるような気がしたのだ。


 しかし、扉を開けて見遣った先にホセはいなかった。

 その代わりに控えていた騎士の男性は、姿を見せたレンリにやや緊張した面持ちで礼をした。


「レンリ様、どうされましたか?」

「……少し外を歩こうかと」

「お供します」


 ホセだって超人ではない。

 休息が必要なことぐらい分かっていたはずなのに、けれどいつだって自分の傍にいてくれたため、そこにいてくれるものだと当然のように考えていたことをレンリは恥じた。


 しかし、それを読み取らせないように微笑んだ。

 レンリの言葉を聞いてか、近くにいたエマがサッと近寄りレンリにショールを羽織らせると、すぐ後ろに控えたのが見えた。

 自分の根拠のない憂慮に付き合わせてしまうのは申し訳なかったが、それでも今はとても眠れそうになかったため、レンリは二人を連れて少しだけ周囲を散歩することにした。


 静かな夜だった。

 聞こえるのは風の音と、それによって揺れる草木の音だけだった。


 少し歩けば胸騒ぎも治まるかと思ったが、どうやらその考えは外れたらしい。

 幾らか歩いてみたが胸に巣食う不安が消えることはなく、小さく息を吐き出したレンリを心配するかのようにエマがゆっくりと近付いてきた。


「お部屋に戻りましたら、よく眠れるようにハーブティーを用意いたしましょうか?」

「ええ、そうね。お願いしようかしら」

「はい、お任せください」


 これ以上付き合わせるのもどうかと思い、レンリは来た道を戻ろうと踵を返した。

 しかしそこで、遠くから怒号に似た声が耳に飛び込んできたため思わず足を止めた。

 その声がどこから聞こえてくるかは反響していて上手く判断ができない。

 遠いせいか話の内容も分からないが、ただ話しているにしては険悪な雰囲気な気がした。


 不安が大きくなって両手を胸の前で握り込むと、エマが素早く前に出た。


「様子を確認して参ります」


 声を気にかけるレンリのことを考えてか、レンリの傍を離れられない騎士の代わりにエマがそう申し出た。

 そして、レンリの返事を待たずに声の方向を辿るように早足で向かっていく。

 その後姿を半ば呆然と見送っていると、突然言葉では言い表せない程の恐怖が沸き上がった。

 すぐに呼び止めようとしたが、その姿は丁度角を曲がって見えなくなってしまった。


 数秒の後、レンリは意を決して騎士を見つめた。


「私達も行きましょう」


 騎士は戸惑った様子で頷いた。

 侍女が確認しに行ったのに行く必要があるのかと言いたげではあったが、彼も声の正体が気になっていたのだろう、是の返事は早かった。


 エマの消えた方向へと足を進めて次に聞こえたのは、小さな声でも聞き間違うこともなく、悲鳴だった。


 その後の騎士の動きは速かった。

 レンリが悲鳴だと認識した時には既にレンリの背後から前へと身体を滑らせ、その手は腰元の剣の柄へと触れている。

 厳しい表情で周囲を警戒し、緊張感を滲ませたままレンリへと目を向けた。


「安全が確認できるまで、傍をお離れになりませんように」


 レンリは無言で頷いた。

 耳を欹てると遠くの方から喧噪が聞こえてきた。

 悲鳴や怒号ばかりで場は混乱しているのか明確な情報は何も入ってこない。

 ただ、ストラトスで野獣と遭遇した時と状況が似ているような気がして、レンリは身体が強張った。


 王城内でまさかそんなことあるはずがないとその考えを否定する一方で、ストラトスでだって壁で囲まれた城下町でそんなこと起こるはずないと同じことを考えていたのではないかと疑問が過ぎった。


 騎士は声の出所を探るように周囲を見回し、そこから遠ざけるようにレンリを誘導した。


「――きゃあああああああ」


 比較的近くから悲鳴が聞こえた。

 その声は先程見送ったエマのものと酷似していたため、レンリは足を止めて振り返った。


「レンリ様、早くこちらへ!」

「っですが、今の声は」

「何が起こっているか分からない以上、先ずは御身の安全の確保が先です」


 騎士の言うことは尤もである。

 それでも、レンリが外に出るなどと言わなければ、彼女はここに来ていなかったはずなのにという焦りがあった。

 しかし、今ここで立ち止まってはこの騎士を困らせてしまうことも理解していた。


 レンリは少しの逡巡の後に大人しく騎士の指示に従った。

 騎士はレンリの判断に安心したように息を吐き出した。


「レンリ様を安全な場所に送り届けた後に、彼女の様子は私が見に行きますので」

「……はい」


 まだ何かあったと決めつけるには早計だ。

 しかし、嫌な予感はずっと重くのしかかっている。


 突として、背後からびちゃ、びちゃ、と何か水を含んだものが落ちるような音がした。

 その音は段々と近付いてくるようで、レンリを庇うように騎士が前へと歩み出た。


「……どなたですか?」


 騎士が問いかけたが返事はない。

 月は明るく周囲を照らしているが、影に入ってしまえばそこは闇だ。

 闇夜の中にいる者の姿形は何一つ分からない。


 ただ、返事がない時点で騎士はそれを侵入者と位置づけたようで、鞘から剣を抜き取って構えたのが見えた。


 少しずつ、それは月明かりの元へと姿を現わした。


「っ」

「っなんだ、これは」


 レンリは悲鳴が出ないように反射的に口元を両手で覆った。

 騎士の声には動揺が滲んでいる。


 現れたのは野獣ではなく、人の形をした不気味な大きな黒い塊だった。

 高さは二メートル程あるだろうか。

 通常の人よりも縦にも横にも大きいそれは泥々とした形状のようで、歩く度にベチャリと音が鳴り、その足下には何かを引きずったかのような黒い跡ができていた。


 人であれば本来目がある場所は深く窪み、そこには二つの丸い闇があった。

 そして、爛れるように開け放たれた大きな口元は真っ赤に染まっており、クチャクチャと音を立てて何かを噛むように絶えず動き続けている。


 その時、ポトリとそれの口から何かがこぼれ落ちた。

 落ちた先に目を遣って、レンリはヒュッと息を呑んだ。

 それは、人の指だった。


「お下がりください!」


 鋭い声に条件反射のように従って二、三歩と後退した。


 騎士は黒い塊の方へと駆け出し、近付きざまに素早く剣を振り下ろした。

 黒い巨体は見た目通り俊敏には動けないようで、切られるままに真っ二つに引き裂かれると、びちゃっと言う音と共に地面に倒れ伏した。


「……一体なんなのでしょうか。野獣の類ではなさそうですが」


 騎士は観察するように切り伏せたそれを見下ろして、眉を顰めた。


「動きも鈍い。苦労するような相手ではありませんが、被害が出ているのは間違いなさそうですね」


 先程黒い塊から零れ出た指を注視した騎士は、考え込むように自身の口元に手を当てた。


 その指が誰のものなのか、考えると怖くなりレンリが堪らず顔を背けると、騎士は慌てたように剣をしまってレンリの傍に寄った。


「すみません、お見苦しいものを。すぐに部屋に戻りましょう」

「いえ、お気遣いありがとうございます」


 声が震えないように固く拳を握り込み、黒い塊と騎士から目を逸らして部屋に戻ろうと踵を返した時、再びあの水を含んだ音が聞こえた。


 慌てて振り返ると、青白い顔をした騎士と目が合った。

 視線を少し下げると彼の胸辺りに蠢く黒い塊が見え、瞬きをした次の瞬間にはその白い騎士服は黒い塊を中心に赤く染まっていく。


「っお、お逃げく、ださい」


 騎士は歯を食いしばって剣を抜き、振り返りながら剣を振ったが、途中でバランスを崩して膝をついた。

 剣はカランと音を立てて床へと転がった。

 そこで初めて、彼の背中から胸にかけて黒い塊の手が突き抜けていたことを知った。


 悲鳴を押し殺してレンリは駆け寄って騎士を支えた。

 騎士は苦しげな表情で声を張り上げた。


「な、何をしているのです。お逃げください!」

「っできません」


 レンリは床に広がる赤色に恐怖しながら彼を支えた。

 いつの間にか、黒い塊は二つに増えていた。

 レンリは目を逸らさずに前を見据えた。

 勝手の分からない不気味な相手だが、自分が見ていればこれ以上彼に攻撃が当たることはない。


 騎士は荒い息を繰り返している。

 時折、何かが絡まったような雑音混じりの呼吸をしているため、すぐにでも治療が必要なことが窺えたが、立つ気力もないのか支える手にかかる重みが次第に増していった。


 流石にレンリに成人男性一人を運ぶような力はない。

 竜化すればできるかも知れないが、その場合は必然的に敵から目を逸らすことになる。

 最善の動きはどうすることかと考えを巡らす途中にも黒い塊はこちらへと手を伸ばし、その度にジュッと蒸発するような音と共に弾かれている。

 その度に恐怖で気が散ってしまう自分の思考をレンリは叱咤した。


 刹那、レンリの横を何かが風のような早さで通り過ぎ、瞬きをした次の瞬間には前に立っていたはずの黒い塊はぐちゃりと倒れ込んだ。

 それと代わるようにそこに立つ人物を見上げ、レンリは安堵で瞳が潤むのを抑えられなかった。


「――っレンリ様、お怪我はありませんか」


 いつものどこか余裕のある表情ではなく、焦りの浮かんだその顔つきを見ると申し訳ない気持ちになったが、同時に何故か嬉しくも思った。


「ホ、セ」


 声は震えてしまった。

 そのことが情けなくてレンリは目を伏せた。


 王として常に冷静でいることを義務づけられているというのに、不測の事態に上手く対応できない自分が酷く惨めに思えたのだ。


 ホセは足早にこちらへ近付くとすぐ傍に膝をついた。


「怖い思いをさせてしまい、申し訳ございません」


 それでも、優しい声で以前と同じ言葉をかけてくれるホセに、確かに救われた気持ちになったのであった。


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