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【 耳飾り 7】

 異変に気付いたのはその時だった。


 どこからか悲鳴のような声が聞こえた気がして、アランはレンリをその背に庇って周囲を警戒した。

 他にも悲鳴を聞きつけた者がいたのだろう、雑踏に満ちた困惑は次第に混乱へと変わっていった。


「っや、野獣だ!」


 誰かの叫び声に、人々はすぐに反応を見せて我先にと逃げ出した。

 しかし、肝心の野獣の姿は未だ確認できていないため、人々はどこに逃げるべきかも分からず、まさしく蜘蛛の子を散らすように四方八方へと走り去っていく。

 中には竜化して飛び立つ者もいた。


 押し寄せる人から守るように、アランはレンリの肩を抱いて引き寄せた。

 街中に野獣がいることの真偽を先ず第一に問うべきだろうが、それが真であった場合それを考える時間すら惜しい。

 今すべきことは野獣がどこにいるのかを見極め、いち早くそれから遠離ることだ。


 アランは冷や汗を流しながら注意深く目を動かした。

 おそらく、騎士を撒く途中でロクスも撒いてしまったのだろう。

 緊急事態だというのに、今彼がここに駆け付けてこないと言うことはそういうことなのだ。


 その時、飛び立った竜に飛びかかるように黒い影が跳躍した。

 その影を目で追うと、まさに竜の尾に野獣が爪を引っかけるところであった。

 その様子を見ていた周囲から悲鳴が上がったが、その爪は何かに弾かれたように空を裂き、野獣はそのままバランスを崩して地に落ちてくる。


 落下による衝撃音は想像以上に近いところから聞こえたため、アランは血の気が引く思いがした。

 危険な生物が、護衛もいない今、すぐそこにいる。


 辺りが絶叫に包まれる中、アランはすぐにレンリの手首を掴んだ。


「っ待ってください」


 自分に比べて弱い力だが、それでも意思を持った声と共にアランをその場に引き留めたのはレンリだった。

 アランは焦燥感に駆られて声を大きくした。


「っレンリ殿、野獣がすぐそこにいます。早く逃げなくては!」

「私のルバヌスは守護です。ここに残れば被害が抑えられます」


 レンリの瞳に焦りや動揺といったものは見られなかった。

 恐怖の感情すら見えないその冷静な様子に感化されて、アランも少しだけ落ち着きを取り戻した。


「……そうだとしても、貴女や私の立場を考えたら、」

「今の私は、どう見ても町娘でしょう」

「冗談を言っている場合では――」


 再び耳を劈くような悲鳴が聞こえた。


 ビクリとして振り返ると、足をもつれさせて倒れた女性に今にも襲いかからんとする野獣の姿が見えた。

 最悪の結末を想像して、せめてレンリの視界に入れないようにとその目を塞ごうとしたが、レンリはそれを躱して女性の方へと歩を進めた。

 それを止めようと慌てて握る手に力を入れたアランの目の前で不思議なことが起きた。


 女性に襲いかかろうとした野獣の攻撃は、まるで見えない壁に阻まれているかのように、何一つ当たらなかったのだ。


「アラン様、手を離してください」

「なにを」

「彼女、恐怖に竦んでいるようですので手を貸してあげなければ」


 攻撃が当たらず苛立って咆哮を上げる野獣と、そのことに困惑しながらも恐怖で動けない女性。

 レンリはそちらから目を離さないまま真剣な様子で告げた。


「……危険です」

「私のルバヌスを見たでしょう。大丈夫です」


 周囲の者は誰一人動かない。

 自分を含めて、危険を冒してまであの女性を救おうという気概のある者はいない。

 只一人、目の前にいる彼女を除いて。


「……では、私も行きます」


 アランは覚悟を決めた。

 野獣を退ける自信も力もない自分は、本来であれば逃げるのが正解なのだろう。

 しかし、折れる様子のないレンリを一人にはできないし、してはいけない。


 レンリを守る形で野獣に近付く。

 周囲は恐れ知らずなその行動を止めようと声をかけてくれるが、近くまで来てくれるわけではない。

 かくいう自分も、恐怖で足の動きが鈍っている。


「立てますか?」

「っひ、い、いえっ」


 女性は過呼吸気味になっていた。

 しかし、助けるために近付いてきてくれたレンリとアランの姿を見て、恐怖に歪んだ表情の中にほんの少しの安堵を覚えたようで涙を流した。

 レンリは上体を起こした女性の背をゆっくりと撫でた。


「大丈夫。あの野獣は貴女を害することはできません」

「は、いえ、っひ」


 今この瞬間にも自分よりも数倍大きい体躯の野獣は、その鋭い爪と牙をこちらに向けて何度も振りかざしている。

 そのどれもが決して当たることはないと知っていても、それでもアランは恐ろしかった。


「では、怖くなくなるまで一緒にいましょう。一緒なら大丈夫でしょう?」


 女性は涙に濡れた顔でこくこくと頷いた。

 レンリは女性に微笑みかけた後で、僅かに周囲に視線を走らせた。

 その表情は、どこかアルデラ王を彷彿とさせる威厳があった。


 人集りの中に一人、比較的表情に冷静さがある者を見つけると、レンリはすっと目を細めた。


「お願いがあります」

「え、お、俺?」

「はい。騎士の方が街の中を警邏しているのを見かけました。この騒ぎを聞いて既に向かってきてくださっているかも知れませんが、呼んできていただきたいです」

「わ、分かった」


 指示を受けて男は脱兎の如くに走り去った。


 それと同時に、目の前の野獣が当たらない攻撃に痺れを切らしたのか、物陰に隠れながらも窺うようにして残っていた人達の方へと標的を変え高く跳躍した。


 アランは自分から野獣が離れたことに安堵した。

 いや、してしまった。

 危険の矛先が他でもない自分の国民に向いたというのに。


 周囲はまた悲鳴に包まれた。


「アラン様、この方をお願いしても?」

「え」

「私の力は対象を視界に捉えてなければ意味がないのです。野獣が私の視界外に行ってしまっては作用しません」


 レンリの瞳に焦りが見えたが、流石にそれは了承できなかった。

 レンリのルバヌスがいくら守ることに長けていても、自分の傍を離れさせることはできない。


 アランが答えあぐねていると、ものすごい早さで何かが野獣に近付いていくのが見えた。

 それが人だと分かったのは野獣が血飛沫をあげて倒れ込んだ後で、白い騎士服を身に纏った彼には返り血すらかかっていない。

 息の根を止めたのを確認し終えたのか、剣に付着した血を払うように一振りしてから男は自然な動作で刀身を鞘にしまった。

 まさに一瞬の出来事である。


 遅れて人々から歓声が上がったが、それを無視して早歩きでこちらへと近付いてくる男は、騎士服と同じく真っ白な髪から覗かせる額に珍しく汗を浮かべていた。


「ホセ」


 レンリの声に安堵が滲んでいるのが分かり、胸の奥がズキリと痛んだ。

 それは、彼女の一番近くにいた自分には与えられなかったものだ。


「ホセ、怪我はありませんか?」

「それはこちらの台詞です」


 近付いてきたホセはレンリに怪我がないかを確かめるように視線を動かした。

 厳しかった表情は、彼女の無事が分かると幾分か和らいだようである。


「もう大丈夫です。騎士の方が倒してくれました」

「うぇ、ん、っは、はいっ」


 女性はボロボロと涙を流しながら、漸く生を実感できたのか顔に少しだけ笑みを浮かべた。

 アランも似た心地であったが、しかし、刺すような冷たい視線がホセから向けられていることに気付いて口を引き結んだ。


「……殿下。何か言うべきことはありませんか」

「レンリ殿を危険に巻き込んだこと、深くお詫び申し上げる」


 唇を噛みながらホセに向かって頭を下げると、レンリが慌てたように立ち上がった。


「アラン様!」

「謝罪の相手が違うのでは?」

「ホセ、やめなさい。逃げようと提案してくださったアラン様を引き留めて危険に巻き込んだのは私の方です!」


 レンリに庇われるように立たれて、アランは余計に自分を情けなく思った。


「違います。そもそも護衛を撒くなんてことをしなければ、このようなことは起こりえませんでした」

「それに了承したのも私です」

「……彼は間違ったことを言っていません。不安に思っていた貴女を身勝手にも連れ出して、危険な目に遭わせた。怪我がないからと言って、許されることではありません」


 一息で告げて再度頭を下げた。

 冷たい視線が依然として自分に突き刺さっているのを感じた。


「アラン様、頭を上げてください。私が我儘を申したのです」


 焦りと困惑が混じったような声につられて頭を上げると、レンリは少し安心したようであった。

 それでも王族が一介の騎士に頭を下げたことを気にしているのか、その顔は晴れない。


 アランだって軽々しく頭を下げたつもりはない。

 自分の責任を理解しているからこそ、ホセがそのような瞳で自分を見る理由が分かるからこそ、頭を下げたのだ。

 彼女を守る技量もないのに、護衛を撒くなんてことしてはいけなかったのだ。


 寧ろ、あの時恐怖に怯えたのは自分で、冷静に場を見ていたのは彼女の方だったなんて、そんなこと。


 レンリの右耳にかかる宝石がキラリと光ったが、その光はレンリの向こうに立つホセの瞳とも同じ色だと気付いて、アランは拳を握り締めた。


 遠くから、焦ったように自分の名を呼ぶロクスの声とこちらへと駆け寄る複数の足音が聞こえたが、それに返事をする余裕はなかった。


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