1 ゾーイの七不思議
19:53
本を読み終えたぼくは、そろそろ学生寮に帰ろうかと立ち上がり、暖炉の火を消して、廊下に出た。忘れ物がないことを確認して、なにか夜食でも買おうかと、自動販売機の前を歩く。ターキーサンドウィッチ、ハンバーガー、牛丼、フライドポテト、ポテトチップス、ブリトー、フィッシュアンドチップス、ピザ……、どれもこれもピンとこない。
ぼくは、アルゼンチン産のワインを買って、それを飲みながら帰ることにした。
グラスにしておくべきか、ボトルにしておくべきか……、ボトルにしちゃえ。
ピッ、シャリーン、ボトン。
ぼくは、ワインボトルを開けようと、ボトルの口を捻って、舌打ちをした。安いくせにコルク付きだった。ぼくは手の平にコルク抜きを生み出して、きゅぽんっ、と、心地の良い音を楽しみ、その余韻に浸りながら、ワインの染みたコルクの香りを楽しんだ。ぼくがそう望んだだけで、コルク抜きは霧のように消え、その霧はぼくの肌に吸い込まれていった。
手の平に残ったコルクを、ゴミ箱の燃えるゴミに向かって投げた直後に、コルクって燃えるゴミで良いんだっけ、と、疑問が頭に浮かんだ。
そんな事をぼんやりと考えながら、ボトルの口からワインを飲む。
美味しい。ワインの細かい違いはあまりわからなかったけど、カヴェルネ・ソーヴィニヨンが一番好きだった。どこを気に入っているかといえば、その名前の響きが好きだった。
お酒なんてなんだって良いのだ。酔えれば。酔っている時だけは、周りのことが気にならなくなる。酔っている時だけは、肩の力を抜ける。
小等部4年の時、ぼくは突然保健室に呼ばれた。いつもは、万能の魔素をその身に宿すワルキューレの先生がいるのだが、その時そこにいたのは、精神の魔素を宿す幽霊の先生だった(ちなみにぼくは、生命の魔素を宿している)。幽霊の彼女はぼくに診断を下した。ぼくはHSPらしい。周囲の出来事や音、相手の声色や所作、そこから察せられる感情に敏感になってしまうタイプとのことだった。幽霊の先生は、ぼくに向かって、きみは精神分野で才能を発揮出来ると言ってきたけれど、ぼくはそれについてはあまり興味を持てなかった。
身を翻し、廊下の先にあるエレベーターホールに向かおうとしたところで、ぼくは立ち止まった。「あ……」
廊下の向こうから、見覚えのある女性が歩いてくる。
先程グロリアと話をしていた人。
ゾーイさんだ。
ぼくは眉をひそめた。
なにがあったのか、黒のワンピースは泥だらけで、雑草がこびりついている。
森で転んだのかもしれない。
ぼくは、なんて声をかけたものかと考えた。
あの、すみません。
「あ」ゾーイさんは、ぼくに気がつくと、足を止めて、にっこりと微笑んだ。「こんにちはっ」
可愛い声だった。跳ねるような、明るい声だ。
ぼくの顔が熱くなった。ゾーイさんの笑顔が、思いの外可愛すぎたのだ。暖房効きすぎじゃないかなここ。「あの、すみ、こんにちは」
「あなたって、確か……」ゾーイさんは、宙を見上げ、眉をひそめた。ぼくのことを思い出そうとしてくれているようだったが、話をしたことはないので、無駄な試みだった。「えっと……」
「あの、グロリアの幼馴染です。さっき、談話室のそばで話してるのが聞こえちゃったんですけど、なんか、七不思議の話とかって」
「あぁ……」ゾーイさんは顔を赤く染めた。照れているようだった。「そういう話が好きなの。馬鹿みたいよね」
「そんなことないです。面白そうだなって……、良かったら、お話聞かせてくれませんか?」
「良いよ。コーヒー飲む? それともワインの方がいい?」
「もらいます。ありがとうございます」
「すごいね。ボトルで飲んでるんだ」ゾーイさんは楽しそうな声で言った。「何歳?」
「15です」
ゾーイさんは、鼻をスンッ、と鳴らした。「タバコも吸うんだ」
「あ……」
「イケない子ね」ゾーイさんは微笑みながら、自動販売機のボタンを押した。
ピッ、シャリーン、ボトン。
ゾーイさんは、ボトルワインを取り、手にワイングラスを生み出した。
「魔法使いだから、もう成長終わってるし……」ぼくは、ぼそぼそと言った。
「そうね。じゃあ、1本飲み終わるまで付き合ってくれる?」
「喜んで。1本と言わず、2本でも3本でも」
ゾーイさんは、楽しそうに笑った。
20:36
「じゃー、空ちゃんはヴェルの冒険みたいな冒険がしたいんだね」
ぼくは、小さく笑った。「冒険って言うと厨二臭いので嫌ですけど、そうですね、旅行とかしたいなって」
相変わらず、談話室は静かだった。
ぼくとゾーイさんしかいない。
「じゃー旅人さんだねっ」ゾーイさんは、ワイングラスを揺らしながら言った。
「はい」普通に旅行がしたいんだね、で良いのではないでしょうか……、と思いながら、ぼくは頷いた。旅人も冒険も同じくらいイタい単語という感じがして、それを聞く度に恥ずかしくなってしまうのだけれど、そういったところにこだわって話を止めてもしょうがない。「ゾーイさんは、将来はどんなことを考えていらっしゃるんですか?」
「将来かー……」ソファの上で膝を揃えるゾーイさんは、ワイングラスを両手で持ち、考えるように天井を見つめた。「とりあえず、大学部に進級ねー。それから考えても良いかも。進級の前に、インターンやってみても良いかもだし、1年休暇をとって、ゲーム三昧ってのも良いかも。親から、1年も休むなら勉強しなさいっ! って言われたら、うるせーなー、ベンキョーしてんだよっ! あたしはしょーらいゲームクリエイターになんだよっ! とか言ってみたり」ゲーム厨の真似をしたゾーイさんは、その顔芸だけしか知らない人だったらおそらく想像も出来ないんじゃないかというほど上品に、ふふふっ、と、お姫様のように笑ってみせた。
ぼくは笑った。
「空ちゃんはこれから高校生だもんね」
「はい」
「楽しまないとねっ」ゾーイさんはぼくの頭を撫でた。
顔が燃えるように熱くなった。「……はぃ」
ゾーイさんの手が柔らかくて温かい。その感触が心地良い。ぼくは、ゾーイさんの胸の膨らみに目を奪われた。続いて、ぼくは、ゾーイさんの瞳を見た。
藍色の光輪と緑色の光輪のかかった、黄金色の瞳。レモンキャンディーみたいだ。グレープとキウィのフレーバーが混ざったレモンキャンディーみたい。潤んでいて、キラキラと光っていて、吸い込まれそうになる。ツヤツヤとした唇は、とても柔らかそうで、指先で触れてその感触を確かめてみたくなる。この香り……。「ゾーイさんって……」
「なぁに?」
「シャンプーなに使ってるんですか……?」
ゾーイさんは、ぼくが聞いたこともないようなブランドを口にした。
使ったことはないけど、絶対に髪に良いに決まってる。だってこんなに良い匂いがするんだから……。なんだか胸がドキドキしてきて、耳鳴りがしてきた。心筋梗塞かも。ぼくはこのまま死んでしまうのかもしれない。ぼくはツバを飲み込んだ。「香水着けてます……?」
「あ、わかる? こないだ試供品もらったの」
どこだよその店、ぼくも行こっと……。「ぼくも欲しいです……」
ゾーイさんは、ふふっ、と、優しそうに笑った。「試してみる?」
「なにをっ」
「七不思議。異世界に行けるっていうヤツ」
「……はぃ」ぼくの脳裏に浮かんだぼくとゾーイさんのロマンスは一瞬で消え去った。ぼくは、自分の性欲に自己嫌悪を抱きながら、ゾーイさんが教えてくれた、七不思議の内容を記憶した。
23:49
もうすぐ真夜中になるのに、ぼくは、まだ校舎に残っていた。
「えっと……」この用具室で良いんだよな……。
ぼくの前にあるのは、なんて事のないドアだった。
そして、ゾーイさんの話によると、このドアこそが、もう1つの世界への入り口らしい。試しにドアを開けてみれば、中は、掃除用具が収まっているだけの、小さな物置だった。ぼくは、ドアを閉めて、ゾーイさんから教えられた通りのことをやってみることにした。どうやら、それがドアをあっちに繋ぐために必要な儀式となるらしい。
ドアを1回叩いて、1秒間を置いて、もう1回叩いて、1秒置いて、2回叩いて、2秒置いて、3回叩いて3秒、5回叩いて5秒、7回叩いて7秒、最後に5本の指でドアに触れ、5点に同時に魔力を注いで……。
ぼくは、深呼吸をした。
次は……、人差し指の先で扉を上下に撫でながら、甘えた声で、呪文を唱える、と。その呪文をゾーイさんから教えられた時、ぼくは違和感を抱いて、彼女に確認をした。魔法を扱うのに、呪文など必要がないからだ。ただ、ぼくが知らないだけということもある。高等部からは呪文が必要な魔法を学ぶのかもしれない。そう思い、ゾーイさんに確認をしたところ、彼女は、胡散臭いほどに真剣な顔で、『この呪文は絶対に必要なんです。あるとないとじゃ大違いです』と言った。それはもう、今にも笑いだしてしまいそうになるのを必死で堪えているのを全力で隠しているんじゃないかというほどに真剣な声色で仰っていたので、ぼくとしては信じる以外に道はなかった。
ぼくは、もう一度深呼吸をした。
そして、ゾーイさんから教えられた、秘密の呪文を唱える。その呪文は、安い官能小説や、男が夜に見ている動画や、ぼくもたまに読んだりする二次SSの中でしか見聞きしないようなセリフだった。呪文を言った後で、ぼくは、燃えるように熱くなった顔を抑えて、その場にうずくまった。
こんなことを言っているところを見られたら一生死ねる……。いや、そもそもだよ? そもそもだ……、ぼくはただ、ドアをノックして、中にいる人に、中に入れてくださいって言っているだけだ。それならドアに用具室って書いてあるのがおかしくなるけど、それはぼくが部屋を間違えてノックしちゃったからだ。そんなところを誰かに聞かれたり見られたりしたからなんだっていうんだ。もしもそいつが勘違いしたら、そいつが、頭の中がそういうことで一杯なだけの変態だというだけのことなんだ。夜の学校で、ぼくの後ろに変態が立って盗み聞きしているって考えると、背筋がゾクゾクしてきた。後ろから物音が聞こえた気がして、ぼくは、弾かれたように、素早く周囲を見渡した。
幻聴かもしれないが、誰かが笑いを堪えているような声が聞こえた気がする。
しかしそこには誰もいない。
気のせいか……。
ぼくは無い胸を撫で下ろした。
別にぼくとしては胸なんか必要ないし、ナニとは言わないが将来股の間に移植をするつもりなので、コンプレックスに思う必要なんかないんだけれど、周りからうだうだ言われると、不思議と意識してしまう。それはともかくとして、ゾーイさんの話によると、これで、異世界への扉が開くらしい。
ぼくは、ドアノブを捻り、掃除用具室のドアを開けた。その向こうに広がっていた景色を見て、ぼくは小さく笑った。「疲れてんのかな……、ぼく」ぼくは、どこかの家の一室にいた。真夜中だと言うのに、窓からは太陽の光が差し込んでいる。
そして、部屋の中央では、彫りの深い男性が、コーヒーを飲んでいた。西欧のラテン系っていう感じがするが、堀が深いだけの日本人だって言われれば、そうな気もする。ダンディだった。デニムにTシャツで、なんかアップルストアにいそうな服装だ。彼は、足の長い、小さなスタンドテーブルに肘を乗せてくつろいでいた。そして、ぼくに気が付く素振りを見せると、崩していた姿勢を正した。彼は、ぼくに微笑みかけると、口を開いた。「よっ、いらっしゃい。初めまして」
ぼくは、小さく笑い、部屋に入った。
後ろで、ドアが、パタリと閉まった。
少しでも楽しんで頂けましたら、評価やブックマークをお願いします!(*´∀`*)