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魔法使いの世界を旅する一年(改訂版)  作者: Zezilia Hastler
旅のはじまり
18/23

3日目 ゾーイとの別れ

 向かった先は、ニホニアン・ガムラスタンと呼ばれるエリアだった。背が高い建物に挟まれた細い路地が張り巡らされたエリアで、ヴェネツィアのようだった。見上げれば、建物の上部には、夕陽が当たっていたが、ぼくたちをはじめとする歩行者のいる辺りまでは太陽の光が届かない。それでも不気味な感じがないのは、ヴェネツィアのように、大勢の人々が往来をしているからだろう。

 ぼくとゾーイさんは、薄暗いトラットリアに入り、そこでスパゲティを注文した。

 ゾーイさんは、ボロネーゼソースがよく絡んだタリアテッレを、フォークでくるくる巻き取り、口元に運んだ。

 ぼくは、たらこスパゲティをくるくると巻き取って口に運んだ。プチプチとしたたらこの食感と塩気、刻み海苔のパリッとした食感と豊かな風味を堪能しつつも、少しだけ物足りなく思い、タバスコをドバドバとかけた。風味は崩れてしまったが、味は良くなった。

 ぼくとゾーイさんは、ビールを啜った。

 店主のジェンナーロさんは、ぼくが出した食材で、たらこスパゲティを作ってくれる、親切なアテリア人の男性だった。彼は、カウンターの向こうでたらこスパゲティを試食していた。はじめの一口を味わっている時は怪訝そうな顔をしていたが、今は、こりゃ美味い、と言った感じの顔で、幸せそうに食べていた。彼は、喜びの笑顔と遠慮がちな顔色を浮かべて、ぼくたちのテーブルへやってきた。「すまないが、その、ノリってやつと、魚の卵をもう少し分けてくれないか?」

 ぼくは、笑顔を浮かべながらも、少しだけ躊躇した。「ごめんなさい、残りは自分用なんです。これから長い旅に出るので、その道中で食べようかと」

「じゃあ、売ってくれないか? 仕入れ値はいくらだ?」

「ごめんなさい。わたしたち食事中なの」ゾーイさんは言った。「わたしが今度持って来ますから、今はご遠慮願えますか?」

 ジェンナーロさんは、居心地悪そうにたじろぎ、恥ずかしそうに顔を赤らめた。「悪かった」

 ゾーイさんは頷いた。

 ぼくは、リュックサックから、XLサイズのたらこの缶詰3つと、刻み海苔の入ったパックを取り出した。「あげます。美味しいですよね。たらこスパゲティ」

「良いのか?」ジェンナーロさんは、顔を輝かせた。

 ぼくは頷いた。「もちろんです。ぼくは、食べようと思えばいつでも食べられますから」

 ジェンナーロさんは、ぼくの右手を取って、手の甲にキスをした。「ありがとよっ! お礼に今テーブルに乗ってる分と、ビールは……、いや、全部タダで良いぜっ! 好きなだけ食べて飲んでってくれ!」

「じゃあ、もう二つおまけで」ぼくは、たらこの缶詰をジェンナーロさんに手渡した。

「ひゃっほーうっ!」ジェンナーロさんは、ご機嫌で厨房に入っていった。

 ゾーイさんは、小さく笑った。「ただになっちゃったね」ゾーイさんは右手の手の平をこちらに伸ばしてきた。

 ぼくとゾーイさんはハイタッチをした。

 ぼくはビールを飲んだ。「ちゃんとたらこの缶詰持ってきてあげてくださいね」

「ソラちゃんはほんと良い子ね」ゾーイさんは、身を乗り出して、ぼくの頭を撫でた。

 ぼくはほくそ笑んだ。「そう言われると悪い子になりたくなりますね」

「可愛い」ゾーイさんはぼくのほっぺを両手で包んで、ぼくのおでこにキスをした。

 おでこの辺りから、じんわりと、心地良い熱が、顔に、首に、胸に、全身に伝っていった。

「わたし、明日の朝には出ちゃうつもりだけど、ソラは?」

「ぼくは、そうですね。ウェスタン・ニホニアの方に行って、もう1泊して、それでラシアへ行こうかと」

「良いわね」ゾーイさんはビールを飲み干して、人差し指を立てた。

 やってきたウェイターに、ゾーイさんは1リットルのビールを4杯注文した。

 笑顔で応対をするウェイターの口元には、刻み海苔がついていた。

「たらこ効果抜群ね」

「ですね」ぼくは小さく笑った。「さっきのゾーイさん、すっごく怖かったんですけど」

「ゾーイで良いわ」ゾーイさんは、ふふっ、と、上品に笑った。「ごめんね。ソラの反応が遅れたり、そっちの剣を壊しちゃったりしたら、寸止めするつもりだったんだけど……」

 ぼくは頷いた。「どうしてあんなことを?」

 ビールが運ばれてきた。

 ゾーイさんは、ウェイターに笑顔を向けた。「ありがと」

 ウェイターは、幸せそうな笑顔を浮かべて、テーブルから離れていった。

 多分、ゾーイさんのような美女と、間近で微笑みあったからだろう。

 それだけのことで相手をそれほどまでに幸せに出来るなんて、ゾーイさんには不思議な魅力が宿っているようだ。

 ゾーイさんは、ビールを啜った。「わたしも、この世界を旅したことがあるの。雄大な自然が広がっていて飽きないわ。でも、ある日、雄大な自然の先に、小さな村を見つけたの。人々は素朴で温かかった。でも、その日の晩、バーから宿に帰る途中で、さっきみたいに襲われた。相手は3人で、返り討ちにした。どんな場所にも、色んな人が居るんだってことを学んだわ。学園は、生徒の人間性の育成を重視しているから、問題なんて滅多に起こらない。でも、その外で生まれ育った人は違う。もっとも、そんな風に歪んでいる人なんて、本当に一握りだけどね。でも、やっぱり心配になるのよ」

 ぼくは、ビールを啜った。なんで、この人は、ぼくのことをそこまで心配するんだろう。出会って1週間にも満たない関係でしかないのに。ひょっとしたら、以前、どこか出会ったことがあるのかもしれない。ゾーイさんの友人であるグロリアとは、ぼくが物心が付く頃からの付き合いだ。もしかしたら、小さい時に、グロリアから紹介されていたのかもしれない。記憶にないけど。ぼくの脳細胞には魔素が宿っているため、記憶力は良かった。物心付いた後に出会ったことがあるのなら、忘れるはずがない。思い出そうと思って思い出せないはずはないのだけれど。ぼくは、ビールを啜った。多分、ただ、心配しすぎるタイプなんだろう。それでも、ぼくを1人にしても大事なように、ぼくの力を測ってくれ、こうして、ぼくが今から旅をしようとしているこの世界の危ないところを教えてくれている。ゾーイさんは、良い人なのだ。「ぼくは大丈夫ですよ」

「確認したかったの。ちゃんと身を守れるかなって」

「心配してくれてありがとうございます。でも、大丈夫」ぼくは、笑った。「ゾーイさんは心配性なんですね。ぼくの両親の方が気軽ですよ」

「ゾーイよ」

 ぼくは、小さく笑った。「ゾーイは心配性なんですね」

「ソラは可愛いからね」

「てへっ、知ってます。でも、ありがとう」

 ゾーイさんは笑った。「ご両親はどんな人?」

 ぼくは、学園に来てから、数回しか顔を合わせていない両親の顔を思い出した。「ぼくを尊重してくれます。父は過保護で、母の方が男らしくてあっさりしてる」

「娘だものね。わたしの父と母も、そんな感じだったわゾーイさんは、何かを思い出すように、目を伏せた。「ちゃんと、1年に何回かは帰ってあげなさい」

 ぼくは頷きながらも、心の中で首を傾げた。「……ご両親はどちらに? ゾーイさんって、どこの人でしたっけ」

「わたしはオランダ。両親はルクセンブルクの墓地にいるわ」

 ぼくは、息を呑んだ。「すみません」

「謝ることじゃないわ。もう数十年前のことだから」

 ぼくは、ゾーイさんの、プニプニで、ハリと潤いのある頬を見た。「え、今何歳?」どう見ても18歳だ。18歳だと知らなければ、少しばかり背の高い12歳って感じさえする。

 ゾーイさんは頬を膨らませて、ムッとしたような顔をした。「女性に歳聞くなんて失礼よ」

「いや……」ぼくは笑った。「女同士じゃないですか」

「ソラは男の子でしょ?」ゾーイさんは、お上品に微笑んだ。

 ぼくは笑いながら席を立った。「まあね。これから行くのは女子トイレですけど」

「やだえっち。ビール飲みすぎちゃった?」

「さっきから我慢してて……、行ってきますね」

 ゾーイさんは、ぼくを見上げて、温かく微笑んだ。「行ってらっしゃい」





 ソラが女子トイレに入ったのを見届けると、ゾーイはレジに向かった。

 レジでは、アテリア人の青年が本を読んで、ノートに何かを書いていた。「勉強?」

 青年は、ゾーイを見上げて、相手が絶世の美女だと言うことに気がつくと、精一杯格好つけた笑顔を向け、男らしさを強調した、力強くもリラックスした、暖かい眼差しを作った。「学校に通ってるんだ。ロームァの片田舎で農業を継ぐなんてまっぴらさ」

 ゾーイは、その長いまつげを瞬かせ、薄いまぶたで瞬きをした。彼女の緑色の瞳が、きらりと輝いた。「あら、何を作ってらっしゃるの?」

「ブドウだ。ワイン用のな」

 ゾーイは微笑んだ。「素敵ね」

「あぁ、でも、俺は次男だから」

「それなら、農家を継ぐ心配はいらないんじゃないかしら」

「そうでもないさ、兄貴も俺と同じで農家を継ごうと思ってない。三男は継ぐ気満々だから、俺がこうして勉強しているのは、兄弟仲を保つためだな。俺と兄貴が継がないで済めば、三兄弟みんながウィンウィンウィンだ」

「弟思いなのね」ゾーイは微笑むと、ワンピースのポケットから、長財布を取り出して、自分の肖像画が載っているFU紙幣を取り出して、レジのトレイに載せた。その時思い出した。FUカードが使えるのは、主要都市の中だけで、田舎の方に行ったら、こういった紙幣が必要になる。そのことを、ソラに伝えておくのを忘れてしまった。

 まあ、大丈夫だろう、と、ゾーイは心の中で肩を竦めた。自分は大丈夫って、あんだけ繰り返していたし、リュックサックには食料もたくさん入っていた。もしも困ったとしても、自分の学園の生徒なら、適切な手段を考え出して、なんとでもするはずだ。

 青年は微笑んだ。「ジェンナーロさんは、タダで良いって言ってたぜ?」

 ゾーイは頷いた。「そうね。確かにそう仰ってくださったけど、そういうわけにも行かないから」ゾーイは、レジの男性にFU紙幣を手渡した。「領収書もお願い」ゾーイは、レジの男性が、紙幣をポケットに入れないよう、釘を刺す意味でそう言った。「宛名は、ゾーイ・マクスウェルと、オルガ−アリシア・リンドホルムで」

「ゾーイ・マクスウェルと……、待てよ、なんて?」レジの男性は、驚いたように目を丸くして、まじまじと、ゾーイを見た。「マクスウェルにリンドホルム?」レジの青年の視線が、ゾーイの瞳、顔立ち、背丈に向けられる。「あのマクスウェル?」

 ゾーイは、上品に微笑んだ。

 レジの青年は、姿勢を整え、本とノートを静かに閉じ、レジの下にしまって、小さく笑った。「失礼いたしました」

「あら、失礼には感じなかったわ。若い頃を思い出して、むしろ楽しかった」

 レジの青年は、小さく笑った。「見目麗しい方の容姿を讃えるのは、アテリアの文化でございまして……、どうか、ご容赦を頂けないでしょうか」レジの青年の声色が変わった。興奮を抑え切れていないながらも、紳士のように落ち着いた力強い口調だ。目の前にいる女性が、ナンパの対象ではなく、自分が敬意を向けるべき対象だと気が付いたのだ。

 ゾーイは微笑んだ。「女性に優しいのね。素晴らしい文化だと思うわ」

「次回は是非、リンドホルム様とお越しください。サービスさせて頂きます」

「どうかしら。彼女、人付き合いが嫌いなタイプだから。でも、良いお店だから一緒にどう? とは、誘ってみるわ」

「ありがとうございます」

「それよりも、お釣りはいらないから、今晩は彼女にサービスをして差し上げて」

「かしこまりました」レジの青年は、トレイに領収書を載せた。「そうだ、忘れていました。当店のシェフであるジェンナーロから、名刺を預かっております。是非とも、先ほどお連れのお嬢様から頂いた食材を、今後も仕入れさせて頂きたいと」

 ゾーイは、先ほど食に対して情熱的な様子を見せていたアテリア人の男性を追い払うための軽口を思い出し、「あー……」と、考えるように唸った。レジの青年を見れば、彼は期待をするような目をしていた。唇の端には、刻み海苔がひっついていた。この青年も先程のシェフも、かつての自分と同じように、東洋の神秘に魅せられてしまったらしい。その気持ちがよくわかるゾーイは、諦めたように、暖かく微笑むと、肩を竦めた。「そうね。頂くわ」

 レジの青年は、輝くような笑顔を浮かべ、トレイに名刺を載せた。

「毎月、少量ではあるけれど、私からお届けするとお伝えください」

 レジの青年は、領収書と、上司であるジェンナーロ・パバロッティの名刺の乗ったトレイを、ゾーイの前に、そっと置いた。

 ゾーイは、それらを受け取り、財布にしまった。「ありがとう。美味しかったわ」

「光栄です」

 レジの青年は、出入り口の扉を内側に開けた。先程まではだらしのない姿勢だったのが、今は、背筋が伸びていて、暖かい、柔和な微笑みを浮かべている。

 長い間、教育者として様々な人を見てきたゾーイは、この青年なら、多分辿り着きたい未来へ辿り着くことが出来るだろう、と、漠然と思いながら、青年に別れの微笑みを向けた。「ありがとう。おやすみなさい」

 レジの男性は、ゆるやかな仕草でお辞儀をした。「おやすみなさい」

 ゾーイは、自分の手で、トラットリアのドアを、優しく閉めた。鈴の音が、頭上で小さく鳴った。薄暗い通りにあるトラットリアだから、気が付かなかったが、見上げれば、空はすっかり暗くなってしまっていた。そして、街明かりを受けてうっすらと輝く雲からは、無数の冷たい雪が、ふわりと、落ちてきていた。ゾーイは、薄暗い通りを進みながら、手の中に、新緑のフェルトコートと、ターコイズのマフラーを生み出した。コートを羽織り、マフラーを首に巻き、巻き込んだ髪をうなじの所からかき上げる。肌寒かった。ゆったりと宙を舞う雪が、街灯の放つレモン色の柔らかな光を受けて輝いている。ゾーイは、深く、静かな吐息を漏らした。

 良い景色だ。

 ゾーイは、ニホニアン・ガムラスタンの中心地から、どんどん離れて行った。この先に、ゴンドラの停まった湾があったはずだ。ここは、ヴェネツィアではなく、スウェーデンのストックホルムの旧市街を元に創り出した場所で、ゾーイにとっては、久しぶりに訪れる別荘の庭のようなものだった。

 ゾーイは、石畳を歩みながら、ソラと過ごした短い時間を思い出した。自立心に溢れていて、若者らしく、自分の力を過信していて、未熟だが、優しい子だった。ソラの担任であるオレジニクからは、試験をかなりの好成績でパスし、学園の仕事を任せても問題なく、十二分以上にこなせるだろう、という報告を受けていた。一方で、学園の仕事は引き受けないだろう、とも。自由を愛する人柄だと言うことは、この短い間で分かったことだった。そして、彼女が人から見られ、身勝手な評価を与えられることを嫌うタイプであることも。彼女がベストパフォーマンスを発揮出来るのは、彼女が1人っきりでやりたいようにやっている時だけであり、そして、魔法使いだろうと人間だろうと、1人の力で出来ることなど、たかがしれている。

 彼女に仕事は任せられない。

 それが、ゾーイの出した結論だった。

 彼女は、学園の理事長だった。そして、数えるほどしか存在しない、数百年の時を生きる始祖の魔法族の1人でもあった。始祖の魔法族のみが持つ膨大な魔力は、1つの巨大な世界を創り出したり、無数の分身を生み出して、学園に在籍する無数の生徒と直接コミュニケーションを図ってみたりと、様々なことを可能とする。

 ゾーイは、トランジットエリアでのオルガとの会話を思い出しながら、迷路のような路地を進んで行った。

 オルガは、新聞の記事に目を向けながら言った。『──今、AWで何かが起こってる』

『何かって?』

『闇落ちのドラゴンが復活するって噂だ』

『あれは、ヴェルたちが倒したのでしょう? 封印をしたんじゃない。殺したはずよ』

『そうだ。だから、復活って騒いでいるのは、AWの田舎者たち。かつての闇落ちのドラゴンの信奉者たちに動きがあったと、わたしの故郷の人間たちが言ってた』

 ゾーイは、少しの間で様々なことを考え、口を開いた。『あの子』ゾーイは、ラウンジの外にいるソラを指さした。

 オルガは、ゾーイの人差し指の先が示す、幼い、東洋の少女を見た。素朴で、幼さが残っているが、端正な顔立ちをしていた。

 少女は、オルガに向かって、少し遠慮したような微笑みを向けた。

 オルガは、少女に向かって、ぎこちなく微笑んだ。子供は好きだが、苦手だった。『良い子だね』

『でしょ。これからAWを観光するって』

『引き留めな』

『無駄よ。引き留めたとしても、勝手に行っちゃうタイプ』

 オルガは肩を竦めた。『そうなれば君の責任じゃないな。だが、今止めないで、彼女が危険に巻き込まれれば君の責任になるぞ』

 ゾーイは頷いた。『わたしにも15の頃があったからわかるけど』

『700年前のことか? おばあちゃん』

『黙りなよお嬢ちゃん。あたしゃまだピチピチだよ』ゾーイは、冗談っぽく言って、お上品さなどかけらもない声で、楽しそうに笑った。

 オルガは肩を竦めた。

『結局その時期に抑圧された思い出って、かなり長い間ひきづることになるのよ。彼女はまだ真っ直ぐに育つことが出来る。ただ、誰かの手によるそれとない導きと、庇護があればね』

『真っ直ぐにか。人は、遅かれ早かれ、酸いも甘いも経験して、ありふれた歪み方をして、平凡な大人になるものだ』

『わたしが彼女に望むのは、かつてのあなたに望んだものよ。あなたは見事に、わたしが望んだ通りの人に育ってくれた。思いやりがあって、優しくて、醜悪に歪んだものとは無縁で、自分らしく、清らかな心を持った人に。ひねくれてるけど、ちゃんと優しい子だってことを、ちゃんとわかっているわ』

 オルガの頬が、ほんのりと赤く染まった。『そういう恥ずかしいことを言うから、君とは話したくないんだ。君が守ってやれ』

 その時、ニホニア行きのゲートが開くアナウンスが流れた。

 ゾーイはソラに向かって軽く頭を下げ、オルガは再びソラを一瞥した。

 ゾーイは、戯けるように頬を膨らませた。『それなら提案なんだけど、わたしがあなたの故郷のセウェードゥンがやろうとしていることをやってあげるから、代わりにセウェードゥンの人間にあの子を守らせて』

 オルガは、ゾーイを見上げた。『君1人の方が、我が祖国の人間数百人よりも有能だと? いくら君でも、でかい口を叩きすぎじゃないか?』

 ゾーイは、上品に、自信たっぷりに笑ってみせた。『バカね。あの子1人を守るだけなら、数百人どころか、1ダースもいらないでしょう。あの子、1人で旅をしたいみたいだし、あなたと同じで1人が好きなタイプだから、離れたところからそっと見守ってあげて。危なくなったらそれとなく助けてあげたり、無礼なことがあったらそれとなく学ばせてあげたり、そんな感じ』

『守る必要があるとは思えないけれどね。そもそも、闇落ちのドラゴンが復活するとして、連中の起こすテロに遭遇する確率なんて、雷に打たれるのとどっこいどっこいだ』

『私が言いたいことはわかるでしょう? ただ彼女を守るだけの人が欲しいなら、あなたにお願いしたりはしないわ』

 オルガは、ゾーイから視線を外し、新聞に視線を向けた。『人選に1日欲しいな』

『3日待つわ。準備が出来次第、わたしはセウェードゥンに向かう。今日はホステルに泊まろうと思うの』

 オルガは、何かを思い出すように、宙を見つめた。『ホステル?』

『そう、前行ったでしょ?』

 オルガは頷いた。『わかった』

『彼女、賢いし勘も良いから、気づかれないように、上手に見守ってあげてね』

『それも考慮して、人選をするよ』

『信頼してるわ』

 オルガは、ゾーイを睨みつけた。『わたしたち何年の仲だっけ?』

『あなたが生まれた時から知ってるから、400年以上にはなるわね』

『そうだろ。信頼がどうこうといった安っぽい言葉は二度と口にしないでくれ。恥ずかしい』オルガの顔は、新聞に隠れていたが、その顔は赤く染まっていた。

 ゾーイは優しく微笑んだ。『可愛いわね。──』

「──ゾーイ様」

 海岸沿いで、月に見惚れていたゾーイは、左から聞こえてきた声に、そちらを見た。

 そこには、ユアンとノエルとビルギッタがいた。

 ゾーイは、控えめに首を傾げた。「あら、2人は?」

「ソラ様を見守らせています」ビルギッタは、容姿に似合わない、厳かな口調で言った。

「あの子をそんな風に呼ばないであげて。わたしに対しても不要よ」

「そういうわけにはいきません」ビルギッタは、相変わらずの厳かな口調で言った。

「あら、それなら一緒に仕事は出来ないわね」ゾーイは、戯けるような口調で言った。

「それなら、あの子を守るという話もなかったことになります」

 ゾーイは、ビルギッタを見下ろし、微笑んだ。

 ビルギッタは、たじろぐ様子もなく、ゾーイを見上げた。

 教育者として、数百年の時を生きてきたゾーイには、その眼差しを見ただけで、ビルギッタの積み上げてきた過去や、彼女の気持ちや決意がわかった。

「その年で大仕事を任されたわね」ゾーイは、落ち着いた口調で言った。同僚と認めた幼い少女に対しての敬意を示すためだった。

「わたしはただの伝言係です」ビルギッタははっきりとした口調で応じた。

 ゾーイは頷いた。「話を聞くわ。闇落ちのドラゴンの名前は?」

 ビルギッタは頷いた。「私達の掴んだ情報によれば、その者の名前は、ヴェル、と言うらしいです」

「ヴェル?」

 ビルギッタは頷いた。

「ヴェルって、あのヴェル?」

「はい」

「前の闇落ちのドラゴンを殺したあのヴェル?」

 ビルギッタは、同じことを何度も確認してくるゾーイの様子にたじろいで、ノエルを見上げた。その幼い顔はまるで、ねえ、わたし何か間違ったこと言った? と、母親に確認をする、幼い少女のようだった。

 ゾーイは、そんなビルギッタの様子に胸の奥を心地良く締め付けられながら、頬が緩みそうになるのを必死でこらえた。

 ノエルは、ビルギッタの頭を撫でた。「ゾーイ様。確認は取れていませんが、おそらく、間違いはないかと」

 ゾーイは、頬に手を当て、憂いを帯びた眼差しで月を見上げ、ため息を吐いた。その情報が正しいとすれば、面倒臭いことになる。何しろ、ソラは、ヴェルに会いたがっているし、それを旅の目的の1つに定めてもいる。彼女がヴェルに会うことなどまず無いだろうが、それにしても、彼女が願望を叶えるために起こす行動が、現在の情勢と兼ね合わせることで、複雑な状況を招かないとも限らない。「困ったわね……」

 ユアンも、ノエルも、ビルギッタも、何も言わずに、ゾーイを見ていた。

 静かに思考を始めようとしたゾーイは、思考に夢中になるフロー状態に入ってしまう前に、3人を見て、この3人はなんで自分を見ているのかしら、と考えた。

 そして、自分の言葉を待っているのだと気付いたゾーイは、口を開いた。「そうね。まずは、事実確認ね。ヴェルが新しい闇落ちのドラゴンの存在に気付いて、再び自分で止めようとしているっていう可能性もあるでしょう」

 ゾーイの言葉に、ユアンとノエルは暗い顔をして、ビルギッタは顔を輝かせた。

 ゾーイは、にっこりと微笑んで、頷いた。「まずは、クラリッサ・パーキンスに会いましょう。彼女なら、恐らくわたしたちよりもヴェルの現状に詳しいわ。主観が混じってはいるでしょうけど、有力な情報源になる」

 ユアンは首を横に振った。「どこにいるかわかりません。あのストーカー、いえ、クラリッサも、ヴェルも」

「クラリッサを探し出すのは簡単よ。グロリア・グローティウスと、彼女の友人を何人か、チームに引き入れるわ。異論は?」

 ユアン、ノエル、ビルギッタの3人は、口を揃えて、ありませんと答えた。

 ゾーイは、満足したように頷いた。





 便秘が治ったことに神の奇跡を感じながらトイレから出ると、テーブルの上が変だということに気がついた。ぼくの席の前は、トイレに入る前と同じだが、ゾーイさんの席の前が、綺麗に片付いている。ついでに、ゾーイさんの姿もない。

 レジにいたおにいさんが、ぼくに気がつくと、笑顔を浮かべ、席を引いて、どうぞ、と、掌で示した。

 ぼくは、急に一流レストラン並みのサービスを始めたおにいさんに不信感を抱きつつも、席に着いた。「あの、向かいに座ってた人は、どこへ?」

「お連れ様でしたら、先に帰られました」

「そうですか」ぼくは、ゾーイさんの笑顔を思い出し、少し寂しくなったが、肩を竦めた。

 まあ、これで、ようやく気軽な1人旅を始められる。

「次は何を飲まれますか?」

「じゃあ、ビールのお代わりもらおっかなー」

「もっと良い酒の御用意もありますが」

「え、なになに?」

「私の故郷で作られたワインなどはいかがでしょうか」

「美味しそう。もらおっかな」

「すぐにお持ちします」

「あの、おにいさん」

「なんでしょう」おにいさんは、ビシッ、と、姿勢を正した。

 ぼくは笑った。「かっこ良いけど、さっきまでそんなじゃなかったじゃん」

「ジェンナーロより、あなた様に対しては礼儀正しくするようにとお叱りを受けまして」

「そんな風にされたんじゃくつろげないよ」

 おにいさんは、悩むような顔をした後で、「聞いてまいります」と、ぼくにお辞儀をして、厨房に向かった。戻ってきた時、彼の右手にはワイングラスが2つ、左手にはボトルが握られていた。

 彼は、ボトルとグラスをテーブルに置くと、隣のテーブルから椅子を1つ寄せ、柔らかく、丁寧な手つきで、さっきまでゾーイさんが座っていた椅子を傍にどかして、そして、新しい椅子に腰掛けた。「ご一緒しても良いかな?」

 ぼくは頷いた。「どうぞどうぞ」

「お嬢ちゃん何歳?」おにいさんは、グラスにワインを注ぎながら言った。

「15歳」

 おにいさんは、ぼくの前にグラスを置いた。「彼氏は?」続いて、自分の目の前に置いたグラスにワインを注ぐおにいさん。

 ぼくは首を横に振った。「いない」

「作れよ」

「レズなの」

「もったいな」おにいさんは、ボトルを置き、グラスを持ち上げた。

 ぼくもグラスを持ち上げた。「よく言われる」

 ぼくとおにいさんは、イタリア語で、乾杯の挨拶をした。

 笑ったのはぼくだけだった。

 おにいさんは、楽しそうな顔をした。「なんだよ」

 イタリア語の乾杯の挨拶を日本語に訳すとどういう意味になるのかと、説明すると、彼も笑った。

「ガキかよっ」

「ガキでーす」ぼくはワインを飲んだ。

 その日は楽しく過ごせた。

 おにいさんと笑いながら、途中からジェンナーロさんも交えて楽しくお酒を飲み、気がつけば、3日目は終わっていた。


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この物語はフィクションです。実在する如何なる人物、団体、出来事と本作品は関係ありません。物語内では未成年が飲酒喫煙をしてますが、彼らは人間ではなく魔法族です。本作品には未成年者の飲酒喫煙を推奨する意図はありません。自分の心と体を大事にしましょう:)

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