OP 談話室の会話
談話室には、ぼく以外誰もいなかった。
時刻は18時を回ったところ。
ちょうど授業が始まったところだ。
ぼくは、アンティークっぽい、古ぼけたデザインの椅子に腰掛けて本を読んでいた。
パチパチと小気味良い音を立てて、暖炉の中で薪が弾けた。
その音に耳を傾けている時間が、ぼくは大好きだった。
ぼくは、背もたれに体を預けた。
この校舎は地上36階、地下36階建ての超高層ビルとなっており、また、フロアごとの広さもそれなりになっている。
談話室は、フロアごとの四隅に1つずつあり、広さは25mプールほど。
壁2面を占める巨大な窓はどの談話室にもあり、そこからは、この校舎を囲う樹海や遠くに光る街の明かり、その時々で様々な様相を見せる広大な空を望むことが出来た。
テラス席なんかもあったので、晴れた日の昼間なんかはそこで日光浴をしたり、穏やかな雨の日は雨の音や雨の匂いを楽しんだりするのが、ぼくのお気に入りだった。
この談話室に好んで足を運ぶ理由は、他の談話室に比べて、どういう訳か利用者があまり多くないことと、そして、ぼくが今腰掛けているこの椅子があるからだった。
素材はマホガニー。赤いクッションは程よい厚さで、長い間腰掛けていても腰やお尻が痛くならない。
談話室のあちこちには椅子やソファやテーブルやキャビネットがあり、いずれも材質は上質な木材だった。キャビネットやテーブルの上にはランプが置いてあるが、灯りはついていない。今この談話室を照らしている灯りは、目の前にある暖炉だけだった。赤いカーペットはペルシャ絨毯で、ブーツなどの底の硬い靴で歩くと、良い感じに足音がくぐもる。ぼくはその音が好きだった。
ぼくは本のページをめくった。この時間が好きだ。誰にも邪魔されず、本の世界に入り込める。サイドテーブルからマイカップを取り、コーヒーを啜ろうとしたが、手が止まった。いつの間にかなくなっていた。
ぼくは立ち上がり、ゴツゴツとくぐもった硬い足音を楽しみながら、自動販売機へ向かった。廊下に出た途端に、足音はコツコツと、クリアで軽い足音になった。ぼくはこの音も好きだった。レッドカーペットは談話室の中だけに敷かれていた。
談話室前の廊下には複数の自動販売機がある。人の動きに反応して電気が点くタイプだ。談話室にいれば、この人工的な灯りも目に入らない。そういった配置も、ぼくがこの談話室とあの椅子を気に入っている点だった。
給水機でマイカップをすすぎ、コーヒーの自動販売機の取り出し口に入れる。次はイタリアンテイストにしようか、トルココーヒーにしようか。イタリアン(0.48FU)にすることにした。電子マネー【FU】で支払いを終えると、コーヒーが抽出され始める。
ぼくは、廊下に並ぶ無数の自動販売機の前を進み、ボックスパスタの自動販売機の前に立った。ボックスのサイズはXL。パスタの量は960g。パスタのタイプはタリアテッレ。ソースはペストー。味の濃さはミドル。エビ抜き。チーズとバジル増量。プチトマトをトッピング。切り方はスライス。料金は3.6FU。電子マネーで支払いを終えれば、自動販売機の中で調理が始まった。
ぼくは、コーヒーの自動販売機に戻り、マイカップに入った熱々のコーヒーを回収して、ボックスパスタの自動販売機の前に戻った。コーヒーを啜るも、どういったところがイタリアンなのか、さっぱりわからなかった。美味いから、別に良いのだけれど。
ボックスパスタの自動販売機は調理を続けていた。調理の音が、静かな廊下に響き渡る。表示によれば、【調理完了まであと2分】とのことだった。
ぼくはコーヒーを啜った。
その時、遠くから人の話し声が聞こえてきた。
ぼくの心臓が跳ね上がり、呼吸が一瞬止まった。ぼくは、パニックになりかけている自分に気が付き、深呼吸をすることで、すぐに冷静さを取り戻した。ぼくは耳を澄ませた。どっちだ? 左耳から聞こえてくる。左側。廊下の奥からか、階段からか……、この足音は廊下だ。距離は120mほど。ぼくは、さりげない風を装って、そちらを伺った。談話室前の廊下の照明は切れており、自動販売機は目の前で人が動かなければ灯りはつかない。こちらは暗闇。あちらは照明の下。こちらからあちらは丸見えだが、あちらからこちらはあまりよく見えないはずだ。視界に意識を傾ければ、100m先の様子も詳細に伺うことが出来た。
そちらには、2人いた。
1人は、見覚えのある人影だった。ほっそりとした、背の高いシルエット。ウェーヴのかかった、まとまりのある黒のセミロング。琥珀色の瞳。濃紺のスキニージーンズ、タイトな黒のTシャツ、グレーのジャケット、ブラウンのブーツ。グロリアだ。ぼくの幼馴染の友人で、3歳年上の先輩。
こちらは問題ない。
問題なのは、彼女の隣にいる見覚えのない女の人だった。身長は、165cm〜170cm。美しい黄金色の瞳に藍色の光輪と、その外側に緑色の光輪がかかっている。まとまりのある、セミロングのブロンド。足首まで丈のある黒のワンピースを着て、足元には先の四角いブーツを履いていた。幼さの残る、西欧系の顔立ち。彼女は、熱っぽい様子で、グロリアになにかを言っていた。
グロリアはというと、うんざりした様子だったけれど、しょうがなく付き合ってあげてる、といった感じだった。
耳をひそめ、意識をそちらに傾ければ、会話の内容が聞こえてきた。
ーー本当なんだって!
あっそ……。
マジ? 興味ないっての?
いや、あるよ、じゃあ、あんた先試してよ、明日聞かせてよ。
……グロリアのばか。
あ? ばかっつった? あんたこないだの数学で何点だった?
3点。
けっ。
違うもんっ! わたしの知性は学校のテストなんかじゃ測れないんだからっ!
はいはい……。
テストが全てとか思ってるグロリアの方がバカじゃん。
はいはい、そんで、その冒険ってヤツには、今日行くの?
うん、今から。
じゃあ、明日楽しみにしてるわ、ちゃんと帰ってこいよ、じゃ、わたしこっちだから、ダチ待ってっから。
グロリアのばかっ。
はいはい、わたしもあんたが好きだよ。
わたしも可愛いわたしが大好きだもん! ーー
女の人は、たったったっ、と、駆け出して、ぼくの横を通り過ぎていき、自動販売機のそばを通り過ぎていき、階段を駆け上がっていった。彼女が駆け足で通り過ぎたせいで、廊下に立ち並ぶ自動販売機の明かりが一斉に着いた。人工の光が目に痛い……。ふと、良い香りが、周囲を漂っていることに気がついた。さっきの女の人は、香水を着けているのかもしれない。
ぴー、と音が鳴った。見れば、ボックスパスタが出来上がっていた。ボックスパスタを手に取ったそのタイミングで、グロリアがやってきた。「ーーあ、グロリア」ぼくは、今気がついたという体を装いながら、そう言った。
グロリアは、退屈そうな目を細めて笑った。「さっきから気づいてたじゃん」
「環境の変化に敏感なんだよ。インキャだから」ぼくは、ボックスパスタを手に、談話室に戻った。
「小動物かよ」グロリアは笑った。いつもは気だるげに振る舞っているが、ぼくといるときは楽しそうな顔をしてくれる。そんなグロリアのことが、ぼくも好きだった。
「気づいてないフリすんならもっと上手くやんなよ」言いながら、グロリアも着いてくる。「さっきの奴は良い奴だよ。今度紹介してあげる」
「また今度ね」ぼくは、先程の椅子に腰掛けた。
グロリアは、サイドテーブルを挟んですぐ左のソファに座った。
ぼくとグロリアの距離は120cmほど。これが他人ならば、もう少し離れてくれないとパニックに陥ってしまうところだが、グロリアならちょうど良かった。
ぼくは、手の平に意識を集中させた。血液とともに体内を流れる魔素が、血管の内側を駆け巡る。手の平にやってきた魔素を手の平で魔力に変換し、放出をする。手の平から放出された魔力は霧状で、宙をうねり、シルバーのスパゲッティフォークを象っていく。霧状の魔力は、気体から液体、液体から固体へと、徐々に実体感を増していく。ぼくの手の中に、スパゲッティフォークが生まれた。
ぼくはパスタを巻き取りながら、ふと、自分でも、それがなにかはわからないが、自分がなにかを考えていることに、漠然と気がついた。少しして、気がついた。グロリアに訊かなくては、そんなことを思いながら、ぼくはグロリアを見た。「食べる?」
「ペストー?」
ぼくは頷いた。「タリアテッレで、チーズとバジル多めで、トッピングはスライスプチトマト」
「良いね」次の瞬間、グロリアの手に、小皿とフォークが現れた。
ぼくは、グロリアの皿に、半分の量のパスタを移した。
「ありがと」グロリアは、上品ながらも食への貪欲さを窺わせる所作でペストーをあっという間に平らげると、皿とフォークを膝に乗せた。皿とフォークは霧状になって彼女の皮膚に吸い込まれた。
お腹が空いていたのかもしれない。「凄い食欲。最後に食べたのいつ?」
グロリアは、それを思い出すように右上を見た。「三時間前。オーツとドライフルーツのバー。あとコーヒー。あと、コーシャーのインスタントヌードル。麺はノンフライで、ガーリックとトマトのスープで、乾燥チキンと乾燥トマトとバジルが入ってた」
「美味しそ」
「さっぱりしてて美味いよ。コーシャーもハラムも好き。今日はホームシックな気分だった。ちょっとね」グロリアはタバコを咥えた。彼女が指を弾くと、人差し指の先から、マッチサイズの火が上った。タバコに火をつけ、手を振って火を消す。ふぅ、と煙を吐き、一息ついたところで、グロリアはサイドテーブルに乗っているハードカバーの本を手に取った。「また読んでるの? ヴェルの冒険」
ぼくは頷いた。「面白いから」
グロリアの目尻が下がり、口角が上がった。その眼差しは、なぜか、少しばかり寂し気なように感じられた。「そっか」その声色は、やはり、少しばかり寂し気だった。
ぼくは、内心怪訝に思いながら、なにも気がついていないフリをして、頷いた。「オチがわかって読んだら、この時の描写にはこんな意味があったのか、って気付かされたりして、楽しい」ペストーを平らげたぼくは、ボックスパスタの空き箱を暖炉に放り込んだ。「一本もらえる?」
「タバコ吸うと育たないんだってよ」グロリアは、自分の豊かな胸を張った。
「悩んでないから」そういえば、グロリアは女だけど、女の子と付き合っていた時期があった気がする。ぼくはタバコを受け取り、口に咥えながら、ふと、恋人はどんな人だったんだろ……、と思った。胸が大きかったのかな……。ぼくも胸を大きくすることを考えても良いかもしれない……。なんだかんだで、戸籍上は女な訳だし、胸は女の武器だし。「火貸して」
グロリアは、自分の咥えているタバコを、ぼくに差し出してきた。
ぼくはタバコを受け取り、自分の咥えているタバコの先に火をつけた。「ありがと」ぼくは、タバコをグロリアに返した。「13の頃から吸ってたくせに。説得力ないよ」
「まあね」グロリアは笑いながら、ぼくにヴェルの冒険を差し出してきた。
ぼくは笑いながら、ヴェルの冒険のページをめくった。新しいページには3行だけしか書かれていなかった。以前も読んだ文章をさらっと読んでみる。ヴェルが馴染みの村を出発し、訪れたことのない街へ到着したところで、次のページから新しい章が始まる。ヴェルはその初めて訪れた街で、ワルキューレの美男子と恋に落ちて、激しいセックスをするのだ。その描写はちょっとした官能小説並みに想像と欲情を駆り立ててくれるもので、何度かお世話になったこともあった。この本は紀行書のコーナーに置かれているが、そういった文章があるということを知ってしまうと、置く場所を間違えているんじゃないかという気がしないでもない。もっとも、ポルノを買う必要がなくなるという意味では大助かりだけれど。ぼくは、ハードカバーの本を閉じた。
「友達は?」
ぼくは顔を上げた。「どういう意味?」
グロリアは、なんてことのない様子でぼくを見ていた。
ぼくは肩を竦めた。「あんたとケントと、他にも何人か。勉強に趣味に忙しいし、それほど大勢の友達はいらないよ」
ケントとは、3歳年下の魔法使いの男の子だ。
寮の部屋が向かいということもあって、小さい頃から、なにかと一緒に過ごすことが多かった。
小さい頃は無邪気なもんで、キラキラと光るアンバーの目が可愛い奴だった。
ところが最近になって、生意気にも思春期がやってきたのか、物欲しげな顔を向けてくるようになってきた。
魔法使いはみんな、12歳くらいには身体的な成長を終えてしまう。
ケントの身長は174cmで、肩幅はそれほど広くないながらも胸板も腕もがっしりとしていて、腹筋も八つに割れていたし、生意気なことに、なんだか良い匂いも漂わせている。近頃はなにかと気まずく、こちらから避けるようにしている。あいつは弟のようなもんだし、彼女が出来れば、また昔のような、肩の力を抜ける関係に戻れるだろう。少し寂しいが、人と顔を合わせられないだけで寂しいと思える相手は中々いないし、会えないだけで寂しいと思えることも、ぼくにしては珍しい、貴重なことなので、この寂しいという感情を大切にすることにしていた。
グロリアは、頷きながら、タバコを吸い、煙を吐いた。
暖炉の薪が、パチパチと、心地の良い音とともに弾ける。
グロリアは、ぼんやりとした目で、暖炉の中で燃える薪を見つめていた。
ぼくも、同じく薪を見つめた。「……なに話してたの? さっきの人と」
「あぁ……、クラスメイトよ。幼馴染。まだ会ったことなかったっけ?」
「うん」
「ゾーイって子。オカルトが好きなの」グロリアは、戯けるように目を回した。
ぼくは眉をひそめた。「オカルト?」それを言うなら、ぼくたちこそがまさしくオカルトだ。なにせ、ぼくたちは魔法使いなのだから。クラスメイトには人間も吸血鬼も幽霊もエルフもワルキューレも精霊もいる。ゾーイさんがこの学園の生徒である以上、今更オカルトや超常現象やファンタジーに心惹かれる理由なんてないと思うけれど……、或いは、人間たちをワクワクさせたり驚かせたりするために、その手の研究をしているのかもしれない。そういった変わり者は、いつの時代も、どの業界にもいるものだ。「ゾーイさんって、何者?」
「精霊とエルフと天使のミックス」グロリアも困ったように笑った。「面白い奴なんだけど、オタクの話に付き合うのは、やっぱり疲れるわ」グロリアはタバコの煙を吐いた。「七不思議って知ってる?」
ぼくは、眉をひそめた。「学園の?」
「うん」
「知らない。どんなの?」
「この時間にどこそこのドアを何回ノックしてから何秒置いて開けると異世界に行けるとか、そういう感じ」
ゾーイさんはそういうことに興味があるらしい。「信じてないんだ?」
グロリアは鼻を鳴らした。「バカっぽいじゃん」
ぼくはタバコを吸った。「熱っぽく話してたんだから、乗ってあげればよかったのに」
グロリアは肩を竦め、短くなったタバコを暖炉に放り込んだ。タバコは、燃える薪の山の奥に姿を消した。「わたしが14なら乗ってあげれたかも知んないけど、あいにく、もっと他に考えなくちゃいけないことが山積みでね」
ぼくは頷いた。グロリアの脳味噌を煩わせるようなことと言えば、思い浮かぶことは1つだけだ。「学園の仕事はどう?」
「楽しいよ。ただ……」グロリアは、あー……、と、考えるように唸った。「ただ、大変だし、難しい。こないだなんかジョージアに行かされた。今度、ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンのコーカサス地方に学園を建設するんだって。その下見」
「下見?」
「こういう場所だったら校舎建てる為の土地を確保出来るかなとか、そういう感じ。アルメニアとアゼルバイジャンの国境上にならちょうど良いのがあったんだけど、あそこはあんまり仲が良くないし」
「そうだっけ」
「多分、10年以内に戦争でも起こるんじゃないかな。ナゴルノ・カラバフとかが火種になりそう……。そうなったら、どっちの国にも友達がいるから複雑だわ」
ぼくは、頷きながらタバコを吸った。コーカサスだのアルメニアだのアゼルバイジャンだのナゴルノ・カラバフだの、ぼくには関係のない遠い世界の話という感じで、相打ちを打つ以外に出来ることもない。ぼくは短くなったタバコを、暖炉に放り込んだ。タバコは、積み重ねられた薪の上に乗っかった。「新しい学園なんて必要なのかな」
「わたしも初めはそう思ったけど、アレじゃないかな、魔法使いはヨーロッパやその周辺に多いし、コーカサス地方にも結構いたから、立地上必要なんだと思う」
ぼくは頷いた。「地上には6億人から7億人の魔法使いがいるって話だったけど、10人に1人ってことでしょ? 休日とか、たまに街に行くけど、魔法使いは1人も見ない。1人も。そんなにいるとは思えないんだよね」
「日本は魔法使いが少ないからね。トーキョーとかナゴヤとかオーサカならいるんじゃないかな。ヨーロッパに行ったら、むしろ人間を見つける方が難しいわ」
「ふーん。そうだっけ」
「最後に行ったのは?」
「ヨーロッパ?」
グロリアは頷いた。
「小6」ぼくは言った。「また行きたいな」
「良いよね。わたしも好き」グロリアは新しいタバコを咥えた。
「ぼくにも頂戴」
グロリアは、少しだけ楽しそうな目をした。「頭撫でさせてくれたら良いよ」
「しょーがないな」
グロリアは、ぼくの頭を撫でた。
グロリアの手は、ぼくの手よりも大きかった。
彼女の撫で方は優しかったので、撫でられるのは好きだった。
「髪サラサラ」グロリアは言った。「なに使ってんの?」
「シャンプー」
「もっと大切にしなさい。あんたの髪好きよ」グロリアは、ぼくの唇にタバコを差し込んで、火をつけてくれた。
「ありがと」ぼくは、煙を吐きながら言った。
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2024/3/31