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ある日の夕暮れ時、この日は珍しくシーラがキッチンに立って、サンドイッチを作っていた。慣れないナイフを不器用な手つきで扱うシーラを、ヨエルは近くの止まり木からハラハラとしながら見守っている。そこに、レイフもひょっこりとやってきた。
「夕飯にサンドイッチ?」
「月夜のピクニックに行くわ。満月の夜だけ咲くお花の蜜を取りにね。とてもいい薬になるの」
シーラは楽しそうに、不恰好なサンドイッチと水筒を籠に入れて、他にも荷物をまとめて出発の準備を整えた。その荷物をレイフが持って、ヨエルはシーラの肩に止まった。肩に爪が食い込まないよう、シーラは皮の肩当てをつけているので、ヨエルは心置きなくしっかり肩当てを掴む。とはいえ、もうしばらくすれば日没だ。今夜は満月ーー犬猿の仲であるヨエルとレイフが行動を共にしたのは、日没を境に人間の姿である方が逆転するからだ。ヨエルは自分がいれば十分だと言ったが、レイフがついて行く事を譲らなかった。
三人は城下町とは逆の方向、森の奥深くに向かって歩いた。木々が多くなり、日も落ちてきて前が見えにくくなってくると、レイフはランプを灯し、ヨエルは、そろそろ姿が変わる頃と判断してシーラの肩から飛び立った。人の姿に戻ると用意していた服を着て、レイフからランプやら荷物やらを受け取る。月の光が差し込み始めると、今度はレイフが狼の姿に変わった。レイフはすんと鼻を鳴らすと、
「 かすかだけど、あっちの方から月の花の匂いがするよ」
と、シーラに教えた。レイフは人の姿をしている時も普通の人間の何百倍も鼻が効く。狼の姿になればさらに本領発揮だ。役に立つところを見せつけて、彼は得意顔だった。三人はレイフが指示した方向に向かった。
しばらくも歩かないうちに、シーラが目的の花ではなくトラバサミの罠にかかったウサギを見つけた。シーラは庇護すべき動物に対してはとても鼻が効くのだ。
「こんな所にまで罠を仕掛けにくる人がいるのね。ご苦労なこと」
シーラはヨエルに手伝ってもらって、ウサギを罠から解放した。
「私はとっても不公平ね。自分の目に入ったものだけを助けて、きっと、自然の摂理には反している。人の仕掛けた罠だとしてもね」
シーラはウサギを抱き上げると罠に挟まれた足を確認した。
「このくらいの傷なら魔法で治しても、一時間くらいで私の目は覚めると思うわ。この場で治してあげて、いいかしら? 放っておいて死んでしまう様な怪我ではないけど、弱っている所を狙われちゃうわ。」
「いいかしら?」と許可を得る様な事を言いながらも、二人の返事も聞かずにシーラはその場に座り込むと、ウサギを膝の上に乗せ、傷のある足に手を当てて、呪文を唱え始めた。詠唱が終わるとシーラの体は崩れる様に傾いたので、ヨエルがそれを支えた。傷も痛みもなくなったウサギは、シーラの腕からサッと抜け出してどこかへと消えていった。枕もクッションもベッドもないが、せめて、とヨエルとレイフは木の根が少ない場所に、弁当を食べる時に使うつもりだった薄手のカーペットをひいた。そこに、ヨエルは自分の膝を枕にして、シーラを寝かせた。
突然訪れたシーラを介さない沈黙に、どこからか狼の遠吠えが割って入った。レイフはそれを聴くとそわそわと落ち着きをなくし、あたりをうろうろと歩き周りはじめた。
「嫌だな、こっちに来てる」
レイフがそう呟いてから少しすると、三頭の狼が彼らの目の前に現れた。
「やはりレイフだったか。見たところ、森の魔女に助けられて生き延びたか? 悪運だけは強い奴だ」
一番体が大きくてリーダー格と思われる狼が言った。レイフは威嚇するように喉を鳴らし、明らかな敵対心を見せた。レイフにかわってヨエルが狼に聞いた。
「レイフがいた群の方々ですか? 彼を迎えに?」
「とんでもない! こいつは先日、成人の儀に失敗して大怪我までし、群を追放されているんですよ。戻る資格などない」
レイフが噛みつかんばかりに吠えた。
「お前らに失敗させられたんだ! 汚い策を練りやがって、俺を陥れた!」
「そんな証拠がどこにあるんだか……。
ところで、あなた方はここで何を? 一応、ここは私どもの縄張りの境界あたりなので、尋ねなければなりません」
「魔女の仕事で、薬草を取りに。月の花なのですが」
「月の花の蜜ならば、大変残念ながら今夜の開花はありませんでしたよ。また来月にでも探しに来るといいでしょう。
今度はレイフのことなんて置いてきて下さいよ、縄張りに匂いが混じるのも嫌なので」
話が終わると、レイフの威嚇は完全に無視して、大きな狼とその後ろに従っている二頭はくすくすと笑いながら、元きた方向に帰って行った。
レイフの身の上話など聞いた事がなかったので、ヨエルは今初めて、彼が魔女の家を去ろうとしない理由を知った。
「レイフがシーラにしつこくする訳が、何となくわかった気がしますよ。自分の居場所が欲しい、自分を肯定してくれる人が欲しい、自分を捨てないでいてくれる人が欲しい、それだけだ」
「違う‼︎」
レイフが咆哮とともに叫んだ。ヨエルがシーラを膝に乗せていなければ、飛びかかって、腕でも脚でも、食らいついてやるところだった。
「俺に何を言ったところで、今にヨエルの方が出て行くことになるよ!」
「どういう意味だ」
「どういう意味にとってもらっても構わないよ。最終的にシーラの隣にいるのは俺だ。
ただ寄り添ってれば、何もしなくてもいつかは愛されるなんて思っているような奴に、負けるつもりはないからな!」
シーラが膝にいるのでなければ、ヨエルは目の前の生意気な狼を、殴り飛ばすか蹴り飛ばすところだった。
お互いが自分の気が済むまで、そんなのはただの図星を突かれた故の八つ当たりだとは分かった上で、衝動的な暴力が実現していれば、少なくとも気分はスッキリしただろう。しかし今は、吐きそうになる程ぎゅうぎゅうに、自分の内にその激昂した感情を押し込めるしかなかった。
それから、しんと会話はなくなった。シーラが起きるまでの間、辺りは風が吹いた時だけに鳴る木々のざわめきが、物凄い大音量に聞こえるほどの静寂に包まれた。