3
日が落ちて人間の姿に戻ったヨエルは、まずは急いでキッチンに立つ。昼の間に流しに溜まった洗い物をして、手早く食事をつくった。三人で食卓を囲んで夕食を済ませると、すっかり散らかってしまった部屋を片付けて床を箒で掃く。夜露のついた洗濯物を取り込み、今日の分の洗濯は朝方、日が昇る少し前にやりたいので、今はまとめておく。
その間シーラは、ソファーに座って仕事の編み物をしていた。魔女が魔力を込めて編んだベストは、高い防御力を誇るということで、お城の兵士御用達の品だ。そしてレイフはというとシーラに寄りかかりながら本を読んでいた。日がなごろごろとシーラにじゃれついているだけのレイフを見ると、ヨエルはどうしたって不愉快でならなかった。
「庭にいるアヒルじゃないんだから、ちょっとは働けよ、バカ犬!」
彼はいらいらとして、思わず口汚く悪態をつく。昼間は、夜行性というフクロウの習性上抗えない眠気が襲ってくるし、夜になって動けるようになればやらなければならない家事はてんこ盛りで、終わる頃にはシーラもそろそろ眠りにつく時間だ。その間、ずっとレイフがシーラを独占しているのはあまりに理不尽だと、ヨエルは憤った。
らしくなく声を荒げた彼に驚いて、シーラは首を傾げて、心配そうに尋ねた。
「いったいどうしたの? ヨエルは最近、ご機嫌が悪いわね?」
「いつも通りですよ! レイフが増えた分、やることも増えたと思ってるだけです」
「そうね……。家のことを全部ヨエルに任せていては、確かに大変だわ。
じゃあ、これから洗濯物はレイフにお願いしようかしら? お洗濯は太陽が出ている時間の方がいいものね」
自分が要求した事ではあるものの、それはそれで、自分の居場所がさらに侵食されるようで、ヨエルには嫌な感じがした。彼は返事もせずにソファーの前のテーブルに無造作に積んである本を乱暴に抱えると、書斎へ入っていった。
「彼の言う通りだね。ここに置いてもらうなら、なにかしないと。……ちょっと、謝ってくるよ」
レイフはヨエルを追って書斎に行き、シーラに声が聞こえないように扉を閉めた。
「ーー何か?」
ヨエルは本を書棚に戻す作業をしながら、レイフの方を見もせずに言った。
「仕事のことは……ごめんなさい。俺もこれからは、なにかやるよ」
ヨエルは興味なさげに「はあ。まあ、日中はご自由に」と返事をして話を終わらせたつもりだったが、レイフはそこで書斎を出て行かなかった。
「他に何か?」
ヨエルが今度は彼の方を見ると、レイフは話を切り出した。
「俺なんかより一緒にいる年月が長い分だけ、よっぽど可能性があるくせに、わかりやすく嫉妬して当たり散らすなよ。俺は時間っていう圧倒的な不利を埋めようと、必死なだけなんだしさ」
「ーー何の話をしてるんだか」
ああ、こっちが本題か、とヨエルはため息をついた。
「少なくとも、俺が居なければ今まで通りシーラを独占できたのに、くらいは思ってるだろ?」
「要領を得ないな。一体、何を言いに来たんだ」
「ちくちく、ちくちく、敵意を向けられるだけで、肝心なところを押し黙られてるのは気持ち悪いだろ? はっきりさせに来たの!」
「では、この家から出てって下さい。私の領域に入ってこないで下さい。
あなたは飼い主への愛情を恋だと思い込んでるだけだ」
「それはシーラが好きだって事を、認めてるんだよね?
俺は出ていかないよ。シーラに選んでもらえるか、シーラに捨てられるかするまでは」
「彼女は捨てませんよ。かといって、選ばれることもない」
「なんで、そう決めつけるの? どうせ試してもいないくせに」
「レイフにも今にわかるさ。応えてもらえない相手を愛し続ける苦しみが!」
自然な距離感、時間が築き上げてきた信頼関係、入り込む事が許されないような空気。レイフが欲しいものを全て持っているのに、何もないと卑下するヨエルの姿に、彼は苛ついた。
「俺はちゃんと行動に移してる。関係を壊すことを怖がって何もしないヨエルとは違う!」
「お前に、私の何がわかる。シーラの何がわかる? ちょっと優しくされたからって何を勘違いして彼女に迫っているんだか」
「確かに、何年も何年も、自分の気持ちを押し込めてるやつの考えてることなんか、さっぱりわからないね。
俺はシーラを愛してるよ。その気持ちに一緒にいた時間の長さは関係ないし、勘違いだとも思ってない。俺は自分の、シーラが好きだという気持ちに素直に従ってるだけだ」
レイフは言いたい事を言うと書斎から出ていった。結局彼は何がしたかったのかと、ヨエルは困惑する。彼は書斎の椅子に座って頭を抱えると、レイフの言葉を心の内で反芻した。
「牽制と宣言といったところか? それを私に言った所で何になる。何も変わらないのに。
ーー関係を壊すのが怖いんじゃない。壊れることすらないのが、怖いんだ」
ヨエルはしばらく、椅子から動けなかった。今まで何者にも侵食されてこなかった聖域を、心を、ぐちゃぐちゃと掻き乱されて、この感情をどう律すればいいのか、答えが出なかった。
どれだけかの時間が過ぎ、ヨエルはなんとか落ち着きを取り戻すと書斎を出た。もう寝にいったらしく、リビングにレイフの姿はない。シーラは作業途中で眠りこけてしまったのか、ソファーで横になっていた。
シーラがソファーで寝てしまうのは、日常的なことだ。ヨエルは散らかった仕事道具を片付け、シーラを抱きかかえると寝室のベッドに運んだ。横たわった彼女の額にそぅっと触れて前髪をかきわけーーそこでヨエルは手を引っ込めた。彼がベッドから離れ、寝室を出ようとすると、
「今日は、おやすみのキスをしてくれないの?」
と、思いがけずもシーラがヨエルを呼び止めた。密やかな日課を知られていたと分かり、ヨエルの顔はみるみる赤くなった。
「起きて、いたんですか? ……いつも?」
「いつもではないけれど」
「じゃあ、今は、なんで……」
ーーなんで寝たふりをしていてくれなかった?
「いつもと違うと言うのは、不安にかられる事だわ」
ヨエルは、ようやく落ち着いた感情がまたざわっと表に出てくるのを感じた。この人は、どこまで私の心を掻き乱せば気がすむのか。ーーいや、違う。どこまで私の心に無頓着なのだろうか、だ。
レイフの言葉に触発されてしまったのだろうか、ヨエルは気づけば、言うはずのない、言うつもりもなかった事を口走っていた。
「本当は、なにもかもわかっているんじゃないですか?」
駄目だ、この先は言ってはいけない。理性はそう警告しているのに、一度溢れた言葉を塞き止めることは出来なかった。
「私が、シーラをどうしようもなく愛していることも、何年も焦がれていることも!」
シーラは起き上がり「私も、ヨエルが大好きよ」と、彼に慰めるような笑顔を見せた。ヨエルにものすごい後悔が襲った。ーーほらみろ、何も、変わらない。
ヨエルはどうして自分でもこんな行動に出たのか分からなかったが、愛おしげにシーラの肩に触れた。そしてそのままそっと、ぎこちなく彼女の背に手を回す。
ソファーで寝てしまった彼女をベッドに運ぶ為ではなくて、何年分もの愛情を込めて、彼はシーラを初めて抱きしめた。
「もっと前からこうしていれば、分かってもらえてた? レイフみたいに素直に想いを伝えていたら、何か違った?」
今、シーラがどんな顔をしているのか、ヨエルからは見えなかったが、彼には手に取るように分かっているつもりだった。そしてきっと、レイフにするようにすっと上手く抱擁から逃れて、ちょっと困ったような笑顔を向けてくるのだろう。
しかし、実際は違った。シーラはヨエルの胸の中で泣いていたのだ。ヨエルは彼女の涙に驚いて、反射的に抱擁を解いてしまった。
「私は、誰も愛することが、できない。愛するということが、わからないの」
彼女は綺麗な顔を涙で濡らしながら、途切れ途切れに言った。
「ヨエルが、レイフが、私を好いてくれているのは、わかるの。でも、私が感じているものと、あなた達が与えてくれているものは、あまりにも、かけ離れているのではないかと、思うの。
ーーでも、わからないのよ。……ごめんなさい」
ヨエルは軽率な行動をした自分を責めた。彼女に愛されたいという自分の我儘が、彼女を苦しめてしまった。今まで通り彼女のそばにいられるならば、それ以外のことは、何も望まないつもりでいたはずだったのに。
「どうか謝らないで。ーー今日の事は、忘れて下さい」
彼はそう言い捨てると、彼女の涙を拭くのも忘れて、逃げるように寝室を出た。