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目覚めた少年は、見知らぬ部屋にいることに驚いて、勢いよく上半身を起こし、きょろきょろと辺りを見回した。
「ここ、どこ⁉︎」
少年の足元あたりに座って本を読んでいたシーラは、にこにこと笑顔を向けて彼の言葉に答えた。
「私の家よ。怪我をして倒れていたのを、拾ってきちゃった」
「……怪我? えっと……」
昨夜の事を思い出そうと少年は頭をひねり、そして「ああ」と合点がいったようにその箇所を触った。いくつもあったはずの傷は、綺麗に治っていて、彼は首を傾げる。
「私は、森の魔女のシーラ。あなた、お名前は?」
彼女の人当たりの良さそうな笑顔にまだ警戒の眼差しを向けながら、彼は「ーーレイフ」と、ぽつりと答えた。しかし、彼も森に住むものとして、なんとなく森の魔女の噂は聞いたことがあった。
「ねぇ、レイフ。もし……帰る場所がないなら、ここに居なさいな」
フクロウはシーラのその言葉に顔を歪めた。といっても、人の目からはフクロウの表情の変化などわかるものではないが。
「また、拾い物を増やして……」
フクロウは呆れた声で言う。しかし、シーラはまったく意に介さなかった。
「私、弱った動物を見ると放っておけなくて。その度にこうやって怒られちゃうのよ」
シーラはふふと笑うと、続けて言った。
「さて、狼さん。まずは服を着てくれる?目のやり場に困っちゃうわ」
レイフはそう言われて自分が裸であった事にようやく気がつくと、とたんに顔が真っ赤になった。シーラが目を背けてくれている間に、彼は急いで用意された服を着た。
レイフが着替えをしている間にシーラがフクロウに合図を送ると、フクロウはそれに応えて彼女の肩にそっととまった。
「レイフに、ここの住人を紹介するわね」
シーラは肩のフクロウを指した。
「このフクロウの名前はヨエル。私が子供の時から一緒にいるの。一番古い友人よ。彼も怪我をしていたところを助けたの」
「なんでこのフクロウ喋れるの?」
「彼は元々人間なのよ。昔、誰かに呪いでフクロウの姿にされたみたいで、昼間はこのまま。日が落ちると人間の姿になるわ」
「ふぅん」とレイフはフクロウを見るが、睨まれているような目に居心地の悪さを感じて、顔を逸らした。
シーラはレイフを家の外に案内した。そこには、動物園か、牧場か、というほどの動物達がいた。ただし、檻や柵はなく、動物達は自分の意思で留まることも去ることもできた。不思議と動物同士は敵対せず、本来捕食関係にあるはずの種が隣合って共存しているのは奇妙な光景にも見えた。シーラはその一頭一匹ずつの名前を教えたが、レイフには覚えきれなかった。
「こいつら全部がシーラの拾い物だ。だからお前だけが特別というわけではない」
ヨエルが刺すように言う。
「意地悪な言い方ね。私にはみんな特別なのに」
そして、シーラはレイフに向かって言った。
「みんな、私の大事な友達よ。でも、ここに居たくなくなったら、自由に出て行ってもらってもいいの。あまり深刻に考えないで、しばらく居てみてはどう?」
ヨエルは不機嫌そうにシーラの肩から飛び立った。彼の本音としては、庭にいる獣ならいざ知らず、ほとんど人間の男をこの家に置くなんて、許し難かったのだ。しかし、自分だって同じ様に拾われて行き場なく住まわせてもらっている身だ。それを棚に上げて、シーラに嫌だと意見することはできなかった。
結局、行き場がないと言うレイフは、魔女の家に留まっていた。
はじめの数日、彼は警戒心を解かず、無口で、いつも所在無げに部屋の隅でうずくまっていた。満月の後三日間ほどは、夜、狼に変化すると外に出ていたが、朝までには戸惑いながらも戻ってきていた。四日目になると月もかなり欠けてきたために夜も人の姿のままで、あてがわれたベッドで恐る恐る寝るようになった。
そんなレイフにシーラはなんとか仲良くなってもらおうと、心を砕いた。そして十日もたつと、今度はヨエルが警戒を強めることになった。シーラの分け隔てない優しさに触れ、ここでの生活に慣れてきた人狼少年が、本性を現し始めたからだ。
ある日の早朝、シーラが庭の動物たちに餌をあげていると、レイフがその背後から体当たりするかの勢いで彼女に抱きついた。彼は甘えた声で朝の挨拶をする。
「おはよう! シーラ! ねえ、俺の朝ごはんは?」
シーラがそっとレイフから離れて振り返ると、レイフは彼女にキスをする。もうこれはいつからか、朝の日課だった。
レイフはこの短い間に、すっかりシーラの虜になった。彼のシーラに対する愛情表現はとても直接的で、そして甘え上手だった。
「すぐに用意するわ。ちょっと待ってね」
シーラは手早く庭の動物たちの世話を済ませると、家の中へと戻った。シーラを追って家に入ろうとするレイフの肩に、近くの木の枝にいたフクロウが爪を容赦なく立てながらとまった。
「痛ってぇ! なんだ、ヨエル、起きてたのかよ」
「自分でやりなさいよ、朝食の用意くらい!」
「シーラの手料理が食べたいの!」
「手料理と言ったって、あの人は卵とベーコンを焼くことくらいしかできませんよ」
「シーラの愛情入りならなんでもいいんだよ」
ヨエルはいらいらとしながらレイフの肩から飛び立つと、部屋の中の止まり木に落ち着き、仲良く朝食の準備をする二人の姿を見なくて済むように、目を閉じた。
レイフにあからさまな好意を向けられても、シーラの態度が誰に対しても何も変わらない事だけが、ヨエルにとっては唯一の救いであり、絶望だった。
シーラはあまりにも、自分に向けられる恋心に鈍感なのだ。鈍感というのも少し違う。何か感情が欠落しているかのようだった。彼女にとっては、レイフの恋心からくる行動も、飼い犬に懐かれているのと変わらないのだ。
ーー絹糸のような長い髪も、大きな宝石のような目も、桃色の頰も、華奢な体も、全て私のものであればいいのに。そんな独占欲が、ヨエルの心を残酷に蝕んでいく。少し前までは、レイフが来るまでは、独占欲など感じる必要もなかったので、彼はこの感情に初めて気づいた時、戸惑った。しかし、今はこれが嫉妬であることは理解している。
ヨエルはシーラを愛している。名前の他にフクロウになる以前の記憶もなく、孤独の中を救われて、それからずっと彼女に執着している。しかしそれは、ずっと心に秘めた想いだった。ーーきっとこれからも。眠ったシーラの額にこっそりキスをする事だけが、彼の唯一の抵抗だった。