2・永遠なる探索
注意:主人公の身に関わる、残酷な描写があります。
苦手な方は、中盤から読んでください。
有希矢の最初の一歩は、恐慌と膝の震えではじまった。
迷宮遺跡と呼ばれるだけあり、内部は戸外に通じる窓すらない石造りの通路が、縦横に走っている。所々に発光する石が埋め込まれ、行動するには十分な灯りが確保されているが、今度は視覚が混乱を招く。
行けども行けども同じ石壁や天井が続き、幾度か角を折れてしまうと来た道さえわからなくなる。
闇ではない空間は有希矢の不安をわずかに解消してくれたが、それは些細なものでしかない。恐るおそる重い足を進めながら、石壁に揺らぐ己の影に慄き、奥から届く謎の音に体を強張らせる。
そして、怪物と対峙した瞬間に卒倒してしまい、間髪入れずに喰われて終わった。
頼りにしていた剣も、構えすら知らない有希矢にとっては無用の長物でしかなく、浅慮の結果は経験のない地獄の苦しみだった。激痛に絶叫し、転げ回りながら泣き喚き、命が消える気配を感じながら恋しい母を呼んだ。
前世の世界では、空想の中でしか出会うことのない怪物たち。記憶にあるどの生物とも違い、どれもが醜悪で狂暴な異形だった。
しかし、もっとも有希矢の恐怖を煽ったのは、己が噛み殺される様を意識が途切れるまで記憶し、激痛と嫌悪に苛まれ続けなければいけない状況だった。戦闘経験などない有希矢は抗う間もなく襲われ、噴き出す血飛沫を浴びながら、己の骨肉が千切られ喰われゆくのだ。
だが、それもすでに遠い過去だ。
どれだけの時間が過ぎたか、どれだけ傷を負ったのか。
どれだけ屠られたのか。
有希矢は積み上げてきた迷路の記憶と、効率的な攻略法だけを脳内にとどめ、他はすべて過去のレッテルを貼った心の棚に詰め込んで封印した。
余計な記憶を後生大事に抱いておける心の余裕はなく、忌々しい思い出など身のためにならないと気づいたのだ。
迷宮遺跡は、迷路でできた試練の宮殿。
底意地の悪い制作者が、あらん限りの悪意を詰め込んで造り上げたとしか思えない建築物だ。
上下左右はもちろん、通路や部屋数もランダムに変化する。脳内マップを構築しても、次の機会には用なしになる。
逆に、怪物は毎回同じ物が同じ地点に現れ、決まったリアクションをする。有希矢めがけて襲い掛かってくるのは一緒だが、繰り返される動きに何度も挑戦すれば攻略法が見えてくる。
とはいえ、敵は怪物だけではない。
天井が落ちてくる。壁から突然殺傷能力の高い凶器が複数飛んでくる。床が抜けて底なしの暗闇が口を開ける。つまり罠が、病的と思えるほど設置されている。
どの敵も有希矢に苦痛を与え、死という絶望を刻み、諦めの境地へと誘う。
だが、意識が消えて時間が過ぎると拠点で蘇える。怪物に喰われても罠に嵌って抜け出せなくても、何事もなかったように再生されるのだ。
どこにあるかも知れないモノを探し回り、攻略できない相手に殺され続ける日々に弱音が漏れる。気力が萎え、動きたくない思いに囚われて無駄な時間を過ごすこともしばしばあった。
ひとつ突破すれば、すぐに次が現れる。弱いモノからだんだんと強いモノに移り、単純なモノから複雑なモノへと変化してゆく。
それでも走る。
無気力になっても非難する者はいないが、代わりに有希矢を救ってくれる者もいない。冷たい床に転がって空虚な時間を過ごす内に、己が床の一部に溶けて消えてしまうような強迫観念に、じわりじわりと苛まれるのだ。
得体の知れない怖ろしいモノが増え、必死の思いで身を起こす。
だから、前に進む。
有希矢自身と同様に、折れようが欠けようが復活する剣は、一六個目の力を入手した頃には愛しい相棒になっていた。
日に日に痛みは鈍化し、視覚的な衝撃も薄くなってゆく。食い千切られて血飛沫を上げる手足を見ても、怪物の破裂した残骸を見ても、何の感慨も湧かなくなっていった。
そんな日常でも諦めることがなかったのは、腹の底に燃える憤怒の炎が、いつまでたっても消えないからだ。自分をこの地獄に陥れたすべての因果に怒りと恨みだけが募り、前進するための原動力になった。
そんな昏い感情の支配から逃れられたのは、【回復】と【治癒】を見つけたのがきっかけだった。
それまでは、負け戦だと思えばすぐに抵抗をやめて復活を待った。それが、治療の力を手に入れた時点から諦めなくてもよくなったのだ。
「始めは【肉体強化】だっただけにがっくりきたけど、このふたつが見つかってからは運が上昇しはじめたねぇ」
有希矢は、たった今使った力の結果を見て微笑む。
噛み千切られて骨まで見えていた左大腿部と左肩に【治癒】をかけ、体全体に【回復】をかけた。脳裏で力の名を唱えただけで、容易く威力を発揮した。怪我や欠損は猛スピードで再生し、疲労は消し飛んで活力がみなぎる。
自称女神が探せと告げた『力』とは、有希矢が前世で見聞きしたファンタ―小説やゲームに出てくる魔法と呼ばれていた謎の現象によく似ていた。
奇妙な輝きを放つ球体を初めて見つけた時、有希矢はたじろいだ。新たな怪物の出現だと疑ったのだ。
しかし、いつまでたっても動かず攻撃すらしてくる気配はなく、もしやこれが探している『力』ではないかと、恐る恐る近づいて手で触れると、それはゆっくりと有希矢の手のひらに吸い込まれて消えた。
その後は、順調に『力』を発見している。
「第二、第三の拠点が見つかるのも早かったし、庭園の水場も……」
有希矢の目に、久しぶりに光が蘇った。
廃墟の庭園を見つけ、警戒しながら忍び込んだ。生きた植物はなく、風化した花壇と東屋、そして水を満々と湛えた泉があった。
有希矢は引き寄せられるように泉に近づくと水を貪り飲んだ。
冷たい感触が喉を滑り落ち、自分が植物にでもなったように「生き返ったー!」と叫んだ。
が、その叫びはすぐに力を失って萎れた。
ふと思い至ったのだ。迷宮遺跡に墜とされてから、何も食べていないことを。
痛みや疲労は感じても、一度として飢えや渇きを覚えなかったことに、今更気づいた。
「この体……どうなってるの? 食べたり飲んだりしなくていいのは助かるけど、脱出した後も同じだと……食べたり飲んだりする楽しみが味わえないじゃない」
傷も痣も消え、真珠色の肌が戻る。女としては嬉しいが、供給も排泄もしていない事実は、人間ではない証明のようで恐ろしくもあった。
泉の水に濡れた頬を、別の雫が流れ落ちた。




