1・何を成すか
有希矢が飛ばされた場所は、この世界に住む者たちからは迷宮遺跡と呼ばれる謎の建造物の地下だった。
途方もなく広大な、深緑の大森林の中にそびえる灰色の遺跡。神殿のようにも、城のようにも、はたまた天の神に近づこうと試みた人間の、無謀の残骸のようにも見える。
とはいえ、眺めることはできるが侵入は叶わない。近づこうにも、一定の距離を置いてそれ以上の接近を許さない。結界や障壁に遮られているのではなく、どれだけ大森林を進もうが迷宮遺跡に到達できないのだ。まるで【迷走】や【混乱】の魔術が仕掛けられているかように。
いつしか人々は、太古の神々が造りし遺跡に触れることを神は許さないのだと納得し、ただ遠く眺めるだけにした。
そんな遺跡の中で、有希矢は目覚めた。
意識が戻ると同時に、しんとした寒さと床の冷たさを感じて震えた。朦朧とした頭を振って正気付かせ、自分が現在どんな状況にあるのか確かめるために体を起こした。
今度こそあの世かと、石造りの薄暗い空間を注意深く見回す。
なんといっても、記憶だけは鮮明に残っているのだ。ただし、その内容は不可解であり酷く不愉快だったが。
おかしな言動をする女性には慣れているし、理解をしようと歩み寄ってみても、結果的には納得できたためしがない。
例に漏れず、今回もそうだ。
同僚からのいきなりの罵倒。続いて、美しいが冷たい印象の女性による断罪。
どれもこれも有希矢には身に覚えのない事ばかりで、思い出しただけで腹が立ってくる。
「理不尽な嫉妬心をぶつけて同僚を死の淵に追いやっておきながら――って、それ、私が被害者だった出来事じゃないの! なんで、私が加害者の立場にされてるのよ!? 何が女神よ、あの女!!」
女神を名乗っておいて、この目はすべてを見通したとかましておきながら、冤罪の上に抗弁もさせずに即処断だ。
有希矢の心情としては、間違いを犯す者を神とは呼べない。
「女神まで『女難』に入るとは思わなかった! なんなの? 厄災の女神!?」
いつまでも冷たい石畳の上に座り込んでいるわけにもいかず、有希矢はぶつぶつと愚痴ながら、ふらつく体に鞭打って立ち上がった。
それにしても、この肉体はなんだ? と首を傾げる。
死んだはずなのに肉体が存在していることもだが、見覚えのない服と靴まで装備しているのには驚く。
身体にぴったりとフィットしたトレーニングウェアのような真っ白な上下と、柔らかな裏皮のハイカットのブーツだ。着心地は悪くないなと独り言ち、どこにも縫い目が見当たらないことに気づいて、また驚いた。
「処罰を受けさせるために、わざわざ肉体を再生したのかな? 服まで用意してくれてるなんて、ちょっとした慈悲ってこと? ……でも、私の肉体じゃない感じがするんだけど」
両手を振り、首を回し、と順に身体の各所を動かし、違和感を覚える箇所に手をやってじっくりと触れてみる。動きをまったく阻害しない衣服や靴も、なんだか不気味な物に見えてくる。
そして、やはり全体的に何かがおかしいと実感した。
貧乏まではいかないが、先を見据えて慎ましく生きてきた有希矢だ。高価な化粧品やサプリ、エステやジムなどに金銭をかけたことはない。
だが、のんべんだらりと過ごしている同年代と比べたら、肉体に関しては衰えていないと自負している。
自家用車とは無縁で、自転車か徒歩か電車が基本の生活だった。足腰は鍛えられ、時間がかかる分だけ早起きを心掛けていた。
下手に病気にかかれば余計な出費になるからと、人一倍健康と食生活は気遣う。倒れたり寝込んだりしたら、医療費だけではなく収入自体も減るのだ。恐ろしくておちおち風邪すら引いていられなかった。
その甲斐あってか、母子共に病死ではなく事故死だ。
それだけに、肉体の違和感が気になった。生前の肉体と同じではないと断言できる。
「体が軽すぎるのよ。なんか……若返ってる上に強化されてる?」
胸や腹筋、太腿や腕も、どこもかしこも柔軟な筋肉と筋力に満ちている。冷えた石畳の上に横たわっていたのに、凝りや痛みはない。心なしか肌艶もいい。
生前の自分ではないかもしれないが、より以上の肉体を提供してくれたらしいと推し量る。わざわざ動きやすい衣類や靴まで用意してくれたのだから、肉体と衣服に関してだけは文句は言うまいと、漏れそうな溜息を呑み下した。
「あと……なんだっけ? 努力しろだったっけ? そんなもん、ずーっとしてきたわよ」
動けると確認できた後は、ここに飛ばされた本来の目的を思い出そうと試みる。
大層な物言いで人を断罪しておきながら、具体的なことは何も言っていなかったとしか覚えていない。
「反省する気があるなら己で考えろ、とかってのはやめてよね。ここがどこで、何の施設なのかもわからないのに、どーしろってのよ」
周囲を観察しながら呟いた途端、いきなり頭の中に抑揚の欠いた男女とも知れない音声が響いた。
《制裁から解放されたくば、迷宮内に散らばる力をすべて集めよ。さすれば己の糧となり、己の力で戒めの扉に到達するであろう。この場所は、始まりの部屋であり拠点となる。迷えば喰われるのみ》
最後まで黙って聞き終えた有希矢は、ごくりと息を呑んだ。
背筋を寒さとは違う悪寒が走り、肩先が勝手に跳ねた。
「く、喰われるって、何に?」
誰か知らないが、自分の呟きを拾って答えてくれたのだと思ったが、次の疑問には誰も応じてくれなかった。
「基本設定の音声案内だったみたいね……はぁ~」
有希矢は眉間に力を込めると、今の説明を咀嚼する。
目標はこの建物からの脱出。条件は力と呼ばれているナニかを探し当てて集めること。それを使用すれば、脱出口を開放できるという寸法らしい。
しかし、探索は簡単ではない。今いる場所以外には、己を『喰らう』敵が出没するという。
ならば、すぐに逃げこめる近場から始めて、探しては戻りを繰り返そうと考えた。
「でも、この体以外に武器になるような物が何もないのはねぇ。鉄パイプの一本くらい用意しててくれたって……」
自棄で呟き続けていると、背後で重い何かが床にぶつかる音がする。慌てて振り返った有希矢の目に、一振りの剣が飛び込んできた。
鞘のない剥き身の片手剣だ。ぎらりと輝く銀の諸刃には、眉間を寄せた有希矢の顔が映っていた。