表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

宙棲進化【2/8】飛躍 (2016m)

作者: 長矢 定

 21世紀になると、月面に巨大な基地があり、優秀なコンピューターが人の命を奪う時代になる……

 あの映画の影響でしょうが、そう思い込んでいた人は少なくなかったのでしょうね。ですから実際に21世紀を迎えると、言いようのない絶望感に見回れます。

 未だに月に足跡を残したのは、12人から増えていません。13人目は、いつになるのでしょうか……


 アメリカのスペースシャトルは、完全に失敗なのでしょう。

 開発時には、毎週のように宇宙へ行き、打ち上げコストが格段に下がる、という触れ込みがあったようですが、実際の運用はそんなレベルではありませんでした。2度の大きな事故があり、運用コストは上がる一方。打ち上げ回数が少なくコストが下がらなければ、引退も止むなしでしょう。

 通常のロケットに切り替えるようですが、どこまで実用的な運用ができるのでしょうか。月面恒久基地や火星有人探査などの計画が派手な狼煙のように打ち上がりましたが、実現可能なのでしょうか。お金のかかる宇宙進出は、結局、頓挫するような気がします。アポロ計画も17号で打ち切りになってしまったのですから……


 月面に恒久基地を造り、人を常駐させる。宇宙エレベーターの建造と運用……こうした計画に一体いくらかかるのでしょうか?

 私が目にするような雑誌の記事には、お金に関する記述がありません。直ぐにでも計画が実現できるような話ばかりです。

 結局は、お金……

 などと口にするのは心が痛いのですが、お金についてキチンと考察できてない計画は“絵に描いたモチ”なのでしょうね。

 それでも、まずは絵を描くとこらから始めなくてはならないのでしょう……

 そんなことを思いつつ書いたお話です。


●登場人物

◎時空跳躍実用実証試験船『スペースホッパーⅡ』搭乗定員:10名

■ケント(伊田健人)32歳 宇宙施設のメンテナンス要員。火星基地に派遣

◆アリサ・ラコット 31歳 貨物搬送、管理担当

□ブルース・シャノン 45歳 船長

□クリス・バーン 35歳 パイロット

□ハリー・シュライバー 33歳 パイロット

◇アニエル・ロパート 30歳 パイロット実習

□ラファル・デュブラ 37歳 試験管理者

□ガトラム・ベネツキ 41歳 貨物搬送チーフ

□シャフィー・ペレズ 36歳 貨物搬送

◎火星遠征隊

□トルウィン・バンベルグ 37歳

□バーグ・エルジェス 35歳

□ジレ・アランソン 34歳


    プロローグ

   

 男は急いでいた。

 狭い通路に勢いよく入ったため、ふわりと浮いた体を壁にぶつけた。月面での生活に慣れていなければ、体勢を崩して床に倒れたかもしれない。しかし、低重力に馴染んでいる男は転ぶことなく床面に足をつき、姿勢を立て直した。先を急ぐ。

 伊田健人は、月面での任期を間もなく終える。

 六倍の重力環境となる故郷に帰るためのトレーニングに時間を割かれ、仕事の進捗に遅延が生じている。中途半端な状態で後任に渡すのではなく、一応のケリを付けたい。施設メンテナンス要員として月面基地で働くケントは、いくらか焦っていた。

 小ぢんまりとした食堂に入る。テーブル席に座っていた男が軽く手を挙げた。同僚のヘデンだ。

「申し訳ない。少し遅れた」

 ヘデンは物分かりのよい笑みを返した。二人はこの後月面に出て、外部設備の部品交換を行う予定だった。

「とにかく食事を取ってくれ。途中で腹が減って動けなくなっては大変だからな」

 彼の前のテーブルには、僅かな食べ残しが載ったトレイがあった。ケントは頷き、壁際に向かう。好みの食べ物をチョイスしオーブンで温めトレイに載せ、ヘデンが座るテーブルに戻った。

「慌てることはないよ。ゆっくり食べてくれ。日暮れまでには、まだ一週間あるからな」

 ケントは小さく頷いたが、食べ物を口へと運ぶ手を休めることはしなかった。月面産培養牛肉を使ったミートボールを噛み砕く。

 その時、耳たぶに仕込んだエンハンサーチップが音声メッセージの着信を告げた。管理部からだ。何用か……?

 ケントは、そのメッセージを再生した。

『御苦労様です。お知らせがあります。火星開発局から通知がありました。火星基地の設備にトラブルが発生したことは、ニュースでご存じかと思います。その修理のために交換品とメンテナンス要員を急遽派遣することになり、その候補にあなたが選ばれました。二週間後に予定されている時空跳躍の試験船に乗り、火星に出向くことになります。添付の資料を確認の上、この仕事を受けるか否か、その意思をこちらまで連絡してください。なお、急な対応のため返答期限まで時間がありません。早急にお願いします』

 ケントは口を動かすことを忘れていた。呆然と宙を睨んでいる。

「どうした、何かあったのか?」ヘデンが不思議そうな顔で尋ねた。

「…火星、時空跳躍」

「何だって?」

 ケントの呟きは、空調設備の騒音に掻き消されヘデンの耳まで届かなかった。彼は一つ頷き、再び口を動かす。

 その時既に、伊田健人の心は決まっていた。




    一

   

 伊田健人は、壁際を漂い展望窓を覗いていた。眼下には青い大海が広がり白い雲が浮かんでいる。

 低軌道から見る地球はきれいだ。飽きない……

 月からの三日間の船旅を終え、ケントは眼下を流れる地球の景色を眺めながら、トランジットの時間を潰していた。

 大きな陸地が見えてきた。特徴的な形の海岸線は、一目でわかる。このところ激しい戦闘が続く紛争地帯だ。遠く離れた月面にいても、毎日のようにそのニュースが届いていた。

 二三世紀の現今に至っても、戦争はなくならない。むしろ増えている。激しさを増している。

 その一因は人口増加だろう。

 科学・医療技術の進歩は人工母胎を造り出していた。人工受精と組み合わせた人工出生は、当初の反発を抑え込み世界各地に広まっていった。人口減少による国力の低下を食い止めるために倫理の壁を越える国が現れ、次第にそれを競うようになる。計画的な人口調整、国力増強が進むにつれて争いの火種も増えてきた。気付けば紛争が絶えない、激しい戦争が頻発する世界になっていた。

 そして大きな戦争が勃発するたびに、平和利用を目指す宇宙開発は多大な痛手を負う。

 宇宙開発の円滑な推進には、費用の問題が常に付き纏う。宇宙施設を建造し、その運用を続けるには莫大なお金が必要になる。それをどう捻出するのか。それだけのお金を費やすだけの価値、目的、成果が得られるのか。そこに戦争による国や地域、民族の啀み合いが加わると計画は立ち所に頓挫する。

 平和を望む人は多いが、その実現には程遠い……

 ケントは目を凝らした。おそらく今も、この真下の地表では激しい戦闘が続いているのだろう。しかしそれを、この周回軌道から見ることはできなかった。

 溜め息が漏れる。

 ケントもまた、人工出生の一人だった。

 提供された精子と卵子を使って人工授精を行い、人工母胎によって育まれ、生まれ出た。同じ生い立ちの数多くの子どもとともに育児施設で成長し教育を受けてきた。

 両親の名前すら知らない。

 自然出生の親と暮らす子を羨んだこともあったが、どうすることもできないことだ。生まれを悔やんでも仕方ない。しかし、宇宙に出る仕事を志したのは、そんな理不尽な世界から逃げ出したかったからかもしれない……

 ケントは過ぎ去る紛争地帯を見送った。その時、耳たぶのエンハンサーチップが軌道船の搭乗開始を告げた。

 ケントは眼下の地球に一瞥を与え、壁際を離れた。宙を漂い搭乗ゲートへと向かう。簡単な手続きを済ませてアクセスチューブを進むと軌道船のエアロックで一人の女性が微笑んでいた。

 まさかキャビンアテンダント……。こんな小さな軌道船に?

「御苦労さまです。伊田健人さんですね」

 ケントは一つ頷いた。三十前後、同年代の女性だ。

「ホッパーⅡの乗員、アリサ・ラコットです。一緒に火星へ行きます。どうぞよろしく」と笑顔を弾かせた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 そう答えたケントだったが、幾らか戸惑っていた。ここで出迎えを受けるほどの大物ではない。一人で軌道船に乗り込み、時空跳躍の試験船に向かうのだと思っていた。

「すみません。出発前の忙しい時にわざわざ出迎えてもらって……」

「いえ、これも仕事ですから」

 仕事? ケントはその言葉に小首を傾げた。

「ホッパーⅡの甲板員なんです。貨物の移送、管理の担当ですから」

 そう言ってからアリサはキャビンへの扉を開け、どうぞと促した。

 殺風景なガランとした小さなキャビンだ。他に乗客はいない。船尾側の壁に体を固定するハーネスが並ぶ。慣性飛行に移るまで、そこでじっとすることになる。

「何か、荷物を取りに来たのですか」

 クッション性のある壁に背中を押し付けてハーネスを取り付けながらケントは尋ねた。隣に寄り添うようにアリサが体を固定している。

「ええ、昨日、地球から届いたんですよ。火星に運ぶ交換品、それを取りに来たんです」

 ケントは驚いた表情をした。どのような段取りになっているのか知らなかったのだ。とにかく指示された船に乗り、月から地球低軌道のターミナルステーションまで旅をして、乗り継ぎ時間を潰していた。

「昨日、届いたんですか……」

 自分は交換品のおまけだな、とケントは思い笑みを零した。それでも火星に行ける。扱いが悪くても文句はない。

「プラットホームに係留していた貨物を急いでこの船に積み込んでいたんです。出発間際ですからね、バタバタしてしまいました」と彼女が微笑む。ハーネスの取り付けを終えていた。

「伊田さんも、慌ただしかったでしょう」

「ケントでいいですよ。そう呼ばれています。ええ、確かに目まぐるしかったですね。こうした対応は異例ですから……」

 1カ月前、火星基地の空調設備に故障が生じた。修理は困難、しかし空調設備は二系統あるので駐留隊員の活動に支障はない。火星への次の物資輸送に交換品を載せることになるが、関係者には一抹の不安があった。

 三十年前、火星基地の駐留隊員三名全員が死亡した事故は、空調設備の不具合が発端だった。火星計画に携わる誰もが、その悪夢を思い起こしていたのだ。

 二年二カ月の会合周期のタイミングで、八カ月の時間をかけて火星に物資を送る。これでは緊急の対応はできない。もし、更なる不具合が発生し深刻な事態に陥ったら、地球から救助の手を差し伸べることはできない。駐留隊員の命が潰えるのを傍観することしかできないのだ……

 火星計画の不安定さは大きな問題だ。その距離と時間が致命的となる。

 火星に恒久基地を設置し隊員を常駐させること自体、無理な話ではないのか。大きな危険を冒してまで進める計画なのか。それだけの価値があるのか、世論の厳しい意見に確信を持って答えを返せない。

 次に火星で悲惨な事故が起きたら、計画の継続は難しくなるだろう。それを未然に防ぐため、出来得る限りの手段を講じなくてはならない……

「でも、月面で十分な準備ができましたよ。月面基地にも同じ型の空調設備が幾つか設置されていますからね。それを使って交換作業の手順を確認していました」

 月面基地は、火星の恒久基地よりずっと大きく施設も充実している。予行訓練には申し分のない場所だ。

「準備万端ですね。それは良かった、一安心です」

「ええ。それにその交換作業自体は難しいものではありませんからね。まあ、多少面倒ではありますが、大きな問題はないでしょう……」

 ケントは楽観的に振る舞った。今、ここであれこれ心配しても仕方ない。現場で問題が発生したら、臨機応変に対処するしかない。急な対応、短い準備期間。うまくいかなかった場合でも、厳しく責め立てられることはないだろう。きっと……

「それより火星に出向くことができるんです。それを幸運に思いますね」と笑った。

「火星に降り立つのね。羨ましいわ。私たちは火星まで行くけど周回軌道から見下ろすだけなの。船の傍から離れることはないわ。間近まで行って降りることができないのは、やっぱり残念ね。悔しいわ」

 ケントは何度か頷く。しかし、どうすることもできない。

「試験船の乗務は長いのですか」

「いえ、今回が初めてなの。このステーションで荷物の移送・管理をしてたのだけど、試験船乗務の仕事が叶うとは思わなかったわ。結構、倍率が高いのよ」

「やはり、火星に関心のある人が多いんですね」

「そうね……、どうかしら?」

「違うんですか」

「火星よりも物珍しい仕事がしたいだけかもしれないわね」

「物珍しい?」

 アリサが笑う。そのチャーミングな横顔から目が離れなかった。

「だって、せっかく宇宙に出たのに仕事は結構単調なのよ。だからと言って気を緩めると大きな事故になってしまう。気を引き締めるには物珍しい仕事に取り組むのが一番だわ。試験船に乗って火星まで跳ぶなんて申し分のない仕事よ。そうでしょ?」

 ケントは曖昧に頷いた。

「なるほど、それが試験船に乗る動機ですか……」

「あなたはどうなの。どうして急な任務に就くことになったの?」

「火星駐留隊に志願してたんですよ。最終審査で落ちてしまいましたが……」

「純粋に火星に行きたかったのね。なぜ?」

 ケントの顔を見るキラキラした彼女の目に吸い込まれそうだった。ハーネスがあって良かった、と思う。

「遠くに行きたかった、かな。地球の暮らしにうんざりしてたんです。火星に行き、しばらく不便な暮らしを強いられれば地球が恋しくなるんじゃないかと思ったんです」

「地球が嫌いなの?」

 ケントが一瞬、顔を歪めた。返答に困る。

「嫌い、というより、煩わしく思えたんです。社会とか、人間関係とか、在り来りでしょ」

「そうね。宇宙を目指す人には、そういう人が多いかもね」

「選り抜きのエリートが行く時代ではないですからね。地球での競争に負けた人が逃げ出す場所なんですよ」

 アリサが顔を顰める。

「そうなると月面永住を望んでいるの?」

「そうですね。人が少なくて地球から離れた場所を生活の拠点にしてみたいですね。まあ、そんなに深刻じゃないですけど。でも、月面開発の現状では永住者を受け入れる快適な施設ができるまで、相当の時間がかかるでしょうね。私が生きている間に月面永住は無理かもしれない」

「お金の問題ね」

「人々の意識の問題でしょう。月に大金をはたいて永住施設を造るより身の回りの環境を整え、暮らしを豊かにしたいでしょうから」

「そうね。それに永住より月面観光が大衆化することを望む人が多いようね。地球の大半の人にとって月は遠くて不便な場所だわ。行ってみたいけど気軽には行けない……」

「そっちが先でしょうか……」

 ケントは諦め顔で首を振った。住民がいてこその観光地だ。そうでないとマニアックな秘境探検ツアーになってしまう。

 キャビンに軽やかなチャイムが鳴った。出発の時間だ。エアロックの先から金属音が響く。アクセスチューブが外れ、ドッキングアームが軌道船を解放した。

 この船に操縦者など乗っていない。賢い搭載コンピューターがスラスターを働かせてターミナルステーションからゆっくりと離れた。

 正面の壁に設置されたディスプレイは船外カメラの映像に切り替わった。しかし、真っ黒だ。やがて微かな振動を体に感じ、静かに船が回転するとディスプレイにステーションの一端が映った。

「でも、短い期間だけど火星に行けることになって良かったわね」

 ケントはニヤリと笑った。

「選考の合格者は、今、訓練に取り組んでいます。彼らを差し置いて、先に火星へ到達することになって申し訳なく思いますよ」

 本来なら合格者に今回の任務を与えるのが妥当なのかもしれない。しかし、長期滞在訓練中の彼らに余計なことはさせたくないのだろう。火星駐留計画に支障を与えたくない。それに落選者の中にメンテナンス要員がいたことも好都合だったに違いない。運が良かったのだ。

「それに、時空跳躍の試験船に乗ることができます。これも幸運でしたね」

「巡り合わせが良かったのね。半年ほど延期されていたのだから」

 アリサのその言葉にケントが頷く。

 時空跳躍実用実証試験船スペースホッパーⅡは、五年前に新造された初めての有人時空跳躍船だ。画期的新技術である宇宙推進システムの実用化を目指し試験を重ねている。すでに何度か火星との間を跳躍していたが、システムの点検や修正・修理に手間取っており、当初の計画通りに進んでいなかった。

「試験船は、どんな様子なんですか」

 問い掛けるケントの顔に一抹の不安が浮かんでいた。幸運だったと喜んでいいのか、わからなくなる。

 アリサは、そんなケントの気持ちが理解できた。彼女にとっても他人事ではない。

「私は甲板員よ。船の最新システムには詳しくないの。どうやって時空を跳び越えているのか、それさえも理解してないわ」

「不安になりませんか……」

「考えると怖いわね。一瞬のうちに火星の近くまで跳ぶのよ。全く理解できないわ。でも時空跳躍は、これまでに何度も成功してる。それは間違いのない事実よ。現代の科学力を信じるしかないわね」

「そうですね……」

 ケントも頭では納得していた。ただ、降って湧いて出たこの任務に飛び付いたが、時間の経過とともに不安が広がっている。

 アリサが穏やかな笑みを見せた。

「でも客観的に見れば、素晴らしいことだわ。貴重な経験ね。これを体験できるのは限られた僅かな人だけなのよ。素直に喜ぶべきね」

 ケントも笑みを返した。

 地球で暮らしていても流れ弾に当たったり、爆発に巻き込まれたり、命を落とすことがある。それならば、自らの意思で危険を承知し飛び出していった方がいい。そう決意し、宇宙を目指した。

 今更、臆してどうする。

「そうだね。時空跳躍と火星を楽しむことにするよ」

「そうね、楽しみましょ」

 ターミナルステーションから離れ、再び真っ黒になっていたディスプレイに軌道図が表示された。本船は現在位置から加速し、高い軌道を回っているホッパーⅡとランデブーする。六時間ほどの退屈な船旅だ。同乗者の存在が救いになる。

 ディスプレイの端にカウントダウンが表示され、ゼロと同時に背後のメインエンジンが点火した。船は速度を上げ、時空跳躍試験船を目指す。




    二

   

 宙に浮かぶ巨大な卵……それがスペースホッパーⅡの外観だった。その姿を目にして、伊田健人の心が高鳴った。

 この船で火星に行く。

 細く尖った方が船首・居住区。巨大な船の割に居住スペースは小さく狭い。

 居住区の背後から大きく広がる船体に、時空跳躍システムなどの様々な最新設備が配置されている。そこは気密されていない機関区だ。最後尾には通常推進のロケットエンジンのノズルの束が突き出ていた。

 船首・居住区と機関区は何本もの剥き出しのフレーム構造体で繋がっており、その間の空いた場所が貨物スペースに割り当てられ、幾つかの貨物コンテナが固定されていた。それは火星基地へのプレゼント、支援の補給物資である。

 出発すれば一週間ほどで火星に到着する。地球と火星との位置関係を気にする必要はない。跳躍時に惑星からの重力場の影響を抑えるため、ロケットエンジンで地球を離れ三日の距離を取り、瞬時に火星近傍へと跳躍する。後は三日をかけて火星に近付き、周回軌道に移る予定だ。八カ月を要する従来の飛行と比べると、あっという間の火星飛行になる。

「試験が終わり、時空跳躍の実用が実証されれば火星がぐっと近くなります。火星計画も弾みがつきますね」とケントが笑みを浮かべて言う。

「人や物資が大量に運ばれるでしょうね。月面基地より大きな施設ができるかもしれません。私たちも忙しくなります。仕事にあぶれることはないでしょうね」

 とアリサ・ラコットも笑顔で答えた。

「施設ができればメンテナンスが必要です。きっと私にも仕事が回ってくるでしょう。火星勤務ですよ、楽しみですね」

「それに火星観光も夢じゃないわ。深い渓谷や高い山にも、きっと行けるでしょうね」

 火星計画が思い通りに進まないのは、地球との距離と時間が大きな足かせになっているからだ。その障壁を打ち破る先端技術が、あの船にある。その試験に立ち会うのだ。これはとても貴重で光栄なことだ、とケントは頷く。

 二人が乗った軌道船は慎重にホッパーⅡの居住区へと近付いていく。

 時空跳躍の研究は、原子力発電所の放射性廃棄物の最終処分に関わる問題から始まった。

 当初は、放射性廃棄物を地下深くに一〇万年保管する最終処分施設を造る計画だった。しかし、候補地の近隣住民の激しい反対を受け、選定が難航し、計画はズルズルと先延ばしになっていた。その間も原発の稼働は止まらず、放射性廃棄物が一時保管施設から溢れ出てしまう。

 地下最終処分施設に代わる妙案はないものか……

 様々なアイデアの中に、ロケットに積み込み太陽に放り込めばいい、という奇抜な発想があった。

 実際には、コストの問題や安全性に難があった。もし打ち上げに失敗したら、放射性廃棄物を撒き散らすことになってしまう。

 ならば、時空を跳び越して直接太陽に放り込めばいい……

 異端の研究者の発言が発端だった。権威ある多くの科学者がその実現性を否定するなかで、ひっそりと実証研究が始まった。

 やがて、その研究が一つの成果を生み、物体の消失・転移の手法が実証された。人々は驚愕する。

 ほどなく、大きな研究予算が投入された。

 十数年の後、ドラム缶を大きくしたような専用容器が時空を跳び、太陽近傍へと瞬時に転移した。その後は、大きな重力に引っ張られ灼熱の炎に焼かれ消滅する。

 放射性廃棄物は地下に長期保管するのではなく、天然の巨大な焼却炉へと投棄する手法が実現した。

 そしてこの成果を受け継いで時空跳躍船の研究開発が始まった……

 凄い!

 ケントは、興奮した。

 ディスプレイに映るホッパーⅡの姿は、思い描いていたものよりずっと巨大だ。ただ、遠くから見た時は滑らかな曲線の船影だったが、接近するにつれ船体のでこぼこが目に付く。様々な装置・機材を手当たり次第に取り付けていったような繁雑さだ。試験船だからだろうか。

 船首・居住区に軌道船が近付く。

 外壁にあるアームが伸長し小振りな軌道船を掴み、エアロックへと引き寄せる。金属音と振動が狭いキャビンの二人に伝わった。

 ケントは、アリサに続いてエアロックを抜ける。その先に、がっちりとした体格の年配の男性が宙に浮いていた。

「ホッパーⅡにようこそ。歓迎するよ」

 四十を過ぎたぐらいの年齢、自分より十歳ほど年上だろう。威厳のある雰囲気から船長かと思ったが、服装が違うことに気付いた。

「甲板チームのリーダー、ガトラム・ベネツキよ」

 とアリサが紹介した。

「よろしくお願いします」

 ケントは一つ頷き、手を差し出した。ガトラムと握手をする。

 そこは小ぢんまりとした作業室だった。見慣れた機器や工具が目に付く。

「甲板チームは私ともう一人、シャフィー・ペレズがいるのだけど……」

 しかし、目の届くところに人影はない。

「ぐずぐずしていても仕方ないからな」とガトラムが壁にある窓を指さした。

 隣の区画は小型作業ポッドの格納庫だった。覗いてみると、大小四本のアームをきちんと折り畳んだポッドがターンテーブルの上に佇んでいた。ただ、三つの格納スペースのうち一つが空いている。視線を移すと、窓の横にある操作パネルがポッド用エアロックの作動を示していた。

「運んできた荷物を貨物デッキに移す。これで火星に送る荷物の全てが揃った。予定通り出発できる」

 アリサがパネルを操作すると、ディスプレイにエアロックの外壁扉が開く様子が映った。やがて、作業ポッドを掴んでいるロボットアームが伸長し、船の外へポッドを突き出す。アームが伸びきったところでポッドは虚無空間に解放され、エアロックに繋がった軌道船に向かってゆっくりと移動していく。

 ポッドは極太の作業アームを伸ばし、準備運動をするようにクルリと回した。細かな作業をするための二本のマニュピレーターは折り畳んだままだ。軌道船で運んできた空調装置の交換品を貨物デッキに移す作業に取り掛かる。

「シャフィーの仕事ぶりを見ていても仕方ないだろう。彼を案内し、みんなに紹介してくるといい」

 ガトラムに促されてアリサが頷き、ケントを見た。

「そうね。ごめんなさい、船を案内するわ」

 ケントは、甲板チーフのガトラムに軽く会釈をした後でアリサを追った。作業室を出る。

 ホッパーⅡの居住区は三層構造になっていた。エアロックから入った最下層がCデッキと呼ばれ、装備品や作業スペースが割り当てられている。ケントにとってお馴染みの設備機器類もCデッキに集中していた。

 ぐるりとCデッキを案内したアリサは上層階に向かう。もっともゼロG環境の施設であるため、中にいる人間にとって上も下も関係がない。しかし便宜上そう呼びイメージしたほうが何かと都合が良かった。

 階層間に空けられた通路を抜け、中間層のBデッキに入った。ここは乗員の生活スペースだ。

 広めのユーティリティールームが配置され、壁の一画に搭乗定員十名分の小さな個室が蜂の巣のように並んでいる。そこから少し離れた壁際に一人の男が漂い、ディスプレイに向かって何やら作業をしていた。

「ラファル・デュブラです。時空跳躍の試験管理を担当します」

 作業の手を止め、ケントと挨拶を交わす。幾らか年上で律義そうな印象を受けた。型通りの挨拶を済ますと彼は壁に向き直り仕事に戻る。ディスプレイには数字の列や何かを示す幾つかの曲線が描かれていた。

 気配を感じたのだろう。個室の一つから同年代の女性が現れた。

「お帰りなさい」とアリサに言葉をかける。

「彼女はアニエル・ロパート、この船の副長よ。今回、女性は、アニエルと私の二人だけなの」とケントに紹介する。

「副長……?」

 地球と月を行き来する時、幾つかの船を乗り継ぐことになるが、どれもコンピューター仕掛けの船で、操船を担う人間が乗り込むことはない。それが一般的で、乗務員がいる船は馴染みが薄かった。

「単なる肩書ですよ。実際は見習いの乗員ですから……」と、はにかむ。

「将来を見越しているのよ。火星だけでなく木星や土星にも定期船を就航させる腹積もりなの。船長が足りないのよ」とアリサが笑う。

「将来は船長さんですか。羨ましいですね、木星や土星に行けるなんて」

 それはおべっかなどではなく、ケントの本心だった。自分も未到の星に行ってみたい……。時空跳躍の試験船に乗り込み、しばらく眠っていた冒険心が騒ぎだしていた。

「そうなるといいわね。でも、あまり浮かれないように気を付けてるのよ」そう言ってアニエルは笑みを零す。

「他に誰かいるの?」

 アリサは個室を順に見ていく。

「ハリーがいるはずよ。でも就寝中だから……」とアニエルが答えた。

 アリサは頷いてからケントに視線を移した。

「ハリー・シュライバーよ。一応パイロットの肩書だけど、本業は船乗りじゃないの。時空跳躍の開発部門から来てるのよ。跳躍装置のお守役ね。もう一人のパイロット、クリス・バーンと交替でブリッジに詰めてるわ」

「パイロットか……。でも実際に船を操縦するわけじゃないんだろう?」

「ええ、時空跳躍のコントロールはコンピューターの仕事よ。人間には無理ね。この船は試験船だからお目付役としてパイロットがいるけど、実証が終わり実用船となればパイロットはいなくなるわ。全権を担う船長がいれば、それでいいの」とアニエルが答えた。

 ケントが、なるほどと頷く。

「クリスはブリッジね。船長も一緒なのかしら?」

「そうよ、ブリッジにいるはずよ。私も休憩時間が終わったら上に行くわ」

「じゃ、今のうちにケントを案内したほうがいいわね」

 二人の会話を耳にしてケントは首を傾げた。

「今のうちって、この後に何かあるのかな?」

「別に何もないわ。ただ、ブリッジには試験用の機材がいっぱいあって狭いのよ。部外者が入ると、増々窮屈になるわ。ブリッジに行くなら一人でも少ない時のほうがいいのよ」

 アリサの表情が曇っているように感じる。

 もしかして、ブリッジ要員と甲板員の間に溝があるのか、とケントは疑った。彼女にとっても最初の試験飛行だ。ターミナルステーションで仕事をしていて、この船に呼ばれた。きっと乗員は寄せ集めなのだろう。そうなると、まとまりがなくても致し方ない……

「あっ、いけない。忘れるところだったわ」

 上層Aデッキに向かっていたアリサが壁のグリップを強く握り、体を止めた。後ろについていたケントが体をぶつけ、無様な格好になる。

「ごめんなさい。ブリッジに行く前に個室を決めておきましょ」

 アリサは向きを変え、体を進めた。

「今、二部屋空いているのだけれど、ここでいいかしら?」

 気密空間に限りがある宇宙船の居住環境は、今も昔も大差ない。四角い出入り口から細長く伸びた狭い空間。個室と言うより棺桶だ、と悪態をつく人もいる。閉所恐怖症の人には厳しいが、地球と月とを結ぶ往還船にも設置されているゼロG標準仕様のプライベートスペースだ。

 余程の偏屈でなければ足から中に入るだろう。慣れるまでは手足をぶつけるかもしれないが、着替えができる広さがある。壁には就寝用の寝袋があり、対面にはコンピューターの端末が設置されていた。

「ありがとうございます、ここにします。今回の乗員は私を入れて九名ですか」

「そうよ。全員揃ったわ。それじゃブリッジに行きましょう」

 二人は通路を潜り、船の先端部となるAデッキ・ブリッジに入った。薄暗い。機器の明かりがぼんやりと周囲を照らす。窓のない穴蔵のような部屋だ。確かに狭い、窮屈だとケントも思った。

 もともと小さな造りのブリッジだったが、そこに試験用の機材が運び込まれ設置されたため幾つもの出っ張りがあり、迷路のように入り組んでいる。機材の隙間に体をねじ込むようにして二人の男がいた。逆さになっている方が四十代半ばの船長、ブルース・シャノンだった。

「ケントです。よろしくお願いします」

 機材の低い動作音に負けないよう声を張った。騒がしい場所だ。

「ようこそ。急な任務で大変でしたでしょう」

「そうですね……。でも、現地での作業は普段の業務の範疇ですから問題はありません。それより、時空を跳んで火星に行けるのですから喜んでいます」

 船長がニヤリと笑った。

「そうですか。まあ、経緯はともかく、この船に乗ることになったのですから旅を楽しんでください」

「ありがとうございます、そうします」

 短い会話を済ませ、ケントはもう一人の男の側へと移動する。体をくねらすようにして隙間を通り抜けたが、最後のところで腰をぶつけてしまった。どっしりとした形状のデータロガーが突き出た障害物となっていた。

 パイロットのクリス・バーンは機材の方を心配した。

「気を付けて、ゆっくりと移動してください。慌てる必要はありませんから……」

「すみません」

 小さく頭を下げながら、気難しそうな人だなと思う。

「ケントです。よろしくお願いします」

「こちらこそ、どうぞよろしく」

 そのパイロットは、それだけ言って仕事に戻った。横から見ても何をしているのかさっぱりわからない。邪魔をするな、ということだ。ケントは見えない溝、見えない壁の存在を感じた。

 慎重に今来た隙間を戻っていく。扉のところで様子を見ていたアリサがニコリと笑った。

「歓迎されてないようだ」

 ブリッジを出てケントが呟いた。

「愛想がないのよ。気にしないで」

 アリサは困ったような笑みを見せていた。

「私、下に行って荷物の積み込み作業を確認するわ。一応、私もチームの一員ですからね。あなたはBデッキで休んでいて。作業が終わったら、また話しましょう」

「ありがとう、そうするよ」

 下手について行って邪魔になっては厄介だ。素直に一休みするのが無難だと思う。アリサと別れたケントは狭い個室に身を入れて、湧き立つ興奮を静めていた。




    三

   

「上の人たちは、なんだかピリピリしてるね」

 伊田健人の問い掛けに副長のアニエル・ロパートが頷いた。

「システムの最終チェックが始まっているのよ。ここで異常が見つかったら試験が延期されることもあるわ」

「緊張してるのよ」とアリサ・ラコットが肩を竦めた。

 三人は、チューブパックのアイスティーとクッキーを持ってCデッキの作業室に集まった。二人きりの女性は仲が良く、時折こうして雑談をするそうだ。その温和な雰囲気に新参者のケントも加えてもらった。最後の荷物を搬入し甲板チームは手隙になっている。この作業室なら気兼ね無く話しができた。

 副長がブリッジを離れ、こんなところで呑気に雑談をしていて大丈夫なのか、とケントは気になった。もっとも、ブリッジにいても邪魔なだけ、といった愚痴は何度も耳にしていた。

「今回は大丈夫かな。延期になったりしないよね……」

「どうかしら。それはやってみないとわからない事ね」とアニエルが目を細めて言う。

「予定通り出発してほしいね。ここで肩透かしをされるとショックが大きい」

「そうね……」

 とアリサも同意する。彼女も初めての火星を楽しみにしていた。

 ケントはアニエルに視線を投げた。

「副長は、火星には行ってるんですか」

 彼女は顔を顰める。

「副長はやめて。お飾りの肩書なんだから。アニエルでいいわ」

 そう言われケントは素直に頷いた。世間から注目されている試験飛行だ。組織としては、乗員にも畏まった肩書を付けたいのだろう。しかし、大袈裟な肩書など当人にとっては迷惑なだけだ。

「火星は始めてよ。今回の乗員で火星に行ったことのある人は、船長と甲板チーフのガトラムかしら……。それと、試験管理のラファルは以前にパイロットとして火星に行ったそうよ」

「初めての人のほうが多いのか」

「ISDO(国際宇宙開発機構)は、先を見越してなるべく多くの人に時空跳躍と火星を体験させたいのよ」

「自分も、その中の一人に加えてもらったわけですね」

「そうね、それに火星に降りれるのよ。特別だわ。羨ましい」

 アリサは悔しそうな顔で、またそれを口にした。火星周回軌道まで行って降りられないのは、彼女にとって酷な事なのだろう。それなのに、出発間際にひょいと飛び乗った男が火星に降りるのを見送らなければならない。悔しがるのも当然だ。

 ケントは苦み走った笑みを見せた。黒髪を掻き、話題を変える。

「今回、半年以上、試験飛行が延期されていますが、何か深刻な問題があったのですか」

「装置の幾つかを取り替えたのよ。深刻度はそれ程でもなかったようだけど、手間がかかったのね」とアニエルがその疑問に答えた。

「試験飛行だから、そうした遅延もあるのでしょうね。きっと難しい話だ」

 ケントは諦め顔で言った。時空跳躍に関わる技術的な話など、理解できないだろう。何かの事情で飛行試験が中止になっても、素直に受け入れるしかない。

 アニエルが頷き、話を始めた。

「そうね。放射性廃棄物を太陽に放り投げるのと違って、宇宙船の転移は難易度が格段に上がるそうよ。第一に人が乗るわけだし、転移の到達点にも高い精度が要求される。それに到達点に跳び出す時、適切な方向と速度が得られないと目的地に行くことができなくなるわ。もし、火星と反対の方向に投げ出されたら、方向を変えるのにどれ程のロケット燃料が必要なのかわからないわ。そのために大量の燃料を積むわけにもいかない……」

「そうですね。そうしたことを考えると、時空跳躍のコントロールには難しいことが沢山あるのでしょうね。時空を跳ぼうだなんて無茶な話だ」

「そうね、凄い技術ね……」

 ケントとアリサは、得体の知れない乗り物にいることが怖くなった。何があってもおかしくない。信用するための拠り所を探す。

 事実として、この船はこれまでに何度も時空跳躍を成功させている。今回もまた、無事に火星に行けるだろう。三人はそれを切に願っていた。

   

 翌日。

 スペースホッパーⅡの船尾ロケットエンジンは、予定の時刻に点火した。重力影響を低減させるために地球から離れていく。

 予定通り出発し皆がホッとした時、ISDOから連絡が入った。

 火星基地での空調装置の修理において、その作業を支援するために甲板員アリサ・ラコットを同行させる……

 もちろん、彼女は大喜びした。




    四

   

 三日間の長閑な慣性飛行。

 しかし、乗員の間では次第に緊張感が高まる。伊田健人は船に充満する異様な雰囲気を肌で感じていた。

「まあ、そんなに心配するな……」と跳躍経験者のガトラム・ベネツキが言う。

 ケントと甲板チームの四人は、Bデッキの壁に配置されたハーネスで体を固定していた。他の五人は、狭いブリッジでギュウギュウ詰めになっている。カウントダウンは十分を切っていた。

「心配したって、手も足も出ないからな……」

 ガトラムの言葉にケントは正面を向いたまま頷いた。胸に密着するハーネスを指先で撫でる。これにどれほどの効果があるのか疑問だ。

 火星近傍まで一瞬のうちに跳ぶ。万一不備があったなら船体は木っ端微塵に砕けるかもしれない。ハーネスなんて意味がない……

「ちょっと揺れるが、一瞬で終わる。気付けば火星が目の前だ」

 いつに無く甲板チーフの口数は多かった。

「ケント。君は火星駐留隊に志願したんだろ」

 ガトラムは隣に並ぶケントに話を振った。

「選考で落ちましたが……」

「だったら楽しみだろう。念願の火星に行けるんだからな」

「そうですね、楽しみです……」

「火星への遠征はホーマン軌道を飛行して八カ月もかかってしまう。退屈な長旅だ。しかし君は、数分後には火星の傍にいる」

「ええ、八カ月の長旅を思うと拍子抜けしますね」

「ありがたみが少ないか? 遥々遠くに来た、という感じがしない」

「そうですね。でもそれは、ありがたいことですよ。火星が近くなり頻繁に行き来できます。五年もかかる駐留ミッションも短くなるでしょうし、火星滞在者も増えるでしょう。チャンスも大きくなります」

「そうだな。ちなみに、火星に行って何がしたいんだ?」

 そう問われケントは唸った。

「それは難しい質問ですね。そこに火星があるから、じゃ駄目ですか」と笑う。

 ガトラムも唸った。

「火星だけじゃないだろう。木星、土星、さらにその先へと足を延ばしたいと思うだろう」

「そうですね。もっと遠くに行きたい、行ける時代になりますね。実証試験が終わったら、この船を改修し探査船として活用するという計画があるようですが……」

「ああ、聞いたことがある。火星への往還船は新造することになるようだ。ホッパーⅡを廃船にするのはもったいないからな。有効に使わないといけない。惑星探査船は有力候補のようだ」

「いいですね。火星も悪くないですが、できればそれに乗りたいですね」

「冒険家だな」とガトラムが笑う。

「宇宙進出に新時代が到来しますね」

「ああ、楽しみだ」そう言ってガトラムは頷いた。

 六〇秒を切った!

 船の後方、機関区から伝わる振動と騒音が一際大きくなる。リアクターが最大出力で稼働、時空跳躍システムが空間転移に備えて激しい身震いを始めた。

 幾らか和んだ心が再び緊張する。

 さすがのガトラムも口を閉ざし、背後の壁に体を密着させた。体の震えは船体の振動だけが理由ではない。

 カウントダウンが進む。

 何もできない。頭の中が真っ白になる。

 一〇秒前!

 騒音と振動がピークに達した。船体が軋む。

 心臓が高鳴る。

 3……2……1……ゼロ!

 大きな衝撃。空気を突き破ったような爆音と振動。

 船体が悲鳴をあげるように軋む。ハーネスが体に食い込む。痛い! でもそれは生きている証拠。耐える……

 騒音と振動が小さくなった。そして余韻のように遠退いていく。

 終わった? 跳んだのか? 成功したのか……

 ケントは息を止めていた。大きく吐き、呼吸を再開する。ハーネスに縛られ、もがくように手足を動かした。

 スピーカーを介してシャノン船長の声が届く。

「跳躍成功。船体に異常なし。火星に向けて航行中、三日の距離だ。跳躍の衝撃で船が回転しているが、まもなく安定する。もうしばらく待機するように」

 船長の声を聞き、Bデッキの四人は笑顔を弾かせ、大声をあげて喜んだ。

   

 ケントは、Cデッキにある展望窓から半分欠けた赤い星を凝視していた。ホッパーⅡは何度か軌道を修正し火星へと近付いている。刻々と大きくなる火星を眺めるのは感慨深い。他の乗員は何等かの仕事を持っているなか、観光気分でのんびり眺めることができるのはケントだけだった。

「ここにいたのね」

 アリサ・ラコットが姿を現した。優しい笑みを投げかける。

「手持ち無沙汰だし、こんな機会は滅多にないからね。じっくり観察してたんだよ。何か用があるのかな?」

「火星降下の段取りをしようと思って……」

 アリサはそう答えながら体を寄せてきた。然程大きくない観察窓から大きくなった火星を覗こうとする。ケントは、彼女の温もりに引き寄せられたが、ぐっと堪えて場所を譲った。

「あの星に降りるのね……」

「よかったじゃないか。火星に立てることになって」

 アリサは顔を向け、微笑んだ。

「迷惑?」

「どうして。交換作業のサポートをしてくれるのだろう、ありがたいよ」

「なぜ、私が選ばれたか知ってる? チーフでもシャフィーでも良かったのに」

「適任だからだろ……」

 ケントは年齢が近いからだと思っていた。ガトラムは四十を過ぎているし、シャフィーも年上だ。三二歳の自分には、三一歳の助手が一番しっくりする。

 大きな息をしたアリサがその理由を打ち明ける。

「私が女性だからよ」

「女性だから?」ケントは目を細めた。

「火星に降り立つ最初の女性……。ISDOも世間に対して目新しいニュースを提供したいのよ。絶好の機会でしょ」

 言われるまで気付かなかった、とケントは頷く。

「本当に? だとしたら、空調装置の修理より重要かもしれないね。それは大変だ」

 アリサは困ったような表情を見せてから展望窓の外に目をやった。

 女性だから火星に降りられる……彼女にとっては素直に喜べない理由なのかもしれない。

「迷惑かけないようにするわ」

 アリサは決意とも取れる言葉を呟いた。




    五

   

 スペースホッパーⅡは赤い第四惑星に接近し、その周回軌道に乗った。

 火星に近付くにつれ、甲板チームの三人が慌ただしく働き出していた。積載してきた支援物資を火星駐留隊へ送り届けなければならない。

 物資コンテナのいくつかは、軌道上にある骨組みだけのスペースプラットホームに係留する。一方、食料、水、医薬品、衣料や消耗品など火星基地に送る物資は特別な装備を組み込んだコンテナに入れられており、そのまま地表へと投下する。それは耐熱外壁に守られて火星の大気を降下し、パラシュートで減速、地表に落ちる直前にコンテナ周囲に衝撃吸収エアバッグを展開。最後の最後に、ロープで繋がった減速ロケットを点火。火星の荒野に落下すると、何度かバウンドし転がって停止する。

 火星の駐留隊員が回収できるよう投下地点を正確に定める必要があり、手法としては手荒だが、これが一番安価で確実な手法だった。

 そして荒っぽい方法を用いることのできない、人や精密機器などは、プラットホームに係留してある軌道船を使って地表に降ろすことになる。

「緊張するわ。お願いだから上手くいって!」

 アリサ・ラコットが甲板チームの気持ちを口にした。Cデッキ作業室のディスプレイは、ホッパーⅡから離れた位置に漂う五つの投下コンテナを映していた。ワイヤーで繋がれ、一列になっている。甲板チームの三人が作業ポッドに乗り込み並べたものだ。その列の一端には軌道離脱用の小型ロケットが取り付けてある。まもなく投下シーケンスが始まるところだった。

「方向は正確だわ。あとはタイミングね」と副長のアニエル・ロパートが呟く。

 伊田健人はそれに頷いた。作業室のディスプレイの前には甲板チームの三人が集まり固唾を呑んでいる。そこにアニエルとケントも顔を出し、三人の背後から覗き込んでいた。ディスプレイの端に表示されている数値が小さくなっていく。カウントダウンは大詰めだ。

 投下コンテナに姿勢を制御するスラスターなどは装備されていない。周回軌道上で適切な位置にきた時、減速ロケットを噴射し軌道高度を下げていく。その後、火星の大気圏に突入すると摩擦熱でワイヤーが融け、バラバラになったコンテナが火星表面へと落ちていく。全てが計算通りであれば、火星基地から五〇キロメートル離れた投下目標の周辺に散らばって落ちることになる……

 カウントダウンがゼロになった。

 減速ロケットが点火する。

 ワイヤーで繋がったコンテナの列がゆっくりと遠ざかり、火星へと降下していった。結果がわかるのは五時間後。それまで甲板チームの三人は、やきもきしてるだろう。

「投下物資の行き先が気になるところだが、仕事がこれで終わったわけではない。さっさと働こう」

 チーフのガトラム・ベネツキがチームの二人に発破をかけた。

「そうですね。仕事をしていた方が気が紛れます」とアリサが言う。

「気が散って、ミスなんかしないように注意しろよ」とシャフィー・ペレズが笑った。

 三人が笑みを交わし、次の仕事の段取りを始めた。

「次はプラットホームか」とケントが呟く。

「ええ、何度か軌道修正をしてね。明日は火星に降りるのよ」とアニエルが返した。

「いよいよ私の出番です。いや、アリサの晴れ舞台かな」

 それを聞きアニエルは微笑んだ。

「二人の晴れ舞台よ。頑張ってね」

 ケントは苦笑いをする。二人の晴れ舞台、という響きが彼の心をくすぐっていた。

   

「気分はどうだ?」

 作業ポッドを操るガトラムが声を掛けてきた。

 生唾を呑み込み、ケントはそれに答えた。

「気分がいいわけじゃない。私は月面基地のメンテナンス要員として働いてきたんだ。宇宙での作業は基礎訓練を行った程度なんだ。こんな扱いは聞いてないよ」

 無線を介してガトラムの笑い声が聞こえた。

 気密服を着用したケントとアリサの二人は、ガトラムの作業ポッドから突き出た極太のアームに背中を掴まれ、宇宙空間を移動していた。足先には火星の赤い大地が広がっている。もしガトラムがアームを解放したら、真っ逆さまに吸い込まれていくような恐怖を覚えた。

「いたずら坊主をお仕置きする気分だ。愉快だよ」

 襟首を掴まれ、お仕置き部屋に運ばれていく……。いたずらなど何もしていないが、正にそんな状況だ。

 ケントは正面を見た。

 骨組みだけのプラットホームが浮かび、二隻の宇宙船が係留されている。一隻は、火星基地に駐留している三人の隊員が地球へ帰るための船。もう一隻は、周回軌道と火星表面を結ぶ軌道船だ。今、そこを目指している。

 ホッパーⅡは周回軌道のプラットホームとランデブーしたが、巨大な船では近付けない。火星に降りるため軌道船に乗り移るには、気密服を着用しポッドで運ばれることになった。

「火星の上を吊り下げられて移動するなんて、なかなか経験できることじゃないわ。見て! あれはオリンポス山よ」

 アリサに言われ、ケントは眼下に視線を移したが、火星で一番有名な山を見つける前に目を閉じた。背筋に寒い刺激が走る。冗談じゃない。

 ケントは正面の近付く軌道船を睨み、意識を集中した。

 地球よりずっと薄いとはいえ大気圏に突入するため、火星の軌道船は耐熱ボディを装備し先端部が円錐形状をしている。武骨な外観の月軌道船よりスマートで、ずっと格好いい。

 貨物室の外壁扉が展開しており、その傍に一機の作業ポッドが浮いている。もう一人の甲板員、シャフィーが火星に降ろす空調装置の交換品を運び、格納したところだ。降下する二人が乗り込むのを見届けるため待機していた。

 ゆっくりと移動してきたポッドがプラットホームに到着した。慎重に軌道船に近付く。

「グリップを握ったら教えてくれ」

 ケントは両手を伸ばし、外壁扉の内側にある支持グリップを握った。

「掴まえた」

「よし、アームを外す」

 背中を掴んでいたアームが外れ、ケントの体が不安定に揺れる。グリップを掴んだ両腕に力を入れ、姿勢を安定させた。ホッと息を吐く。

「ありがとう。移動するよ」

「頑張れよ。帰ってきたら迎えにくるよ」

 ケントは、低く唸った。帰りにも、また同じことをしないといけないが、今それを考えることはやめにした。クモの巣を這うようにして軌道船の貨物室へと移動する。

 火星に降下する軌道船も、もちろん、コンピューター制御の無人船だ。貨物仕様の船のため気密服を脱げるようなキャビンもない。では、軌道と火星を行き来する人間はどうするのか……

 二人は貨物室の後部に設置された専用コンテナに近付いた。人が潜れる開口部がある。体をぶつけながら狭いコンテナの中へ入った。照明が一つだけあり、配置された三つの座席を照らしていたる。ただそれだけの小箱だ。

 二人は並んで座席に体を収め、ベルトで固定した。開口部を閉じと密閉されるが、空調装置などはなく気密服を脱ぐことはできない。コンテナに取り付けられている酸素タンクとチューブで繋ぎ、電力ケーブルを接続して火星に着陸するまで何時間もじっと待つことになる。

「自分が荷物扱いされると、反省するわね」とアリサが言う。

「反省? 何を反省するのかな」

「これまでいろいろな荷物を運んできたけど、もっと丁寧に扱うべきだってね」

「えっ、反省するほど乱暴に扱ってきたの?」

「いえ、気を付けてはいるんだけど、急いでいる時などは扱いが荒くなってたわ」

「なるほど。そうなると、たまに荷物扱いされるのも悪くないということだね。荷物の気持ちがわかる」

「そうね」

 ケントは乾いた笑いをした。

 空気もない狭い箱の中に放置された二人……。寂しく心細い。

「退屈な時間ね」

「降下タイミングまで二時間以上ある。やっぱり早すぎたんじゃないのかな」

「いろいろと段取りがあるのよ。仕方ないわ」

 ケントは鼻から諦めの息を吐き、それに答えた。

「ねえ、なぜ火星駐留隊に志願する気になったの?」

「えっ、なぜって……」唐突な質問に口籠もる。

「危険が多いし、任期も長く厳しいわ。確かに火星は魅力的な星だけど、現状では火星基地の周辺にしか出歩けないのよ。きっと退屈だわ」

「そうだね……」

「ねえ、どうして?」

 ケントは低く唸った。そうした話で時間を潰すしかない。

「逃げ出したかったんだよ。なるべく遠くに」

「逃げ出す? 何から」

「……社会、からかな」

「社会? どういうこと」

 ケントは大きな咳払いをしてから、それに答えた。

「私が生まれたのは極東の小さな島国なんだ……」

「日本ね」

「ああ、行ったことあるのかな?」

「いえ、ないわ。よく知らないの」

「そうだろうね……」とケントはヘルメットの中で頷く。

「信じられないかもしれないけど、二〇〇年ほど前は世界で有数な経済大国だったんだ。先進国として技術を誇り羽振りもよかった。でも、繁栄は長く続かない。少子高齢社会に陥り人口減少に転じると、国力が低下し徐々に衰退していったんだ」

「先進国のジレンマね。長寿と繁栄は両立しない……」

「そこで生まれた。といっても人工出生だ。親がどこの誰だかわからない。知っているのは両親ともに純血の日本人ということだけだ。国力を回復させようとする政策の一環だからね。昔のような繁栄を望んでいる。私たちにはその使命が託されていた」

「そうした国は多いわ」

「ああ、そうだね。でも、成長とともに疑問を持つ。繁栄を望み計画的に人口を増やすと、争いまで増えてしまう。人口増加が戦争を招き、その戦争に勝つため人を増やす……。何がしたいのかわからなくなる」

「そうね、愚かね。それで逃げ出したくなったのね」

「卑怯者と呼ばれるけどね。でも、戦争に加担するより真っ当だと思ったんだ。そうなると、逃げ出すのなら遠くの方がいい。地球のどこかより宇宙、周回軌道より月、月よりも火星……。単純な動機だよ。きっと、それを見透かされたんだね。最終選考で落とされた」

「残念ね……」

「結局、生まれ育った愚かな世界から逃れることはできないのかもしれない。そんな気がするね」

「悲しいわ。平和な世界は訪れないのかしら……」

「それを望む人は多いけど、実現する方法が見つからない。人が寄せ集まると必ず争いが起こる。きっと、その根本から直さないといけないのだろう。人と競い合うことからやめないと駄目かもしれない」

「そうなると進歩や発展がなくなるかもしれないわ。繁栄は望めないわね」

「ジレンマだらけだな。抜け道が見つかるといいけど……」

「それは宇宙よ。空気も水もない危険な場所だから争っている場合じゃない。平和的に振る舞わないと生きてはいけないわ」

「そうだね。そうした危険な要素がないと平和な世界にはならないのかもしれないね……」

 そう口にしたものの確信はなかった。いつか宇宙でも戦争が勃発するかもしれない。人間の営みが続く限り、その可能性はなくならないのだろう。

 狭い箱の中で、二人は口を噤んだ。




    六

   

 狭い箱の中では状況を知る術がない。体を揺さぶられながらの降下は恐怖と不安の連続だった。振動と騒音が治まってホッとし、呼吸を整える。額の汗を拭いたい……

 ただ、背中に感じる圧力は消えてなかった。地球の三分の一、月面の倍、火星の重力だ。

「着いたの?」アリサ・ラコットが小声で尋ねた。

 窓一つない小さな小箱の中では状況が掴めない。

「たぶん……」と伊田健人は声を絞り出した。

 その時、音声通信が入った。

「こちら火星基地、聞こえますか?」

「ええ、聞こえます。着陸したんですね?」

「はい。基地から三キロメートルの場所に着陸しました。問題ありません。ようこそ火星に、歓迎します」

「よかった、ありがとうございます」

「ケントさんですね。もう一人の同乗者はどんな様子ですか?」

「大丈夫ですよ。ご心配には及びません」とアリサが答える。

「それはよかった、安心しました。今、ローバーで迎えに行っていますが、着陸の際に巻き上げた砂塵が収まるまで幾らか時間がかかります。到着を喜んで飛び出したりしないでください。こちらにも準備がありますから」

「了解しました。待機しています」

「では、準備が整ったら連絡します」

 ケントは無線通信を終え、ほっと息を吐いた。

「準備って何かしら。どれくらい時間がかかるのかしら?」

「さあ、どうなのかな……。でも、向こうの指示に従うしかないよ。おとなしく待っていよう」

   

 開口部からの景色に、ケントは目を見張った。

 赤い空、赤茶け荒涼とした大地。しかし、灰色一色の月面よりは暖かみがある。

 開口部を潜り、広がる異世界を眺める。これが火星だ!

 正面に荷車を引いたローバーがあり、二つの気密服姿の人影が傍にあった。なぜかローバーに取り付けられたクレーンが高く伸びている。何をしているのだろうか?

 よく見ると、クレーンの先端にカメラが取り付けてあり、こちらを狙っていた。ケントはヘルメットの中で密かに頷く。火星に降り立つ最初の女性を撮るためだ。高い位置から最初の一歩を捉えようとしているのだろう。しかし、気密服姿では男女の区別が難しい。思いどおりの映像が撮れるのか疑問だった。

 軌道船は、平坦な大地に直立して着陸していた。貨物室の壁面を進み、船体に付いたはしごを使って赤い地表に降り立つ。コンテナの開口部を離れ、重い体を引きずるように歩き出すとクレーンのカメラがそれに合わせて動いていた。おそらく予行練習をしてるのだろう。最初の女性が降りるのは、この後だ。それは彼らも承知している。

 ケントは、足を踏み外さないよう慎重にはしごを降りていった。自身にとって最初の一歩を火星の地に着ける。二歩、三歩と踏み締め、どっかと仁王立ちした。分厚いブーツの底を介して異星の感触が伝わる。言葉にできない感動に包まれ、身が震えた。

「ようこそ火星へ。挨拶は基地に戻って気密服を脱いでからにしましょう」

 ローバーに歩み寄ると、そう声をかけられた。二人の駐留隊員は撮影に専念している。一人がクレーンを操り、もう一人はハンドカメラを構えていた。

「彼は降りてきました。どうぞコンテナを出て降りてきてください」と無線でアリサに伝える。

 スペースが狭いので軌道船から降りるのは、一人ずつ順番に降りるのが鉄則だった。

 アリサがコンテナから出てきた。ゆっくりと伝い歩きをして、はしごに辿り着く。その様子を二人の隊員がカメラに収めている。

 一段一段はしごを降り、赤い大地に足を着いた。火星に降り立った最初の女性だ。

「何か、歴史に残る言葉が欲しいですね」とケントが呟いた。

「生放送じゃないですからね。それは基地で気密服を脱いでから撮りますよ」

「そんな、困るわ……」ローバーに歩み寄ってきたアリサが声をあげた。

「そんな言葉なんて考えてこなかった。思いつかないわ」

「大袈裟なことじゃないですよ。火星に降り立った素直な感想を言ってもらえばそれで十分です」

「でも……、やっぱり困るわ。化粧ポーチを持ってこなかったのよ」

 それを聞き、ケントは思わず吹き出した。それに釣られ二人も笑う。降下を終えて火星に降り立ち、それまでの緊張が解れていった。

「さて、直ぐに基地へお連れしたいのですが、荷物を降ろさないといけません」

「手伝います」とケントが言う。

「いえ、作業は私たち二人で行います。ちゃんとパワーアシストも装備してきました」

 駐留隊員の二人は、気密服にオプションのパワーアシスト装置を取り付けていた。これならば重量物の運搬も軽々できる。

「それにお二人は到着したばかりです。まだ火星環境に馴染んでいないので下手に動かないほうがいいでしょう。少し離れて見ていてください」

 そう言われ、新参者の二人は見学に徹することにした。今回運んできたコンテナはそれ程大きくなく、中身の交換品は特別に重いものではない。作業としては難しくはないだろう。火星に慣れた二人に任せたほうがいい。

 作業は段取りよく行われた。

 軌道船の貨物室からクレーンを使って荷車に移す。その手際のよい作業をカメラに収めたほうが良いのではないか……。ケントはそんなことを思いながら荷移しを眺めていた。

 軌道船は外壁を閉じ、待機モードに移行する。メンテナンス作業を終え火星を離れる時、またあの狭い小箱の中に潜り込むことになる。

 四人はローバーに乗り、荒れ地を慎重に走った。

 車に揺られ周囲の景色を眺めていると、火星に来た! という実感が湧いてきた。呆気無く到着し些か拍子抜けしていたのだ。任務を完璧に遂行することはもちろん、短い期間ではあるが火星を満喫できたらいいな、とケントは願った。

 火星基地は見慣れた円筒形ユニットを連ねたものだった。月面基地よりも規模はずっと小さい。必要最小限の施設で構成されている。火星計画の困難さが滲み出ていた。

 パワーアシストを取り付けた二人が荷物をエアロックに運び入れ、少々窮屈だが新参者の二人もその体をエアロックの中に収めた。スイッチを入れ、火星の希薄な大気を排出し、地球環境の空気を充満させる。内壁扉が開くと、そこは前室と呼ばれる作業場だった。荷物を移し、気密服を脱ぎ始める。ようやくヘルメットを外すことができ、ケントは大きく深呼吸をした。火星基地の空気は少し臭いが残っている。空調装置の働きが良くないな、と感じた。

 コントロールルームで留守番をしていたもう一人の隊員が現れ、駐留隊の三人が揃ったところで改めて挨拶を交わす。

 チームリーダーは三七歳のトルウィン・バンベルグ。がっちりとした体格の頼りがいのある男だ。迎えに来てくれたもう一人のジレ・アランソン、留守番のバーグ・エルジェスと順に握手を交わす。

 予定外の訪問者に駐留隊の三人は満面の笑顔で大歓迎してくれた。もっともそれは火星初の女性がいるからだ。女性と触れ合うのも久しぶりのことだから、それも仕方ないと爪弾きのケントは寛容に振る舞った。アリサも満更ではない様子だ。

 バンベルグが咳払いをし、高揚を抑えた声で話をした。

「ずっとコンテナに閉じ込められて疲れているだろう。まずは個室に案内するから手足を伸ばして少し休むといい。その後で基地を案内し、食事にしよう。ささやかだが二人の歓迎会だ」

 前室に集まった男たちは大きな声を張り上げ、歓喜した。

 火星駐留隊の一チームは三人編成で、二年二カ月の会合周期ごとに一チームが派遣される。交替の時期は六人がこの狭い基地で生活することになる。今は一チーム三人が駐留している時期なので、交替要員用の個室が空いていた。ただ、使われない時期が長いため基地の端にポツンと設置されている。基地の主要施設は増設されたもので、初期の恒久基地部分にある年代ものの交替要員用個室には、細長い連絡通路を使って行き来することになる。

 月面基地は収容人数と居住性を高めるため容積の大きな施設への切り替えを進めていたが、火星基地は一昔前の小振りの円筒形居住ユニットを使い続けている。従って基地の内部は手狭で窮屈に感じた。

 交替要員用個室は一つの居住ユニットを三つに区分けしていた。ベッドと机が置かれているだけの簡素な狭い部屋だ。

 それでも、ホッパーⅡの極小個室の後では格段に広く快適に感じる。久しぶりに重力のある世界でベッドに寝転び手足を伸ばすと、心地よさに包まれた。寝る、というのはこういうことだ。

   

「火星での活動を重要視する理由がこれだ……」

 チームリーダーのバンベルグが二人をその部屋に招き入れた。貴重な居住ユニットの一つを丸々占有していることからも重要性が窺える。

 機材や幾つもの収納ケースが繁雑に並ぶその部屋は、研究室と呼ばれていた。

「駐留隊員に選ばれると、この一連の作業を徹底的に訓練することになる。貴重な資料を壊してしまっては大変だからね」

 ケントは作業台の上にある割られた石を覗き込んだ。奇妙な模様がある。火星生物の化石だ。

「極力軽くして地球に数多く送りたいからね。ここで掘り出すことになる。気を使う細かい作業だよ。肩が凝る」

「沢山ありますね」

 アリサの言葉にバンベルグが頷く。

「この辺り一帯は、海だったんだ。多くの火星生物が生息していた。その生物の死骸が土に埋まり化石となって出土する。正に宝の山だよ。地球の研究者は直ぐにでもここに飛んできたいようだが、環境が厳しすぎる。学者先生の大半は宇宙に出たこともないからね。長期間の訓練に取り組み、資格を得るのは大変だ。本業から外れてしまう」

「やはり、独特な形をしていますね。火星固有の貴重な生物ですね」

「そうだが、外見や器官などは地球の生物と似たようなところがある。まあ、地球の生物が多様性に富んでいる、という見方もあるが、外見が似ていてもその根本は違っているようだ。遺伝構造などは全くの別物だからね」

「環境に適応し進化したということですか。水の中で生き延びるために必要な形態は、自ずと決まってくる。サメと哺乳類のイルカの外見が似ているのと同じですね」

「そのようだね。そうなると、火星の生物が絶滅することなく進化を続けていたら、我々とそっくりな知性種が生まれていたかもしれないね」とバンベルグが笑う。

「もしそうなら、どこかの星に私たちに似た知的生命がいるのでしょうね……。会ってみたいですね」

 そう言うケントの笑顔が引き攣った。いや、そんなのに遭遇したら、きっと気味が悪いだろう。遠慮しておこう……

「陸棲の生物は見つかったのですか」アリサが冷静に問い掛けた。

「いや、見つかっていないよ。この基地は発掘に有望な場所に建てられたからね。海だった場所だよ。我々の行動範囲は限られているんだ。陸棲を見つけるには、もっと広範囲を調査しないといけないだろう」

「火星の別の場所ですか」

 バンベルグが頷く。

「次の段階として、大型のトラックのような車両を何台か用意し、その荷台に様々な装備を載せて移動しながら広域のフィールドワークを行う計画がある。それが実現すれば陸棲生物の化石が見つかるかもしれないな」

「そうですね……」

 ケントはその様子を想像し、ワクワクしてきた。

「でも、まあ、その計画の実現には課題も多い。フィールド調査隊への支援も確立しないといけない。そのためにも、この基地の規模を大きくし人員を増やす必要があるね。それは時空跳躍船が実用化され、定期便が頻繁に行き来するようになってからだろう。我々も早期の就航を待ち望んでいるよ」

「そうですね。定期便が就航すれば、月面基地を超えるような施設を造ることも可能でしょう。火星計画は大きく進展しますね」

「その時、暮らしやすくなった火星に住んでみたいものだね……」

 バンベルグのその想いに、ケントは頷き同意した。




    七

   

 火星の自転周期は二四時間三七分。

 従って、地球と同じ生活リズムで暮らすことができる。しかし、宇宙で働いていた伊田健人とアリサ・ラコットにとっては、基地の規則正しい生活時間に合わせるのはスムーズにいかなかった。

 翌朝、ケントは寝坊し、ぼんやりした頭で個室を出た。時間を合わせるのは難しかったが、不思議と火星の重力にはすんなりと体が馴染んでいた。おそらく月面基地にいたからだろう。月の二倍の重力も悪くない、快適だと思う。

 朝食の時間はとっくに過ぎている。駐留隊員の三人は仕事に取り掛かっているはずだ。連絡通路を通り抜けコントロールルームを覗くと、三四歳、最年少のジレ・アランソンがいた。

「おはようございます……」

 アランソンはケントの顔を見てニヤリと笑い、壁に掛かった時計をチラリと見た。

「ゆっくり寝れたようだね」

「ええ、でも、起こしてくれればよかったのに……」

「時差もあるし、到着して直ぐに動くのは辛いだろう。本来なら何日か体を慣らしてから働くのが無難だからね」

「そうですね。でも、そんなにのんびりできませんから。帰りの船に乗り遅れてしまう」

 アランソンは笑みを浮かべて頷いた。

「朝食を取るといい」

「いいえ、昼食の時間まで待ちますよ。あいつはメシばかり食べてるな、と評判を落としたくないですからね」

 ケントのその応えに、アランソンはハハハと笑う。

「アリサはどうしています?」

「まだ、見ていないな。寝ているはずだ。まあ、慌てることはないからね。起こさなくてもいいだろう」

「しかし、昼食までに来なかったら、起こすことにします。寝過ぎても時間調整は難しいですからね」

「そうだな」とアランソンが頷く。

「他の二人は何をしているんですか」

「外に出たよ」

 とディスプレイの一つを指さす。周辺地図が表示され幾つかのアイコンが示されている。ローバーが移動しているようだ。

「落としてくれた支援物資の回収だよ。今日のところは、ビーコンを頼りにコンテナを探して全てに破損がないか確認し、そのうちの一つを持ち帰る予定だ」

「帰りは、いつ頃ですか」

「夕方だね。投下目標まで五〇キロメートルも離れているから、そこまでの荒れ地を進むだけで時間が掛かってしまう」

「大変だな……」

 ケントはディスプレイの地図を見詰めた。ローバーは投下目標までの半分も走っていなかった。先は長い。

「まあ、地図を睨んでいても仕方ない。さっき地球からのニュースが届いたから、それを見るといい」

 アランソンが別のディスプレイにそのニュース映像を表示した。ケントは首を傾げてそこに目をやった。

 昨日の映像だ!

 軌道船から降りる気密服姿の人間が火星の大地に足を着けた。もちろん、その人物はアリサ・ラコットだ。自分ではない。エアロック前室で気密服を脱ぎ、握手を交わすアリサ。あの時も撮っていたのか。ささやかな歓迎会で食卓を囲む姿もあった。

「昨日撮った映像を夜のうちに地球に送ったんだ。それを向こうで編集し、ニュースとして流した。結構、話題になっているようだね」

「そうでしたか。これで彼女も時の人、ですね……」

   

 ケントは食後のコーヒーを飲みながらアリサを見た。彼女は地球でのニュースの扱いに不満があるようだ。

「火星が注目されるんだ。いい事だろ?」

「素直に喜べないわね。何だか火星に遊びに来たみたいに見えるわ。話題を提供するためのお飾りね。不本意だわ」

 ちゃんとした任務があって火星に降りたかったのだろう。その気持ちはわからないではないが、今それに不平を言っても仕方ない。

「遊びに来たわけじゃないだろう。しっかりと手伝ってもらうから」

「そうね、きっちり手伝わないと本当に遊びに来たことになっちゃうわ」と舌を出す。

「この後、どうするの?」

「まず現場確認だな。月面基地で交換作業の訓練をしてきたけれど、現場の状況は映像で見ただけだからね。実際に故障した装置を見て、作業に支障がないか確認しないといけない」

 アリサは真顔で頷いた。その後で、ばつが悪いような表情を見せる。

「ねえ、今更で申し訳ないのだけれど、どういった作業になるの」

「そうだね、ざっと説明すると……。問題の空調システムは幾つかの装置が組合わさって機能を果たしているんだ。今回はその中の一つ、二酸化炭素除去装置が故障してしまった。こうした密閉施設では、人間の呼吸によって二酸化炭素が溜まっていってしまう。放置しておくと命に関わるからね。何等かの方法で除去し二酸化炭素濃度を下げないといけない。その装置が機能不全を来したんだ」

「大変だわ。のんびりしてられない」

「いや、大丈夫だよ。空調システムは二系統あるからね。当面は問題ない。心配ないよ」

 アリサは黙ったまま頷いた。

「交換品のコンテナを見てわかるように、運んできた除去装置はそれほど大きくないし、特別に重いものではない。でも、映像で見ると現場の機械室は狭くてゴチャゴチャしてるんだ。一番の問題は取り外した装置を運び出し、新しい装置を運び入れることなんだ。どこかにぶつけて別の装置を壊したりしたら大変だからね。そもそもこうした設備は、交換作業のことまで配慮して作ってないんだ。だから力ずくになることも珍しくない」

「狭くて運び出せなかったらどうするの?」

「スペースを確保するために、邪魔になっている設備を一旦取り外す……。あまりやりたくないけど、運べないなら仕方ない。何とか出し入れできるスペースを作るしかないね」

「大変ね。面倒だわ」

「ああ、厄介だ。ともかく、装置の取り外しや組み込みは大して難しくはないからね。出し入れがスムーズにいくかが重要になる」

 アリサが小刻みに何度か頷いた。

「それに重くないとは言え、それなりの重量があるから狭い場所では大変だと思う。交換作業の時はパワーアシストを取り付けて、手を貸してくれないかな」

 アリサが大きく頷く。

「よし、それじゃ機械室を見に行こう」

 ケントはコーヒーを飲み干し、立ち上がった。

   

 火星滞在三日目。

 ケントとアリサの二人は、朝から二酸化炭素除去装置の交換作業に取り掛かった。

 手間取ったところもあったが、作業は予定通りに進む。昼食前に交換作業は終わり、午後から作動させて確認する。

 ケントはエアロック前室の片隅で、取り外した装置の不具合箇所を調べていた。ケースを外して内部を見ている時、エアロックが作動した。覗き窓を見ると、二つの気密服が揺れ動いていた。バンベルグとエルジェスが帰ってきたのだ。彼らは今日も投下物資の回収に出ていた。

 ケントは内壁扉の前で出迎え、気密服を脱ぐ手伝いを始めた。

「ありがとう。こんなところで何をしてたんだ?」

 ヘルメットを脱いだバンベルグが不思議そうな顔で尋ねた。

「取り外した装置の故障原因を調べていました」

「それじゃ、交換作業は上手くいったんですね」とエルジェスが言う。

「ええ、昼前には終わりました。今、作動させてチェックしています」

「大騒ぎしたのに、半日で片付いたのか。拍子抜けだな。やっぱり専門職には敵わない。とにかく、ありがとう。一安心だよ」とバンベルグが笑みを浮かべる。

「いえ、役に立ってよかったですよ。それで、まる一日様子をみて、問題なければもう一系統のメンテナンスをしようと思います。他の設備で気になるところがあったら言ってください。ついでにみておきますから」

「ありがたいね。頼むよ。よし、それが終わったら、明後日、外に出ないか。せっかく火星に来たんだ。外に出て動き回りたいだろ。今日、投下コンテナを二つ運んできたんだ。あと二つ残っているから、それを回収しに行こう。彼女も誘って」

「本当ですか。嬉しいな。ありがとうございます。いい思い出になりますよ」

 バンベルグも嬉しそうに頷いた。

「それで、こいつのどこが壊れていたんです?」とエルジェスが尋ねた。

「いや、まだそこまで調べていません。でも、内部が随分汚れていますね。砂塵が侵入したようです。ダクトの繋ぎ目から空気が漏れていたのかもしれませんが、それ以前に吸気系に砂塵が紛れ込んでいること自体が問題ですね。どこから侵入したのでしょう?」

「ダクトか……。一番怪しいのは、ここだろう」とバンベルグがエアロックを指さした。

「火星の大気を排出してから地球の空気を入れているからな。当然、火星の大気には砂塵が舞っているはずだ。上手く取り除けていないのかもしれない」

「このエアロックも、月面仕様のユニットに手を加えたものですからね。火星環境にきちんと適応していないのかもしれませんよ。そういうことが前にもありましたからね」とエルジェスが言う。

「そうだな。一度、そういう視点でチェックをしたほうが良さそうだ。その故障原因調査は報告書を地球に送るのだろ?」

「ええ、もちろんです」とケントが頷く。

「それじゃ、そこで空調ダクトのチェックを提案してくれないか。まずは地球側で設備の検証をしてほしいな」

「そうですね。わかりました」

「そうやって少しずつ設備の改善を進めるしかないですね。まだまだ使わなくてはいけませんから」

 エルジェスの言葉にバンベルグが頷く。

「そうだな。手間が掛かるかもしれないが、そうするしかないな」

「原因調査を終えたら、この装置どうしますか。まだ使える部品がありますから、補修部品になりますよ」とケントが言う。

「しかしなぁ……、現実的にそこまでは、できないだろう。保管するスペースもない。妥当なところで、コンテナに入れて外に置いておくことだな。将来、何かの役に立つかもしれないからな」

「そうですか。わかりました。終わったらコンテナに入れておきます……」

 外に置いていて、将来役に立つことがあるのだろうか。きっといつまでも放置されるのだろう。ケントは火星基地の現実が身に染み、寂しくなった。

   

 火星滞在五日目。

 ケントはヘルメットの中であくびを噛み殺していた。単調、退屈だ……

 荷車を引いたローバーに乗り、バンベルグ、エルジェス、アリサとともに投下コンテナの回収に向かう。五〇キロメートルほど離れた投下目標地域まで、二時間以上走り続けている。仕方ない。荒れ地の走行はスピードが出せない。立ちはだかる地形によっては大きく迂回することになってしまう。時間がかかり、景色は赤茶けた大地が続くばかりで、変わり映えしなかった。

 火星での活動は、別の意味で苛酷だ。ローバーに揺られ、油断をすると眠ってしまいそうだ。気密服を着用したまま眠るなんて、褒められたことではない。

 ようやく、一つめのコンテナに到着した。

 ローバーを降り、凝り固まった体を解す。

 萎んだエアバッグを取り外し、小さく畳む作業をアリサとともに手伝う。火星ではこれも貴重な資源だ。基地へ持ち帰ることになる。もっとも再利用が決まるまで、箱にいれられ外に放置されるのだろう。取り外した二酸化炭素除去装置と同じ運命だ。

 ローバーのクレーンを使いコンテナを荷車に載せる作業は、訓練を受け、手慣れている駐留隊員の二人に任せる。その間、アリサと二人で周辺を見回していた。地表に落下する直前に小型の減速ロケットを噴射する。その後、ワイヤーを切断されたロケットが近くに落ちているかもしれない。それを探していた。切り離され地表に激突したロケットは破損が激しいだろうが、可能ならば基地へ持ち帰りたい。しかし、減速ロケットを見つけるのは至難だった。

 その後、最後の投下コンテナの落下地点へ移動し、それも回収した。

 支援物資が入った二つのコンテナを荷車に載せ、再び基地へ帰る退屈なドライブが始まった。

「貴重な体験をさせてもらったわ」とアリサが言う。

「だって、軌道上に並べて火星に落としたコンテナの回収作業ができたのだから」

「自分で落とした物を自分で拾いに行った、ということですね」とエルジェスが応えた。

「ええ、そうです」

「基地に戻ったら、回収したコンテナの一つを中に運ぼう。食料が入ったコンテナだ。輸送期間が短いので、火星では珍しい食べ物が入っている。それで二人の送別会をやろうじゃないか」とバンベルグが言った。

 既に二人の帰還スケジュールが決定していた。明日の午後、周回軌道のスペースプラットホームとランデブーするのに適したタイミングで火星を発つことになる。

「あっという間でしたね」とケントが言う。

「寂しくなるな……」バンベルグがしみじみと言った。

「これからも試験船が火星に来た時は、乗員が下に降りてくれるといいですね。通信で挨拶を交わすだけでは寂しいですから」

「そうだな。しかし、それなら交替要員を乗せてきて欲しいな。それで帰りに乗せてもらう。一週間後には地球に到着だ」

「あれ、ホームシックですか」とエルジェスが、ここぞとばかりにからかった。

「バカ言うな。それが効率的という話だよ」

 バンベルグはそう返した後で、何やらぶつぶつと呟いていた。

「今回、私が乗れたのですから、それも可能でしょう。直ぐにでもやればいいのに。できないのかな……」

「試験船だから無理なんでしょ」とアリサが言う。

「今回も半年間、試験飛行が延期されたのよ。そんなんじゃ火星駐留の継続に支障が出かねないわ。計画的に従来の方法で人員交替をするのが堅実ね」

「もう少し、柔軟にできないのかな……」

「とにかく、早く実証をしてもらいたいものだね。そして新造船で頻繁に運航する。そうなれば火星もぐんと発展する」

「ええ、待ち遠しいですね……」

 四人はそれぞれに、やがて訪れる新しい火星の様子を想い描いていた。

   

 個室のドアがノックされた。

「どうぞ」とケントが応じる。

 ドアが開く、アリサが立っていた。

 しっとりとした雰囲気。髪が微かに濡れている。ケントはドキリとした。

 基地には循環水型のシャワーがあるが、普段はあまり使わない。貴重な水の節約を心掛けているからだ。それでも支援物資の回収のため連日、長時間、気密服を着用していたバンベルグとエルジェスの労をねぎらい、シャワーを使用することになった。二人も送別会を兼ねた夕食を終えてから使わせてもらう。アリサが最後だった。

 ケントは慌てて寝そべっていたベッドから体を起こした。

「入っていいかしら」

「どうぞ……」

 二人は狭い部屋のベッドに並んで座った。何だか、ぎこちない。

「火星滞在も終わりね。もう少し、いてもいいわ」

「そうだね……」

 とだけケントは答えた。その気持ちは一緒だ。

「でも、火星駐留隊として長期ミッションに挑むのは厳しいね。自分は甘かったようだ。選考委員の判断は間違ってなかったよ」

「みんな同じじゃないかしら。勇んで火星に来たけど、苛酷で単調、退屈。でも、帰りたくても帰れない。何て所に来たんだと内心後悔しつつ、時が来るのをじっと待つ。忍耐の塊だわ。そんな気がするの」

「そうかもしれないね……」

 ケントは自身の心の中に、選ばれなくて良かったという気持ちがあることに気付いていた。それも情けない。

「私も一緒なの……」

「何が?」ケントは眉を顰めて尋ねた。

「三〇歳を過ぎ、跳躍船に乗る仕事に志願して火星を見てみたいと思ったのよ。あなたと一緒でしょ」

 ケントは頷く。根本は好奇心であり、現状に対する不満なのだろう。

「一つの節目だからね。何かに挑みたくなる」

「そうね。でも、ちょっと違うの。火星から戻ったら、それで終わりにしようかと思っていたの」

「宇宙の仕事は引退、ということ?」

 アリサが頷く。

「結婚するのかな?」

 その問い掛けに彼女は笑った。

「相手がいないわ。でも、子どもを産み、育てることはできるでしょ」

「出産、子育てか……」

 アリサは大きく息をした。

「卵子は保存してるわ」

 宇宙放射線が体に悪影響を及ぼす場合があり、遺伝に支障が出ることも考えられる。その対策として宇宙に出る者は、精子や卵子を採取し長期冷凍保存するのが一つの習わしだった。

「私も子どもを産み、育ててみたい。その願望は消えてないの」

 宇宙での仕事を辞め、地上に降り、子を産み育てる……。そうした選択もあるだろう。その花道として火星行きを決意する。その気持ちは男のケントにも理解できた。

「戻ったら辞めるんだ」

「そうね。火星を見るだけでなく、そこに降り立つことができたのだから、満足すべきね」と笑みを見せる。

「もう宇宙には出ないのか……」

「子どもが成長したら、一緒に火星へ行ってみたいわね」

 そう言うとアリサは潤んだ瞳でケントの目を真っすぐに見た。

「折角だから、もう一つ思い出を作りたいわ……」

 アリサはそう言ってケントに抱き着き、顔を近付けた。触れる寸前の唇から意味深な言葉が漏れる。

「記念になるような……」

 二人は唇を重ね、狭いベッドの上に倒れ込んだ。

 ゼロGで最初にセックスをしたのは誰なのか? 月面では? 火星についても興味本位の論争が起こることは間違いない。彼女はその一件に決着をつけようとしている。

 その事実を公言するのだろうか?

 それは彼女次第だ。少なくとも自分は、この一件に関しては口を閉ざそう……

 ケントはそう心に誓い、彼女の見た目より柔らかい体に手を這わせ、優しく抱いた。




    八

   

 目が覚めた。

 極小の個室……寝袋の中だ。体が軽い。

 ホッパーⅡに戻ったが、特に仕事があるわけでもない。時差ボケを無理に治すこともなかった。眠くなったら寝袋に入り、目覚めるまで眠る。健康的な生活だ。

 ゴソゴソと体を動かし、伊田健人は個室を出た。

 壁のディスプレイに向かってラファル・デュブラが何やら作業を行っている。時空跳躍の試験管理者がどんな仕事をしているのか、ケントが関知することではなかった。

「おはようございます……」挨拶をする。

「おはよう」顔を向けることなく、そう応えた。

 余計な会話は迷惑なのだろう。ケントはその背後を素通りし、Cデッキに向かった。

 観察窓の外部防護壁を開け、覗く……火星がない。

 ホッパーⅡは、とっくに火星から離れるコースを進んでいた。船尾の巨大な機関区に阻まれて火星を見ることはできない。赤い星にお別れの挨拶をしたかったが、その機会を逃したようだ。

 展望窓を閉じ、ケントはそこを離れた。作業室に二人の女性がいる。恒例のお茶会のようだ。

「ようやく起きたの、おはよう」副長のアニエル・ロパートが声を掛ける。

「おはよう。アリサ、君は早いね」

 アリサ・ラコットへの対応が火星に降りる前と違ってはいけない。特に女友達のアニエルの前では……

「早くはないわ。あなたが寝坊をしただけよ」

「寝坊か……。甲板チームも急ぎの仕事はないのだろ?」

「そうよ、火星に荷物を降ろして一段落したわ。貨物デッキは空っぽよ」

「格納庫に人影があるけど……」

 部屋を仕切る窓の向こうには、ターンテーブルの上に三機の作業ポッドが鎮座していた。そこにチラチラと人の姿が見える。

「シャフィーよ。ポッドの整備をして、さっきはボディを磨いてたわ。そんな汚れるような仕事はしてないのに……」

「へぇ~、昔の人みたいだね」

「昔の人?」

「昔の人は休みの日になると、自家用車のボディをせっせと磨いていたそうだ。ピカピカになるまで」

「ピカピカねぇ……。とにかく、みんな暇を持て余しているのよ」

「みんな暇か……」悪いことではない、と頷く。

 暇で、のんびりしているのなら船は安泰だ。

「今、火星の話をしてたのよ。青い夕焼けを見ることができなくて、残念だったそうね」とアニエルが言う。

 火星の朝焼け、夕焼けは青い。ピンク色の空が青く染まるという。しかし地球と同様で、毎日見れるわけではない。二人が火星に滞在している間に、鮮やかな夕焼けを見ることはできなかった。

「青い夕焼けか……。そういえば、そうだったね」

「気にしていなかったの?」信じられないという表情でアニエルが言った。

「そういうわけじゃないけど……。でも、青い夕焼けもそうだけど、せっかく火星に降りたのだから間近からオリンポス山を見上げたり、マリネリス峡谷の谷底を散歩してみたかったね。僕らが見たのは、どこまでも続く赤茶けた荒れ地だけだったから」

「それは贅沢だわ。念願の火星に着いたのに、クルクル回るだけで降りることができなかった人がいるのよ」とアニエルが恨めしそうな顔をする。

「そうだね。火星に降りられたことに感謝しないといけないね。でも、近い将来にまた火星に来て、オリンポスやマリネリスにも行ってみたいね」

「そうね、三人でまた来ましょうね」とアニエルが屈託のない笑顔を見せた。

 三人でまた……何気に言ったのだろうが、火星に気軽に行ける時代になった時、アリサと行けたらいいと思う。ケントの顔がにやけていた。

 時空跳躍試験船スペースホッパーⅡは、地球を発った時と同様に火星から離れ、再び時空を跳んで故郷に帰ることになる。




    九

   

 衝撃!

 破裂音?

 Bデッキの壁にハーネスで固定された四人の体が激しく揺れる。振動と騒音が続くなか、照明が落ちた。真っ暗だ。

 伊田健人も、悲鳴に似た声をあげた。

 何だ、これは!

 まさか、跳躍に失敗したのか……?

 騒音と振動が小さくなると薄暗い非常灯が点いた。だが、船体の揺れは続いている。

「何?」アリサ・ラコットが叫んだ。

「事故だ。船が回転している」シャフィー・ペレズが答える。

 激しい回転ではない。ただ、遠心力が働き体が外側に引っ張られてしまう。

「空気が漏れているんじゃない?」不安げなアリサの声。

「激しい流出は感じない。下手に動かないほうがいい。待機だ」とガトラム・ベネツキが怒鳴った。

 その時、スピーカーからシャノン船長の声が流れた。

「こちらブリッジ。明らかに事故だ。主電源が落ち、機関区からの情報も途絶している。状況不明だ。現在居住区は予備電源で電力供給している。生命維持装置に支障はない。気密は保たれている。チーフ、ラコットと一緒にブリッジに来てくれないか。副長がケガをした、手当を頼む」

 アリサが急いでハーネスを外す。

「待て、慌てるな。救急パックを取ってきてくれ。船が揺れるかもしれない、気を付けるんだ」

 ガトラムの指示にアリサは頷き、救急パックを取りに行く。ガトラムはハーネスを外し、シャフィーとケントの顔を交互に見た。

「二人は待機してくれ。無闇に動かないほうがいいだろう」

 ケントはシャフィーとともに頷いた。今はチーフの指示に従うべきだ。

 ガトラムは、救急パックを手にしたアリサとブリッジに向かう。船の回転にバランスを崩し、体を壁にぶつけた。

「跳躍は成功したのだろうか……」

 二人を見送ったシャフィーが呟くように言う。

 まだ火星近傍なのか、地球の近くまで跳んだのか。この違いは救助活動に大きな差を生む。あの激しい衝撃は、到達時に起きたもののように思う。だとしたら地球の近くだ。救助に希望が持てる。

 順調な旅だったのに、最後に危機的状況が待ち構えているとは……

   

 アリサが副長のアニエル・ロパートを連れてBデッキに戻ってきた。額に当てた手に血が滲んでいる。

 ケントはハーネスを出て手を貸した。

「大丈夫か?」

「額の傷は小さいけど血が噴き出ていたの。気絶してたわ」

 アニエルが首を回しケントを見た。既に意識を取り戻していたが、辛そうな表情をしている。彼女を医療キットの壁際まで運び、ハーネスで体を固定した。彼女の手をどかしケガをみる。額に当てたガーゼも赤く染まっていた。

「痛むのか?」

 歪むアニエルの顔を見て、ケントは思わず口にした。

「ええ、でも大丈夫よ……」

 彼女はそう答えたが、精一杯の強がりに感じる。シャフィーも背後から心配そうに覗いていた。

「ダメ、医療キットの電源が入らないわ」

 アリサが取り乱したように電源スイッチを何度も押していた。

「機関区の主電源が落ちているからだろう。居住区の予備電源だけじゃ、全ての設備を動かせない」

「どうしましょう。頭だから、きちんと調べたほうがいいわ」

 しかし船の医療キットに、頭の中のケガを治療する能力はない。傷の殺菌、止血程度だ。

「このまま安静にして、しばらく様子をみよう。他に痛いところはないのか?」

「腕と……、胸も痛いわ」

「大変。みてみるわ。ちょっと向こうに行ってて」

 ケントとシャフィーは頷き、その場を離れた。

 少ししてアリサが二人のところに来た。

「赤く腫れてるの。でも、血は出てないし、骨も折れていないと思うわ。打ち身ね」

「ブリッジの中を転げ回ったのか?」

「違うわ。ハーネスをちゃんと付けてたから。たぶん、試験機材のどれかね。ブリッジの中に散乱してたわ」

「散乱? どうして」

「衝撃で飛ばされたんでしょ」

「衝撃で……」

 シャフィーが背後から声を発した。

「おそらく、取り付けが甘かったんだ。ブリッジは強い衝撃にも耐える造りだが、後から載せた試験機材はそこまで考えていなかったのだろう。無理やり詰め込み、不安定な物もあったからな」

「試験機材が飛び回っていたのか。他のブリッジクルーは大丈夫だったのかな」

「我慢している人がいるかもしれないわね」

「確かめたほうがいいな」

 ケントのその言葉にアリサが頷く。

「チーフは何をしてるんだ?」とシャフィーが尋ねた。

「船長と話しをしていたわ。どうするか決めないといけないから。情報が途絶えていて機関区がどうなっているのかわからないそうよ」

「どうするって、外に出て見てくるのか?」

「そうするしかないでしょうね。機関区のメインコンピューターが使えないと、ポッドを無人で飛ばすことはできないわ。誰かが乗って見てくるしかない……」

 シャフィーが唸る。

「船の回転は止められないのか?」

「姿勢制御スラスターも操作できないのよ」

「厄介だな」

「それだけ深刻なのよ……」

 そこに試験管理者のラファル・デュブラが下りてきた。医療スペースのアニエルをチラリと見る。

「彼女は大丈夫なのか?」

「今は安静にしてるわ。医療キットの電源が入らないの」

 デュブラが頷く。

「ブリッジも一部の機器しか動いていないんだ。試験機材の電源も全て落ちているから、私があそこにいてもやることがない。それで下りてきた……」

 デュブラはそう言ってからケントに視線を投げた。

「君を呼んでいる。ブリッジに上がってくれないか」

「私を……」ケントは怪訝な顔をした。

「ポッドで外に出て、機関区の状況を確認することになった。しかし、人員用のエアロックには電気の供給が可能だが、ポッド用のエアロックには予備電源から供給できないんだ。そこを何とかしないといけない。そうなると、設備の知識と経験が一番あるのは君ということになる。知恵を貸してくれと言っている。上に行ってくれないか」

 ケントが頷く。

「わかりました。役に立てるかどうかわかりませんが、行ってきます」

「ああ、頼むよ」

 壁際を離れようとするケントをアリサが止めた。

「お願い、医療キットにも電気を入れて。アニエルを診る間だけでいいから」

「そうだね。確認してみるよ」

 そう言ってケントはブリッジに向かった。

   

「ポッド1、準備完了だ。始めてくれ」ガトラムの声がスピーカーから響く。

 機関区の状況確認には自分が行く、とアリサとシャフィーが進言したが、ガトラムはそれを拒絶した。船のコンピューターの支援がない状況では、経験が物を言う。この仕事が一番長いのは自分だ、と譲らなかった。状況不明の危険をともなう飛行だ。彼は覚悟を決めていた。

「了解」

 作業室のアリサが応え、パネルを操作した。ポッド用エアロックの内壁扉が開き始める。

 ケントが作業し、人員用エアロックに繋がる予備電源の供給ラインをポッド用エアロックへ切り替えた。しかし電力が弱い。エアロックを作動させるために居住区の生命維持システムを一時的に停止していた。直ぐに危険が及ぶわけではないが、無闇に動き回らないほうが賢明だ。ケントは作業室で待機し、アリサの背後から格納庫の様子を窓越しに見詰めていた。

 三機のポッドは格納庫の大きなターンテーブルに丸く並べて固定されている。通常はテーブルが回転し、外に出るポッドをエアロックの内壁扉の前まで運ぶが、今はターンテーブルに電源が供給されていない。ガトラムはエアロックの前にあったポッドに乗り込んでいた。

 内壁扉が開く。エアロック内に設置されたロボットアームが伸び、ガトラムが乗ったポッドを掴む。格納庫の隅で待機していたシャフィーが、手動で台座の固定装置を解除した。アームがポッドをエアロックの中に引き込む。

 内壁扉が閉じ、エアロック内の空気を吸引する。しかし供給電力が少ないため、いつもより吸引ペースが遅い。時間が掛かる。

 ようやくエアロック内は真空になった。外壁扉を開け、アームを船外に突き出す。

「真っ暗だ……」ガトラムの不安げな声。

「船はゆっくり回転している。太陽の光がどこかに当たるはずだが、真っ暗のままだ。嫌な予感がする……」

 作業室に戻ったシャフィーを加え、三人は顔を見合わせた。太陽の光がない、それは一体どういうことなのか……

 アームが伸びきり、ポッドを放した。ガトラムが操縦する。

「一旦、船を離れ全体を見てみる」

 三人はポッドから送られてくる映像を見詰めた。暗い……故障し何も映っていないように見えたが、画像の隅に光が映った。ポッド用エアロックの淡い照明だ。ガトラムが操縦するポッドは、ゆっくり回転しながらホッパーⅡから離れている。

「機関区は真っ暗だ。ポッドのライトだけでは、はっきりしない。やはり、太陽が見えない。光の届かないところまで飛ばされたのか?」

「そんな……」アリサの声が漏れた。

「これ以上離れても仕方ない。機関区に接近し船尾に回ってみる」

「気を付けて、チーフ」

「了解。船尾に回ると通信が途絶えるだろう。心配しないでくれ」

「……今、外壁の一〇メートルほど手前まで近付いた。ライトが照らす範囲に破損などは見られない」

 何かに衝突したわけじゃない。機関区中心部の主要装置がなんらかの事情で破損したのだろう。怪しいのはリアクターか、時空跳躍装置か……。その結果、太陽の光が届かないところまで飛ばされたのかもしれない。

 ケントは絶望に呑まれ、呆然とした。

「長距離アンテナだ。見た限り、破損はないようだ。適切な方向に向ければ、地球にメッセージを送る……できる…………」

 ポッドから送られてきた映像の長距離アンテナの姿も唐突に消えた。

「通信が途絶えたわ。機関区の裏側に入ったようね」

「船尾を回って通信が回復するまで、どれぐらい時間がかかるのだろう?」とケントが疑問を口にした。

「数分ね。そんなにかからないと思う」

 シャフィーが低く唸った。

「外壁部分はこの方法で確認できるとして、機関区の中心部をどうやってチェックするか、だな。複雑に入り組んでいるし、ポッドで侵入できない場所も多いはずだ」

「この船に乗っている人のなかで、機関区の奥深くまで入ったことがある人はいるのかしら。何も知らず、無闇に入って行くのは無謀だわ」

 主電源が落ち、自動で回復しない事態だ。かなりの破損があるだろう。問題箇所を見つけても、修理など無理だ。設備のメンテナンス要員がノコノコ出掛けたところで、手も足も出ない……

 ケントは無力感に苛まれていた。

 衝撃!

 大きな音。爆発音!

 激しい振動が続き、外壁を叩く金属音も聞こえた。

 作業室の中を飛ばされたケントは、反射的にアリサの体を掴み抱き寄せていた。彼女をかばうように背中から壁に当たる。体が回転し、アリサが咄嗟に支持グリップを握った。二人の体がもう一度、壁とぶつかった。

「大丈夫?」

 ケントは歪んだ顔を元に戻し、大丈夫だと声にした。彼女の体を放し、別の支持グリップを握る。

 爆発、衝撃はまだ続いている。

 シャフィーは別の壁で体勢を立て直していた。

「何だ、何が起こった?」

 ケントもアリサも、それに答えることなどできない。

 爆発が続き、船体の回転が歪になり、勢いが増す。遠心力が強くなり、体が壁に引っ張られた。

 その時、耳障りで大きな金属音が響き、体がポンと飛ばされたような感覚がする。船の回転が止まることはなかったが、爆発や衝撃・振動は消え去った。

「緊急処置だ。居住区を切り離した」船長の声が響く。

「状況不明。何かわかったら連絡する」

 それだけ言って船長のアナウンスは終わった。

 居住区は複数の船体フレームで機関区と繋げられていた。非常事態に備え、その接合部は切り離すことができる。爆発が続く事態に、シャノン船長が決断し居住区を切り離したのだ。

 円錐形状の船首部は回転を続け、一人欠け八人となった乗員を乗せて宇宙の闇をさ迷っていた。




    十

   

 パイロットのクリス・バーンをブリッジに残し、七人の乗員がBデッキの壁際に集まり食事をしていた。

 伊田健人が設備に手を加え、幾つかの照明を予備電源に繋いだため、Bデッキはいくらか明るくなっていた。

 船の歪な回転が速く、三半規管を刺激する。皆気分を害していた。食欲がない。それにオーブンが使えないため、冷えた宇宙食は美味しくなかった。無理に食べると吐きそうだ。

「まず、船体の回転を止めることにする」

 ブルース・シャノン船長が食事の手を止め、話しを始めた。

「船首の姿勢制御スラスターに予備電源を回す。その作業はケントの担当だ。どんな具合かな?」

「いけそうです。さき程まで配線図を確認していましたが、手を加える場所の目星は付きました。食事を終えたら、実際にその場所をチェックします」

 シャノン船長が頷く。

「頼むよ。船首のみ、一カ所のスラスターで船体の回転を止めるのは厄介だ。何度か試して、コツを掴むことになるだろう。それに完全に止めることは難しい。体に支障のない回転速度まで落とすことを目標にする。承知しておいてくれ」

 船長は、そこで口を噤んだ。船の回転を弱めてから何をするか? 目ぼしい計画を持ち合わせてはいなかった。

 沈黙が広がる。食事をとる者も少ない。

 甲板員のシャフィー・ペレズが身じろぎをした。

「チーフは、どうなったのですか」

 シャノン船長を見ても口を開かなかった。シャフィーは力無く首を横に振り、言葉を続ける。

「何があったのですか、船長」

 眉間に皺を寄せ、船長が口を開く。

「おそらく……ロケットエンジンの燃料だろう。最初の衝撃で燃料系配管のどこかが破損し、漏れ出た燃料が船尾船体に付着したり、浮遊していたりしていたのではないかと思う。そこにポッドが突っ込み、スラスターの作動で引火し大爆発を引き起こした……」

「ロケット燃料……」

「もちろん推測だ。原因は他にも考えられるが、確かめる手立てがない」

 大爆発を引き起こし、ポッドは吹き飛ばされただろう。衝撃は激しい、無傷とは思えない。ガトラム・ベネツキが無事で生きている可能性は……、低い。

 二機目のポッドを出して救出に向かうとしても、ガトラムの所在が掴めない。通信は途絶したままだ。それに船のメインコンピューターの支援がないポッドで船を離れたら、二度と戻ってこれないかもしれない。

「そもそも船に何があったんだ? 跳躍を失敗したのか」

 シャフィーは、時空跳躍の試験管理者の顔を見た。

 青白い顔をしたラファル・デュブラが重い口を開く。

「時空跳躍は、繊細なコントロールが必要だ。細心の注意を払って制御する。そこになんらかの不安定要素が発生すると、跳躍が大きく乱れることになる。例えばリアクターの不具合だ。電力供給の不安定さが跳躍を乱す可能性はある」

「チーフは太陽が見当たらないと言っていたが、電力が不安定になると、そんな遠くまで跳んでしまうのか」

 問い詰めるような態度のシャフィーに、デュブラはゆっくりと頷いた。

「時空跳躍の研究開発は、近い距離を正確に跳ぶことに力を注いでいる。安易な跳躍は大きな距離を跳ぶ。それが一番跳び易い距離なんだ。だから勢いを殺し、抑え込むようにして近場に跳ぶ。すると近すぎてバランスを崩し易い。そこを上手くコントロールする」

「跳び易い距離? それは、どれぐらいなんだ?」

 その問い掛けに、デュブラはそこに集まった顔をぐるりと見回した。

「理論上、光年単位になる」

「光年単位……」シャフィーが絶句する。

「ホッパーⅡ以前の無人機による試験では、幾つかの機体の消息が掴めていない。途方もない遠隔地に跳んでしまった、あるいは時間を越してしまったと考えられている」

「時間? 時間を越すとは、どういう意味なんだ?」

「近距離に抑えるという制御に加え、時間経過をゼロにするという操作も行っている。いや、正確ではないな。経過時間をゼロにするほうが簡単なんだ。しかし制御されていない跳躍では、時間をも越えてしまうだろう。どれほどの時間を跳ぶか、全くわからない」

「過去や未来に跳んでしまう……」

「時間と空間を跳ぶ、それが時空跳躍という現象だ。それを我々人間にとって実用的なものに制御する、それがこの研究開発、実証試験の目的なんだ」

 唖然とするシャフィーが目を瞬く。

「それじゃ、我々が今いる場所は、地球から何光年か離れた場所なのか、あるいは暮らしていた時代とは全く別の時間にいるかもしれないのか」

「その両方の可能性もある」

 シャフィーは絶句した。

「そんな危険性の高い試験飛行だったの? 知らなかったわ。誰も話してくれなかった……」とアリサが言う。

「時空跳躍の危険性については、事前に説明があったはずだ。ただ、その危険性を正しく伝えることができたのか、疑問はある。時空跳躍理論は非常に難解だ。一般に説明する時は、抽象的で漠然としたものになってしまう」

「私たちに話しても理解できない、というのね」

「難解なのは事実だ。私自身、上辺だけしか理解できていない。それに研究開発部門は、跳躍制御に自信を持っていたからね」

「ところが、何かの理由でどこかわからない場所に跳ばされた、ということ? もう、私たちの地球へは戻れないの?」アリサが念押しする。

 デュブラは顔を歪め、静かに首を動かし頷いた。

 アリサは言葉を失った。他の者も沈黙する。誰もがそれをわかっていたが、はっきりと示されるとショックが襲う。

 長い時間が経ち、シャノン船長が口を開いた。

「宇宙に出て働くことの危険性については、ここにいる誰もが承知し覚悟を決めたはずだ。この状況も、それに含まれるのだろう。取り乱したりせず、冷静に行動するように」

 その船長の言葉が最後通知に聞こえる。大切に抱えていた小さな望みが脆くも崩れ、消え去っていった。




    十一

   

 伊田健人が設備に手を加え、船首姿勢制御スラスターと予備電源を繋いだ。その後、ブリッジクルーのマニュアル操作でスラスターを作動させ、何度も試行錯誤を重ねて船体の歪な回転を弱めていく。翌日には微かに回転を感じるだけで、気分を害することはなくなった。安息を取り戻す。

「ありがとう。船の姿勢を安定させることができた。君のおかげだよ」

 ブルース・シャノン船長が礼を口にした。ケントは戸惑う。

「いえ、私の仕事の領分ですから……」

「やはり、手慣れた人には敵わない。君がいてくれて助かった、感謝してるよ」

 船長の口調に、心の内の気弱さが滲んでいるように感じた。この状況なら、それも仕方ないだろう。

「申し訳ないが、もう少し働いてくれないか。船内の生命維持システムを中心に点検をしてほしい。何度も強い衝撃を受けたからね。ネジが緩んでいるかもしれない」

 ケントが頷く。

「そうですね。一通りチェックをしたほうがいいですね」

「すまないが、頼むよ」

「了解です。それに何か作業をしていたほうが気が紛れますからね」

 シャノン船長は疲れた顔に弱々しい笑みを浮かべた。

「そうだな、気が紛れる……。何かあったら報告してくれ」

 そう言うと船長は片手を挙げてからブリッジに向かった。

 ケントは険しい顔をした。

 船の設備を維持して何になるのか……。やがて食料が底を突く。酸素や水も循環設備だけでは賄えない。備蓄タンクも空になり、予備電源も停止する。補給もなく、救助の望みもない。

 生き延びることはできない。設備のメンテナンスに大した意味などない……

 ケントは顔を顰め、首を横に振った。

 そうしたことを考えるのは、止そう。自分ができることに取り組む、それしかない。

 姿勢制御が終わり、Bデッキの設備に割り振る電源供給を増やした。オーブンも使え、お湯も出る。食事は幾らかマシになった。

 壁際に試験管理のラファル・デュブラがいた。いつものようにディスプレイと向き合っている。背後からチラリと覗くと、ディスプレイは真っ黒だった。

「船首カメラの記録映像をチェックしてるんだ」と独り言のように言った。

 ケントは支持グリップを握り、体を止めた。

「船首カメラですか……?」

「居住区を切り離した後の映像だよ。回転しながら離れていったからね。機関区の姿が映っている。ほら、ここだ」

 ディスプレイの端に目映い閃光があった。爆発だ。ケントは身を乗り出して見詰める。閃光は流れるように動きディスプレイの別の端から出ていった。

 デュブラが記録映像を早送りする。また閃光が走った。

「爆発が続いている。居住区を切り離した船長の決断は正しかった。あのまま機関区と繋がっていたら、こちらも損傷しただろう。場合によっては致命的な状況になったかもしれない……」

 そうであったとしても、大差ない。とケントは思ったが、直ぐにそれを打ち消した。

「機関区は、どうなったのでしょうか?」

 デュブラが首を傾げる。

「この記録を確認しても、はっきりしないだろうね。だが、誘爆は長く続いたようだ。大破は免れない」

 ケントは顔を顰める。それならば何のために記録映像をチェックしているのか……

 デュブラはその表情から心の声を読み取った。

「船長が気を利かせてくれたんだ。何もせず、ぼんやりしてると落ち込んでしまう。意味のないことでも作業をしていたほうが気が紛れるからね」

 ケントは頷いた。確かにそのとおりだ。シャノン船長は気を遣い、皆に仕事を振り分けている。

 ケントは咳払いをして別の話を振ってみた。

「あの、時空跳躍について質問をしてもいいですか」

 デュブラは、映像再生の操作を止めてケントに向き直った。

「私でわかることなら、答えますよ」

「いえ、難しい話じゃないです。俗っぽい話で申し訳ないのですが。……時空跳躍を発案したのは思考体だ、という話は本当なんですか」

 デュブラは真顔のまま、片方の眉をピクリと動かした。それを目にしたケントは、場を取り繕うように笑い、言葉を足した。

「いや……思考体が存在するのか、それ自体、あやふやな噂話に過ぎないと思いますが、時空跳躍理論は非常に難解で、生身の人間には到底理解できないという話もありますから……」

 デュブラは険しい表情で目を細めた。

 ケントは顔を歪めた。好ましい話ではなかったようだ。

「それに関わる話は、私たちの間ではタブーになっています。……しかし、この状況では、もう関係ないでしょうね」とデュブラはゆっくり頷く。

「といっても、私は実証試験の要員で、研究開発の実情を知りません。正直に言えば、真偽はわかりません。でも、タブーではありますが、それに関する噂話が数多く流れていることも事実です」

 二〇〇年前の二一世紀。ケントの故郷である極東の島国・日本で、一人の脳科学者が倫理に反する人体実験をした。彼は、思念や記憶を含む脳の詳細な情報を読み出す研究を続け、自身の体で脳情報の読み出しを試みた。その際に、脳に深刻なダメージを受け絶命することを知りながら……

 その日本人脳科学者は、読み出した脳情報のデジタルデータを利用したエミュレーションによって人格を蘇らせた。肉体を持たない精神だけの存在、思考体の誕生である。

 コンピューター・エミュレーションによる明瞭な思考と記憶、疲れることも眠ることもなく深い思索に取り組むことができる能力。それを欲する多くの科学者が、自らの肉体を捨て、精神世界に飛び込んでいった。

 優秀な頭脳と様々な分野の専門知識を得た思考体を生身の人々は恐れ、彼らは人ではなく単なるコンピューター・ソフトウエアだと迫害する。そして、そこから逃れるため思考体は表立った活動を休止し、地下へと潜った……

「思考体の存在を示す証拠は何もありません。昔の人が作った噂話、都市伝説の一つだと言われています。ただ、この難解な理論を生み出したとされる人物も見当たりません。それに時空跳躍船の開発で、理論の核心に迫った科学者の姿が消える、という話もあります」

「失踪、ですか。どうして姿を消さないといけないのでしょう?」妙な話だ。

「一つの噂話ですよ……。難解な理論に迫れば迫るほど、理解が遠のく。どうしても理解できない。能力の限界なのかと悩む。するとそこに思考体が現れ、精神世界へと誘う……」

「本当ですか」ケントは目を丸くした。

「一方で、難解な理論に追い詰められ、発狂し病院に送られた、という話もあります」

 ケントは唸った。どちらが事実なのだろう? どちらも真実に思える。

「このホッパーⅡの建造にも、曰くがあります」

「どんな曰く、ですか」とケントは問い返した。

「最初の試験船、ホッパーⅠは無人の船でした。思考体を説き伏せて入手した時空跳躍システムに、私たちの技術で作った周辺設備を取り付けて試験船を造りあげた。その素性の違いから、跳躍システムとの親和性に難があったということです」

「親和性……」ケントはその言葉を口にし、眉を顰めた。

「ホッパーⅠで何度か試験を行った後、改修して有人試験船ホッパーⅡに仕立てました。跳躍システム以外は地球製ということに違いはありません。思考体は時期尚早と有人試験に反対したそうですが、それを押し切って試験運用を始めました」

「その親和性の問題から、この事故を引き起こしたのでしょうか」

 その問いにデュブラは弱々しく首を横に振った。

「それはわかりません。でも結果的に、時期尚早だったのでしょうね」

「成果を焦って有人試験に踏み出した、ということですか」

「そうでしょうね。時空を跳ぶ、という荒業ですから、もっと慎重に取り組むべきだったのでしょう。しかし私たちは思考体と違い、寿命があります。手早く成果を得て、実績を残したい。そうした欲求がありますが、事実上、不老不死の思考体は焦る理由がありません。意見の相違は当然でしょうね」

「その結果が、この有り様ですか……」

「私たち人間は、失敗を重ねて成長してきました。無謀な試みを何度も繰り返してきたのです」

 ケントが肩を揺らし溜め息をついた。

「これも、そうした失敗の一つですか。だったら人類の成長を願うしかないですね」

 デュブラが微かに笑みを浮かべた。

「切に願います……」

 そこへ副長のアニエル・ロパートが下りてきた。額にはまだ絆創膏が貼られていたが、腫れは随分と引いている。

 彼女は船の回転を弱める作業で活躍していた。

 開発部局から来た二人のパイロットは時空跳躍を専門としている。ロケットエンジンによる通常航行はコンピューター相手の操作に過ぎない。今回のように直接的な手段で船を操るのは、操船の基本訓練を重ねてきた船乗りに分が有る。それに彼女には天成の才能があった。知識や経験に頼るのではなく、感覚を研ぎ澄まして即座に判断・対処する能力に長けていたのだ。こんなにも早く船体が安定したのは、アニエルの秘めたる能力のおかげだった。

 アニエルは会話する二人を物珍しそうに眺めた。

「何の話をしてるの。内緒話?」

 ケントは笑みをつくった。

「少々、深刻な話だよ」

「この船じゃ、どこに行ってもその話ね。ねえ、アリサを知らない? もう少し楽しい話がしたいわ。個室かしら」

 ブリッジ当直をシャノン船長と交替し、緊張を解したいのだろう。お喋りがしたいのだ。

「下じゃないかな。少し前に下りていったから」

 とデュブラが答えた。珍しい対応にアニエルは目を丸くした。

「そうね、きっと作業室ね。何をしてるのかしら……」

 その時、階層を繋ぐ通路でバタバタと音がした。急いでブリッジからCデッキに向かっているようだ。

「何かしら」

 アニエルがその物音を追うように通路へと向かった。ケントも何かあったのなら手を貸すべきだと思い、デュブラに目配せをしてから後に続く。

 Cデッキ、ポッド格納庫からアリサとシャノン船長の声がする。先に中を覗いたアニエルが、押し潰した声を出し体を硬直させた。

 甲板員のシャフィー・ペレズが目を見開いた険しい形相で浮いていた。首が異様に曲がっている。

 死んでいるのか……

 二人の顔を見てからアリサが話し始めた。

「シャフィーがポッドの手入れをしていたのは知ってたの。特にやることもないから暇潰しだと思っていたわ。私も作業室で時間を潰していて、ふと格納庫を覗いたら……」アリサは肩を揺らし大きく呼吸をした。

「ポッドの作業アームがシャフィーの首を握り潰していたの。急いでアームを外したけれど、首の骨が砕けていたわ」

「事故、なのか」

 アリサは弱々しく首を横に振った。

「自殺だと思う……」

「自殺……、早まったことをしたな」と船長が呟く。

 早まった? いや、潔いのかもしれない。この絶望的な状況に自決が頭を過る。しかし、それを思い切ることは難しい、躊躇する。この先に死が大口を開けて待っていることを知りながら、自ら命を絶つことができない。体を動かし作業をして誤魔化している。単に先送りをしているだけだ。

 ケントは潔く命を絶ったシャフィーを羨ましく思った。そのほうが辛さ、悲しさ、苦しみが少ないだろう……




    エピローグ

   

 伊田健人は、アリサ・ラコットと狭い個室の中で身を寄せ合っていた。

 彼女の体の温もりが心地よい。

 スペースホッパーⅡの乗員は二人だけになっていた。シャフィー・ペレズの自殺を切っ掛けにして、誰もが自らの最期を深刻に考えるようになった。

 アニエル・ロパートは、ブリッジクルーのパイロット二人とともにエアロックへ入り、空気を抜いた。絡み合うように漂う三人を目にして、アリサは顔面蒼白となった。

 冷静なラファル・デュブラも後を追うように、自ら命を絶つ。

 船長のブルース・シャノンは、体調を崩してそのまま命を終えていた。

 ケントもアリサがいなければ、とっくに命を絶っていただろう。しかし、ただ生き続けていても虚しさが募るだけだ。どのように最期を迎えるか、そればかりを考えてしまう。

 やがて、二人の命も終わる。

 この先、地球人類が漂うこの船を見つけることがあるのだろうか。あるいは、どこかの星の知性を持つ生命体が、この船を発見するのだろうか。

 それとも、このまま誰にも見つかることはなく、この宇宙の終焉まで漂い続けるのだろうか……


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ