第一話 はじめての香り
ありがとうございます、楽しんでもらえれば幸いです。
なんの音だろうか、いや聞くまでもない。それは紛うことなき腹の虫が盛大に鳴く音だった。
ここ城塞都市ラヴァハラの西方の空は、まばらに広がった夕刻の雲と相まって壮大な織物のように美しい赫だった。眩しさに目を細めれば、もうすぐ地平線に太陽が沈む姿が見えるだろう。
蜂蜜色をした煉瓦づくりの堅牢な高い建物がびっしりと並び、同じくまた煉瓦で敷かれた通りに人影は無かった。それぞれが帰路に着く時間であり、コートを掛けて、椅子に座り、温かな夕餉を囲んでいる時間でもあった。
そんな温もりを閉じ込めたような建物と建物の隙間、さも寂しげな薄暗い路地。
その片隅に冒険者ピオネッタ・ランドールは、五体を投げ出すようにして仰向けに倒れていた。
(お腹…すいたなぁ)
いわゆる行き倒れである。
ポニーテールにまとめた髪は砂糖菓子の様な艶のある朱色、ぱっちりとした双眸、宙を見つめる瞳は柑橘の雫を思わせる透明な橙色。整った顔はそれなりに美少女に見えるがどうにも痩せていて力が無かった。よく見ればいかにも駆け出しといった安物の軽装鎧は傷だらけで、今までの苦労を語るようにスカートも破れ白い太ももが露わになっている。
そんな彼女がこれでもかと放つ腹の虫のオーケストラは悲しく響き、茜空のカラスたちの「カーカー」という鳴き声とハーモニーになっていた。
もともと冒険者を父に持つピオは、血湧き肉躍る英雄譚が大好きだった。
荒野を踏破し、ダンジョンに潜り、神話に並ぶ怪物達を剣で打ち倒し、金銀財宝をその手に掴み、誰からも羨まれる賞賛を勝ち取る。そういう物語を子供の頃から好んで読んだ。
丸い瞳をキラキラと輝かせてはいつか自分もその仲間に加わり栄光を欲しいままにするんだ、と彼女は信じて疑わなかった。
大量の偏った情報を摂取し続けた結果、両親ともが性別を間違えて産んでしまったと溜息をつくぐらいには腕白に育ち、家事や手伝いの代わりに野山を駆け巡り、剣の真似事や妄想空想の類にあたら青春を費やしていく。
そうして十五歳の成人の儀を待って、心配する両親と弟に別れを告げ故郷ジャダヘムを後にしたのだ。
だがその結果がこれである。
とにかく彼女には『才能』と呼ばれるものが無かった。
いや語弊のないように言うと、運動神経や身体能力は人並み以上なのだが。どうにもそれを活かす頭脳に恵まれなかったと言うのが正しい表現だろう。
探索では地図が読めずに路頭に迷い、仲間達を窮地に追い込んだ。
また武器を扱わせても、やたらに長い必殺技の名前を詠唱してみたり、いかにもと言ったポーズを考えるばかりで少しも上達しなかった。
戦闘では気が焦るばかりで、最弱のスライムにさえ勝てず衣服を溶かされる羽目になった。
そういう訳で、せっかく入れてもらった冒険者パーティーを解雇され放浪の身となったのがちょうど一ヶ月前。黒光りするマッスルゴブリンに追われて全財産を落としたのが二週間前。
ラヴァハラに着いたもののどこにも雇ってもらえず赤貧生活を開始したのが十日前。そこからは公共の井戸水だけで凌いできたがもう限界だった。そして、現在である。
すでに宵闇が包み薄暗くなってきた空を眺め、ピオは二三度瞬きをゆっくりした。
(ダメだ……お腹と背中がくっついて力が出ないよぉ……。わたしの人生もここまでなのかな……死ぬならせめてもう一度ジャダヘムに帰っておくんだった。みんなごめん……あー、お母さんの手料理食べたかったなぁ……テオにももっと優しくしとくんだった、お父さんは……まぁいっか。お姉ちゃんは一足先に天国で待ってるよぉぉぉぉ……しくしく)
すべてを諦め、このまま眠りに就こうかとした時だった。
ピオはふわり、と体が軽くなるのを感じた。そして優しく芳しい香りが鼻腔をくすぐり、まるで一切の苦役が溶け出すかのように身体中の力が抜けていった。言いようもない安堵感だった。
(なんだろう……わたし天国に、来ちゃったのかな……)
白夜の花畑の蜜を集めて星の器に入れ、水晶のスプーンで混ぜ合わせ、朝陽で優しく煮詰めたような甘く特別な香りだった。
「大丈夫、ですか?」
これは天使の声だ、とピオは思った。
きっと聖輝金で造った鈴なら、こんな音がするだろう。それはどこまでも澄んだ美しい乙女の声。
ピオがそっと目を開けると、まさしく美しい乙女が腰を折ってこちらを伺っていた。
「あなたは、天使さまですか? わたしは天国に来たんでしょうか?!」
ピオが声を上げるとその乙女は少し微笑み、ややあって腰にあったポシェットから茶色の紙包みを取り出した。
「いえ、私はそこを通りかかった者です。その……お腹の、お腹の鳴く音が聴こえて。それで路地に倒れてるあなたを見つけたんです。これ、お昼の残りで申し訳ないんですけど、良かったら召し上がりませんか?魔法で時間が停めてあるので悪くなってないと思うんですけど……」
紙包みをほどくと、中から厚めのサンドイッチが現れた。
おそらく全粒粉のバゲットに、塩漬け肉の薄切り、新鮮そうなレタス、スクランブルエッグとピクルスが挟んであった。ふわりと漂う、食欲を刺激する匂い。
答えるより早く受け取ると、ピオはそれにかぶりついた。
口いっぱいに詰め込み、モグモグと噛み締めた。サンドイッチが咀嚼され、飲み込まれていく。喉を食べ物が通るのは本当に久しぶりだった。
「おいひい、おいひいよぉ…」
ピオは無我夢中で貪り、味わい、とうとうあと一口という所まで来てしまった。
ちゃんと残しておいた塩漬け肉が食べて欲しそうにこちらを見ている。
ああ、幸せで満たされた時間。至福のひととき、久しぶりの食事。だが悲しいかな、それが今終わりを告げようとしているのだ。大きな溜息をついた。
そして、最後のひと切れを思いっきり頬張る。
「うふふっ、こんなに美味しそうに食べてもらえたらサンドイッチも幸せですね」
よく見るとその乙女は刺繍の施された桃色の豪奢な衣装に身を包み、清潔で整った身なりだった。水色の美しい髪は清らかな河のようで、とても庶民には見えない端麗な姿だ。
さぞかし位の高い人に施しを受けたのだと思い、ピオは両手をその場についた。
「あの、ありがとうございますっ!!その、わたしお金とか全然無くってお返しとかも出来ないんだけど…」
「そんな、私が好きでした事ですし。それに今日は忙しくて残ってしまったお昼なのでむしろ助かったんです。『大精霊』様のお導きに感謝を」
両手を胸の前に、瞳を閉じる。
敬虔深いのかそっと祈りを捧げる乙女の姿はどこまでも透明で優美で、夕暮れの路地に佇む雪のような肌は一枚の絵画となってピオの瞳を離さなかった。
「あっ、あの!! わたしはピオネッタ!! でも良かったらピオって呼んで欲しいな。ピオネッタってなんだかお嬢様みたいでしょ?わたしには似合わないかなって。えへへ」
「素敵な名前ですよ、ピオ。私はアイリス、この街で香導師をしてるの」
「こうどうし…?」
聞き慣れない言葉にピオは首を傾げた。その様子にアイリスは少し微笑んでから脇に置いてあった背負い箱を指差した。
ひと抱えほどの木製の箱で、内部は引き出しが設えられ、様々なものを収納できるようだった。また革のベルトでリュックのように使えるようだ。
「街を歩いて、色んな人達にお香の匂いを届けるのが私のお仕事なの」
「お香っ!? お香ってあのいい匂いがする…貧乏暮らしのうちじゃ見た事も無かったけど…。だからアイリスちゃんはこんなにいい匂いがするんだね」
ピオが目を閉じて鼻を動かすと、アイリスは恥ずかしそうに身じろぎして、目を伏せた。
「その、今日は汗をかいたので…やめて、ください…」
なんだろう、すごくドキドキする。その姿にピオは妙な興奮を覚えたが、我ながらいけない事をしてる気がしてそっと胸にしまった。
「え〜〜っと…凄くいいお仕事、だね!!わたしの田舎じゃあ教会のお祭りくらいしかお香なんて見た事なかったから!! でもあの匂いはなんだか粉っぽくて、ちょっと苦手だったなぁ」
ジャダヘムの教会では月に一度皆が集まって祈りを捧げる。その時は大きい香炉で香が焚かれるのだがどうにも質の悪く、喉に引っかかる感じがしたものだった。
「それは、きっと燃焼方法と精製に問題があったんでしょうね。本当の香というものは、人を安らかに導くものですから……。ピオさえ良かったらなんですけど、一服立ててみましょうか?」
「ええっ!?でもでも、わたしお金ないし…さっきサンドイッチ貰っちゃったし…」
「お香がどんなものか知って欲しいですし、もうお仕事は終わったので後は帰るだけなので。これは私の趣味、みたいなものです」
そう言ってアイリスはテキパキと香炉を取り出し、灰床を整え、種炭に火をつけた。
アイリスの香炉は両手に収まるサイズの真鍮製で、三本の猫足。風除けの上蓋には小さな猫が取手がわりにあしらわれており、アイリスはそっとそれを指で優しくなぜた。
「ごめんね、エリン。帰ったらちゃんと手入れするからね。 ……それじゃあ、何かピオは好きな香りがあるかしら?」
流れるような仕事ぶりに目を奪われていたピオは慌てて顔を上げた。
「えっと、好きな香り…うーーん、お香とかあまり嗅いだ事ないからよく分からないけど……ジャダヘムの海の香りとか、大好きだったかなあ。わたしの故郷はね、港町なんだけどおっきな青い海が広がってて。いつも高台の広場で弟のテオと遊んだりしてたんだ!!凄く風が気持ち良くって、懐かしいなぁ……」
「ジャダヘムといえば大陸南部のイシャナ州の魚港ね、あそこの風土録なら読んだ事があるから……確か土壌成分と海水無機物濃度の配合は南海地域の基準値と相違なかったかしら。それから植物分布は……ちょっと待ってね、ピオ」
アイリスは背負い箱の引き出しから、数十種類もの香木や薬草や結晶を取り出し、広げた敷き布の上に置いた乳鉢で練り合わせていった。どれもあまり見たことの無い雰囲気で、中には妙な匂いを発する物もありピオは興味深々で見守る。
「香導師というのはね、文字通り香で人を導くお仕事なの。人が行きたい場所に行けるように、行きたかった場所にいけるように願いを込めて。そうして『大精霊』様の導きに感謝を捧げて、私達は香を練り合わせるの」
アイリスは出来上がった小指の先程の小さな茶色の練り物を、ピンセットでそっとつまんで香炉の灰に沈めその上に種炭を置いた。こうすれば火力が直接に香を燃やすことはない。
「お香は静かに、熱を与え過ぎないこと。喉に引っかかるのはきっと加熱し過ぎていたんだと思うの。練りたてのお香は女の子みたいに繊細なものだから、なるべく優しく扱うのが大切なのよ?」
茶目っ気たっぷりにウィンクして、アイリスはそっと香炉の蓋を閉じ、それをピオの前に置いた。それから最後に、美しい声でこう呟いた。
「汝に光あれ」
ピオがリクエストしたのは「故郷の海の香り」。オーダーで香を立ててもらう、こんな経験をした事がなかったピオは胸を高鳴らせながら香炉をじっと見つめる。
長いような、何かを待つほんの僅かな空白の時間が流れていった。
ゆらり、絹糸を薄くしたようなわずかな煙が空中を踊った。すると、まず最初に不思議な事が起きた。
潮騒だ、あの港町の波の音が聞こえてきたのだ。そんな馬鹿な事があるはずがない、そう思った矢先に爽やかな風が頬を通り抜け、次に太陽に熱せられた海の香りが鼻腔いっぱいに広がった。
海水、生魚、埃、新緑、腐って乾燥した木箱、人の喧騒、何かの肉料理、伸びをする野良猫、名産の花、レンガと鉄、様々な色の壁。ごちゃ混ぜになった景色の中にピオは降りていく。
「どうしたの、ピオねえちゃん?」
聞き慣れた、だが決して聞こえる事の無い筈の声に驚いて振り返ると、そこには笑顔でこちらを伺う弟のテオが立っていた。
「へ……ふぇっ???? あれっ、わたし今ラヴァハラにいて、アイリスちゃんにサンドイッチもらって、それから……」
気がつくとピオは見慣れた風景、テオとよく遊んだ高台の広場に立っていた。
右や左を振り返って首をかしげるピオを、テオは呆れ顔で見つめている。
「またお姉ちゃんが訳のわからない事言ってるよ。まぁ……お姉ちゃんがおかしいのはいつもの事だけど。それで、今日は何の特訓するの? 」
「へ? 特訓って……」
「自分が特訓しようって言って連れてきたんじゃん、ボクは勉強したかったのに……。いつもいってるじゃないか、成人したら冒険者になる、だから毎日特訓しなきゃダメなんだーーって。それで何するの? 剣術? それとも探索ごっこ?」
「冒険者になる……。わたし、そういえば冒険者になるために毎日特訓してたっけ……」
ああ、これは記憶なんだ。記憶の中の風景だ。
ラヴァハラに来る前は、こうしてテオと毎日のようにこの広場で過ごしたものだった。
懐かしさと、すでに「冒険者になったピオ」にはあの頃の「まだ冒険者になっていない自分」がひどく眩しく感じた。
無鉄砲で、短絡的で、夢想家で向こう見ず。まだ挫折も知らない無垢な輝きがあったはずだった、それが今は。
たった一年で自分は変わってしまった。
あまりにか細くなった自分自身の居場所を探すように、ピオは両足を踏みしめる。
「冒険者になんてなっても意味ないよ……お姉ちゃん何やったってダメだった。あれだけ特訓してたってスライム一匹にも勝てなかったんだよ? なりたいって気持ちだけじゃ……憧れだけじゃ本当の夢には辿り着けっこなかったんだよ……夢を叶えられる人間とそうじゃない人間がいるんだよ……お姉ちゃんは、ダメな方だったんだ」
目尻に浮かぶ涙を拭い、ピオは両手をぎゅっと握った。
「無駄だったんだよ、特訓なんて」
悔しい、悔しくてたまらない。才能もなく何も成すことが出来ない自分が歯痒くて、どうしようもなく切なかった。
ずっと憧れていたものに手を伸ばして、自分では届かないと、掴めないんだと、何よりも自分自身が気づいてしまったから。
小さな絶望を積み重ねて、今はその重さに歩けなくなっていた。
「お姉ちゃんらしくないよ、そんなの」
テオがいつのまにかピオの正面に立ち、強い眼差しをぶつけていた。
この聡明な弟の真っ直ぐな瞳は、いつ見ても宝石のようだった。
「ずっとバカみたいに冒険者を目指してきて、それこそ父さんや母さんだけじゃなくこの街のみんなにバカにされてきたお姉ちゃんが。今更自分がバカだって気付いたって、それがなんなんだよ!! 僕のお姉ちゃんは本当のバカなんだ、前しか見ない、転んだって笑って誤魔化すしか能の無い、生まれた時から住んでる町内で迷子になったりカビの生えたパンを修行だからって食べてお腹壊したり。そんなとびきり救いようのない、誰も追いつけないくらいの大大大バカが僕のお姉ちゃんなんだから!! 」
「テオ……」
白い歯を見せて笑うテオは、ぎゅっとピオの手を握った。
「何があったのか分かんないけど」
「ごめんね、お姉ちゃんこんなんで。でもね、頑張ったんだよ? そりゃあ、バカ……だけど」
「……いつもの事だろ、知ってるから」
そうだね、と頷いてピオは同じく白い歯を見せて笑った。まったく似てるのか似ていないのか、二人はやっぱりどこまでも姉弟なのだ。
「だからさ、お姉ちゃんは笑っててよ」
コトリ。
ふと我に帰ると、そこはやはり城塞都市ラヴァハラの薄暗い路地で、アイリスがゆっくりと香炉の蓋を落としたところだった。