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桃子の思惑

「否定しないの?」

 場違いに明るくそう言ったのは、桃子だった。麗の言葉の意味が理解できなくて思考停止していた優花は、冷たい水をかけられたようにハッと我に返った。

「その彼女の言っている意味が、わからないからだよ」

 優花が応える前に、長谷部が無愛想に言った。

「先輩に言ってないです。橘さんに言ってるんです」

 びっくりするぐらい冷静な表情で桃子が言ったせいだろうか。少しだけ長谷部の引いた様子が、体温を通じて伝わってきた。

「そのまま無言でいるってことは、麗の言うことが正しいって言ってるのと同じだと思うけど」

 桃子は挑発するように片方の口の端を歪めて笑った。その表情に恐ろしさを覚えつつも、優花は押しのけるようにして長谷部の腕の中から抜け出した。

「竜が、そう言ったわけじゃないんでしょ」

 お腹に力を込めて、声が震えないように努力する。

「何の根拠もないこと、言われても、困る」

 その言葉に麗がまた殺気だった表情になったが、桃子がさっと振り返り、それをあっさりと制してしまった。

「確かに、今のは麗の思い込みの部分もあると思う」

 はあ? と麗が甲高い声を上げたが、桃子は全く意に介した様子がなかった。あくまで平静に、でもひどく冷たい視線を優花に向ける。

「麗の元彼・・が橘さんのことを好きかどうか、正直言ってどうでもいい。私にとって大事なのは、橘さんは他の人のことが好きなのに、先輩と付き合っているということ」

 目をすがめて、桃子は優花を刺すように見た。

「そんな人が先輩と一緒にいるなんて、おかしい」

 桃子が、じりっと右足を少し前へ踏み出した。

「先輩のこと好きじゃないなら、何で付き合ってるのよ。それとも何? 先輩のことも、麗の元彼のことも両方好きで、やっぱり両方と付き合ってるっていうの? 冗談じゃないわ」

 今度は、左足を引きずるように前に出した。

「橘さんって、どうしようもないあばずれなのね。そんな簡単に二股できちゃうなんて。あ、二股じゃなくて、実は三股とか四つ股だったりして? みんな、その顔にだまされるんだろうけど、私はだまされないんだから」

 気味悪いほど愉快そうに言い放った桃子は、次に長谷部の方に視線を向けた。途端に鋭さが消え、甘ったるい優しい表情に変わる。

「ねえ、先輩。彼女はそういう女なんですよ。ホントにひどいでしょ? だから、別れた方が賢明です。これは、先輩のためなんです」

 しん……と静まりかえった。誰も彼もが、ぽかんとした表情をしている――自信満々の桃子を除いては。

(どう、返せばいいの)

 沈黙の中で、優花は再び思考が停止しそうになっていた。

 桃子の言うことは、あながち間違いではなかった。竜のことが好きで、長谷部のことはそういう「好き」ではない。ひどい女だと言われたら、まさしくその通りなのだ。竜とは付き合っていないにしても、長谷部に対して誠実ではない自覚がある。

(私は、これを否定できない)

 自分でも、青ざめているのがわかる。その表情を見た桃子が、勝利を確信したかのように、にやりとした。

 そのときだった。

「ははっ……」

 乾いた笑い声が隣から発せられて、優花はびくっと肩を震わせた。笑い声の主は、長谷部だった。

「なるほど。そういうことか」

 長谷部は下を向いて、低くつぶやいた。

 その表情をうかがうと、口元だけが笑っていて、目が確実に怒っていた。その怒りは自分に向けられているのではないか。一瞬そう思った優花は無意識に体を硬くした、が。

「俺のため、ねえ」

 長谷部の怒りの視線は、はっきりと桃子に向かった。怪訝そうに桃子の眉がひそめられる。

「やっぱり、あの手紙を優花に送ったのは、君か」

 桃子は眉を寄せたまま、頬をピクリとも動かさなかった。むしろ動揺したのは、その横にいる麗のほうだった。

 束の間、にらみ合いが続く。が、桃子がふうっと小さくため息をついた。

「文面を考えたのは麗だけど、橘さんの靴箱に入れたのは私です」

「……あっさり白状するんだね」 

「こんな状況になって、違いますっていうのは、通らないですよね」

 開き直る桃子と対照的に、麗は明らかに戸惑っていた。そんな麗を振り返りもせず、桃子は淡々と言葉を述べていく。

「麗は、橘さんが竜って子と別れればいいと思って、あの文を考えたの。先輩に二股していることをばらすって脅せば、その彼が自分のところに戻ってくると信じてね」

 

 二股女であることをばらされたくなければ、早く別れなさい。

 

 あの一文を読んだとき、どうにも腑に落ちないことがあった。「長谷部と」別れなさいというなら、ばらした方が別れる公算が高くなるはずなのに、どうして「ばらされたくなければ」と脅すのだろうと。

 でも、最初から解釈が間違っていたのだ。麗が考えたとするなら、あの文に補う言葉はこうだ。


 「長谷部先輩に」二股女であることをばらされたくなければ、「竜と」早く別れなさい。


 麗が望む結果を求めるならば、優花が竜と別れることが第一の目的になるということだったのだ。

「別れなさいって言うのは、俺とではなく、その彼と、というわけだ」

「そうですよ。その事実をばらして先輩と別れることになったら、橘さんは学校での立場がなくなるでしょう? どっちを取るかと考えたら、先輩を取るんじゃないか……と、麗と英奈が考えました。――私は、違うことを考えたけど」

 違うこと……? と麗がまるで恐ろしいものにでも遭遇したかのような顔で桃子を見た。その後ろにいる英奈と、仲の良いはずの夏葉までおびえた表情を見せている。

「あの文、私が添削したんです。最初に麗が書いた文はものすごく長くて、何が言いたいのか全然伝わらない文だった。あれじゃ、橘さんにダメージを与えるなんてできない。きっと、なんか気持ち悪いなってことで終わる。だから、いろんな意味にとれるように、わざと言葉を削った。表面上はわからなくても、やましい気持ちがあるのなら、それだけでダメージになるでしょう? それが私の目的だった」

 そこで、桃子は優花に視線を移し、心底暗い目をしたまま、薄気味悪く笑う。優花の全身に怖気が走った。

「思った通りダメージになってるようなので、やっぱり二股なんだなって確信したの。先輩の前で、その表情をみせてやりたかったのよ」

 再び桃子は長谷部へ視線を戻す。今度は、思い切りその瞳を輝かせて、恍惚とした表情になっていた。

「こんな女とは別れましょう。全然、先輩のこと理解してないじゃないですか。私の方が先輩のことちゃんと好きだし、絶対浮気なんかしない。ずっと先輩のことだけを好きでい続ける自信しかないです。この女と一緒にいたら、先輩のためにならないし、傷つくだけなんですよ。だから――」

「いい加減にしろ!」

 雷が落ちたような怒鳴り声だった。優花はぽかんと口を開けたまま、青筋を立てている長谷部を見つめていた。長谷部が怒鳴るなんて、思いもしなかった。それは、桃子も同じだったのだろう。目を瞬かせながら、言いかけた言葉を言おうと口をパクパク動かしているが、声になっていなかった。

「俺は、君を許さない」

 先ほどの大声とは打って変わって、低く、静かに長谷部は告げた。

「俺のためとか言いながら、結局は自分のために動いている。結果、思い込みで彼女を傷つけた。決して許さない」

 ここで、初めて桃子に動揺が見えた。瞳が右へ左へ泳いでいる。

「だ、だって、二股なんて」

「それが思い込みだと言っているんだ。――君は、木宮さんだっけ」

 突如長谷部の視線が向けられて、麗はビクッとわかりやすく震えた。

「くだらない思い込みで他人を恨むより前に、自分を省みた方がいい。彼は、君といてもつまらないから別れたって言ってたよ。彼に同情するね。確かに、こんな彼女じゃ、一緒にいたいとは思わないだろう」

「なっ……」

 言葉を詰まらせた麗の顔が、みるみるうちに真っ赤になった。そして、目に涙がたまったかと思うと、小さい子どものようにワンワンと泣き出した。慌てて英奈がそれを慰めに来る。

「もう行こう。時間の無駄だった」

 長谷部が冷たく言い捨てると、宮瀬が疲れた様子で「そうだな……」と応えた。すると。

「ちょっと! 橘さん!」

 桃子がうわずった声で叫んだ。

「あなた、何なの? 先輩にだけ言わせて、自分で何も言わないの⁉︎ ちょっとは何か言いなさいよ!」

 その言葉に、優花は息を詰めて少し考えた。

 考えて、ためていた息を吐いたあと、桃子の方に歩み寄った。思わぬ行動だったのだろう。桃子はじりっと一歩下がった。

「待って……っ」

 引き留めようと、長谷部が優花の肩に手を置いた。でも、優花は小さく首を横に振る。長谷部は不安そうに瞳を揺らしたが、やがてその手を離した。更に一歩、優花は桃子に近づいた。

「な、なによ」

 強気な態度で、でもおびえた様子で、桃子は優花をにらんだ。麗もまた、涙目でにらみつけてくる。

(この二人を、悪いとは思えない……)

 二人の行動は、ある意味では純粋な想いからきているのかもしれない、と思った。

 ただ、相手のことが好きで、どうにか自分のもとに引き寄せたくて。結果的に愚かな行動だったとしても、そうせずにはいられないほど好きだったのだ。

 自分はどうなのだろうか。省みる必要があるのは、自分ではないか。

 警戒心の塊になっている二人を見つめていたら、妙に悲しい気持ちになってきた。自分に、何か言う資格はない。

「私は、怒ってない」

 優花がそう言った瞬間、二人は間の抜けた表情になった。でも、桃子はすぐさまぎゅっと顔を引き締め、敵意を込めた視線を向けてきた。

「こんなときにまで、いい子ぶらないでよ!」

 いい子なんかじゃない。そう思ったけれど、声には出さなかった。出したところで、今は何の意味もない。ただ、自分がそう自覚するだけ。

「飯田さんは、先輩のことが、ただ好きなだけだから」

 目を丸くして、固まってしまう桃子。その表情を見てから、次に、麗を見た。

「木宮さん、も……竜が好きなだけだもんね」

 呆然とした表情で優花を見る麗。優花は思わず目を伏せた。

「竜は、私のことをなんとも思ってないよ。竜はね、私の遠い親戚というか、家族みたいな……そういう存在なの。付き合ってるとか、そういう関係じゃないの。信じてって言っても、難しいかもしれないけど、本当に違うの」

 言いながら、自分が泣くのではないかと思った。自分に言い聞かせているようで、このあふれそうな気持ちをどう処理したらいいかわからなくなった。

 そのタイミングで、ぽん、と肩に手が置かれた。その手の主は百合だった。

「行こう、優花」

 その優しい表情を見ていたら、本当に泣きそうになった。なんとかこらえて、小さくうなずく。

 彼女たちにゆっくりを背を向けて、歩き出す。その先では、長谷部と宮瀬が待っていた。優花たちが遠ざかる間、桃子たちは誰一人も動こうとせず、何も言うことはなかった。



 公園を出て、まずは百合と分かれた。まだ心配そうにしていたけれど、圭輔と会う約束をしていて、その時間が迫っていたのだ。

「後で連絡するからね。抱え込んじゃダメだからね」

 念を押すように言って、百合は帰っていった。

 次に、宮瀬が一人駅へ向かっていった。

「今日は大丈夫だと思うけど、これからも気をつけていこうね」

 優花を慰めるように言ったあと、宮瀬は長谷部を見て、

「心配なのはわかるが、ほどほどにしろよ」

 やや真剣な様子で言った。

 そうして、優花は長谷部と二人きりの帰り道を行く。

(先輩が……しゃべらない)

 長谷部はずっと難しい表情をして、口を結んでいる。普段なら、何気ない事柄を上手に広げて、気まずい沈黙を作らない人なのに。自分から何か話しかけた方がいいのかとも考えたけれど、話しかけてはいけないような空気を感じて、優花もまた黙り込んでいた。

(まだ、怒ってるのかな)

 先ほどの怒鳴り声が、まだ頭から離れない。許さないと言ったあの低い声が、優花の胸の中で何度も繰り返されている。

(先輩は本気で怒ってた。私も、怒るべきだったのかもしれない。でも……できなかった)

 麗と桃子の話は、半分言いがかりで半分的を得ていた。全部が言いがかりだったなら、おそらくは言い返せたのだ。でも、竜とは付き合っていないという、その一点の反論しかできなかった。それしか、正直に言えなかった。

 結局、無言のまま優花の家の前まで来てしまった。

(あれ……?)

 そこで、家の車がないことに気づいた。

(お姉ちゃん、出かけた?)

 慌ててスマホを見ると、佳代からのメッセージが入っていた。


 愛実を連れてちょっと実家に行ってきます。お昼ご飯は適当に食べてきて大丈夫だよ。夕方頃には帰るね。


 一時間以上前に受信していたことにびっくりした。一連の騒動で、全くスマホに意識が行っていなかったのだ。

「どうしたの? お姉さんいないの?」

 久方ぶりに長谷部の声が聞こえた。いつも通りの穏やかな様子で、いくらかほっとする。

「出かけるって、連絡が入ってました」

 今更だけれど了解、とメッセージを返しながら優花は長谷部に返事をする。

「家に入れないの?」

「大丈夫です。鍵は持ってるので」

 ここ最近は佳代が家にいるので、家の鍵はあまり使う場面が少なかったが、愛実が産まれる以前は優花が一番先に帰ってきて鍵を開けることが普通だった。

「お昼ご飯はどうするの?」

「昨日の夕飯の残りですね。お弁当にいつも入れてるので、その流れで」

 今日は球技大会で、学校が半日で終わることがわかっていたから、お弁当を詰めていかなかった。

 と、そこで。優花はあることを思いついた。

「先輩も食べていきますか?」

「え……?」

 衝撃を受けたような、困っているような、長谷部はなんとも形容し難い複雑な表情を浮かべた。

(私、変なこと言った……?)

 お昼ご飯の時間はだいぶ過ぎてしまっている。今から長谷部が帰って食べるのは更に遅くなってしまうから、このまま食べていってもらうのがいいのではないかと考えたのだ。この間、家に来て夕飯を食べていった、その延長のつもりだった。

「えっと、時間がないなら、大丈夫です、けど……」

 未だ戸惑った様子の長谷部を見て、優花は小さな声で言い添えた。

「いや、そんなこと、ないよ」

 少し長谷部はうつむいてから、ぱっと顔を上げた。その表情は、優しい笑顔だった。

「じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 今の間、なんだったんだろう。疑問に思ったが、深く考えなかった。優花は手慣れた動作で家の扉に鍵をさし、長谷部を招いたのだった。

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