疑惑の手紙
長谷部との付き合う「フリ」が始まってからも、新菜が「付き合っていること」にしてくれたあとにも、相変わらず一部女子からの当たりは強かった。結局のところ、優花が何をしようが何もしまいが、嫌う人は嫌う、というだけのことなのだ。
遠野夏葉を中心にして、わかりやすくにらまれたり、ひそひそと、でも優花にわかるくらいの声で悪口を言っていたり。これは以前からのことなので平常心でスルーすることができた。
一方、長谷部のことが好きな飯田桃子は、逆に何もしてこない。廊下でばったり会うと、彼女は一瞬息を呑むような苦しげな表情をする。そして脇を通り過ぎる。それだけだった。だからだろうか。優花はかえって桃子に申し訳ないようなやるせなさを覚えてしまうのだった。
ところが。
球技大会の前日の朝、登校して靴箱を開けたら、折りたたまれた一枚の紙が上履きの上に置かれていた。何となく嫌な感じがしたが、取り出さないと上履きをはけない。仕方なく紙を手に取り、恐る恐る開いてみた。
『二股女であることをばらされたくなければ、早く別れなさい』
印刷された字で、縦に一行、そう書かれていた。
(二股……?)
その言葉に、優花は内心ドキリとする。
実際は、二股をしているわけではない。しかし、表向きと内心がちぐはぐしている自覚があるので、優花の中には常に後ろめたさがあったのだった。いくら長谷部が解っていることだとしても、それはどうしよう無く、優花の心の中に暗く根ざしてしまっていた。
(でも、二股って……)
別れなさい、の意味はわかる。きっと、長谷部とのことだろう。しかし『二股』というキーワードを出してきているのがわからなかった。さもなければ別れなさいと脅すのであれば、もう少し優花自身に危険がおよぶような、弱みになるようなことでなければならない。二股という根拠がなければ、この一文は脅しにはならないのだ。
(私の二股の相手は、誰なのだろう)
この手紙の送り主が「二股」と言い切るのであれば、そこには長谷部以外の誰かがいるのだ。
学校内で考えてみたが、見当が付かない。優花が長谷部の他に仲良くしている男子は、クラスメイトの河井と高山。あとは、いつも長谷部と一緒にいる宮瀬だろうか。それ以外は、挨拶を交わす程度でほとんど話したことがない。
ならば、相手は竜なのだろうか。しかし、ここ最近は――長谷部と付き合うふりをするようになってからは――どこかへ一緒に出かけたこともないのだ。しいて言うなら、文化祭の時だろうか。でも、あのときは一緒に文化祭を見て回ることができなくなった。竜の中学生の時の彼女という女子が現れて、その彼女ともう一度付き合うことになって……。
そこまで考えて、胸の奥がぎゅっと掴まれたように苦しくなった。あのときのことを思い出すのは、未だに痛みが伴う。その彼女との付き合いは結局短く終わったらしいが、その短い期間の竜のことを思い出したくなかった。
「優花、おはよう」
肩をたたかれて振り向くと、穏やかな笑顔を浮かべた百合がそこにいた。
「おはよう、百合」
言いながら、優花は慌てて紙をコートのポケットに突っ込んで隠す。そしてそのまま、百合と何気ない会話をしながら教室へ向かった。
(相談、した方がいいのかな)
思わず隠してしまったけれど、百合には話しておいた方が良かったのではないか。そんな考えがよぎったが、教室についても、結局打ち明けなかった。考えがまとまらないまま朝のホームルームを迎え、授業が始まり、休み時間になっても、ついに言い出すことができなかった。
(放っておこう。冬休みに入っちゃえば、何にも起こらない。話しても、ただ百合を心配させて終わるだけ)
そう自分で自分に言い訳をした。
言い訳の裏側に、これは後ろめたさの罰なのだと思う自分がいた。自分の身に不穏な出来事が起こるのは、身から出たサビだ。それを、百合に相談してどうにかしようと思うのは、卑怯なことなのだ……。
その日の放課後。掃除当番の優花はゴミ箱を持ってゴミ捨て場に向かっていた。ゴミ捨て場は体育館の裏にある。寒い外に行きたくない女子たちに押しつけられたかたちで、優花は一人歩いている。
「優花」
声をかけられて振り向くと、長谷部が同じようにゴミ箱を持って歩いてきた。そのまま並んでゴミ捨て場に向かう。
「先輩も掃除当番だったんですね」
「そう。じゃんけんで負けてゴミ捨て係になった」
一瞬、苦笑いを浮かべる長谷部だったが、すぐに優しい眼差しに変わった。
「でも、君に会えたんだから、じゃんけんは勝ったと同じだね」
ささやくように言ったその言葉に顔がかあっと赤くなるのを感じ、慌てて視線を外した。
(相変わらずさらっとキザなこと言うんだから……)
顔を赤くして無言になった優花を見て、長谷部はおかしそうに笑い出した。
「やっぱり面白いよね」
「そういうこと言うのやめてくださいよ」
「いや、どんな反応するのかなと思うと、つい」
優花が抗議しても、長谷部の笑いは止まらなかった。長谷部の思うつぼになっているような気がして、優花はむうっとふくれた。
「まあまあ、そんな怒らないで」
まずい空気を感じ取ったらしく、長谷部は取り繕うように言った。でも、まだこの状況を楽しんでいる。
「もう知りませんっ」
優花はぷいっと顔を背け、早足で長谷部の前を歩き出した。「待ってよ」と愉快そうな長谷部の声が追いかけてきたが、かまわず歩き続けた。そして、校舎と体育館の間にさしかかった。
その瞬間、びゅうっと冷たい隙間風が優花に向かって吹き付けてきた。
カーディガンを着ているとはいえ、冷たい空気が首の隙間や足下から入り込んでくれば鳥肌が立つ。無意識にぶるっと震えた。
(この寒さじゃ、ゴミ捨て行きたくないのもわかる)
さっさと捨てて戻ろう。そう思った瞬間、ふわっと肩から暖かいものがかけられた。
「え」
面食らってかけられたものを見ると、それは黒い学ランだった。振り返れば、学ランを脱いでグレーのセーター姿になった長谷部がニコニコとしているところだった。
「寒そうだから。校舎に戻るまで着て行きなよ」
「で、でも、先輩が寒いんじゃ……」
「大丈夫だよ。男のほうが体温高いって言うでしょ」
ほら行くよ、と素早く促され、優花は反論する機会を失った。
学ランからは、さっきまで着ていた長谷部の体温と、柑橘系のさわやかな香りがほのかにただよってきた。
(洗剤かな。シャンプーの香りとか……)
ぼんやりと何の香りなのか考えていると、急に恥ずかしくなった。間接的に長谷部に抱きしめられているような錯覚に陥って、体中がかあっと熱くなる。
「やっぱり、大きい服着てると余計に小さく見えるよね」
優花の恥ずかしさに気づかない様子で長谷部が独り言のように言った。
「どうせ小さいですよ」
火照った顔を見られたくなくて、優花はうつむいた。
「あれ、意外と小柄なの気にしてた?」
「あと五センチほしかったなとは思います」
そんな会話をしている間に、ゴミ捨て場に到着した。
「五センチ?」
それぞれのクラスのゴミを片付けながら話が続く。
「そうですよ。あともうちょっと身長があれば届くのになあって場所が結構あります」
「誰かに取ってもらえばいいんじゃない?」
「わざわざ頼みたくないんです」
「きっと、性格的に難しいんだろうね」
ゴミ捨て場のドアをガチャリと閉めながら、長谷部はクスッと笑った。
「よし。じゃあ、戻ろうか」
はい、と優花が返事をしたとき、長谷部の表情が少し険しくなった。不思議に思って長谷部の視線の先を見る。
(飯田さん……)
優花たちと同じようにゴミ箱を抱えていたのは、飯田桃子だった。桃子は、明らかに傷ついているといった表情をして、そこに立ち尽くしていた。
冷たい風が足下を通り過ぎたとき、長谷部は片手にゴミ箱を抱えると、もう片方の手で優花の肩を抱いて自分の傍に引き寄せた。
「行こう」
長谷部が歩き出し、押されるようにして優花も足を前に出す。すれ違う瞬間、ちらりと桃子の表情を見た。
目を真っ赤にして、震える唇をぎゅっと閉じていた。そして、ほんの一瞬だけ、その赤い目で鋭く優花をにらみつけた。
(しょうがないよね、恋敵ってやつだもんね)
桃子がそうするのは、仕方がないことなのだ。その周りにいる夏葉たちが、桃子の感情に便乗するようにして優花の陰口をたたいている方がおかしいのだ。にらまれていい気分はしないけれど、優花は自分にそう言い聞かせて平常心を保つ。
長谷部に肩を抱えられながら、校舎の中にたどり着いた。長谷部が後ろを気にして振り返ったが、その視線の先には桃子も誰もいなかった。
(そんなに警戒しなくてもいいと思うけどなあ)
優花はふうっと小さくため息をついた。
「あの、ありがとうございました」
空気を変えたいと思い、優花は学ランを脱いで長谷部に渡す。
それを受け取りながら、長谷部は真剣な表情になって優花を見つめた。
「えっと……なんですか?」
長谷部が何にも言わないので、優花はちょっと首をかしげた。それでもなお無言のままなので、少しずつ不安を覚え始めたとき。
「変な手紙、入ってた?」
ピリピリとした空気が長谷部から発せられた。
(え、なんで)
今朝の出来事を誰にも話していないのに、どうして長谷部が知っているのか。驚いた優花が黙り込んでいると。
「花崎さんがね、教えてくれたよ」
長谷部の言葉に、更に目を丸くした。百合には、結局言えないままだったのに。
「今朝、なんか様子がおかしいなって思ったんだって。でも、君は何にも言わないから、君の行動を思い返して、コートのポケットをこっそり探ったらしいよ」
普段通りに見えた百合は、普段通りにしていたつもりの優花の異変に気づいていたのだった。
それにしても、いつの間に探ったのだろう。気づかれたことよりも、百合のその探偵のような行動にびっくりしてしまった。
「で、手紙を見て、どうしようか考えて、宮瀬に連絡したんだ」
「宮瀬先輩に?」
「ほら。花崎さんは宮瀬に、俺と君とのことを協力するように頼まれていたでしょ? そのとき、連絡先を交換しておいたらしいから」
そういえば、夏休み前にそんな話をしていたことを思い出す。
百合は書かれている文を見て、優花が自分からは何も言わないだろうと察した。そして、長谷部に先に言うよりも、宮瀬に相談した方がいいだろうと百合は判断し、宮瀬は長谷部にそれを伝えることにした。本当は、今日の帰りにでも優花に問いただしてみようと長谷部は思っていたらしいが、先ほど桃子と遭遇したときに、対応を急がなければならないと感じたという。
「君も水くさいなあ。親友には話してあげたらいいんじゃない?」
長谷部はため息まじりに言った。
「放っておけばいいとか思ってたでしょ」
図星を指されて、うっと言葉を詰まらせた。冬休み始まるまでの間、何事もなく過ぎ去るのを待とうと思っていたのは確かなのだ。
「そのとおりですけど……大丈夫ですよ。危害があるわけじゃないし」
優花の言葉を聞くや否や、長谷部の表情が一層険しくなった。
「そういうことじゃないだろう」
その声には苛立ちが混じっていた。
「今は大したことなくても、知らない間にエスカレートする可能性もある。そうなってからじゃ遅いんだ」
長谷部はもう一度あたりを見回して、誰もいないことを確認すると、声を潜めながらも強い口調で言った。
「さっきの彼女が犯人かもしれないだろう」
その言葉を聴いて、もの悲しい気持ちになった。
優花だって、一瞬だけそう思った。思ったあとで、すぐに後悔したのだ。
(飯田さんは、ただ先輩のことが好きなだけだ……)
自分の好きな人から疑われるのは、どんなに辛いことだろうか。彼女が犯人かもしれない、という恐怖はなく、優花はただ桃子に同情していた。
「何の証拠もないことですよ」
優花はきっぱりと言い切った。しかし、長谷部は全く納得のいかない表情をしていた。
「とにかく、冬休みが始まるまで、できるだけ一緒にいるようにしよう。今日は教室まで迎えに行くから」
「だから、そんなに心配しなくても」
できるだけ明るく言ってみせたのだが、剣呑な雰囲気が変わることがなかった。
「君に何かあったら申し訳が立たないんだよ。――居候の彼にね」
その最後の言葉に、優花はひゅっと息をのんだ。ここで、竜のことを出されるとは思ってもみなかった。
「彼に、約束したから。学校では、俺が君のこと守るんだって」
そんなキザな感じだっただろうか、と頭の片隅で考える。
同時に「学校でのことは、俺じゃどうしようもないから」と言った時の竜の表情が思い浮かんだ。
「だから、ね? わかった?」
その問いには応えられなかった。何も言わなければ、承諾となってしまうだろうことはわかっていたが、言葉を発することはできなかった。
優花は長谷部から目をそらし、きゅっと唇を結んだ。




