夕闇の帰り道
冬の日が落ちるのは早い。ちょっともたもたしているだけで、窓の外はあっという間に暗くなってしまう。自転車通学の優花は、手袋とマフラーが必須アイテムになった。
「優花は、寒いの苦手?」
マフラーを着けているところで、長谷部が聞いてきた。学校内で名前呼びしてくるのも慣れた。長谷部の中ではっきりとした線引きがあるらしく、周りに生徒がいなければ相変わらず「橘さん」と呼ぶのに、誰か学校の生徒がいれば必ず「優花」に変わる。
「どうでしょう? 暑いよりは寒い方が平気ですね」
「じゃあ、俺と逆だ。俺は寒いの苦手」
そんな他愛のない会話をしながら、校門までの道を並んで歩く。長谷部の予備校の授業がない日であれば、校門を出たあとも長谷部は優花を家まで送っていく。それがテスト勉強会からの日課になった。テストが終わった今もそのまま続いている。
「受験生なのに、遠回りして帰る余裕はあるんですか」
そう言ったこともあったけれど。
「暗いと危ないから、できる限り送っていくよ」
と、全く気にする様子もなく、むしろ楽しそうに長谷部が答えたので、優花はもう何も言わなくなった。こういうとき、長谷部に何を言っても無駄なことは学習済みである。
「今日の夕飯は何を作るの?」
「鶏の照り焼きにしようかなって思ってます。この間、鶏もも肉が安かったので多めに買っちゃったんですよ」
「いいね。美味しそうだ」
そんな会話をしながら、家までの道を歩いている。自転車には乗らない。時間がかかるけれども、あえて歩いている。乗ってしまうと、会話ができなくなるのだ。
「このペースで歩いてて、時間は大丈夫?」
「大丈夫です。もう下ごしらえはしてあるし、それに、時短料理を最近よく検索してるので、案外早く準備が終わるんですよ」
「なんかそれ、女子高生の言うことじゃないね」
「その自覚はありますけど」
おかしそうに長谷部が笑ったので、優花もつられて笑った。
いつの間にか、この時間が今では優花にとって気晴らしの時間になりつつあったのだ。
最近、夕食時に竜がいないことが多くなった。帰宅時間が九時過ぎになることも多い。佳代が心配して「どこに行ってたの」と問うけれど、竜は歯切れの悪い返事をするだけだった。
あるとき数馬がそれを見て、
「反抗期の息子がいるみたいだな」
と評した。それを聞いた途端、心の何かに触れたのか、珍しく佳代が声を荒げたのだ。
「数馬も少しは何か言ってよ。働いているとはいえ、竜はまだ十六歳なのよ」
家中の空気がビリッと震えたような気がして、優花は思わず動きを止めた。数馬も一瞬臆したような表情を見せたけれど、すぐに平静さを取り戻した。
「遅いって言っても、未成年が補導されるような時間ってわけでもないし、結構しっかりしてるやつだから大丈夫だって」
「どうしてそんな悠長なこと言っていられるの?」
その平静さがかえって佳代の気持ちに火をつけてしまったらしく、そこからしばらく二人の言い合いが始まってしまった。めったにない出来事に、優花はどうしたらしいかわからずオロオロし、竜は気まずそうに部屋に引っ込んでしまった。やがて、愛実の泣き声が聞こえてきたので言い合いは強制的に終了したけれど、重い空気だけは残ってしまった。
そんなこともあって、ここしばらく橘家の空気は何となく悪い。愛実もそれを感じ取っているのか、単にそういう時期なのかわからないけれども、ぐずって泣くことが多い。それが余計に佳代のストレスになってしまっていて、さらに悪循環だった。
でも、学校にいる時間や、長谷部とこうして話している時間は、家のことをちょっと頭の隅に置いておくことができて、心が安らいだ。
だから、あえて歩いて帰っている。自分から、歩いて行きましょうと提案したのだ。優花がそう言ったとき、長谷部はちょっと驚いていたけれど、何も聞かずに「それがいいね」と頷いてくれた。
その優しさに甘えてしまう自分は、ずるいと思う。胸の奥が痛まないわけではない。でも、今は少しだけこうしていたかった。家のことや、竜のことを考えずに済むならば。
(まさか、家に帰りたくないなんて思う日が来るなんて)
帰宅部レギュラーでもいけそうな今までの自分であれば、考えられないことだった。
家に帰りたくないと思っていても、どれだけ時間がかかっても、歩みを進めていけば家にたどり着いてしまう。今日も、長谷部といろいろ話しているとあっという間に家の近くまでやってきていた。
(今日こそは……普通の空気になるといいなあ)
最近は夕食卓を囲う時間が一番気詰まりなのだ。優花の隣には竜がいなくて、そのせいで佳代が少し苛立っていて、数馬は嵐が過ぎ去るのをひたすら待つだけで。
(竜は、どうせ今日も遅いんだろうけど)
近づく自宅を見ながら、優花はこっそりため息をついた。そのときだった。
「優花」
ぎくっとして振り返ると、自転車に乗ってすうっと竜が隣までやってきた。竜は乗ったまま優花を見て、それから長谷部を見た。
「あんたが優花を送ってくれてるんだ」
そう言う竜の口調はぶっきらぼうだった。対して、長谷部はあくまでにこやかに応対する。
「来られるときはできるだけね」
「遠回りなのに、ご苦労なことだ」
「全然苦労じゃないよ。むしろ毎日来たいくらいだね」
二人の間に火花が散っているような気がして、優花はハラハラと成り行きを見守る。竜は機嫌が悪そうだし、長谷部は笑っているけれど心からの笑顔ではない。
「は……早いね、今日は」
何とかしようと思って、優花は竜に話を振った。夕食前に竜がここにいることが最近では珍しかったのだ。
優花の問いに、竜はいくらか気まずそうに目を伏せて言った。
「別れてきた」
「は?」
どういうことかわからなくて、優花は間の抜けた声を出してしまう。
「麗と別れてきた。だから、遅く帰ることはもうない」
「な、なんで……?」
理解が追いつかない頭の隅で、とんでもないほどに心が弾んでいる自分がいることに気づく。それを悟られないように、懸命に声を平常に保った。
「麗といても面白くなかった」
「だって、まだ一ヶ月くらいしか経ってないじゃない」
「一ヶ月もあれば、判断するには十分だよ」
「そんな簡単に別れられるものなの?」
「俺は会う気がないし。ブロックもしたから、もう連絡は来ない」
「いや、そういうことじゃなくて。『別れよう』って言って、『そうしましょう』ってなるもの?」
「ならないよ。もう会わないって言ったら泣かれたし、振り切るの大変だった」
あまりにあっさりとした言い方だったので、優花は何も言えなくなった。
泣いている麗を想像して、ちょっと気の毒に思えた。中学の時の別れは「転校」が理由だったけれど(少なくとも麗はそう思っていたようだった)、今回は竜が一方的に別れを告げたということだ。
「女の子泣かせるのは良くないね」
横から長谷部が会話に入ってきた。むっとした表情で竜は長谷部をにらみつける。
「別れ話の時にあんたなら泣かせないのかよ」
「それは難しいね。どうしたって傷つくことに変わりないから。ただ、傷は最小限にとどめようとする努力はするかな」
「なんだよ、努力って」
「その子にとってできるだけきれいな思い出にとどめておく努力」
長谷部ならそういうことも上手くやりそうだと想像できた。だからこそ、いろんな女の子と付き合ってきても恨まれている感じがしないのかもしれない。
「じゃあ、優花のことも泣かすなよ」
竜の口から不意に自分の名前が出てきて、ビクッと肩が震えた。
「それは問題ないよ」
笑顔を貼り付けたままで、長谷部が頷いた。しかし、次の瞬間、すっと長谷部の表情が真面目になった。
「そもそも、付き合ってる『フリ』なんだから、別れもない。君だって、よく知ってることだろ」
竜はしばらく長谷部をじっとにらんでいたが、「そうだな」と独り言のように言って視線を外した。
気まずい沈黙。何か言葉を発した方がいいのではないかと思うけれど、なんと言ったらいいのかわからない。
優花が真ん中にいてオロオロしていると。
「何やってるんだ、こんなところで」
背後から声がかかって、三人は同時に振り返った。
「お兄ちゃん」
仕事帰りの数馬が、いぶかしげな表情をして立っていた。
「おかえり、お兄ちゃん。お兄ちゃんも早いね」
「まあ、ちょっと佳代が心配だったから」
そう言いながら、数馬はまず優花を見て、それから竜を見て、最後に長谷部を見た。
「君は?」
その声色に「探り」の気配を感じて、優花が慌てて答えた。
「私の学校の先輩。暗いと危ないからって、送ってくれたの」
「長谷部聖弥です。こんばんは」
礼儀正しく長谷部が頭を下げた。しかしまだ数馬は考え込むようにして長谷部を見ている。
「君か。最近優花と一緒にいるのは」
え? と優花と長谷部が同時に首をかしげた。
「この間、肉屋のおばさんが言ってたぞ。最近、竜じゃない男と一緒にいるの見かけるって」
(うわ。見られてたんだ)
商店街の肉屋のおばさんが、優花たちの学校近くに住んでいるらしいことは知っていた。けれども、長谷部といるところを目撃されているとは思っていなかった。
「単刀直入に聞くが、君は優花の彼氏なのか?」
腕組みをしながら数馬が問う。慌てて優花が口を開こうとすると。
「いや、違いますよ」
即座に答えたのは竜だった。数馬が眉間にしわを寄せる。
「なんでお前が答えるんだよ」
「いや、この場合は第三者が答えるのがいいのかと」
「なんだそれ」
「ほら。付き合ってないってどちらかが言ったとしても、あんまり信用できないじゃないですか。二人で口裏合わせて隠してる感じがして」
そんなものなのか? と言う表情をしながら、数馬がさらに考え込む。
「だから、安心して大丈夫ですよ」
あっけらかんと竜が言う。さっきの剣呑な空気から一転している。優花はその竜の変わりように少し混乱していた。
(普段通りの竜、といえばそうだけど)
さっきまで、あんなに機嫌が悪そうだったのに。さすがに、数馬の前ではそれを隠そうとするのだろうか。
「本当か? 優花」
数馬の視線がこちらを向いたので、優花はこくこくと大きくうなずいた。うなずく以外、できることがなかった。
「残念ながら本当です」
長谷部が愛想の良い笑みを浮かべて言った。
「残念ながら?」
その言葉に引っかかったのか、数馬がより深く長谷部をじっとにらんだ。
「彼女を狙っている生徒は多いんですよ。でも、彼女はすごくガードが堅くて」
「君も狙ってる一人か?」
「そうですね。でも、ただの仲の良い先輩止まりになりそうです。まあ、それでもいいかなって思っています」
長谷部は爽やかな笑顔でしれっと言ってのけた。あまりに爽やかすぎて、言っていることのうち、どこまでが本気でどこまでが冗談なのか判断しにくい。
「というか、竜も知り合いなのか」
数馬も判断しかねたのだろう。竜の方ににらみをシフトした。
「まあ、ちょっとしたね」
竜はあいまいに答えて笑って見せた。
数馬は眉間にしわを寄せたまま腕組みして考え込んでいたが、やがて家の方に向かって歩き出した。
「ともかく、こんなところではなんだから、家で話そう」
「え?」
優花と竜と長谷部はそろって首をかしげた。
「今、佳代に聞いてくるから。大丈夫だって言うなら、話の続きはうちでやろう。ちょっと待っててくれ」
言うが早いか、数馬は早足で向かい、さっさと家に入っていった。
三人は理解が追いつかないままその場で待っていると、橘家のドアが開いた。出てきたのは数馬ではなくて佳代だった。
「あ、やっぱり。あのときの優花ちゃんの先輩ね!」
あのときとは、一学期の終業式の日のことだ。推測が当たって嬉しいのか、ちょっとテンションが高めの佳代だった。
「もしよかったら、夕飯一緒に食べていって。お肉、いっぱいあるから」
そう言うなり、佳代はうきうきした様子で家の中に入っていった。しばし呆然と三人で立ち尽くす。
「……どうしますか?」
おそるおそる長谷部の様子をうかがう。長谷部が戸惑った表情を見せている。こんな長谷部は初めて見るかもしれない。
「でもこれ、断れないよね? 流れ的に」
「そう、ですね……」
まさかの展開に、思考が追いつかない。
このまま、長谷部を橘家に招待してしまう? 話だけではなくて、夕飯まで一緒に食べるの? というか、どんな顔して食卓にいればいいの?
「仕方ないなあ。数馬さんに攻められたら、俺が助け船出してやるよ」
竜はわざとらしいほど大きなため息をついた。そして、まだ戸惑っている長谷部を見て。
「来いよ。数馬さんも佳代姉さんもいいって言ってるんだ。せっかくだから、優花が作った夕飯食べていけばいいだろ」
そう言って、竜はさっさと自転車に乗って門をくぐってしまった。
長谷部は竜の背中を見送ったあと、橘家を見上げた。優花も見てみたけれど、何の変哲もない、一般家庭の二階建ての家だと思った。そんなにまじまじと見られると恥ずかしくなってしまうほど、これといった特徴もない、ごく普通の家。
「では……どうぞ」
優花が促すと、ぎこちない様子で長谷部はうなずいた。
(今日の食卓は重たい空気にはならなそうだけど……)
どうなるのか全く予想が付かない。理解が追いつかない頭のまま、優花は家の扉を開けたのだった。




