初めてのスマホ
「そろそろ、携帯持ったほうがいいんじゃないかしら」
新学期が始まって2週間ほどが経った日曜日の午後。みんなで何となくリビングにいたとき、佳代がふと思い立ったように言った。
「優花ちゃんはもうすぐ本格的に授業が始まって、今より帰りが遅くなってくるでしょ? 何かあったときにすぐ連絡できたほうがいいし。竜だって、仕事をしてると必要だと思う時があるんじゃない?」
優花と竜は顔を見合わせた。竜は少し戸惑った表情をしている。
「別に、今そんなに必要ないな」
竜は頭をかきながら答えた。
「それに、まだ給料ももらってないから、お金ないし」
「私だって、バイトしてるわけじゃないし……」
優花も、突然の提案に戸惑っていた。それに、これから佳代の出産だって控えているのだ。出費がかさむのはわかっている。今ここで余計なお金を使ってはいけないと思った。
「いいのよ、そんなに気をつかわないで。必要経費よ」
佳代は「ね?」と数馬に視線を投げた。数馬は少し考えてから、ゆっくり頷いた。
「あったほうがいいだろうな。特に優花は」
「なんで私が」
問いかけようとすると、「あ」と竜が声を漏らした。
「確かに、優花は持ってたほうがいいよ。女子高生が一人で出歩いてると危ないぞ。夏はまだ明るいからいいけど、冬は帰り暗くなるし。変な人が襲ってくるかも」
「……何かあったときって、そういう意味?」
優花は数馬と佳代のほうを振り返った。二人はうんうんと二度も頷いた。
「中学の時だって、いろいろあったじゃない」
「まあ、そうだけど……」
知らない人に声をかけられたり、あとをつけられたりした経験が、何度かある。そのたびに、商店街に逃げ込んで顔見知りのお店の人に助けてもらい、やり過ごしていた。中学の時は帰りが早かったので、明るいうちに帰れたからよかったが、これからは違うのだ。高校は、自転車で通える範囲とはいえ、中学校より遠い。おまけに、来週の月曜と金曜は7時限まであるから、ますます帰りが遅くなる。帰りに何もないとは言い切れなかった。
「それに、新しい友だちができたら連絡先を交換したりすると思うのよ」
明るく言った佳代とは対照的に、優花の気持ちは少し沈んだ。高校に通い始めて2週間経つが、まともにクラスメイトと話していない。クラスに同じ中学出身の女子生徒がいるのだ。近場の高校だからいても当然なのだが、その女子生徒がすでにクラスの他の女子に優花の中学の時に流れていた悪い噂をまた流しているようだった。そのせいだろう。誰も優花に話しかけてこようとはしない。男子もまた、遠巻きに優花を見ている。それは、中学の時から変わらないが。
「竜も持ってたほうが連絡取りやすくて会社の人も助かると思う。そう言われてない?」
「んー、まあ……言われなくもない」
佳代に気圧される形で、竜は頷いた。そうでしょう、と佳代はゆっくりと二人に微笑みかけた。
「だから、今から見に行かない? 善は急げよ。ほら、数馬。準備しよ」
優花と竜は、頷くしか選択肢がなかった。数馬もまた、「おう」と短く返事をした。
出かける準備をしながら、竜は優花にこっそりささやいた。
「佳代姉さんて、案外押しが強いんだな。もしかして、数馬さん、尻に敷かれてる?」
優花は小さく何度も頷いた。
「そうなの。いつも決定権はお姉ちゃんにあるの」
そうして、四人で数馬の車に乗り込んで出発した。助手席に佳代が乗ったので、優花と竜は自然と後部座席で並んで座ることになった。初めてのことに、優花は乗っている間始終落ち着かなかった。
「携帯よりバイクの免許がほしいなあ」
竜はぼそっとつぶやいた。今、竜は会社まで自転車で通っている。その自転車は中学の時から通学で使っていたものらしく、だいぶボロボロだった。服に続いて見るに見かねた数馬が、一通りの修理部品をそろえてやったが(直すのは竜が自分でやった。中学の時から修理は自分でやっていたらしい)、多少マシになっただけだ。元々が中古品だったのだろう。優花の高校と途中まで方向が同じなので、朝はたいてい一緒に出るのだが、並んで走りながら、いつか隣で壊れるんじゃないかと優花はいつもハラハラしている。
「バイクの免許より、自転車買ったほうがいいんじゃない」
優花の提案に、竜は断固として首を横に振った。
「いや。自転車は今のでがんばる。金ためて、免許取って、新しいバイク買ったほうがいい。最初は原付でもしかたないけどさ、いずれは大型のがほしいんだ」
すると、運転席から数馬が会話に入ってきた。
「それ、わかるな。俺もいつかは大型ほしいね」
「ですよね! やっぱかっこいいですよね」
数馬の同意を取り付けて、竜はがぜん元気になったようだった。でも。
「今はだめだからね。わかってると思うけど」
すかさず佳代がくぎを刺した。数馬は「わかってるよ」と口ごもりながら答えた。
「やっぱり尻に敷かれてるんだ」
優花を振り返りながら、竜がまたひそひそと言った。優花は何も答えず、首をすくめて見せた。
携帯ショップに着いたが、何を選ぶかはすべて兄たちに任せてしまった。何がいいのかわからないし、実際使えるのかどうかもわからなかった。とりあえず、通話ができて、できるだけ安ければ何でもよかった。それは竜も同じだったようだ。二人とも、お金を出してもらう手前、やはり遠慮がちになった。
兄夫婦の意見で、二人ともスマホを持つことになった。優花のものを選んだ時の最大のポイントは、位置情報がわかることだった。何かあったとき、それをたどってお互いの確認ができる。心配性な兄を安心させるためなら、と優花は同意した。
「デザインぐらい自分で選べ」
兄に言われて、いろいろある中から、無難にシルバーを選んだ。ついでにカバーも選べと言われて、数あるデザインの中で悩んでいると。
「おそろいにしようよ、色違いの」
竜が明るく言った。竜も同じ機種にしたのだった。
「なんでわざわざおそろいに……」
「いいじゃん。初スマホ記念にさ。ほら。これなんていいじゃん。優花が赤で、俺が緑」
竜が手に取ったのは、手帳型と呼ばれるケースで、布地のシンプルな一色のデザインだった。一つは赤に近い鮮やかなピンク、一つは落ち着いたトーンのモスグリーン。留め具のところに金色の星形のボタンがついていて、ちょっとしたアクセントになっていた。おそろいなのは、その星形の一点だけだった。
「じゃあ、それでいいよ、もう」
選ぶのが面倒にもなっていたので、竜が決めてくれたものにしてしまった。
その後、プランやら料金やらいろいろ説明を受けたが、今一つ理解できなかった。数馬と佳代が理解しているようだから、とりあえずはいいのだろうけれど。一番よく分かったのは、竜も家族割が適用されそうだということだった。同じ住所で一緒に生活をしているのが証明できればいいらしい。
(そっかあ。家族か)
佳代の親戚ということで、全くの他人というわけでもないが、変な気分だった。
それから、学生ではなくても、年齢が高校生と同じなので、学割が効くらしい。そんな割引特典が重なって、二人の料金は覚悟していたほど高くはなさそうだった。
「俺は自分で払うよ」
竜は月々の引き落とし料金まで支払ってもらうつもりはなかったようだ。でも佳代が「いいのいいの。初めはなにかと使うわよ」とさっさと断った。
「そういうわけにはいかないよ」
さらに食い下がる竜を見て、数馬が仕方なく言った。
「それなら、月々の家賃に三千円プラスすればいい。苦しくなったら家賃だけでいいから」
「三千円って……ほんとはもっとかかるじゃないですか」
「お前の貯金が貯まってきたら、そのとき値上げするよ。あ、ゲームとかで課金はするなよ」
「そんなことしませんよ、たぶん」
「たぶんじゃ困るんだ。その場合は倍にして請求するからな」
「うわあ。絶対しません。しませんってば」
ということで、竜と優花の料金は合わせて数馬の口座から支払われることになった。
(私も、自分で払いたいな)
ふと、気づいた。優花はもう高校生なのだ。アルバイトができる年になったのだ。自分もアルバイトすればいいのではないか。別に毎日やる必要はないのだ。土曜日とか、平日の一日とか。自分の携帯料金や、おこづかいくらい稼げたらいいのではないか。優花の高校は基本的にアルバイトは禁止だが、例外として家庭の事情があれば認められる。自分の家庭の事情は、誰が見ても例外にあてはまるはずだ。
優花がひそかにアルバイトの決意を固めたころ、すべての手続きが終了して、優花と竜の手元に真新しいスマホがやってきた。車で帰る途中、優花はいろいろボタンをいじってみてはわけのわからないページに飛んで、かなり苦戦していた。
「優花は機械が苦手なんだな?」
貸して、と竜が優花からスマホを取り上げた。
「ちょっと」
「いろいろ設定してやるからさ」
竜は手慣れた様子で、自分のスマホと優花のスマホを見比べながら操作していく。何をしているのかさっぱりわからない優花は、ただただ不安で見守るしかなかった。
「よし。できた」
家に着いた頃、竜はやっと優花にスマホを返した。
「俺のメアドと番号入れといた。あ、あと優花のメアドも作っちゃった」
「え、何勝手に……」
「だって、どうせ手間取るだろ?」
「そんなことないもん。使っていくうちになれるもん」
「まあまあ。最初の設定が済んじゃえば楽だからさ」
「ていうか、変なメアドにしてないでしょうね」
「しないしない。我ながら傑作」
満足そうに一人頷くと、竜は車から降りて行った。不安を覚えながら優花も降りて、プロフィールというと所を押してみた。そこには。
sweet-flower.tachibana@***.**
(スイート、フラワー、たちばな……。橘はわかるけど、スイートフラワーって?)
フラワーは花。スイートは甘い。いや、甘いだけでなく、かわいいとか、優しいとか、そんなニュアンスもあった。可愛い花、優しい花……。
「あ」
そういうことか。優花は納得した。それなら、竜のアドレスはどうなっているのだろう。家に入りながら考えていると、ピコンとかわいらしい音と主に、メールが一件届いた。開いてみると、「よろしく!」と一言書いてあった。そのアドレスは。
dragon-leaf0808@***.**
(ドラゴン……竜。リーフ……葉っぱ。やっぱり)
葉山竜のことなのだ。「山」は面倒だったのか、省略されているけれど。では、この数字は?
「メール届いた?」
竜が期待に満ちたまなざしで尋ねてきた。
「はいはい。ちゃんと届いたよ」
「アドレス、傑作だろ?」
「傑作って……名前を英語にしたんじゃない。橘はわかんなかったんでしょ。あと、葉山の山」
「わかんなかった。橘なんて知らないよ。山もスペル自信がなかったから。いいじゃん。sweet-flower。可愛くっていいだろ?」
「自分の名前っていうのも、どうかと思うけど」
「いいんだよ、最初は。変えたくなったら変えちゃえばいいんだしさ。それから、俺のアドレス0808ってあるじゃん。あれ、俺の誕生日だからね」
「え」
「八月八日。これで忘れないだろ? 楽しみだなあ、誕生日」
そういうことか、と優花は呆れて言葉がなかった。自分の名前をアドレスにした上、誕生日まで。どれだけアドレスで自己主張するのだろう。操作に慣れたら自分のアドレスは変えておこう、と優花は思った。
「優花の誕生日は?」
「え……三月八日」
「おお。俺と同じ八日なんだね。なんか、運命感じるなあ」
「なにが運命よ。そしたらお兄ちゃんも十二月八日だからね」
「ますます運命的だ。まさか佳代姉さんも」
「残念。お姉ちゃんは十二月六日」
「まじか。でも数馬さんと近いなんて、やっぱり運命的だなあ」
それから、二人でああでもないこうでもないとスマホをいろいろ操作した。数馬と佳代の番号も登録し、家の電話も登録した。必要そうなアプリは、言われるままにインストールし、ますます使いこなせるかが不安になってきたが、少しずつわくわくもしてきた。
(アドレス帳……これから増えるといいな)
馴染めていない高校だが、もしかしたら、自分のことをわかってくれる友達ができるかもしれない。ちょっとだけそんな淡い期待を持とうと優花は思った。